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【吉田松陰】(かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 5 月 03 日 22:52:46: 4sIKljvd9SgGs
 

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吉田松陰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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吉田松陰/吉田矩方
1830年9月20日(文政13年8月4日) - 1859年11月21日(安政6年10月27日)


通称: 吉田寅次郎
生年: 1830年9月20日(文政13年8月4日)
生地: 長州
没年: 1859年11月21日(安政6年10月27日)
没地: 江戸
思想: 尊皇攘夷
藩: 長州藩
投獄: 野山獄
裁判: 死刑 (罪状:密航)
刑場: 伝馬町
廟: 松陰神社
靖国神社
吉田 松陰/吉田 矩方(よしだ しょういん/よしだ のりかた)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者。一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられることが多い。贈正四位。

目次 [非表示]
1 名前
2 生涯
3 年譜
4 思想
4.1 一君万民論
4.2 飛耳長目
4.3 草莽崛起
4.4 対外思想
5 ゆかりの地
6 墓所・霊廟
7 一族
8 系譜
9 肖像
10 吉田松陰に関する作品
11 関連項目
12 外部リンク


名前 [編集]
幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は虎之助。養子後の名字は吉田、大次郎と改める。通称吉田寅次郎。諱は矩方。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。


生涯 [編集]
文政13年(1830年)8月4日、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。

しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。また江戸に出て佐久間象山の師事を受けた。嘉永5年(1852年)、長州藩に無許可の形で宮部鼎蔵らと東北の会津藩などを旅行したため、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。そのため安政元年(1854年)に浦賀に再来航していたペリーの艦隊に対してアメリカ密航を望んだ。しかし密航を拒絶されて送還されたため、松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府にわたる前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も入牢されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の阿部正弘が反対したため、助命されて長州の野山獄に送られている。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の身分に処された。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である久坂玄瑞や伊藤博文などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺を自供し、野山獄に送られた。

やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし井伊直弼はそれほど甘い人物ではなく、素直に罪を自供したことが仇となって井伊の命令により「死罪」となってしまい、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。


年譜 [編集]
1830年9月20日(文政13年8月4日)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に家禄26石の萩藩士・杉百合之助、瀧の次男として生まれる。 
1834年(天保5年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
1835年(天保6年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。兵学師範としての職責を果たせるよう、同じく父の弟で叔父である玉木文之進から厳しい教育を受ける。
1840年(天保11年)、藩主毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
1842年(天保13年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
1845年(弘化2年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。佐久間からは「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林(小林虎三郎)のみである」と、二人の名前に共通していた「トラ」を引用し「象門の二虎」と褒められている。
1851年(嘉永4年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、肥後藩の友人である宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田藩では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽藩では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。
1852年(嘉永5年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
1853年(嘉永6年)、米国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。
1854年(安政元年)、ペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。事が敗れた後、松陰はそのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
1855年(安政2年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠等維新の指導者となる人材を教える。
1858年(安政5年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。
1859年(安政6年)、幕府は安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残す。その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。

思想 [編集]

一君万民論 [編集]
「天下は一人の天下」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。なお、「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。


飛耳長目 [編集]
塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。


草莽崛起 [編集]
“在野の人よ、立ち上がれ”の意。安政の大獄で収監される直前(1859年4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。この言葉は日本文化チャンネル桜、西村修平、瀬戸弘幸などがスローガンとして用いている。


対外思想 [編集]
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、沖縄(当時は独立した国家であった)の日本領化、朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の多くが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本の対外政策に大きな影響を与えることとなった。


ゆかりの地 [編集]
吉田松陰の故郷である山口県萩市には誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾、遺髪を埋葬した松陰墓地、祀った松陰神社等がある。


墓所・霊廟 [編集]
刑死後、隣接した小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、1863年(文久3年)に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。現在も回向院墓地に墓石は残る。世田谷区の墓所には1882年(明治15年)に松陰神社が創建された。また、生地の山口県萩市では死後100日目に遺髪を埋めた墓所(遺髪塚)が建てられた(市指定史跡)他、1890年(明治23年)に建てられた松陰神社(県社)がある。靖国神社にも維新殉難者として合祀されている。


一族 [編集]
父・杉百合之助
母・滝
兄・梅太郎(民治)
妹・芳子(千代)、寿(小田村伊之助(楫取素彦)に嫁す)、美和子(初め文,久坂玄瑞に嫁す 後に楫取素彦後妻)
弟・敏三郎

