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【「永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」】(濁った霞ヶ関・マスコミに埋もれている鉄山が立ち上がる時です)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 5 月 14 日 13:35:45: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E9%89%84%E5%B1%B1
永田鉄山
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永田 鉄山
1884年1月14日 -1935年8月12日

生誕地 長野県諏訪郡
死没地 東京都
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1904年 - 1935年
最終階級 陸軍中将
指揮 陸軍省軍務局長
表・話・編・歴
永田 鉄山(ながた てつざん、明治17年(1884年)1月14日 - 昭和10年(1935年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任し、陸軍省軍務局長。階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。

目次 [非表示]
1 略歴・人物
2 エピソード
3 年譜
4 伝記
5 関連項目
6 外部リンク


[編集] 略歴・人物
長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。

郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小学校)、東京牛込北町・愛日高等小学校を経て、明治31年(1898年)9月に東京陸軍幼年学校に入校する。なお、高島尋常小学校・諏訪高等小学校では「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級であり、同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があった。

明治36年(1903年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第3連隊付となる。明治37年(1904年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を卒業し、陸軍歩兵少尉に任ぜられる。

明治41年(1908年)に陸軍大学校(23期)入校。明治43年(1910年)11月に陸軍大学校を2位(首席は梅津美治郎)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。他の同期に蓮沼蕃、前田利為、猪狩亮介、入江仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎。

その後、大正9年(1920年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。大正10年(1921年)10月頃、陸士同期である小畑敏四郎、岡村寧次や一期下の東條英機と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す等の「バーデン・バーデンの密約」を行なったという。

以後、麻布歩兵第3連隊長を勤めた後、昭和5年(1930年)に陸軍省軍事課長となる。さらに南次郎陸軍大臣の下で、国家総動員法の策定に関わる。昭和7年(1932年)に陸軍少将に昇進。

昭和9年(1934年)に陸軍省軍務局長となる。昭和10年(1935年)7月15日に真崎甚三郎教育総監を更迭。同年7月19日に有末精三中佐の紹介により歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐と面会し辞職を迫られる。同年8月12日、その相沢に軍務局長室で斬殺された(相沢事件)。死亡時は陸軍少将であったが、特に陸軍中将に昇進される。墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。

永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、後に皇道派の青年将校が二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決していき太平洋戦争に至る。

企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と言っていた。

「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われた英才であった。


[編集] エピソード
陸軍大学校の試験の間際、優秀な永田は一人で悠々と科目外の中国語をやっていた。それを見た同期の小畑敏四郎が「俺たちが惨めすぎるから、せめて勉強のマネでもしてくれないか」と永田に懇願したという。


[編集] 年譜
明治37年(1904年)
10月 - 陸軍士官学校卒業(16期首席)。
11月 - 少尉に昇進。歩兵第3連隊補充大隊附。
明治39年(1906年)1月 - 歩兵第58連隊附。
明治40年(1907年)12月 - 中尉に昇進。
明治44年(1911年)11月 - 陸軍大学校卒業(23期)。
明治45年(1912年)5月 - 教育総監附勤務(第1課)。
大正2年(1913年)
8月 - 大尉に昇進。
10月 - ドイツ駐在(〜1914年8月)。
大正4年(1915年)
3月 - 俘虜情報局御用掛。
6月 - デンマーク駐在。
11月 - スウェーデン駐在(〜1917年9月)。
大正6年(1917年)11月 - 臨時軍事調査委員。
大正8年(1919年)4月 - 少佐に昇進。
大正10年(1921年)6月 - スイス大使館附武官。
大正12年(1923年)
2月 - 参謀本部附。
3月 - 教育総監課員。
8月 - 中佐に昇進。
10月 - 陸軍大学校教官(兼任)。
大正13年(1924年)
8月 - 歩兵第50連隊附。
12月 - 陸軍技術本部附、軍事課高級課員、陸軍大学校教官(兼任)。
大正14年(1925年)6月 - 国本社評議員嘱託。
大正15年(1926年)
3月23日 - 陸軍兵器本部附(作戦資材整備会議幹事)。
10月1日 - 整備局動員課長。
昭和2年(1927年)3月5日 - 大佐に昇進。
昭和3年(1928年)3月8日 - 歩兵第3連隊長。
昭和5年(1930年)8月1日 - 陸軍省軍事課長。
昭和7年(1932年)4月11日 - 少将に昇進。参謀本部第2部長。
昭和8年(1933年)8月1日 - 歩兵第1旅団長。
昭和9年(1934年)3月5日 - 陸軍省軍務局長。
昭和10年(1935年)8月12日 - 相沢三郎中佐に刺殺される。中将に昇進。

[編集] 伝記
志道保亮 『鉄山永田中将』、昭和13年
永田鉄山刊行会編 『秘録永田鉄山』芙蓉書房、昭和47年
川田稔 『浜口雄幸と永田鉄山』講談社選書メチエ、平成21年(2009年)
 


[編集] 関連項目
相沢事件

[編集] 外部リンク
永田鉄山略歴 諏訪護國神社
相沢事件 (永田軍務局長斬殺) / クリック 20世紀
表・話・編・歴二・二六事件

対立 皇道派:荒木貞夫 - 真崎甚三郎 - 小畑敏四郎※
統制派:永田鉄山※ - 東條英機※ - 池田純久 - 片倉衷
(※は陸軍からの薩長閥排除を目指した「バーデンバーデンの密約」参加者)

主な首謀者 野中四郎 - 安藤輝三 - 栗原安秀 - 中橋基明 - 村中孝次 - 磯部浅一 - 北一輝 - 西田税

主な被害者 岡田啓介 - 松尾伝蔵(死亡) - 高橋是清(死亡) - 斎藤實(死亡) - 鈴木貫太郎 - 渡辺錠太郎(死亡) - 牧野伸顕

関係者 昭和天皇 - 西園寺公望 - 川島義之 - 本庄繁 - 香椎浩平 - 山下奉文 - 広田弘毅

関連項目: 相沢事件 - 軍部大臣現役武官制 - 昭和維新 - 五・一五事件

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