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【wiki、箱館戦争】(西郷のほっぺたをつねっている最中に花見はするGWもきっちり休むでは函館政府の指揮は上がりません)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 4 月 29 日 13:57:28: 4sIKljvd9SgGs
 

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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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箱館戦争

五稜郭跡 (函館市)
戦争:戊辰戦争
年月日:
(旧暦)明治元年10月21日 - 明治2年5月18日
(グレゴリオ暦)1868年12月4日 - 1869年6月27日
場所:渡島国亀田郡五稜郭(現・北海道函館市)
結果:新政府軍の勝利、戊辰戦争終結
交戦勢力
明治政府
(新政府軍) 箱館政権
(旧幕府軍)
指揮官
清水谷公考(総督)
山田顕義(海陸軍参謀)
黒田清隆(陸軍参謀) 榎本武揚(総裁)
大鳥圭介(陸軍奉行)
荒井郁之助(海軍奉行)
戦力
9,500
軍艦6 3,500
軍艦5
損害
300 戦死
軍艦1沈没

1,000 戦死
軍艦1沈没、
3座礁、1拿捕
戊辰戦争
鳥羽・伏見 - 阿波沖 - 甲州勝沼 - 宇都宮城 - 市川・船橋 - 上野 - 北越戦争 - 朝日山 - 八丁沖 - 会津戦争 - 白河口 - 磐城 - 二本松 - 母成峠 - 旗巻峠 - 秋田戦争 - 宮古湾 - 箱館戦争 - 二股口 - 箱館湾

箱館戦争を描いた錦絵箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いである。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。

目次 [非表示]
1 背景
2 経過
2.1 旧幕府軍の蝦夷地平定
2.2 新政府軍集結
2.3 宮古湾海戦
2.4 新政府軍上陸
2.4.1 松前の戦い
2.4.2 木古内の戦い
2.4.3 二股口の戦い
2.5 箱館総攻撃
2.6 戊辰戦争終結
3 参考文献
4 箱館戦争を題材とした作品
5 関連項目
6 外部リンク


[編集] 背景
慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳川家海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。


蝦夷へ向かう旧幕府軍
品川沖を脱走する旧幕府艦隊
左から美嘉保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽丸、回天丸榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の幕臣勝海舟の説得で、富士山丸など数隻を引渡すが、開陽丸など主力艦の温存に成功した。7月、榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、8月20日、開陽丸を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台を目指した。

この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。

榎本艦隊は出航翌日から悪天候に見舞われて離散し、咸臨丸・美嘉保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給が行われるとともに、庄内藩支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた運送船2隻(長崎丸・大江丸)を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。

榎本は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・大江丸、鳳凰丸と、桑名藩主・松平定敬、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などの兵、約2,500名を吸収して、10月12日に仙台を出航。途中、幕府が仙台藩に貸与して海賊に奪われていた千秋丸を拿捕し、さらに宮古湾に寄港して旧幕臣の保護を旨とする嘆願書を新政府に提出して、いよいよ蝦夷地を目指した。

箱館港には諸外国の船が入港しており、開陽丸などが入港すると混乱を招く恐れがあったため、10月21日(グレゴリオ暦1868年12月4日)に箱館の北、鷲ノ木に約3,000名が上陸した。


[編集] 経過

[編集] 旧幕府軍の蝦夷地平定
蝦夷地の大部分はもともと幕府の直轄地であったが、新政府は箱館の五稜郭に箱館府を設置してこれを統治しようとしていた。旧幕府軍は大鳥圭介と土方歳三の二手に分かれて箱館へ向けて進軍するが、無用な戦闘は意図しておらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に使者を派遣した。新政府への嘆願書をたずさえた人見勝太郎ら30名が先行するが、明治元年(1868年)10月22日、峠下で津軽藩兵などからなる箱館府軍の待ち伏せに遭い、戦端が開かれる。


五稜郭本陣 (明治元年冬撮影)
新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。
五稜郭設計図10月24日、人見たちと合流した大鳥軍が大野村と七飯村で箱館府軍を撃破し、土方軍は川汲峠で箱館府軍を敗走させた。各地の敗戦を聞いた清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、25日に秋田藩の陽春丸に乗船し青森へ退却した。旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させた。旧幕府軍は上陸後5日で箱館を占領することに成功した。

