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日中戦争は、昭和12年8月13日の、蒋介石の「中央軍」による、日本海軍陸戦隊への総攻撃で始まった。「盧溝橋事件」ではない
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/114.html
投稿者 TORA 日時 2009 年 5 月 05 日 12:53:34: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu191.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日中戦争は、昭和12年8月13日の、蒋介石の「中央軍」による、日本
海軍上海陸戦隊への総攻撃で始まった。「盧溝橋事件」ではない。

2009年5月5日 火曜日

◆技術戦としての第二次世界大戦 /兵頭二十八/著 別宮暖朗/著
http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/31965235.html

◆『兵力差が圧倒的だった昭和12年』 2008年11月12日 年輪
http://yhsvtex.blogspot.com/2008/11/12-12-1939.html

まさしく前回、『技術戦としての第二次大戦』を紹介し、その後書き部分の一部だけを少し触れた。

ここでは、ノモンハンへ入る前の、日本が、何度も何度も自重して中国大陸への陸軍派遣をためらった揚げ句、蒋介石の攻撃に耐えかねて軍をすすめた昭和12年のあたりから、章だての順番にしたがって見ていきたい。

ちょうど昨日、国会で「日本は侵略国家ではなかった」との骨子の論文を書いた元航空幕僚長の田母神氏の国会での「参考人」質疑があったばかりである。

軍学者の兵頭氏が、第二次世界大戦は1939年のヒットラーによるポーランド侵攻によって始まったのではない、という書き出しで始まっている。
『昭和12年(1937年)8月13日の、蒋介石の「中央軍」による、日本海軍上海陸戦隊(しゃんりく)への総攻撃で始まった。これは1928年に諸国が合意したパリ不戦条約のれっきとした違反であって、支那側の侵略である。』

私はこのことをここ一年ほど前に別の手段で知ったばかりである。もちろん、最近の中国における日本大使館がデモ群衆に取り囲まれ、狼藉を受けて、中国側は窓ガラスの修理もしない、などという類いの範疇ではなく、すでにアメリカと内通していたであろう蒋介石の正規軍が、ドイツ製武器を豊富にそろえ、国際法上問題のない、しゃんりくへ軍事攻撃を仕掛けてきたのである。

ある人は、これを中国軍が先に侵略したから、日本軍による正当な反撃を受けたのである、と書いていたが、ウロコが1枚はがれた思いであった。

『それに対して昭和12年の7月の「盧溝橋事件」は「侵略」でも「開戦」でもなかった。___というのが『軍事史からみた「南京事件の真実」で展開された別宮先生の説得力あるご主張でしたね。』とある。

これを受けて、別宮氏も、ライシャワー元駐日大使(夫人は日本人)もほぼ同様の趣旨の見解を自伝の中ではっきりと示しているという。

『そうなると、支那事変は日本の侵略であるどころか正義の自衛戦争であって、まさしく「暴支」を「膺懲」したものにほかならなかったわけだ。しかるにそれが、あたかも日本の侵略のように戦後の歴史の教科書で教えられてしまっているのですけれども、いったい誰のせいなんですか?』とあって、ここ数日の騒ぎで何も田母神論への正式な反論がなかっただけに、やはりふだん日本人がクサイものにフタ式に避けているように思われる空間の重い存在に突き当たる。

『中国側の米英に対する宣伝上手と、正反対の日本人の宣伝下手のおかげでしょうね。中国軍の侵略を受けて、日本政府がすぐに宣戦布告できなかったのも、事を歴史的に曖昧にしてしまいました。そしてその後の日本の歴史家と文部省(日教組!?)がまた、、事実の究明を怠ってきたのです。』などとなっている。

昭和12年当時、蒋介石は南支を中心に最大で300万もの兵員動員が可能と見積もられ、当時日本はその1/10にしか最大でもならず、相手側に勝算あっての開戦だったろうと、推測している。

レマルクの「西部戦線異状なし、Im Westen nichts Neues」でも知られるように、1914?1918年の第一次世界大戦が立証したところでは、鉄条網と機関銃で守りを固めた塹壕陣地に正面から接近突撃してくる敵部隊は、いかに精兵の大軍であっても大損害を蒙るだけで、決して勝てないものだそうである。それで、せいぜい数十万の日本軍が来たとしても勝手に自滅してくれるにちがいないと、大胆にも敵は踏んでいたのだろう、とこの本の二人は推測している。

