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【wiki、孫子 】(在日系、進駐軍系の福田派の弱点は、四書五経など中国の古典を敵視・軽視するところです)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 5 月 12 日 17:46:49: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
孫子 (書物)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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『孫子』(そんし)は、中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書である。後に武経七書の一つに数えられている。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つ。

著者と目される孫武は紀元前500年ごろに生きた人で、当時新興国であった呉に仕えその勢力拡大に多いに貢献した人である。そのため前5世紀中頃〜前4世紀中頃あたりに著されたと考えられている。ただ、単純に著者を孫武として良いのか、それに付随して『孫子』という書物の成立時期はいつかという基本問題において未だ諸説ある。これについては後述。

『孫子』の成立以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦史研究の結果から、戦争には勝った理由、負けた理由があり得ることを分析した。『孫子』の意義はここにある。

なお孫武の子孫といわれ、斉に仕えた孫臏も兵法書を著しており、かつては『孫子』の著者は孫臏であるとの説もあった。また『漢書』芸文志・兵権謀家類において、孫武のものを『呉孫子兵法』82巻・図9巻、孫臏のものを『斉孫子兵法』89巻・図4巻と記されているとおり、両書はそれぞれ異なる著作ではあると見なされている。ここでは前者について解説する。著者自身については孫武を、孫臏の書については孫臏兵法を参照のこと。

以下の文中で『孫子』と表記するときは書物を、単に孫子と表記するときは孫武その人を指すものとする。

目次 [非表示]
1 構成
2 内容
2.1 全般的特徴
2.2 戦争観
2.3 戦略
3 テキストとしての『孫子』
3.1 成立について
3.2 成立時期
3.3 『孫子』の版本
4 評価
4.1 名声の確立
4.2 海外への伝播
4.3 『戦争論』との比較
4.4 現代戦略理論との関わり
5 『孫子』と日本
5.1 日本への伝来
5.2 武士の受容
5.3 兵学の隆盛―近世―
5.4 近代以後
6 脚注
7 参考文献
7.1 注釈書
7.2 研究書
8 外部リンク


[編集] 構成
以下の13篇から成る。

計篇 - 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。
作戦篇 - 戦争準備計画について述べる。
謀攻篇 - 実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。
形篇 - 攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。
勢篇 - 上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。
虚実篇 - 戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。
軍争篇 - 敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。
九変篇 - 戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。
行軍篇 - 軍を進める上での注意事項について述べる。
地形篇 - 地形によって戦術を変更することを説く。
九地篇 - 9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。
火攻篇 - 火攻め戦術について述べる。
用間篇 - 「間」とは間諜を指す。すなわちスパイ。敵情偵察の重要性を説く。
現存する『孫子』は以上の十三篇からなり、底本の違いによって順番やタイトルが異なっている。そのため上の篇名やその順序は近年出土した竹簡にしるされたもの(以下『竹簡孫子』)をベースとし、竹簡において欠落しているものについては『宋本十一家注孫子』によって補った。『竹簡孫子』の方がより原型に近いと考えられるためである。また『竹簡孫子』とそれ以外では、用間篇と火攻篇とが入れ替わっている。


[編集] 内容

[編集] 全般的特徴
非好戦的 - 戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について 老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)
現実主義 - 緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)
主導権の重視 - 「善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)

[編集] 戦争観
孫子は戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。良く考えねばならない)と言うように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といったことばからもうかがえる。

また「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(多少まずいやり方で短期決戦に出る事はあっても、長期戦に持ち込んで成功した例は知らない)ということばも、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである。この費用対効果的な発想も国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。

すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。


[編集] 戦略
『孫子』戦略論の特色は、「廟算」の重視にある。廟算とは開戦の前に廟堂(祖先祭祀の御廟)で行われる軍議のことで、「算」とは敵味方の実情分析と比較を指す。では廟算とは敵味方の何を比較するのか。それは、

道 - 為政者と民とが一致団結するような政治や教化のあり方
天 - 天候などの自然
地 - 地形
将 - 戦争指導者の力量
法 - 軍の制度・軍規
の「五事」である。より具体的には以下の「七計」によって判断する。

敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。
将軍はどちらが優秀な人材であるか。
天の利・地の利はどちらの軍に有利か。
軍規はどちらがより厳格に守られているか。
軍隊はどちらが強力か。
兵卒の訓練は、どちらがよりなされているか。
信賞必罰はどちらがより明確に守られているか。
以上のような要素を戦前に比較し、十分な勝算が見込めるときに兵を起こすべきとする。


[編集] テキストとしての『孫子』

[編集] 成立について
『孫子』13篇の著者とその成立については長い間論争があった。通常我々が手にするテキストは後漢・魏の曹操が分類しまとめ上げたもの(『魏武注孫子』)であるが、それが『漢書』芸文志・兵権謀家類に載せられている『呉孫子兵法』82巻・図9巻という記述とは体裁が大きく異なるからである。また『孫子』の字を含む書物として、孫武の子孫とされる孫臏の著作である『斉孫子兵法』89巻・図4巻も『漢書』に載せられており、その二冊の兵法書と二人の兵法家の関係について、不明な点が多々あったためでもある。最も著名な学説は、武内義雄の『孫子』13篇の著者を孫臏とするもので、『孫臏兵法』発見以前は非常に有力であった。[1]

しかし近年山東省銀雀山の前漢時代の墳墓から、『竹簡孫子』や『孫臏兵法』が発見され、両書が別の竹簡の写本として存在し、従来伝えられる『孫子』はいわゆる『呉孫子』の原型をほぼとどめたものであり、孫臏の兵法書は後世に伝わらなかったことが確認された。現在では以下のように考えられている。『孫子』は孫武が一旦書き上げた後、後継者たちによって徐々に内容(注釈・解説篇)が付加されていき、そうした『孫子』の肥大化を反映したものが『漢書』芸文志の記載である。しかし、後に曹操の手によって整理され、今日我々が目にするかたちになったとされる。


[編集] 成立時期
『孫子』の成立については、『竹簡孫子』の発見によって多くのことが分かってきたが、未だ成立年代については春秋末期に成立したとする説と戦国初期とする説がある。それは『孫子』は孫武の没後も加筆されていったと思われるため、単純に孫武の生きた時代を成立年代とすることができないためである。

『孫子』は春秋と戦国両時代の特徴を帯びており成立年代の特定が難しい。たとえば「作戦篇」における車戦は春秋時代によく見られるものであるが、「馳車千駟、革車千乗、帯甲十万」といった大編成の戦争形態は戦国時代のものである。また『孫子』には複数の諸子百家の影響が見られるが、そのうちの一人五行思想で有名な鄒衍は戦国時代に活躍した人であるため戦国時代説に有利かとおもわれるが、一方で五行思想的なものは『春秋左氏伝』にも言及があるので、ただちに鄒衍の影響とみることはできないという反論もある。他にも論点はあるが、いずれにしても成立時期を決定づけるものは無いといえよう。

『孫子』研究者の考え方の一例を挙げると、その成立を河野収は以下のように5段階に分けられるとする。

紀元前515年頃、孫武本人によって素朴な原形が著される。
紀元前350年頃、子孫の孫臏により、現行の『孫子』に近い形に肉付けされる。そして戦国末期までに異本や解説篇が付加されていった。その一つがここで『竹簡孫子』と呼ぶものである。
秦漢の時代も引き続き本論に改訂が加えられていき、多くの解説篇が作られた。
紀元200年頃、曹操により整理され、本論13篇だけが受け継がれていくようになる。
曹操以降、写し違いや解釈の相違により数種類の異本が生まれ、それらは若干の異同をもったものとなる。しかし基本的には第4段階のものと大きくは違わず現代に伝わる。現在手にすることができるものは、ほとんどがこの段階の『孫子』である。

[編集] 『孫子』の版本
『孫子』のテクストは大きく分けて三種類ある。まず近年見つかった『竹簡孫子』、それまで流布していた『魏武注孫子』、そして日本仙台藩の儒者桜田景迪が出版した『古文孫子』である。最後のテクストは、代々桜田家に伝えられてきたもので『魏武注孫子』よりも古いものであると桜田自身は述べているが、真偽は不明である。

最も広く読まれた『魏武注孫子』は時代が下るにつれ様々な注釈が付けられ、異本が増えていった。『孫子』の文章が非常に簡潔で具体的なイメージが読み取れない部分があるためである。代表的なものとしては、以下のものがある。