唯一蝦夷地を本拠とする松前藩は奥羽越列藩同盟に属していたが、東北諸藩が降伏すると寝返り、新政府軍の先鋒として旧幕府軍と対峙することになる。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、戦うことを決意する。

10月27日、土方歳三を総督として額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣し、11月1日に敵の奇襲を受けるがこれを撃破、11月5日には知内・福島を突破して、松前城に到達した。松前藩は徹底抗戦の構えだったが軍式は旧式であり、旧幕府軍の新式の武器と蟠竜丸・回天丸などからの砲撃により、松前城は数時間で落城。松前兵は江差方面へ敗走した。


箱館政権の閣僚
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚11月12日、旧幕府軍は星恂太郎率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃。途中大滝陣屋を陥落させ、15日、江差に迫ると、すでに松前兵は敗走、江差攻略の支援に来ていた開陽丸を中心とする海軍によって無血占領されていた。しかし、この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽丸は座礁してしまう。箱館から回天丸と神速丸が開陽丸救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽丸は、数日後に沈没する。これにより旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。

他方、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊など500名が五稜郭を発ち、二股を経て、松前藩主・松前徳広が拠っていた館城攻略に向かった。11月15日に館城は落城するも、藩主は前日のうちに奥方と老少男女を引き連れて熊石へ退いていた。22日、熊石に到着すると、藩主は君臣男女60余名とともに船で津軽へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定は完了した。

12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、改めてイギリス軍艦に嘆願書を仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺した。また、旧幕府軍は、軍事組織を再編成し、来たる新政府軍の攻勢に備えて、江差、松前、鷲ノ木など支配地域の沿岸部に守備隊を配置した。なお、沈没した開陽丸の乗組員は開拓方となり、開拓奉行となった艦長・澤太郎左衛門とともに室蘭の守備と開拓に充てられている。

詳細は蝦夷共和国を参照

◇ 旧幕府軍参加諸隊 ◇ 隊名 隊長 人員 出身 配置 隊名 隊長 人員 出身 配置
彰義隊 菅沼三五郎 185 幕臣 有川〜福島 新選組 森常吉 150 幕臣・諸藩 箱館
小彰義隊 渋沢成一郎 54 幕臣(一橋派) 湯の川 会津遊撃隊 諏訪常吉 70 会津藩 有川〜福島
遊撃隊 伊庭八郎 120 幕臣 松前 額兵隊 星恂太郎 252 仙台藩 有川〜福島
陸軍隊 春日左衛門 160 幕臣 松前 見国隊 二関源治 400 仙台藩 室蘭・箱館
伝習士官隊 瀧川充太郎 160 幕臣 箱館 神木隊 酒井良助 70 高田藩 (宮古湾)
伝習歩兵隊 本多幸七郎 225 幕府歩兵 五稜郭 杜陵隊 伊藤善次 75 盛岡藩 五稜郭
衝鋒隊 古屋佐久左衛門 400 幕府歩兵 東北 砲兵隊 関広右衞門 170 幕府砲兵 各地
一聯隊 松岡四郎次郎 200 幕府歩兵 江差 工兵隊 吉沢勇四郎 70 幕府工兵 五稜郭
その他諸隊(士官付属・事務方など) 100 / 海軍 800


[編集] 新政府軍集結

甲鉄艦新政府は、11月27日、青森に避難していた箱館府知事・清水谷公考を青森口総督に任命し、諸藩兵を結集して旧幕府軍の征討に入ることを命じた。しかし、松前藩があっけなく旧幕府軍に敗北したことや、脆弱な海軍力を危惧して、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始することに決していた。

陸軍は、奥羽征討軍参謀であった山田顕義を海陸軍参謀に任じ、明治2年(1869年)2月には松前藩、津軽藩兵を中心に7,000名が青森に集結した。一方、海軍は旧幕府軍との海軍力均衡を図るためにアメリカから最新鋭の装甲軍艦、甲鉄を購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成した。3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻)は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆、4月の蝦夷地上陸を目指した。

◇ 新政府軍各藩出兵数(陸軍)◇ 津軽 2,207 松前 1,684 長州 781 備後福山 632 備前岡山 541
熊本 396 徳山 300 薩摩 293 筑後 243 黒石 243
水戸 219 津 199 越前大野 170 箱館府 200 合計 8,108


