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【四元義隆・田原総一朗対談】「戦後五十年の生き証人」が語る 中央公論1996年4月 
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/211.html
投稿者 提供人D 日時 2009 年 10 月 04 日 04:22:11: zjIwxfdYJcbls
 

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「やはりリーダーが間違うと国家全体が間違うということだ。まずトップがよくならなければだめなんだ」

四元義隆(よつもと・よしたか) 明治四十一年(一九〇入年)鹿児島県生まれ。第七高等学校卒。東京帝大法学部中退。昭和七年(一九三二年)の血盟団事件に連座し入獄(懲役一五年)。昭和十五年(一九四〇年)恩赦で出款後、近衝文麿、鈴木貫太郎のプレーンとして活躍。農場経営を経て三十年(一九五五年)から田中清玄の後を継いで三幸建設工業株式会社社長に就任。
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この人物には資料というものがまるでない。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、そして細川護煕まで、戦後歴代首相の指南役として、この人物についての神話・伝説の類は少なからずある。
中曽根康弘首相は、その在任中、週末になると東京・谷中の全生庵で坐禅を組んだが、それは四元義隆の指示によるものだといわれている。
吉田茂が池田勇人に送った手紙の中にも、何度か四元義隆の名前があって、政治の結節点で、彼が両者を結ぶ何らかの役割を演じていたらしいことがわかる。だが、彼の役割がいかなるものだったのかは皆目わからない。資料の類がまったくないのだ。
一体、歴代首相は四元義隆にどんなことを求めたのか。四元義隆は、なぜ歴代首相に重用されたのか。そもそも四元義隆とはいかなる人物なのか。 まったく資料のない、つまり手がかりにならない神話ばかりにいろどられた人物へのインタヴューは難しい。
しかも彼は、いきなり″僕は、マスコミに出るのは昔から大嫌いだ。出たって何もしゃべらない。何もしゃべらないから僕の存在理由がある″のだと言った。 その人物にインタヴユーするとは、まことに矛盾した作業だが、いざ話しはじめると、たちまち四元の世界に引き込まれた。八十七歳とは思えぬ、エネルギッシュで迫力のある話し方だった。  
(田原総一朗)
http://www.kamou.co.jp/keiten/yotu/yotu1001.html
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松岡洋右がいかん

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昭和七年(一九三二年〕、井上準之助元蔵相、団琢磨(だんたくま)三井合名理事長が相次いで暗殺されるという血盟団事件が起こる。血盟団は井上日召(いのうえにっしょう)を指導者とし、国家革新のため一人一殺を唱えていた。四元義隆は東大法学部時代、上杉慎吉(うえすぎけんきち)の国家主義団体・七生社に加わっていたが昭和5年に安岡正篤(やすおかまさひろ)の金鶏学院に入ったとき井上日召と知り合い、血盟団に参加。牧野伸顕内大臣を暗殺する予定であった。四元は昭和九年に懲役一五年の判決を受けたが昭和十五年に出獄した。 
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田原 今年(平成七年一九九五年)は戦後五十年ですが、あの戦争をどう考えていますか。やむを得ない戦争だったのですか。
四元 世の中の出来事は、すべて「やむを得ん」で起こるんです。「あれよ、あれよ」という間に、やむを得ん道を辿るものなんだよ。
田原 どこで道を誤ったのですか。
四元 それは神様でもわからんわな。まして一書生の僕にはわからない。ただ、僕が出獄して間もなく、近衛文麿内閣のときですが、鎌倉山の近衛さんの別荘で、二人きりで三時間ほど話したことがあるんです。その折り、「松岡洋右(ようすけ)がいかん」という話になった。
田原 当時の外務大臣ですね。
四元 彼こそは日本を戦争に導いた男だよ。近衛さんも最初は期待して入閣させたわけだが、僕が「松岡はいかん」と強調したので、近衛さんはいったん総辞職して松岡を切った。私だけじゃない、細川護貞(もりさだ)(当時:首相秘書官)や富田健治(当時・内閣書記官長)もそう思っていた。何がいかんといって、彼は私心しかない男なんです。
彼が日独伊三国同盟を結んで、得意になって帰国したとき、僕は三上卓(みかみたく)と代々木にあった松岡邸を訪ねたんだ。彼は三時間もとうとうと一人でしゃべっておったな。「この部屋で、スターマー(当時・駐日ドイツ大使)と同盟を結んだんだ」とか、みんなはったりだった。日本のためでもドイツのためでもない、自分が有名になるために、あんな同盟を結んだだけだったんだ。