支那軍は、ドイツ製の武器やヨーロッパ製の他国の武器を装備し、(チェッコ軽機、モーゼル大型拳銃など)で、軍事顧問には、第一次大戦の塹壕戦の経験者ののファルケンハウゼンだった、という。ワイマール共和国ドイツの参謀総長で、「現代のモルトケ」とまで言われた男であったという。

対する日本側は、陸士9期の荒木貞夫と同16期の小畑敏四郎(としろう)が、ファルケンハウゼンとおなじ東部戦線に、ロシア側観戦武官として派遣されていて、ロシア側のブルシロフ戦法こそが今後の歩兵戦術の主流になると直感して、すでに報告しているそうだ。

その後、この方法は連合軍の間でも周知となり、下士官のイニシアティブによる分隊(プラトーン)戦法が、先進各国陸軍の主流になっていった、という。

1937年の上海決戦、つまり上海周辺の大規模な塹壕突破戦と、南京に向けた掃討戦は、日露戦争での奉天開戦刺の大規模なものだという。

ドイツの職業軍人が設計した陣地に、国府軍の主力、中央軍をよりすぐった88師、87師などの将兵が配されて、日本陸軍は7個師団半20万人で戦ったという。(後に2個師団、5万を増派)

国府軍は25個師、33万人ぜークト線後方を含めると、75万人を南京から上海の間に集中していた、という。

蒋介石軍は、第一次大戦では通用した陣地構築をしていたが、松井岩根大将の率いる日本陸軍は、浸透戦術という新戦法で、爆弾3勇士の時の一面突破、全面展開ではなく、多面突破を行い、強固な陣地の後ろから攻めることができたという。25万の兵力が25万以上の戦死というという被害を与えたことは、にわかに信じがたいことでしょう、と記述している。

トーチカの中の機関銃に、自ら鎖でつなぐような士気の高いシナ兵たちもいた、というが、トーチカの銃眼を正確に狙える水平砲などの存在も大きかったらしい。

ドイツ人参謀たちは、日本軍が浸透戦術をとれるなどとは予想もしていなかったし、シナ人の「侮日」はポーズでなく本心だったから、負け出すとシナ兵たちは袋のネズミだった、とある。

あと、日本軍の手りゅう弾は、攻撃あいずぐらいにしか使えず、敵の手りゅう弾でそうとう被害を受けたとか、38式歩兵銃は、時代遅れと思われがちだが、500メートル以上の距離では、米軍の7.62ミリ弾より高速であった、などという指摘も。爆竹文化のシナ兵には、なるたけおおきい音の出る兵器でないと、心理的な威力がなかったとか、・・・・。38式歩兵銃は日本の武器の中で最も成功した輸出製品でもあった、という。第一次大戦中にロシアに100万挺以上、イギリスに30万梃以上で、評判もよかった、という。アラビアのロレンスは、灼熱のネジド砂漠で、ボルシェビキは極寒のロシアで使用したが、いずれも敵軍に勝利している、という。

38式歩兵銃は、1600メートルでも頭蓋骨や馬の脚を砕く性能があった、という。
もっとも、この戦いで、舗装路のほとんどないシナの大地を思い砲を引かされた軍馬はあわれで疲労でバタバタ倒れた、といい後は人力で運ぶしかなかった、ともいう。敵の逃げ足が速くて、とあるが、日本兵の進軍も速くはなかったかも。


(私のコメント)
連休もいよいよ終わりが近づいてきましたが、高速道路が1000円という事でドライブに出かけても渋滞に捕まって大変なようです。だから連休中は本でも読んでいるのが一番いいのですが、巨大書店に行って見ましたが意外と空いている。日曜日になると客でぎっしりとなるのですがカウンターに並ばずに本が買えた。そこで買ったのが「技術戦としての第二次大戦」という文庫本ですが、斬新な見方をしている。