系譜 [編集]
杉氏(本姓は大内氏か?) 杉氏系譜
                                  
文左衛門政常=七郎兵衛政之━文左衛門徳卿━七兵衛常徳━┳百合之助常道━━━━┳梅太郎修道(民治)       
                           ┣大助賢良      ┗大次郎矩方(松陰)
                           ┃ (吉田氏第七代)    (吉田氏第八代)
                           ┗文之進 
                             (玉木氏第七代)          
梅太郎修道━┳小太郎
   民治 ┃ (吉田氏第九代)
      ┃
      ┣滝子━━┳道助
      ┃    ┗丙三
      ┃
      ┗道子
       (吉田氏第十代) 
       

吉田氏(本姓は藤原氏を称する。藤原行成の末裔という)
友之允重矩━┳十郎左衛門矩行=半平=二十郎矩之=市佐矩直=又五郎矩定━他三郎矩建=大助賢良=大次郎矩方(松陰)
      ┗七郎兵衛政之
       (杉氏第二代)
大次郎矩方=小太郎=道子=庫三=衛
   松陰

肖像 [編集]
松陰のものと伝わる写真が現存している。ただし渡辺蒿蔵が松陰のものでないと主張しており、真偽は明らかになっていない。


吉田松陰に関する作品 [編集]
小説
司馬遼太郎『世に棲む日日』文春文庫全4巻
テレビドラマ
『勝海舟』(1974年、NHK大河ドラマ、松陰を演じているのは石橋蓮司)
『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、松陰を演じているのは篠田三郎)
『大奥』(1983年 - 1984年、関西テレビ/東映)第47話「年上の佳人」で、福本清三が、セルフなしで、護送のシーンと処刑されるシーンで出演している。
『花の生涯 井伊大老と桜田門』(1988年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、松陰を演じているのは本田博太郎)
『奇兵隊』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、松陰を演じているのは米倉斉加年で実在の銅像に声のみの回想出演)
『炎の如く 吉田松陰』(1991年、日本テレビ系で2時間の時代劇スペシャルとして放送。日本テレビ年末時代劇スペシャルの幕末シリーズとストーリー的に繋がりがある。松陰を演じてるのは風間杜夫)
『徳川慶喜』(1998年、NHK大河ドラマ、松陰を演じているのは俊藤光利)
『蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦』(2000年、NHK、松陰を演じているのは中村橋之助)
資料・文献
徳富蘇峰『吉田松陰』(民友社,1893年)岩波文庫、同ワイド版がある。
山口県教育会編『吉田松陰全集』(岩波書店,1934年-1936年、復刊1986年)大和書房版もある。
奈良本辰也『吉田松陰』(岩波新書 1951年、改版1981年)
田中彰『吉田松陰 変転する人物像』(中公新書、2001年)
海原徹『吉田松陰 身はたとひ武蔵の野辺に』(ミネルヴァ書房・ミネルヴァ日本評伝選,2003年)
加藤周一『吉田松陰と現代』(かもがわ出版・かもがわブックレット,2005年)
木村幸比古『吉田松陰 世界を見据えた大和魂』(PHP新書、2005年)
関厚夫『ひとすじの蛍火 吉田松陰人とことば』(文春新書、2007年)

関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、吉田松陰 に関連するマルチメディアがあります。ウィキクォートに吉田松陰に関する引用句集があります。杉道助
佐藤信寛 首相岸信介、佐藤栄作兄弟の曽祖父
明治維新
小林虎三郎
高須久子
吉田庫三 吉田松陰の甥。明治・大正期の教育者。
司馬遼太郎『世に棲む日日』
尾形大作『吉田松陰』という歌を歌っている
つボイノリオ(吉田松陰物語)
ビビる大木 尊敬する人物として松陰の名を挙げている。
小田村四郎 松陰の妹杉寿子の曾孫、現日本会議副会長
八千代松陰高校 吉田松陰にあやかって学校名がつけられた学校
日本の書家一覧
ロバート・ルイス・スティーヴンソン - 松陰の名を冠するYOSHIDA-TORAJIROなる短編を著した。

外部リンク [編集]
吉田松陰 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館) - 近代デジタルライブラリーに収録されている著作が読める
松陰神社
吉田松陰墓所1
吉田松陰墓所2
JOG(038) 欧米から見た日本の開国−吉田松陰
杉家について
吉田松陰の「父・叔父・兄への手紙」
吉田松陰『留魂録』
吉田松陰.com(吉田松陰と松下村塾について)
吉田松陰の生家杉家について
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0" より作成
カテゴリ: 杉氏 | 吉田氏 | 日本の思想家 | 幕末維新側人物 | 19世紀の学者 | 山口県の歴史 | 長門国の人物 | 1830年生 | 1859年没
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