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三上阜(一九〇五〜七一年)は元海軍中尉で五・一五事件の首謀者の一人。昭和十三年仮出所した後、翼賛体制青年連盟を結成。昭和三十七年、三無(さんむ)事件事件を起こし、池田内閣閣僚や要人の暗殺を企てた。
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田原 四元さんは、近衛さんと親しかったそうですが、近衛さんはあの戦争でどういう役割を果たされたんですか。
四元 担がれただけで、内心では「戦争はいかん」と思っていたでしょうね。それは陛下も同じだった。陛下と近衛さんは不離一体だったから。
田原 昭和天皇も近衛さんも戦争はいけないと思いながら、止めさせることができなかったわけですか。
四元 政治は力です。当時は軍がいちばん力を持っていた。だから、だれも戦争を止められなかったんだろうね。

http://www.kamou.co.jp/keiten/yotu/yotu2.html
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ずば抜けた総理だった鈴木貫太郎

田原 昭和二十年八月十五日に日本は降伏するわけですが、当時、四元さんは鈴木貫太郎総理大臣の秘書でしたね。
四元 あの内閣には深くかかわっていたんです。
 僕は出獄して以来、一日も生きていようと思ったことはない。人を殺し、同志をたくさん失って、なんで生きておれるか、という気持ちだった。だから、怖いものは何もない。それで、昭和十七年ころから、「東條(英機)内閣は潰さないかん」と思っていた。
田原 なぜですか。
四元 日本がだめになるからだよ。あのまま軍国主義が続いていたら、今の日本はなかったよ。そういう軍国主義の日本の道を開いたのが東條なんだ。(壁の額を指して)「狂人走不狂人走(大徳寺・清巌宗謂[せいがんそうい])」。一人の狂人が走ったから、狂人でない人間まで走った。一人の狂った独裁者のために、日本中が戦争へ突き進んだんだ。
 そんななかで、僕や三上は、「このままでは日本はいかん。なんとかして戦争をやめさせよう」と思って、重臣を片っ端から当たったんだ。でもだめな人たちはかりだった。岡田啓介(海軍大将、元首相)などは「東條でいいじゃないか」と言い出した。彼には憲兵の監視がついていたから、そんなことを言ったんだな。三上と二人で「もう二度と来る必要はないな」と言い合ったよ。
 で、最後に鈴木貫太郎をたずねた。すると、ことごとく意見が一致したんだ。「この戦争をやめなければなりません。そのためには東條を早く辞めさせるべきです」と言うと、「そのとおりだ」と答えてきた。そのとき、隣の部屋に警視庁の人間が来ていて、われわれの会話を全部書き取っていたらしい。ところが鈴木さんは耳が遠いものだから、大きな声で話す。われわれが「注意されたほうがいいですよ」と申し上げると、「今、話したことはみんな本当のことだ。広がって結構じゃないか」と言った。さすが、岡田とは違っていた。
最後に鈴木さんは「自分は枢密院議長だ。陛下のご諮問がないのに、『東條が悪いから更迭しろ』と申し上げることはできない」と言った。僕が「普通の時ならそうでしょう。だが今は非常時です」と言ったら、「いよいよ非常時がくれば、そういうことはあり得る」と否定しなかった。
勇気のある人だなと思ったね。鈴木邸を辞してから、僕と三上の結論は、「この人は本物だ。国のためになる立派な重臣だ」ということだった。

