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【journal、友愛革命】(少し気恥かしい友愛と過激な革命という言葉は、小泉ハゲタカ改革ノーの旗印に丁度いいです)
http://www.asyura2.com/09/lunchbreak21/msg/273.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 5 月 29 日 11:27:44: 4sIKljvd9SgGs
 

http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2009/05/post_279.html
わがリベラル・友愛革命
鳩山由紀夫氏(民主党代表)

 高野さんには、私の言う「愛」「友愛」について本サイトで解説して頂きありがとうございます。

 その中で言及されている、私が『論座』96年6月号に寄稿した論文「わがリベラル・友愛革命」は、当時、新党さきがけの代表幹事を務める一方で、その約半年後の旧民主党結成に結実する新党運動に邁進していた中で執筆したもので、副題に「若き旗手の政界再々編宣言」とあるように、私の新党への思いの丈を表して多くの心ある方々に結集を呼びかける檄文の意味を持つものでした。それから13年、ご承知のような経緯で図らずも民主党代表の責を負い、目前に迫った総選挙で必ず政権交代を果たすべく戦いを進めている今、私の持論である「リベラル・友愛革命」について広く国民の皆様にご理解頂くことが何より大切なことだと考えております。

 その後13年間の経験や思索を踏まえて、近々改めて友愛精神についてより発展した形で論ずるつもりでおりますが、ここでは取り敢えず、13年前の論文のうち当時の政治状況や政策課題について触れた部分を出来るだけ除外し、「友愛」について原理的に語っている部分を取り出して、要約を作成しました(資料1)。またその私の考えの元となっているのは祖父・鳩山一郎の「友愛革命論」で、それを示す祖父が1952年に書いた短文も添えますので(資料2)、併せてご一読の上、ご意見等お寄せ頂ければ幸いです。

 なお、《資料1》の……は1〜数行省略、*は1〜数段落省略、●小見出しは原文のままです。《資料2》では旧漢字を新漢字に置き換えました。

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《資料1》わがリベラル・友愛革命——鳩山由紀夫(『論座』96年6月号より、要旨)

 リベラルは愛である。私はこう繰り返し述べてきた。ここでの愛は友愛である。友愛は祖父・鳩山一郎が専売特許のようにかつて用いた言葉である。自由主義市場経済と社会的公正・平等。つきつめて考えれば、近代の歴史は自由か平等かの選択の歴史といえる。自由が過ぎれば平等が失われ、平等が過ぎれば自由が失われる。この両立しがたい自由と平等を結ぶかけ橋が、友愛という精神的絆である。

 世界の多くの国々に比べ、はるかに経済的に恵まれた環境にあるにもかかわらず、口を開けば景気の話ばかりする日本人は、最も大切なものを失っている気がしてならない。多種多様な生命が自由に往来する時代に、相手との違いを認識し許容する友愛精神は共生の思想を導く。弱肉強食と悪平等の中間に位置する友愛社会の実現を目指して、そして精神的なゆとりが質の高い実のある「美」の世界をもたらすと信じつつ、政治家として青臭いとの批判をあえて覚悟の上で一文を認めることにした。

 スペースシャトル「エンデバー号」で宇宙を飛んだ若田光一飛行士は、地球を眺めながら何を思ったことだろう。そして日本を見付けたとき何を感じただろうか。地図には国境があるが、実際の地球には国境が存在しないということを、どのように実感しただろうか。宇宙意識に目覚めつつあるこの時代に、国とは何なのか、私たちは何のために生きているのかを、いま一度考え直してみるべきではないか、政治の役割をいま見つめ直す必要があるのではないかと思う。とくに昨今、言論の府であるべき国会が自ら言葉を放棄してしまうなかで、国会議員の一人であることに痛烈な恥ずかしさを覚えながら、それでも政治家であり続ける覚悟であるならば、いかに行動すべきかを厳しく問いただしてみたい。

          *

 政治家が政治家であり続けたいという執着から解放され、政治家を捨てる覚悟で臨むならば、そして自分が今何をなすべきかを純粋に問い直すとき、恩讐を超え、政党間の壁を越えることは決して難しいことではないと信じている。問題は政治家を捨てる覚悟ができるかであるが、あとで申し上げる友愛革命の原点は、政治家にとってはまさに政治家を捨てる覚悟にほかならない。

 初中からとは残念ながら言えないが、私も職業上、空から日本の国土を眺め下ろす機会は多い。そのようなとき、ふと日本はだれのものかと考えることがある。何げなく私たちは、日本は日本人の所有物だと考えている気がするし、その暗黙の了解のもとに各種政策が遂行されているように思われてならない。