[編集] 宮古湾海戦
蝦夷地を平定した旧幕府軍だが、かつての強みであった海軍は開陽丸を失い、さらに甲鉄が新政府の手に渡ったため、海戦での苦戦は必至であった。明治2年3月、新政府軍の艦隊が宮古湾に入るとの情報を受け、甲鉄を奪取する作戦を立案する。3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天丸と蟠竜丸、箱館で拿捕した高雄丸の3艦は宮古湾に向けて出航した。


回天丸の戦闘3月23日、暴風雨に遭遇した3艦は統率が困難となり、集結地点である南部大槌湾には回天丸と高雄丸が到着したが、蟠竜丸は現れなかった。その上、高雄丸は蒸気機関のトラブルで速力が半分に落ちており、このままだと勝機を逸してしまうという土方などの意見で、結局回天丸のみで決行されることになった。

回天丸は、宮古湾へ突入するとアメリカ国旗を降ろし日本国旗を揚げて、全速力で甲鉄へと向かった。奇襲は成功したが、外輪船の回天丸は横付けできず、甲鉄との船高の違いもあり、思うように戦えなかった。戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船や甲鉄に装備されていたガトリング砲による反撃が始まり、作戦は失敗、宮古湾を離脱した。回天艦長・甲賀源吾、旧新選組の野村利三郎など19名が戦死。機関故障のため速力が出ない高雄丸も新政府軍の春日丸に追撃され、田野畑村羅賀浜へ座礁させて火を放ち、乗組員は盛岡藩に投降した。

詳細は宮古湾海戦を参照


[編集] 新政府軍上陸
明治2年4月9日早朝、海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が江差の北、乙部に上陸した。旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。陸兵が小競り合いを続けている間に、春日丸を中心とする新政府軍軍艦5隻は江差砲撃を開始。江差の砲台は反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に後退した。新政府軍が江差を奪還すると、4月15日にはさらに陸軍参謀・黒田清隆率いる2,800名が江差へ上陸し、松前道、木古内道、二股道の三つのルートから箱館へ向けて進軍を開始する。また、旧幕府軍では、4月14日、仙台藩を脱藩した二関源治率いる見国隊400名がイギリス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭及び箱館防備に投入されている。


[編集] 松前の戦い
4月11日、松前を守備していた伊庭八郎率いる遊撃隊と春日左衛門率いる陸軍隊を中心とする部隊500名が江差奪還のために出撃する。根武田付近で新政府軍の斥候を蹴散らし、翌日には一気に茂草まで進出、新政府軍は江差まで退却する。このまま江差奪還を目論んだが、新政府軍が後方の木古内に進出しているとの報に接し、松前への退却を余儀なくされる。

4月17日、松前の旧幕府軍500名は、改めて江差へ向けて出陣するが、新たに上陸した新政府軍1,500名と折戸浜付近で遭遇。海からは新政府軍軍艦の砲撃が轟き、双方入り乱れての激戦となった。戦力差は歴然としており、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城に逃げ込むが、艦砲射撃にさらされ、福島まで後退を強いられた。


[編集] 木古内の戦い
木古内では4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介指揮下、伝習隊、額兵隊などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、500名が布陣。新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所に部隊を配置していた。

4月20日未明、新政府軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで激戦が続いた。旧幕府軍は額兵隊と遊撃隊などが最後まで踏み止まっていたが、70名以上の死傷者を出して泉沢まで後退した。その後、本多幸七郎率いる伝習隊などの援軍を加え、知内に孤立した彰義隊など300名を救うために再び木古内へ向かう。孤立していた部隊も木古内突入を決め、新政府軍を挟撃する形となり、木古内奪還に成功する。しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、地形的に有利な矢不来まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣した。

4月28日に青森からイギリス艦で運ばれて来た新政府軍2,000名が福島へ上陸し、充分な補給を受けた新政府軍は、翌29日、陸軍参謀・太田黒惟信が2,500名を率いて本道、海岸、山上の三方から矢不来に迫った。旧幕府軍は、甲鉄・春日による艦砲射撃で衝鋒隊の大隊長・天野新太郎や永井蠖伸斎など多数の死傷者を出し、総崩れとなった。大鳥圭介は富川で部隊の立て直しを図ったが果たせず、有川まで撤退。有川では榎本武揚自ら指揮を執るが、旧幕府軍は完全に崩壊、箱館方面へ敗走を始める。旧幕府軍はこの戦闘で160名の戦死者を出している。