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・鈴木貫太郎(1867〜1948年)は海軍大将。昭和4年に予備役編入後、侍従長兼枢密顧問官・議長として昭和天皇に長く仕える。昭和二十年四月、小磯国昭内閣の後を受けて首相となり、本土決戦を唱える軍部を抑え、二度の御前会議という非常手段で日本を終戦に導いた。
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 ところで、当時僕は特高につきまとわれていた。二四時間ついている警部がいたんだ。その男が朝早く僕のところに釆て「明日、あなたを逮捕しに来るかもしれない」と言う。「どうしてだ」と聞くと、「鈴木貫太郎さんのところに行って、こんな話をしたでしょう」。全部そのとおりなんだ。当時、東條を非難する怪文書が出ていて、その中身と、僕たちが鈴木さんと話し合ったことが、ほとんど一致していた。それで警視庁では「四元と三上を引っ張ろう」ということになったらしい。そのとき、その警部は「彼らは怪文書など出す人間じゃない。実行しかない人たちだ」と反対したらしい。で、二、三日しても一向に逮捕しに来ない。聞くと、彼が僕のところに来た翌日に真犯人が捕まったそうだ。
で、僕は師の山本玄峰(やまもとげんぽう)老師と鈴木貫太郎さんを会わせようと思い、老師のお供をして鈴木邸に行ったんです。

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山本玄峰(一八六五〜一九六一)は禅僧。熊野権現で拾われ二十歳まで養育されたが、眼疾となり死に場所を求めて諸国を放浪し、土佐雪蹊寺の山本太玄に救われて得度。大正四年に三島の龍沢寺の師家となる。昭和二十二年に臨済宗妙心寺派管長。
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 玄峰老師が真先に言われたのは、「こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある」ということでした。鈴木さんも「もうひとつの疑いもなく、すぐやめないかんでしょう」と、意見が一致したんですょ。その帰り、車の中で玄峰老師は、「もう大丈夫だ。こういう方がおるかぎり、日本は大丈夫だ」と言いましたね。 
ただ、まさかそのわずか十数日後に、鈴木さんに大命降下するとは思わなかった。その頃、鈴木さんと、総理にはだれがいいか、話し合ったことがある。僕は「国を本当に心配する重臣が総力を挙げて協力する内閣でなければなりません。それには近衛さんがいいんじゃないですか」と言った。鈴木さんもうなずいていた。四月五日の重臣会議で次の総理をだれにするか決定されたわけですが、迫水久常君(鈴木内閣書記官長)に後で聞いたところでほ、鈴木さんは近衛さんを推し、近衛さんと平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)さんは鈴木さんを推したそうですね。
結局、鈴木さんに決まり、組閣が始まった。僕も組閣本部にいたんですが、鈴木さんという人は、閣僚にすべき政界の人間をだれ一人知らないんだな。ほとんど岡田啓介の進言で決めていたようでした。書記官長を決めるときなど、鈴木さんが「左近司(政三。海軍中将)君でどうだ」と言ったんだそうだ。左近司さんは海軍軍人で政治のことは何も知らない。だから迫水は「左近司さんがなるなら、自分がなったほうがいい」と買って出た。すると鈴木さんほ「それでいい」と決めたようです。
 鈴木貫太郎総理は、とにかくずば抜けた総理でした。なぜ、僕がこんなに鈴木さんのことを言うかというと、今の日本を見ていると、戦時中の日本の軍国主義が行くところまで行ったときとそっくりだからなんだ。表面上は違うけれど、日本人全体が盲目状態に陥ったという点で同じなんですね。このままでは日本はどうなるか、という心配は、五十年前よりも奥が深いんじゃないか。そういう国家の危機に際して必要なのは、優れた人による「ワンマンルール」なんですよ。これは吉田茂さんの時代に、アメリカのシュレジンガーという学者が唱えた言葉で非常に流行ったけれども、鈴木さんは吉田さん以上に「ワンマンルール」の人だった。
実際、一人の人間の力が、歴史を変えることはあるんです。

http://www.kamou.co.jp/keiten/yotu/yotu3.html
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吉田茂との出会い

田原 その吉田さんと四元さんは深い関係にあったそうですが、どういう出会いをされたんですか。
四元 それが不思議な縁でしてね。近衛さんのブレーンに小畑敏四郎(おばたとししろう)という陸軍中将がいた。陸海軍を通じて最高の頭脳で、川上操六以来の参謀総長といわれた人だ。