 しかし、思い上がりもはなはだしいと言うべきだろう。日本には現在、135万人の外国人が住んでいる。日本の人口の1パーセント強である。内訳は、韓国・朝鮮人が約半数の68万人、中国人が増えて22万人、ブラジル人も4年間で3倍近くの16万人、以下フィリピン人、米国人、ペルー人と続く。

 まず、他の国々に比べて外国人の比率がかなり低いこと自体が大いに問題である。これは外国人にとって、日本は住みにくい国であることを物語っている。米国に留学した経験から、米国は異邦人に住みやすい国だと実感している。外国人は必ずしも米国人のホンネに深く入り込むことはできないし、潜在的な差別意識もないとは言えないが、それでも基本的に「開かれた社会」であることが外国人を米国びいきにするのだろう。語学習熟の困難さも手伝っているが、日本に来ている主としてアジアの留学生が、概して日本嫌いとなって母国に帰るのと大きな違いである。国際化といっても形式にしか過ぎず、日本人の心はけっして外国人に開かれていない。

 この環境のもとで、高知県の橋本大二郎知事が一般事務職員の採用に国籍条項をはずすことを主張されているのは、誠に注目に値する。案の定、自治省が強く抵抗していると聞く。閉じた日本の風土からは当然の反応なのだろうが、地方分権の声が泣く。また新党さきがけの錦織淳議員が中心となって、定住外国人に対して地方参政権を与える問題に取り組んでいる。これに対しては自民党からの反発が強く、議論が停止した状況になっている。

 私などはさらに一歩進めて、定住外国人に国政参政権を与えることも真剣に考えても良いのではないかと思っている。行政や政治は、そこに住むあらゆる人々によって運営されてしかるべきである。それができないのは畢竟、日本人が自分に自信がないことの表れである。日本があらゆる人々の共生の場となるために、日本人の自己の尊厳が今こそ尊重されなければならない。

 実は、人間中心主義の考え方そのものが思い上がりであり不遜なのである。この世の中には人間だけでなく、動植物などの生命体と水や空気や鉱物などの非生命体が存在している。人間以外を自然とか環境とかひとくくりにして、自然保護とか環境保護とかを唱えているが、その言葉自体がおこがましいのである。

 まず、自然の有するエネルギーがしょせん人間には計り知れない規模であることに畏怖の気持ちを抱き、自然と共に生かされているという感謝の気持ちで行動する原点に戻らなければならない。人間が物質的豊かさの虜になり、自然を制圧し都合良く自然をデフォルメするために英知を駆使するようになって以来、自然のバランスは破壊された。天然記念物はそれなりに大事にするが、そこいらに咲く草木は切ってもいいという発想は間違いである。むしろ、どこにでもある種ほど、エコロジーのサイクルのなかで役割を担っているとも言えよう。

 不可逆過程の行き着く先は命なき世界であることを認識するならば、経済社会活動に以下にエコロジカルな意味での可逆過程を組み入れていくかにこそ、最大の英知が注がれなくてはならない。国内的には、国民意識の啓発上からも環境税の導入が検討されるべきであり、地球的には南北間の調和が図られなければならない。地軸が南北両軸を結んでいる以上、東西問題は人為的、刹那的であり、南北問題は自然的、永久的である。したがって南北間の対立は今後さらに熱を帯びてくるが、この解決にあたっては南が経済的に北に追随する速度以上に、北が環境において南を支えていくことが不可欠となる。人間と自然との共生は、また南北間の共生でもある。

●美の国・日本を復興したい

 私がゴルフをあまり好まないせいかもしれないが、機上から眺め下ろしていくつものゴルフコースが視界に入るとき、バブルの爪で国土が抉り取られてしまったような誠に悲しい心持ちになる。……別にゴルフに恨みがあるのではなく。象徴的に目に入るので申し上げたのだが、国土が経済活動の食い物になってしまった顕著な実例である。もっと遡って考えれば、戦後日本の経済成長が歴史的に日本人が最も大切にしてきたもの、すなわち美徳を奪ってしまったのではないかと感ずるのである。

 私は、日本の政治が、そして日本人が呼び戻さなければならない最大の価値は「美」だと信じている。友愛の提唱者でもあるクーデンホーフ・カレルギー伯は、日本を美の国と呼んだ。彼の著『美の国』には次のようなことが記されている。