[編集] 二股口の戦い
土方歳三の指揮下、衝鋒隊・伝習隊からなる300名は、4月10日に台場山に到着し、二日がかりで16箇所に胸壁を構築、新政府軍を待ち構えた。13日正午過ぎ、700名の新政府軍が攻撃を開始し、対する土方軍は胸壁を楯に小銃で防戦。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返すが、土方軍は雨の中、2小隊ずつが交代で小銃を撃ち続けた。翌14日早朝、新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退した。旧幕府軍が撃った弾丸は、3万5千発に及び、16時間にわたる激闘であった。

22日、新政府軍は再度攻撃を試みるが、土方軍はこれも撃退。23日午後、新政府軍は正攻法をあきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃を打ち下ろしてきた。そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明には瀧川充太郎率いる伝習士官隊が抜刀して敵中に突進、混乱する新政府軍を敗走させる。それでも新政府軍は次々と新しい兵を投入し、旧幕府軍は熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃で応戦し続けた。25日未明、ついに新政府軍は撤退。これ以降、新政府軍は二股口を迂回する道を山中に切り開き始める。4月29日、矢不来が新政府軍に突破されると、退路を断たれる危険があった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる。

詳細は二股口の戦いを参照


[編集] 箱館総攻撃

弁天台場4月28日に青森口総督・清水谷公考が江差から上陸し、5月1日以降、松前・木古内から進軍した東下軍と二股から進軍した南下軍が有川付近に集結、箱館制圧の体制を整えた。旧幕府軍は、大鳥圭介らが七重浜の新政府軍本営を数度に渡って夜襲し、攻勢に出る場面もあったが、5月6日、新政府軍は旧幕府軍が箱館湾に敷設していた索鋼を住民の協力で撤去し、軍艦を箱館湾に進出させた。5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始、海陸両方から箱館に迫った。


四稜郭の土塁跡旧幕府軍では大鳥圭介が五稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や桔梗野などに伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して指揮を執っていた。5月11日、午前8時ごろ、新政府軍4,000名が大挙して押し寄せてきた。大鳥は東西を奔走し、自ら大砲を撃って力戦したが、夜には五稜郭に撤退した。また、旧幕府軍が五稜郭の北に急造した四稜郭では、松岡四郎次郎率いる一聯隊が防戦していたが、五稜郭との中間に位置する権現台場を新政府軍に占領されると、退路を断たれることを恐れ、五稜郭へ敗走した。

新政府軍に千代田形を奪われた旧幕府海軍は回天丸と蟠竜丸のみとなっていた。蒸気機関を破壊された回天丸は意図的に陸地に乗り上げさせ、弁天台場とともに箱館湾防備の砲台とした。5月11日、蟠竜丸が新政府軍の朝陽丸を撃沈し、旧幕府軍の士気は大いに高まったが、砲弾を打ちつくした蟠竜丸も座礁の上、乗組員は上陸して弁天台場に合流。戦闘は箱館市街地に移る。

詳細は箱館湾海戦を参照

一方、同日未明、豊安丸と飛龍丸に分乗した陸軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名が夜陰に紛れて箱館に近づいた。豊安丸の部隊は山背泊から上陸し、弁天台場の背後を脅かした。黒田直率の飛龍丸の部隊は寒川村付近に上陸し、絶壁をよじ登って箱館山の山頂に到達。山頂にいた旧幕府軍監視兵は驚いて遁走し、夜明けまでには箱館山を占領した。このとき、箱館にあって新政府軍の諜報活動などを務めていた遊軍隊が、箱館山薬師堂でこの奇襲部隊を迎え、山道の案内にあたった。遊軍隊は、多数の市民が参加したゲリラ部隊ともいえる組織で、旧幕府軍の市中掛の下役や弁天台場に隊士として潜入した者もいた。

箱館山に新政府軍現わるの報に接した箱館奉行・永井尚志は、弁天台場の守備を固めるとともに、瀧川充太郎が新選組、伝習士官隊を率いて箱館山へ向かった。しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、大森浜沖の陽春丸からの艦砲射撃もあって一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退。箱館市中を制圧した新政府軍は一本木関門に兵をとどめ、五稜郭、千代ヶ岡陣屋と対峙した。これによって孤立した弁天台場の救出に向かった土方歳三は、一本木関門付近で銃弾を受けて戦死。さらに副総裁・松平太郎が諸隊を率いて箱館奪還を試みるも失敗し、いよいよ失地回復は困難となり、戦闘は各陣地の篭城戦へ移行していく。