「武経七書本」(『続古逸叢書』) と、清代の考証学者孫星衍が覆刻した「平津館本」 - 両者の字句を比較した場合、ほとんど異同は無い。
宋代までの代表的な注釈を集めた『十家孫子会注』(「十家注本」)
十家とは魏の武帝、梁の孟氏、唐の李筌・杜牧・陳r・賈林、宋の梅堯臣・王皙・何延錫・張預の十人をいう。1と比較すると、文字に大きな異同が見られる。これはさらに「道蔵本」・「岱南閣本」などの種類に分かれる。


[編集] 評価

[編集] 名声の確立
歴史を紐解くと、世界に戦争が絶えたことがないことはいうまでもなく、それを戦史として記録にとどめた例も後を絶たない。しかしそうした戦史という分野を超えて軍事思想の域にまで高められた例は数少ない。少なくとも近代以前においては稀だったといってよい。『孫子』はその数少ない例の一つであり、そのうちで最も知られ、かつ影響力を持った著作であるといっても過言ではない。

『孫子』は、「孫・呉も之を用いて、天下に敵無し」(『荀子』議兵篇)、「孫・呉の書を蔵する者は、家ごとに之れ有り」(『韓非子』五蠧篇)ということばから分かるように、すでに戦国時代後期には古典としての地位を確立していた。ちなみに「呉」とは同じく兵法書である『呉子』を指す。

ただ『孫子』は、儒教が長い間王朝のイデオロギーであった間は諸子に分類されて異端の書として扱われ、中国の知識人からは重視されてこなかった。ようやく注目を浴びだしたのは、清朝考証学の隆盛により諸子学という分野が形成されてきてからである[2]。18世紀中葉、考証学者孫星衍が『孫子』の版本を復刻している。しかしそれも版本や字句の異同など考証学的関心からの取り組みがもっぱらであって、兵学や孫子の思想そのものに興味関心が集まったわけではなかったのである。実践、つまり戦争への応用は現代まで待たねばならない。

現代での戦争において積極的に活用した例としては毛沢東がある。彼は日中戦争の最中、どうすれば中国国民党に勝ち、日本に負けず、そして国民の支持を得られるかを考え抜き、中国古典の特に『孫子』と歴史書から大いに学んでいる。その代表的著作である『矛盾論』や『持久戦論』などには5ヶ所ほどその書名を挙げて引用しているほどである。


[編集] 海外への伝播
そしてそれはやがて海外にも伝播していくことになる。日本への影響については後に詳しく述べるとして、まず中国以外での受容を著名人に限って挙げていくと、まず指を屈するのはナポレオン・ボナパルトである。ナポレオンは宣教師に訳させた孫子を愛読し、戦場では常に手放さなかったという。また、ナポレオンのとった戦略、戦術には孫子の影響が見られる。この他ヴィルヘルム2世やベトナム独立に生涯を捧げたホー・チ・ミンなども『孫子』を読んでいる。


[編集] 『戦争論』との比較
こうした世界への伝播によって、『孫子』が広く知られるようになるとカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』と比較する機運が生まれてきた。それは二度の世界大戦への反省に付随して起こってきたものだった。というのも、『戦争論』はナポレオン戦争の教訓に学んで著された書物であり、決定的会戦の重視や敵兵力の殲滅、敵国の完全打倒を基本概念として戦争を論じていることが特徴である。すなわち軍事力の正面衝突を戦争の本質とするため、戦争遂行をそれに則り行った場合国家間の凄絶な総力戦とならざるを得ない。それが現実となったのが世界大戦であった。戦争の総力戦化に対し無用の血が流されすぎたという反省が生まれると共に、『戦争論』への懐疑が生まれた。『孫子』はその比較対象として持ち出されたのである。

『戦争論』を批判し、一方で『孫子』を称揚した人として最も著名なのは、イギリスの軍事史家のリデル・ハートである。その代表作『戦略論』の巻頭には『孫子』からの引用が散りばめられ、またフランス語訳『孫子』によせた序文で、『孫子』を、古今東西の軍事学書の中で最も優れていると評価している[3]。ハートは『孫子』を持ち上げることで、今後の戦争は直接的な戦闘よりも策略・謀略を用いた間接的戦略を重視すべきであると説いたのである。そのためクラウゼヴィッツの『戦争論』の人気は一時期イギリス・アメリカにおいて凋落したという。