MSIMEでは「にっしじへん」と入力しても正しく漢字変換されない。「しな」という入力でも正しく変換されない。MSIMEは日本で作られているのではなくマイクロソフトの中国支社で作られているから、「しな」は禁句で変換辞書には入っていないようだ。だから日中戦争と呼びますが、日中戦争は日本の教科書では盧溝橋事件で始まったと書いていますが、盧溝橋事件は国境トラブルであり7月11日には収まっている。

それでも日中双方の動員は行われ緊張状態となりましたが、にらみ合いの状態であり、これが日中戦争の開戦とはいえないだろう。本格的な日本軍と中国軍との戦闘は上海の日本海軍陸戦隊への攻撃であり、これが日中戦争の始まりだ。つまり日中戦争は中国軍の一方的な攻撃によって始まったのであり、盧溝橋事件の後も25日の朗坊事件や26日の広安門事件など起きているが、中国側の日本軍への襲撃事件で、29日の通州事件も起きていますが知る人は少ない。

ネットで詳しく調べれば分かる事なのですが、日中戦争の始まりは第二次上海事件であり、蒋介石がドイツから軍事顧問を呼び寄せて精鋭部隊を作り上げていた。8月3日には日本軍は天津治安維持委員会に救済資金十万元を伝達しているが、戦争中のこのような事が行なわれるはずがない。本格的な日中戦争の勃発は8月14日の中国軍の航空機による日本軍艦艇への攻撃が戦争の始まりであり、それまでは日本軍は不拡大方針だった。

日本では日支事変と言いますが、日中双方とも戦争とは言わず宣戦布告もしていない。戦争になればアメリカなどから戦略物資が入らなくなるから戦争とはいわずに事変と呼んだ。しかし第二次上海事変の後は明らかに戦争だ。「株式日記」でも以前に書きましたが、上海事変が起きても大本営は不拡大方針であり、石原莞爾作戦部長は上海の在留邦人を引き揚げる事を主張した。ところが時の海軍大臣の米内光政は主戦論を主張して戦争は拡大していった。

当時の日本にとってはソ連が一番の脅威であり、中国との戦争は日本軍の規模からして無理なのであり、だから軍部も不拡大方針でいた。しかし当時の国民世論は通州事件などの残虐事件が相次いで、日本軍は中国の挑発事件に乗る形で戦争が始まったのだ。ところが歴史教科書を始めとしてNHKの一連の歴史物でも日本が始めた事になっている。


◆「日中戦争、日本より中国に戦意」 『週刊新潮』’09年1月15日号 櫻井よし子
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/15/

中国とナチス・ドイツ

そうではない。中国はかつても戦争を熱望していた。日中戦争は日本よりも、むしろ中国が望んでいた。中国は日本よりも戦争をしたがっていた。こう強調するのは林思雲氏だ。氏は北村稔氏との共著『日中戦争』(PHP研究所)で書いている。

「当時の(つまり、1920年代から30年代の)日本は、決して戦争の方向をコントロールしていなかった。中国側において自発的に日本と戦おうとする意思が高まっている状況では、たとえ日本が戦争を拡大したくなくても、中国側は日本と全面戦争を開始したであろう」と。

氏はさらに続ける。
「日中間の大規模な戦争が開始された本当の発端は、1937年の8月13日に発生した第二次上海事変である。そしてこの戦闘は、正しく中国側から仕掛けたのである(この日、蒋介石は上海に駐屯していた5千人余りの日本海軍特別陸戦隊に対する総攻撃を命令した)」

中国の主戦派は以下の理由で対日勝利を確信していたと林氏は指摘する。@中国軍は人数において優る(中国陸軍は191個師団、加えて1,000万人の徴兵が可能だった。日本は17個師団、兵力は25万、徴兵は最大で200万人)。A日本は資源が貧弱で、中国の「寄生虫」にすぎないから、経済断交によって容易に日本を締め上げることが出来る。B列強諸国は中国側に立っている。

にも拘らず、たとえば06年8月13日放送のNHKスペシャル「日中戦争―なぜ戦争は拡大したのか」などに見られる日本側の歴史解釈は、日本の主戦派にのみ責任を帰結させ、中国側にはなんの関係もなかったとする。そこには、「傲慢さが含まれている」と林氏は断ずるのだ。