この間、箱館病院では院長の高松凌雲が、赤十字の精神で病院の非武装中立を謳い、敵味方の隔てなく戦傷者の治療に当たっていた。5月11日、新政府軍が病院内に乱入してきた。殺気立った新政府軍と患者を守ろうとする高松の間で押し問答が続いていたが、薩摩藩士・池田次郎兵衛が高松の主張を聞き入れ、病院の門前に「薩州隊改め」の墨書きを残して退いた。分院の高龍寺では非武装が徹底されておらず、松前藩士により数名が切り倒されている。

総攻撃が始まると、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。千代ヶ岡陣屋を守備していた小彰義隊長・渋沢成一郎が隊士とともに湯の川に遁走するなど、士官クラスまでが次々と戦線を離脱し、降伏した兵士の数は340余名にのぼった。5月12日には、五稜郭に対して箱館湾の新政府軍軍艦による艦砲射撃が始まる。


[編集] 戊辰戦争終結
5月13日、新政府軍参謀・黒田清隆が箱館病院長の高松凌雲の仲介で榎本に降伏を勧告する。榎本はこれには応じなかったが、灰塵に帰するには惜しいとして榎本自身が翻訳した「万国海律全書」という本を黒田に届けさせた。これは、海事に関する国際法と外交に関する書物で、このとき黒田は、榎本が国際法に精通していることに感銘し、その後、榎本の助命に奔走することになる。

弁天台場は艦砲射撃と背後の上陸部隊の猛攻によく持ち堪えていたが、艦を失った海軍を収容していた弁天台場では兵糧が底を付き、5月15日、永井尚志以下240名が降伏する。同日、榎本は永井の口利きにより千代ヶ岡陣屋で軍監・田島圭蔵らと会見した。榎本は降伏勧告を改めて拒絶するが、五稜郭にいる傷病者の後送を申し入れた。新政府軍は攻撃を中断し、傷病者はその日のうちに湯の川へ送られるとともに、新政府軍の捕虜11名も送り返された。

五稜郭の前哨、千代ヶ岡陣屋にも降伏勧告の使者が訪れていたが、箱館奉行並・中島三郎助はこれを拒否した。5月16日、五稜郭からの撤退命令も拒否して、中島は浦賀与力時代の部下らとともに、死を覚悟して最後の抵抗をする。1時間の戦闘で守備隊は壊滅し、中島三郎助は2人の息子とともに戦死。これが箱館戦争最後の戦闘となった。千代ヶ岡陣屋陥落後、黒田は、「海律全書」の返礼として酒樽を五稜郭に送り届け、五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告した。これにより郭内は動揺し、衆議の結果、ついに降伏と決する。

翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の斥候所に出頭、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願した。しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかった。これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条件降伏に同意。新政府軍が降伏の手順を明らかにする実行箇条の提出を要求してこの会談は終了した。その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた。

5月18日(グレゴリオ暦1869年6月27日)早朝、実行箇条に従い、榎本ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・澤太郎左衛門以下250名は、22日に投降している。


箱館戦争供養塔 (函館市)
[編集] 参考文献
『函館市史』通説編第2巻
『福島町史』第2巻通説編上巻 
小杉雅三 『麦叢録』 明治7年(1874年)
荒井宣行 『蝦夷錦』 明治3年(1870年)
大鳥圭介 『南柯紀行』 明治初期

[編集] 箱館戦争を題材とした作品
テレビドラマ
『獅子の時代』(NHK大河ドラマ) 1980年
『五稜郭』(日本テレビ年末時代劇スペシャル) 1988年
『新選組!! 土方歳三 最期の一日』(NHK正月時代劇) 2006年
ボードゲーム
『北海道共和国』(アドテクノス)
『シックス・アングルズ』第6号「箱館戦争」(山崎雅弘)

[編集] 関連項目
碧血碑

[編集] 外部リンク
箱館五稜郭祭 公式サイト
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E9%A4%A8%E6%88%A6%E4%BA%89" より作成
カテゴリ: 戊辰戦争 | 北海道の歴史 | 渡島国 | 函館市
 

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