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【wiki、足尾鉱毒事件】(税金鉱山を守る為に、嘘毒を流す自公官ですが、民主党はスーパー田中正造になるべきです)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 4 月 17 日 11:16:30: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%89%B1%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6
足尾鉱毒事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、19世紀から20世紀の栃木県、群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。明治時代後期に発生した日本の公害の原点である。足尾銅山鉱毒事件と表記される場合も多い。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。

目次 [非表示]
1 経緯
1.1 鉱山の近代化
1.2 鉱毒公害の発生
1.3 被害の拡大
1.4 閉山
2 政府の鉱毒対策
2.1 第一次
2.2 第二次
2.3 戦後
3 鉱毒反対運動
3.1 明治期
3.2 足尾町での運動
3.3 大正期・昭和期・平成期
4 植林・治山事業
5 古河側の主張
6 注釈
7 文献
8 この事件を扱った作品
8.1 小説
8.2 映画
9 関連項目
10 外部リンク
10.1 官公署
10.2 NPO法人・労働組合
10.3 企業


[編集] 経緯

1895年頃の足尾鉱山
煙害により崩落を続ける足尾の山(赤倉山麓) 2005年3月撮影
[編集] 鉱山の近代化
現在の栃木県日光市足尾地区では江戸時代から銅が産出していたが、江戸時代前期をピークとして産出量はいったん低下し、幕末にはほとんど廃山の状態となって国有化された。

明治維新後、民間に払い下げられ、1877年に古河市兵衛の経営となる。古河は採鉱事業の近代化を進めたが、1885年までに大鉱脈が発見された。さらに西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていた。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)は、付近の環境に多大な被害をもたらすこととなる。


[編集] 鉱毒公害の発生
鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。この崩壊は2007年現在も続いている[1]。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。

鉱毒による被害はまず、1885年、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野新聞も、足尾銅山が原因かもしれないというような、あいまいな書き方をしている。同年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。


[編集] 被害の拡大

田中正造次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度に渡り蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の3度の大洪水で顕著となった。

1892年の古在由直らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。

1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。

対策の節で述べる工事が1897年から1927年にかけて行われると、表だった鉱毒被害は減少した。しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加したと言われる。1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害は認めていないが、群馬県がこれを断定した。


[編集] 閉山
1973年までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。1989年にJR足尾線で貨物が廃止になると、原料鉱石の搬入量が減少し、鉱毒はさらに減少したとされる。

しかし、どの時代も科学的な分析がほとんどされていないため、公害の内容はあまり明らかにはなっていない。

明確に分かっている鉱毒の量は、1972年度、環境庁が足尾町に設置した測定局における二酸化硫黄(亜硫酸ガス)濃度が、旧環境基準に適合していなかった。足尾町内1局の測定局のうち、1局が不適合で、都市内全測定局の値が不適合となったのは、測定局のある都市の中では、この年度、足尾町のみである(ただし当時の環境白書は、鉱毒被害とは明示していない)。1981年9月7日に足尾町の中才浄水場から排出された排水から、基準値の2倍、協定値の3倍の銅が検出されたというものがある。このほか、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会などが独自に測定した値などがある。

1899年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。

鉱毒激甚地であった当時の安蘇郡植野村字船津川地区(現佐野市船津川町)の死産率は明らかに全国平均を超えていることも鉱毒事務所は指摘している。松本隆海は、『足尾鉱毒惨状画報』(1901年)で、安蘇郡界村字高山(現佐野市高山町、当時の人口約800人)で、5年間で兵役合格者がわずか2名しか出ておらず(適齢者は延べ50名)、しかも、その合格者のうち1名も入隊後10日で病気で除隊となったという逸話を紹介している。田口掬汀は、海老瀬村の鉱毒被害者向けの診療所の医師に聞いた話として、忙しくて統計はとっていないが、ひと月に2300名を越える患者を診断し、うち半数が眼病であったが、これは地質が及ぼす結果だろうとこの医師は推測していることを佐藤儀助編『亡国の縮図』(1902年)で紹介している。また、元谷中村村民の島田宗三は、自身の父と祖父は、鉱毒水を飲んで胃を冒されて死亡した、と主張している。

 

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