 古代ギリシャ・ローマ時代の道徳は美を基盤としていた。そして神学に基盤を有する「善と悪」の対立の代わりに、美学を基盤とする「気高さと卑俗」という対比が生まれた。プラトンは倫理的な価値と美学的な価値を一致させていった。一方で、孔子の儒教は理の原理を基盤としており、それは調和、換言すれば美を基盤としていることになる。孔子の理想も気品の高い人間にあった。ところがヨーロッパでは、キリスト教の布教とともに宗教的、神学的倫理観が勝るようになり、中国では共産党の思想が儒教を破った。結果として、日本が儒教に基づく美的倫理観を有する唯一の大国となったのである。

 日本をほとんど書物のみで理解されたクーデンホーフ伯のことゆえ、やや美化されすぎているきらいもあるが、日本には少なくともかつて武士道に見られるように、「美」を尊ぶ精神が強く存在していたことは事実である。

 第2次世界大戦に勝利した米国が日本の武士道精神の復活を恐れたこと、そして敗戦後の日本を急速に立ち直らせるために導入された欧米型経済合理主義が実に見事に機能したことにより、経済的価値が美的価値を浸食し、「美」に対する倫理観が日本社会から消失してしまったのではないかと考える。経済合理性から外れた価値が捨象され形骸化してしまったことが、日本の今日的不幸ではないかと想像する。

          *

 議会制民主主義の基本である論争という美的倫理が欠如している現在の日本の国会の現状は、きわめて重症と言わざるを得ない。美的倫理観の欠如は、しかしながら何も政治に限らず、卒業より入学重視・知識偏重の学校教育、責任回避の論理渦巻く官僚制度、住専に見られる常軌を逸した金儲け主義の業界など見渡す限りである。私は日本を今一度「美の国」に戻すため、美の心と友愛の精神を基軸に、日本の政治を根底から見つめ直して参りたい。

 過日、「フォーラム日本の進路」で講演された隅谷三喜男先生は、日本人に哲学がなくなったと慨嘆されていた。確かにそのとおりだと思う。厳しい政治不信のなかで、一見甘すぎると批判を覚悟のうえで、あえて私は美的倫理観と友愛精神を自分の人生の原点、いわば哲学と捉えて行動していきたいと考えている。

          *

●さきがけの否定も恐れない

 私たちは3年ほど前、武村正義を代表とする新党さきがけをたち上げた。一人ひとりの決断による結集であったが、共通する心は、四方が保身的な政界のなかで、自分たちは保身的行動から解放されたいという願いであった。政財官の甘えの構造にぬるま湯のごとき心地よさを感じながら、必死に誘惑と闘い、そこから抜け出す決心であった。身動きの取れない日本の政治・経済・社会・行政に一石を投じ、機構改革のさきがけにならんとの覚悟であった。新党さきがけ結党の日に、10人の同志が見せた満面の笑みは、しがらみから解放された喜びであった。この日の喜びの表情を、再び取り戻さなければならない。

 私は今でも、社会全体の根本的な改革を期待している国民は多いと信じている。否、ますます潜在的には増えていると思っている。では、なぜ国民の期待感が伝わってこないのか。なぜ私たちから喜びの表情が消えてしまったのか。それは、事実であるかどうかはともかく、改革を唱える国会議員の声は純粋に国民のことを思って発されているものでなく、結局のところ自分たちの政権獲得のため、選挙のためであり、本気で行動する覚悟などない、と国民に確信されてしまったことに尽きる。

           *

 私は、党の存在が否定されることを恐れない。……この3年間の総括として政治家の信頼回復のために政治家がなすべきことは、一片の政策を示すことではなく、選挙を恐れず信念に音付いて行動する勇気、覚悟を示すことであると確信している。

●政治家を捨てる覚悟

 すでにさまざまなところで述べたことだが、私は友愛精神の本質は自己の尊厳の尊重にあると説いている。宇宙の中で生かされていることに感謝し、偶然ではなく必然としてこの世に生かされている自分自身の可能性に目覚め、自己の尊厳を高めることに最大の努力を払う。自己を高めて始めて他者に優しく振る舞うことができる。自愛が利他を生む。意見を異にしてもそれを許容し、品格を信頼し友情を結ぶことができる。これが友愛精神である。

 日本人は議論下手である。それが議論のない形骸化した国会を生んでいる。政治家はしばしば、議論が合わないと相手の品性を疑い、憎悪の感情を持つ。政党や派閥の離合集散が、政策よりも愛憎の感情でなされるゆえんである。相手を許すことができないのは、自分に自信が欠如しているからである。55年体制という言葉が批判的響きを持つようになったころから、最も自己の尊厳を喪失した職業は、残念ながら政治家であったのだろう。

           *

 今政治家に最も求められているのは、自己の尊厳の回復である。端的に言えば、政治家を捨てる覚悟である。この覚悟を持った同志の結集が日本の明るい未来を開くと信じたい。これが友愛革命である。