しかし現在ではこうしたハートのごとき『孫子』を極端に礼賛し、『戦争論』を評価しないような姿勢は訂正されつつある。ハートのクラウゼヴィッツ批判のいくつかは、彼の誤解に基づくと考えられるようになっためである[4]。現在では『孫子』・『戦争論』とも高級指揮官教育において不可欠な教材とされ、アメリカ国防総合大学校やイギリス王立国防大学校をはじめとする各国の国防関係の教育機関で研究されている。

近年では、イラク戦争での米軍の"en:Shock and awe"(衝撃と畏怖)作戦が、『孫子』『戦争論』を参考にしたといわれている。


[編集] 現代戦略理論との関わり
現代の戦略理論であるゲーム理論で以下のことが証明されている。すなわち、二人零和有限確定完全情報ゲームの解は、ミニマックス理論である。

孫子が主張するように勝利を目的に敵対する双方が、情報の収集をできるだけおこなう・戦力の集中などの工夫で戦闘結果の必然性を増す・冷徹な判断を行う・中立する組織への対応の工夫、などの戦争の合理性をとことん追求していくと、ミニマックス理論が成り立つような状況に限りなく近づいていく。

このように、孫子は現代戦略理論でも注目されている。


[編集] 『孫子』と日本

[編集] 日本への伝来
『孫子』が日本に伝えられ、最初に実戦に用いられたことを史料的に確認できるのは『続日本紀』天平宝字 4 年 (760) の条である。当時反藤原仲麻呂勢力に属していたため、大宰府に左遷されていた吉備真備のもとに、『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣されたことを記録している。吉備真備は23歳のとき奈良時代に遣唐使として唐に入国し、41歳で帰国するまで『礼記』や『漢書』を学んでいたが、この時恐らく『孫子』・『呉子』をはじめとする兵法も学んだと推測されている。数年後に起きた藤原仲麻呂の乱では実戦に活用してもいる。

律令制の時代、『孫子』は学問・教養の書として 貴族たちに受け入れられた。大江匡房は兵学も治めていたが、『孫子』もその一つであり、源義家に教え授けている。この時期は吉備真備のような例があるとはいえ、『孫子』などの兵学はあくまで理論・教養として学ばれたのみであって、積極的に実戦において試されたというわけではなかった。


[編集] 武士の受容
平安貴族に代わって歴史の主役に躍り出た武士たちも、当初は『孫子』を活用することは無かった。中世における戦争とは個人の技量が幅をきかす一対一の戦闘の集積であったためである。『孫子』のような組織戦の兵法はまだ生かされることは無かった[5]。しかし足軽が登場し、組織戦が主体となると『孫子』は取り入れられるようになっていく。幾人かの戦国武将には容易にその痕跡を見出すことができる。中でも、武田信玄が軍争篇の一節より採った「風林火山」を旗指物にしていたことは有名である。


[編集] 兵学の隆盛―近世―
徳川幕府が天下を治めるようになる時期と兵学と呼ばれる学問が隆盛を迎える時期は合致する。天下泰平の世には実戦など稀であるが、かえって戦国時代に蓄積された軍事知識を体系化しようとする動きが出てきた。それが兵学(軍学)である。それに比例して『孫子』を兵法の知識体系として研究する傾向が復活する。そのため江戸時代には50を超える『孫子』注釈書が世に出るのである。これには中国からの刺激も影響している。たとえば中国明・清両時代に出た注釈書が日本に伝わり、覆刻されている。劉寅の『武経直解』や趙本学の『孫子校解引類』(趙注孫子)が有名である。また日本人の手になるものも多くでた。林羅山『孫子諺解』や山鹿素行『孫子諺義』、新井白石『孫子兵法択』、荻生徂徠『孫子国字解』、佐藤一斎『孫子副註』、吉田松陰『孫子評注』らのものが代表的であるが、このうち素行と徂徠のものは特に有用といわれている。


