★阿修羅♪ > 昼休み19 > 907.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
【wiki、寺田屋事件】(お龍=小沢だけ捜査事件を見抜いた43%の有権者、三吉慎蔵=同じく見抜いた民主党執行部、です)
http://www.asyura2.com/09/lunchbreak19/msg/907.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 5 月 11 日 20:24:25: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
寺田屋事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
寺田屋事件(てらだやじけん)とは江戸時代末期の京都郊外の伏見(現在の京都府京都市伏見区)の旅館・寺田屋(北緯34度55分48秒東経135度45分34秒 )で発生した事件である。以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる。

文久2年(1862年)に発生した薩摩藩尊皇派等の粛清事件。
慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。
目次 [非表示]
1 薩摩藩粛正
2 坂本龍馬襲撃
3 現存の寺田屋と当時の建物との同一性
4 参考文献
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク


[編集] 薩摩藩粛正
文久2年4月23日(1862年5月29日)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清されたと言われる事件。寺田屋騒動とも。

藩兵千名を率い上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負った。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、伏見の船宿寺田屋に集った。当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである。

久光は大久保一蔵等を派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。ただし万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ(大山綱良・奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助。さらに上床源助が志願して加わり計9名)。

大山綱良らは新七に藩邸に同行するように求めたが新七はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まった。この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と新七ら6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負った。また2階には多数の尊王派(大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎など)がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した。

負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺された海へ投げ捨てられた。斬った柴山矢吉は後に発狂したという話がある。彼だけでなく、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い。一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要路に立った。

この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった。

なお、この事件が発生する前の4月16日(5月14日)に、久光は近衛忠房らに公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていた。よって薩摩藩の内輪もめという説は再考が必要なようである。


[編集] 坂本龍馬襲撃
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件。

龍馬は同宿の養女・お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避し、しばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏する。お龍は風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせた。龍馬は主に銃で反撃。左手の親指を負傷。


[編集] 現存の寺田屋と当時の建物との同一性

現在の寺田屋現在寺田屋を称する建物には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかし、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。[1]大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたもので、彼自身も寺田家とはなんの関係も有していない。

2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。 [2] [3][4][5]。京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では2007年から「再建」と紹介していた。[6][7][8]

[編集] 参考文献
現存の寺田屋と当時の建物との同一性
中村武生『京都の江戸時代を歩く』 文理閣、2008年


[編集] 関連項目
お登勢

[編集] 脚注
^ 『朝日新聞』 2008年9月26日付
^ 当時の建物の敷地は、現在の建物の東隣にある、石碑や像などが建っていて寺田屋の庭のようになっている場所(京都市伏見区南浜町262番地)であるが、この土地は大正3年(1914年)に所有者(寺田屋主人とは血縁関係にない)から当時の京都府紀伊郡伏見町に寄付され、市町村合併を経て現在は京都市の市有地である。
^ "平成の寺田屋騒動で「寺田屋は焼失」と京都市が公式見解". 産経新聞 (2008年9月25日). 2008年9月25日 時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月25日 閲覧。
^ "京都市「寺田屋は戦いで焼失」 HP変更へ". 共同通信 (2008年9月25日). 2008年9月25日 時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月25日 閲覧。
^ "寺田屋関係資料9種と若干のコメント". よっぱ、酔っぱ (2008年10月10日). 2009年1月3日 閲覧。
^ いしぶみデータベース
^ 『朝日新聞』南京都版 2008年9月26日付 [1]
^ 京都大学附属図書館 維新資料画像データベース - 現在の建物の東隣に建っている石碑「薩藩九烈士遺蹟志」の碑文(拓本)。本文後ろから5行目に「寺田屋遺址」とある。
『日本歴史地名体系27巻 京都市の地名』 平凡社、1979年。 - 「南浜町」の項。
『御大禮記念京都府伏見町誌』 伏見町役場、1929年。
この「寺田屋事件」は、日本の歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。


[編集] 外部リンク
寺田屋伊助申立書
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6" より作成
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 昼休み19掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。