           *

 戦後50年の経済発展の陰で蓄積されてきた膿とツケを後世に残さぬために、私たちは膿をかい出して治療し、ツケを支払うよう最善の努力をせねばならぬ時期にいる。美的倫理観に基づき先憂後楽の発想で臨むことが、今に生きる政治家の務めである。この作業は、選挙を恐れていては叶うはずがない。ややもすると近視眼的になりがちな人の心に、その人々に選挙の洗礼を受ける者が、より遠くを見、視野を広げることを勧めることは容易ではない。しかし、自己を高め、そこの正義を見いだし、政治家を捨てる覚悟さえあれば、自然体のまま歴史の変曲点で舵をとることができよう。

●リベラル合同を成し遂げる

 今ここに新たな政治潮流を起こさなければならないと決意している者が、個の自由と責任のもとに一人ひとりの決断によって党派を超えて集合、協力するシステムの構築が、保身的行動との対比において求められているのである。それは個の自由による連合であり、リベラルを友愛、すなわち自己の尊厳の尊重と解すれば、「リベラル合同」と呼ぶことがふさわしいであろう。

           *

 戦後50年の延長上に、私たちは日本の未来を見いだすことができない。その鍵は、この50年間の経済発展とともに固定化されてきた政財官の相互もたれ合い構造から脱却しうるか否かにあり、それは政治の場からの解決しかあり得ない。したがって政治が未来の扉を開き得るかは、政策の善し悪し以前に国民に厳しい選択を強いる「志」を政治家が持つか否かにかかる。

 かつて、さきがけが試みたように、いま一度私たちは「志」の確認を図っていかねばならない。新たな政治の流れは自己の尊厳の確立と共生、すなわち自愛と利他というデュアルメッセージに基づく友愛リベラリズムであり、その形成は保守合同に対比して「リベラル合同」と呼ぶことができよう。

「リベラル合同」への道程は、基本的に一人ひとりの決断によって拓かれていくべきであり、それは単に政党の構成員を規定するばかりでなく、政党のあり方や政策、さらには政党間の連携も規定していくことになる。個の自由がより保証される姿として、柔軟性のあるネットワーク構造が求められていく。そのことによって人間は、人為的な国益、省益、企業益といった既得権益の壁を乗り越え、市民益と地球益の重要性に気づくことになろう。この友愛リベラリズムが科学的論理性という美意識も含めて、日本が失っていた美的倫理観に裏打ちされるとき、真に日本人らしい政治が生まれるものと確信する。▲


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《資料2》友愛革命論——鳩山一郎『ある代議士の生活と意見』(1952年刊所収、全文)

 歴史というものは、よく味わってみなければならない。時によってはにがく、時によっては厭な舌ざわりを感ずる場合もある。が、眼をおおってはだめだ。よくあじわう必要がある。味わって、再びあやまちを犯さないようにすれば良薬である。

 私たちの過去は、一たび外交と内政のよろしきを誤れば、その結果がおそろしいことになる——という事実を雄弁に物語っている。これは貴重な歴史の教訓である。これからの外交と内政のなかに、十二分に生かして行かなければならない。そうしてゆく責任もある。

 大体、日本を破局におとしいれた原因はかずかずある。一つに止まるものではない。しかし、その大きな原因として、政党政治が国民の信頼をうしなったこと、そのために軍閥政治が台頭したこと、ついに議会政治が没落したことを、私は大きな原因であると考えている。だからこれからは、なにはおいても、政党も健全な発達による議会政治を中心に、外交と内政を展開してゆかなければならないと思う。一口にいえば、デモクラシーの堅持である。だがこれにも方法がある。なぜ、戦時中日本が、デモクラシーをまもりえなかったかをしらねばなるまい。英国をみるがいい、長い議会政治の伝統が、おのおのの生活のなかに、自然に浸透し、融合しているのだ。だから現実に足のついたものになっている。そうなればけっして、全体主義・共産主義の理屈にごまかされはしない。決して簿婦緑野専断の入りこむよちはあたえないのだ。