[編集] 近代以後
明治以降、日本は近代的兵学としてプロシア流兵学を導入し、それに基づき軍事力を整えていった。しかし『孫子』の研究は途絶えることなく、個人レベルで読み継がれていったのである。たとえば日露戦争においてバルチック艦隊を破った東郷平八郎の丁字戦法採用の背後には、『孫子』の「逸を以て労を待ち、飽を以て飢を待つ」(軍争篇)のことばがあったと言われる。

しかし時代が下るにつれ、海軍・陸軍ともに『孫子』が学ばれることは少なくなっていく。近代的兵学に圧倒されていった為である。武藤章陸軍中佐が「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」(『偕行社記事』1933年6月)を発表しているものの、研究が盛んであるとはいえない状況であった。しかも武藤はクラウゼヴィッツを「戦争の一般的理論を探求して之を演繹し或は帰納して二三の原則を確立せんとす」と結論づけ普遍性があると批評するのに対し、『孫子』に対しては、その書かれている内容は遙か以前の、中国国内のみを対象としているため「普遍性に乏しき憾あり」と述べ、前述のリデル・ハートとは逆の感想を抱いていることが読み取れる。

学問的世界では近代的な考証が積み重ねられ、『孫子』の真の著者は誰かといったテーマが日中共に上記のように論じられた。そんな中で1972年に山東省銀雀山から、『竹簡孫子』や『孫臏兵法』が発見されたことは大きなニュースであり、これにより大きく研究が進展したのである。

戦後は、『孫子』が復権し教養ブームに乗って広く読まれるようになり、現代でも(ビジネスなどの戦略においても)通用するとされ、解説書が数多く出版されている。

ウィキクォートに孫子に関する引用句集があります。ウィキソースに孫子兵法(簡化文字版)の原文があります。
[編集] 脚注
^ 「孫子十三編の作者」『武内義雄全集』第7巻、角川書店、1979年、ISBN B000J8H722
^ ただし明末兵学の大家茅元儀の『武備志』にも収められいる。
^ フランシス・ワン仏訳・小野繁重訳・重松正彦注記『孫子』葦書房、1991年、ISBN 4751200305。
^ レイモン・アロン著・佐藤毅夫ほか訳『戦争を考える−クラウゼヴィッツと現代の戦略』政治広報センター、1978年、pp395-416 並びに 川村康之『戦略論体系2クラウゼヴィッツ』芙蓉書房出版、2001年、p329。
^ ただ南北朝時代、楠木正成や北畠親房は『孫子』を学んだという逸話が残っている。

[編集] 参考文献

[編集] 注釈書
金谷治訳『新訂孫子』岩波書店〈岩波文庫〉、2000年、ISBN 4003320719
町田三郎訳『孫子』中央公論新社〈中公文庫BIBLIO〉、ISBN 4122039401
浅野裕一訳『孫子』講談社〈講談社学術文庫〉、1997年、ISBN 4061592831
郭化若訳注・立間祥介監訳・韓昇・谷口真一訳『孫子訳注』東方書店、1989年、ISBN 4497882489
杉之尾宜生編著『戦略論体系1 孫子』芙蓉書房出版、2001年、ISBN 4829503025
湯浅邦弘訳 『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 孫子・三十六計』 (角川文庫ソフィア 2008年12月)
守屋洋訳 『孫子の兵法』三笠書房〈知的生き方文庫〉、1984年11月、ISBN 4837900186

[編集] 研究書
加地伸行編『孫子の世界』中公文庫、1993年、ISBN 4122019931
浅野裕一『孫子を読む』講談社現代新書、1993年、ISBN 4061491636
佐藤堅司『孫子の思想史的研究―主として日本の立場から』風間書房、1962年、ISBN B000JALBO0
河野収『竹簡孫子入門』大学教育社、1982年、ISBN B000J7CYAS
マイケル・I. ハンデル著・防衛研究所翻訳グループ訳『戦争の達人たち―孫子・クラウゼヴィッツ・ジョミニ』原書房、1994年、ISBN 4562025069
中島悟史『曹操注解孫子の兵法』朝日新聞出版・朝日文庫 2004年

[編集] 外部リンク
孫子の世界
『魏武帝註孫子』原文平津館刊顧千里摸本
「孫子の兵法」名言集
錬平館 孫子十一家注孫子
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)" より作成
カテゴリ: 孫氏 | 兵法書 | 軍事学 | 心理戦
 

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