日中戦争は、決して日本の主戦派だけが遮二無二進めた侵略戦争ではない、むしろ中国が望んだ戦争だったという刮目すべき氏の指摘は、当時の中国社会、国民党、共産党、コミンテルンの動きなど幾多の具体的な事実によって支えられている。

『日中戦争』には、もうひとつ、中国とナチス・ドイツの相互扶助という驚くべき事実が描かれている。

同書第3章の北村氏の記述をざっと纏めてみると?-。日中戦争勃発以前からドイツは国民党に多くの軍事顧問を入れ、駐華ドイツ大使のトラウトマンは活発に日中仲介に動いた。これらの事実は周知だが、この和平斡旋の背景にナチス・ドイツと中国の軍備刷新をめぐる驚くべき緊密な関係が存在したというのだ。

1920年代後半から蒋介石はドイツから武器装備を調達したが、1933年、ヒトラーが政権を握ると、中独武器貿易は急増した。前述した上海の日中攻防に、ドイツは74名の軍事顧問を派遣し、中国軍をドイツ製武器で武装させ、ドイツ式の防衛陣地を築かせて、日本と戦った。ドイツの軍事援助の見返りに、中国は自国のタングステンなど希少金属を提供したというのだ。

日中両国の逸史

タングステンの硬度は非常に高く、武器製造に欠かせない。ドイツにタングステンは産しないが、中国は現在でも世界産出量の9割を誇る。北村氏が強調する。

「国民党政府が提供したタングステンがドイツの軍需産業を支えたのであり、これにより生み出された軍事力がヨーロッパでのドイツの勢力拡大を可能にした」

ヒトラーは1936年に中国に1億マルクの借款を与えた。中国は同借款を活用し、5年間、毎年2,000万マルク相当の武器を購入。一方で、10年間にわたって毎年1,000万マルク相当分の鉱物資源をナチス・ドイツに提供すると合意した。

中国とナチス・ドイツのこの緊密な協力関係は、中国側の歴史資料では殆ど扱われていない。理由を北村氏は、「『日本のファシズム』を抗日戦争により打倒したと主張する国民党には、『日本のファシズム』の盟友で『歴史の罪人』となったナチス・ドイツとの親密な関係は、第二次大戦後には『触れてはいけない過去』になった」からだと、解説する。

一方、この事実が日本で殆ど取り上げられてこなかったのは、日本の歴史研究では「『日本の侵略戦争』を批判することが大前提」となっており、その「大前提に立つ限り、『日本の侵略戦争』と戦った中国の国民政府がナチス・ドイツの軍需産業の発展に大きく貢献し、この軍需産業の発展がナチス・ドイツのヨーロッパ侵略の原動力となった事実は、『説明できない歴史の皮肉』である」からだと喝破する。

日中戦争はひたすら日本の侵略戦争だったという日本に蔓延する見方が、どれほど偏ったものかを痛感させられる指摘である。年毎に明らかにされる一連の事実を正視し、全体像を踏まえた歴史認識を身につけることが、日本にとっての急務なのだ。

中国は、かつてそうであったように、日本を圧倒する力を保有すると、彼らが思い込み始めたいま、何が何でも攻め、戦うという姿勢を崩さない。日本人の私たちは、いい加減に目を醒まし、中国の本質を肝に銘じるときだ。


(私のコメント)
第二次上海事変はファルケンハウゼンのドイツ軍事顧問団と蒋介石の軍と日本軍との戦争であり、質量ともに中国軍が勝っており、上海周辺には強固なトーチカが建設されて日本軍はその罠にはまって大損害を受けるはずだった。当時のドイツは中国に取り入って武器などを輸出して中国の利権を得る勢力が優勢であり、日中を戦わせて漁夫の利を得ようとしていた。


◆「ドイツ軍事顧問団とヒトラー」 月刊Will 2008年1月号 古荘光一
http://news-hassin.sejp.net/?eid=764376

シナにいたドイツ軍事顧問団が「武器ビジネス商団」であったことは知られていますが、彼らは、日独伊防共協定によってシナへの武器取引の一切を停止しようとしたヒトラーの指示に慌てふためくわけです。

