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【平清盛、赤服の童子】(小泉チルド・マスゴミ・宦官、またブッシュからみた小泉など、馬鹿馬鹿しいくらいそっくりです)
http://www.asyura2.com/09/lunchbreak28/msg/298.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 10 月 01 日 13:35:28: 4sIKljvd9SgGs
 

http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/heike01_03.html
平清盛
登場人物:平清盛、平家一門、禿(かぶろ)


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 忠盛が死んだあとは嫡子の清盛が跡目を継ぎました。平家物語では清盛を悪者にしているような気がします。清盛にも清盛なりにドラマがあったとは思うのですが、それはおいておいて、清盛のうしろ姿をおってみたいと思います。

 清盛は一一五六年の保元の乱で手柄をたてます。安芸の国守から播磨の国守に出世しました。一一五九年の平治の乱でさらに手柄をたてます。たび重なる働きに報いるために正三位に叙されました。宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言を経て内大臣になりました。左右の大臣を経ずに内大臣から太政大臣従一位になります。近衛大将ではありませんでしたが家来を召し連れることを許されて、牛車輦車(れんしゃ)の宣旨をもらい車に乗ったままで禁中に出入りしました。まさに摂政関白のような勢いでした。太政大臣は天子の師範であり天下の手本となるべき人物です。しかるべき人物がいなければ「則(すなは)ち闕(か)けよ」(誰も任命しなくてもよい)と言われ、「則闕官(そくけつのかん)」とも呼ばれました。清盛は一天四海を掌中に治めたので誰も異論を唱えることはできませんでした。

 平家がこのように栄えたのは熊野権現のご利益と言われています。清盛がまだ安芸の国守のときでした。熊野に参詣するために伊勢の国の阿濃津から舟に乗りました。そのときに大きな鱸(すずき)が舟のなかに飛び込んできました。案内人が「昔、周の武王の舟に白魚が飛び込みました。こんどのことは熊野権現のご利益と見えます。つつしんで召し上がりください」と告げました。殺生などをせずに精進しながら参詣する道の途中でしたが清盛が自ら調理しました。清盛は自分も食べて一門や家来たちにも食べさせました。そのためでしょうか、吉事ばかりが続いてついには太政大臣にまで上り、一門の官途昇進は竜が雲に昇るよりも勢いがありました。

 清盛は五十一歳のときに病気をします。命を長らえるために出家して入道になりました。法名は浄海と名づけられました。そのためでしょうか病気はすぐに治り天命をまっとうしました。清盛が出家したのちも平家の勢いは止まりません。六波羅殿一門の公達だとさえ言えば大臣大将をだすような名門貴族も肩を並べて歩くことを避けて正面から対峙する人はいませんでした。清盛の義兄の時忠(ときただ)は「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし」とまで言いました。人々はこぞって一門の縁に取り入ろうとします。

 いつの世にもかたわらに寄り集まって嫉みや悪口を言う人たちはいるものですが、清盛の時代には、そのようなことを言う人すらいませんでした。と言うのも、清盛は十四から十六までの童子たちから三百人を選び出して都に解き放ちました。童子らは赤い服を着て、髪の毛を禿(かぶろ)に切りそろえていました。童子たちは、平家の悪口を耳にしたら仲間じゅうに触れ回り、悪口を言った人間の家に乱入して資財を没収し、六波羅までひきたてました。大路をいく牛車さえも童子たちを避けて通るしまつです。心ある人が平家の横暴を見かけても誰も口に出して言う人はいませんでした。

 清盛のみならず平家一門は栄華の極みにありました。

嫡子:重盛(しげもり)−内大臣左大将
次男:宗盛(むねもり)−中納言右大将
三男:知盛(とももり)−三位中将
嫡孫:維盛(これもり)−四位少将

 平家一門で公(大臣)と卿(納言、参議、三位以上)は合わせて十六人、殿上人は三十余人、受領や衛府などの全国の官職にいたるまで平家以外には人材がいないかのような勢いでした。聖武天皇の時代に大将がおかれてから兄弟で左右の対象を占めた例はわずかに数回あるだけです。それも摂関家の家柄に限ったことでした。平家物語の語り手は、殿上での交わりを嫌われたような人の子孫が兄弟そろって左右大将に並ぶなど、「末代とはいひながら、不思議なりし事どもなり」と感慨していました。

 清盛には八人の娘がいました。それぞれに幸せに暮らしていました。

 一人は桜町の中納言藤原成範(しげのり)の奥方になるはずでしたが、それは八歳のときに約束していただけでした。平治の乱の後に状況が変わります。花山院の左大臣である藤原兼雅(かねまさ)の奥方になっていました。多くの子どもをもちました。ちなみに、藤原成範は藤原道憲(信西)の三男であり、「桜町の」と呼ばれるようになったのにはいわれがあるようです。藤原成範は風流を好む人で、いつも吉野の山を心に浮かべていました。付近の土地に桜を植えてその中に邸宅を建てて暮らしました。「来る年の春毎に、見る人、桜町とぞ申しける」とありました。桜は七日目に散ってしまいますが、藤原成範は名残を惜しんで天照大神に祈りました。すると桜は二十一日まで名残をとどめたそうです。

 一人は后になりました。二十二歳のときに高倉天皇の皇子を生みます。皇子は、皇太子になり、やがて、安徳天皇になります。院号を与えられて建礼門院と呼ばれました。

 一人は六条の摂政殿と呼ばれた藤原基実(もとざね)の奥方になりました。高倉天皇の在位中は皇子(安徳天皇)の母がわりとして准三后の宣旨を受けて白河殿と呼ばれました。准三后とは、太皇太后、皇太后、皇后の三后に准ぜられる位です。

 一人は藤原基実の子である藤原基通(もとみち)の奥方になりました。藤原基通は出家して山城国の普賢寺に隠棲したので普賢寺殿と呼ばれます。

 一人は冷泉大納言の藤原隆房(たかふさ)の奥方になりました。

 一人は七条修理大夫の藤原信隆(のぶたか)の奥方になりました。

 厳島神社の巫女を母とする一人は後白河法皇に仕えて、高位の女官である女御のような地位にありました。

 九条院で雑役をつとめる常盤という女官を母とする一人は花山院で高位の女房をつとめていて「廊の御方」と呼ばれました。

 「日本秋津嶋」はわずかに六十六カ国しかありません。平家が支配する国は三十余国にのぼり半数を超えます。平家の勢いは天皇や上皇をもしのぐように見えました。

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平家物語のあらすじと登場人物
 

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