 したがって私は、これからは現実の生活にゆきわたったデモクラシーを主張したい。デモクラシーというものを、現実の生活のすみずみにまでも滲透させたい。

 なるほど今の日本を考えてみれば、米軍の占領期間中、民主主義の洗礼は受けた。いろいろな制度が、デモクラチックに改革はされ、形だけはととのえることができた。しかしそれが、現実の生活に即した、身についたものになっているかというと、けっしてそうとはいいきれない。意識するしないは別として、まだ生活のある断面には、昔のさめはてぬ悪夢のあとがのこっている。アンシャンレジウムの痕癖がある。もちろんアンシャンレジウムの好さはのこしておいてよい。美しい伝統としてとどめておくべきだ。が、悪いものは払拭しなけばなるまい。そのぬぐいさらなければならないはずの悪いものがまだのこっている。それをのぞくことが大切だ。そしてデモクラシーを、生活のはしばしにまで滲ませて、身についたものにしなければならない。これが日本にあたえられた、これからの宿題であると思う。

 宿題をはたすために——まず私たちは、身の周辺のことをみつめたい。私は追放中に、友情の尊さ、ありがたさというものを、しみじみと感じた。追放中といえば、私の逆境時代である。よい環境にいるあいだは、巧いことをいって、寄ってくる人が多いが、一たび逆境におかれると、離れていく人が多い。手を翻せば雨となり、手を翻せば風となる——である。遂にこれ悠々行路の心と、「長安主人の壁に題す」という中国の詩もうたっている。こんなのは、いうまでもない非人情である。人でなしの世界である。しかし、こういうことでは民主主義をつくりあげることはできない。民主主義の基礎は友情である。友情の一つ一つを、煉瓦のように、しっかりとつみ重ねてこそ、立派な民主主義の殿堂が築きあげられるのである。

 友情というもの——私はこう思っている。人間誰しも、自分をいとおしむ気持がある。そうした自分にたいするのとおなじ愛情をもって、他の人に接触してゆくこと——これが友情である。読書する時間もあまりない私だが、時にふれ折にふれ、「孟子」を読む。孟子はこんなことをいっている。

 ——人は誰でも、人に忍びざる心がある。たとえば今、井土に落ちようとする赤ン坊がいるとすれば、誰でもがこれを救おうとする。その時の心は、べつに赤ン坊を救って、人に感謝されようなどという気持はない。ほめられようなどという名誉欲もない。つまり真心があるがゆえに、赤ン坊を救うことになったのである。つまり人には忍びがたい真情があるのである。——

 孟子はこの真情を惻隠の心といっている。惻隠の心は仁の端である。言葉は違うけれど、こと真情が友情にもつうじている。友情にもやはり、利害打算があってはならない。自愛と愛他、わけへだてない感情が友情の真髄である。丁度、エマースンが、人間と人間の交際を、独立国と独立国との交際のように考えたらいい——といっているとおりである。この友情がなくては、現実の生活にぴったりした民主主義は、とてもできないのだ。

 さらに民主主義を身についたものにするためには、智がなくてはいけない。知識を欲し、知識をもとうという気持がなくてはならない。それがないとしたら、これは衆愚政治の世のなかになってしまう。知らしむべからず、依らしむべし——という、民の愚かさのうえに立っていたのは、徳川幕府の政治、つまり封建政治であった。智がなくては、封建的な政治が横行する。また、独裁政治をまねく。戦時中はどうだったろうか。国民はアメリカの軍事力や経済力の知識をもたなかった。日本の軍事力や経済力にたいする知識もあたえられなかった。無智にされていたのである。この無智のうえに、独裁政治がなり立っていたわけだ。

 どうしても民主主義には、智が必要である。だから私は一時、健康がゆるすならば、全国をひろく遊説して歩きたいと思ったことがある。いろいろな世界の情勢その他をしらせ、国民のめいめいに、知識をもってもらいたいと思ったからである。

 とまれこの友情と智がありさえすれば、民主主義的な楽しい生活ができる。そうした生活ができさえすれば、そこの社会にはおのずから、音色の高い民主主義のハーモニイが鳴りひびくことになるであろう。

 先だっての8月12日、私は日比谷公会堂で、政界復帰後はじめての公式演説をした。たまたま立候補の演説会にもなった。その冒頭、私は友愛革命ということをいった。

 ——新日本は、新憲法のいしずえたる民主主義が理想としてかかげる自由主義をよく理解し、同胞たがいに相愛して友愛革命に一致結束して邁進すれば、政治は明朗となり、産業は振興し、職なき者なく、働きえざる人には社会保障の十分な施設をなしえて、日本はかつての日本よりもさらに明朗な繁栄した国になると信じている。

 と話したが、こと友愛革命ということも、要するに友情と智の問題である。友情と智を両輪とした民主主義政治の確立、このための改革を目ざして、私は友愛革命というのである。べつにむずかしい言葉ではない。私の日頃思うところの現実的な考え方を、そう呼んだのである。▲

投稿者: ニュース・スパイラル 日時: 2009年05月29日 09:45 | パーマリンク
 

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