ビジネスがオジャンじゃねーか

というわけです。

蒋介石にドンドン武器を供給して、日支全面戦争になればまさに武器証人の天国であります。
そのあともう一歩というところでヒトラーの「ストップ」。

軍事顧問団という商団はなんとかヒトラーを翻意させようと「日本軍の蛮行」というストーリーを本国に伝達するために蒋介石を活用し、見たことの無い「日本軍の蛮行」を編纂しヒトラーの対日判断を覆そうとしたわけです。

だからフィッチの文書にも意味もなく「武士道批判」が展開されます。
これはヒトラーが対日感情を良くした原因の一つに武士道を評価したという事があったからなのですがこういう風にボロがでるわけです。
また、ラーベの日記のラーベも武器政商であり、そしてラーベ自身がナチ党員であったわけですがラーベが南京に残ったのは「難民救済」という美談でもなんでもなくヒトラーに日独伊防共協定を止めさせるためにラーベ報告書や、マギー牧師が撮っていない薫機関製「マギーフィルム」などを国民党と共同で作成し、本国へ送るためだったのです。
でラーベが反ナチではないことをゲシュタポに弁明するための証拠として
「ラーベ」日記が準備されたのであります。
(引用ここまで)

ドイツ軍事顧問団の長だったファルケンハウゼンという男はとんでもない奴で、勝手に対日全面戦争プランを作成してこれに向けた陣地構築や兵器の調達を行い、1935年頃から、しきりに蒋介石に対日戦争の開始を迫っていました。また、このファルケンハウゼンと蒋介石に取り入り、「ハプロ条約」に基づく独支間の莫大な軍需取引の受注を狙っていたのが政商・ジョン・ラーベでありました。

石根さんが指摘するとおり、日支全面戦争は「ドイツの戦争屋」達が密かに期待するところだったのです。

しかも、ファルケンハウゼンの対日戦争プランとは、上海または北京・天津地区の日本人居住区(条約に基づく特権区域)に対する、大兵力による奇襲先制攻撃=つまり侵略による租界回収なのでありました。

上海が実際に総攻撃を受けるのは1937年8月13日ですが、蒋介石が攻撃を決断したのはその約1ヶ月前、7月19日前後と推測されます。

実は、ファルケンハウゼンは7月21日に南京のドイツ大使館を通じて蒋介石の開戦意図が確定的であることを本国に報告しており、ドイツ外務省は1ヶ月後に上海が攻撃されることを知っていたはずです。しかしドイツはこれを隠蔽し上海攻撃を黙認したばかりか、軍事顧問団の召還すら行いませんでした。

これは明白な敵対行為・主権侵害行為であり、この時点で日独防共協定は破棄すべきでした。 ドイツ大使トラウトマンを通じた和平工作が成功しないのは当たり前です。仲介者が「日支全面戦争→日本の敗北」を密かに望んでいるわけですから、こんな交渉で蒋介石が折れる訳ありませんね。

因みに、中国軍が停戦協定を無視して組織的に支那駐屯軍を攻撃し、北支事変が拡大するのは7月20日以降です。中国保安隊による通州日本人虐殺事件は7月末ですが、これも中国側の資料によれば南京政府の指令による「蜂起」です。多数の一般市民が惨殺され、東京の目が北支に向けられている隙に、上海は大部隊に包囲され、ファルケンハウゼン・プラン通りの「先制攻撃」を許すことになりました。

そんなわけで、近年では「北支事変の拡大は、蒋介石が上海攻撃の意図を隠匿するためにとった陽動だったのではないか?」という有力な指摘があります。


(私のコメント)
このように日本とドイツとは防共協定こそ結んでいましたが同盟国ではなかった。ナチスドイツの中にも親中反日のナチ党員がおり、ファルケンハウゼン中将やジョン・ラーべなどが反日工作をしていた。南京事件を扱ったジョン・ラーべの映画が公開されていますが、ヒトラーと日本とを離反させる為の工作も行なわれていた。日中戦争はコミンテルンの陰謀という見方もありますがナチスドイツの陰謀でもあった。

まさに当時の状況は魑魅魍魎としており、蒋介石はコミンテルンからもナチスからもアメリカからも支援を受けて戦争していた。中国という巨大市場に世界中が目が眩むのも昔も今も変わらない。このように第二次上海事変を見ればナチスと蒋介石との仲は親密であり、ナチスドイツと日本との代理戦争だったのだ。


 

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