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・ 小畑敏四郎(一八八五〜一九四七年)は陸軍中将。昭和初期、永田鉄山(ながたてつざん)ら統制派と対立する皇道派の中心人物として活躍するが、二・二六事件後、皇道派系勢力が粛清されるなか、予備役編入となった。戦後、東久邇内閣国務大臣。
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終戦の八月十五日、この小畑さんの家に泊まって話し合っていると小畑さんは「この人たちに会っておけ」と三人の名前をあげた。一人は自由党最高顧問の古島一雄(こじまかずお)、革新倶楽部の同志だった犬養木堂(毅)より上だと言っていたね。それから、自由党総裁の鳩山一郎。それと吉田茂。「外交官は腑抜けばかりだが、吉田は大和魂を持っとる」と。最初に古島さんと会った。たしかに立派な人だったね。その古島さんから吉田茂を紹介してもらったんです。

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・古島一雄(一八六五〜一九五二年)はジャーナリスト出身の政治家。犬養毅の国民党、革新倶楽部、政友会などに拠り、犬養を支える知将と言われた。大正十四年に引退。戦後、鳩山→郎の公職追放後に自由党総裁就任を求められるが、吉田茂を推薦。吉田の指南役として重きをなした。
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田原 で、吉田さんにお会いになったわけですね。印象はいかがでした。
四元 最初、小畑さんは「君は(血盟団事件のとき)牧野伸顕(吉田の義父)を狙ったんだよな。だから、吉田と会うのはどうかな」と漏らしていた。でも、今やもう何でもない、と思ったから堂々と会いに行った。本物だと思ったな。そのときの話のなかで牧野伸顕のこともちょいちょい出たけれども、本人は何のわだかまりも持っていなかった。腹の大きい立派な人だった。
田原 それはいつごろですか。
四元 東久邇(稔彦)内閣の外務大臣に就任する直前です。
あの内閣には僕も関係していたんです。東久邇内閣には小畑敏四郎さんが国務大臣として加わっていました。要するに戦前の反東條グループが集まったわけですね。あの内閣も二度ばかり危機があったけれど、それを乗り切ったのは小畑さんと、それから緒方竹虎さんの声望と人間性があったからです。緒方さんは惜しい人でした。吉田内閣の副総理で、いわば吉田さんの後継者だった。緒方さんも「吉田は僕の言うことは何でも聞く」と言っていた。

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・緒方竹虎(一八八八〜一九五六年)は戦前戦中、朝日新聞社副社長。昭和十九年に政界に転じ、小磯内閣の情報局総裁を務めた。戦後、東久邇内閣書記官長として「一億総懺悔」を唱える。昭和二十七年に自由党代議士となり、第四次吉田内閣の内閣官房長官兼副総理。吉田退陣後、自由党総裁となり、鳩山内閣の後継首班と見なされたが、急死した。
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田原 四元さんは、どういう資格で官邸におられたのですか。
四元 内閣嘱託だったかな。
田原 で、東久邇内閣の後、吉田さんが首相になります。吉田さんは四元さんと、いろいろな相談をされたそうですね。
四元 ほとんど忘れたな。吉田さんは負けん気が強くて、人に頭を下げる人じゃないけれど、吉田内閣ができて真っ先に行ったのは鈴木さんのところです。そこで鈴木さんは「負けたら負け振りを良くすることです」と言ったそうですね。だから、アメリカをあれだけ上手に使えたんじゃないかな。その話を吉田さんはときどきしていましたょ。 
晩年、大磯に会いにいったら、「大磯あたりにうろうろせんで、早く″中国征伐〃に行きなさい」と言ってたな。ちょうど毛沢東華やかな時代だ。
田原 中国征伐とは、つまり日中関係を作りなおすということですか。
四元 日中関係をいちばん重視していたということだろうね。たしかに、日中関係は、僕の残された唯一の課題だな。
田原 吉田さんが首相としていちばん苦労したのはどんな点ですか。
四元 アメリカのことでしょう。アメリカの圧政というか行き過ぎに対抗しつつ、上手に操縦し、日本を再建した。あの人はチャーチルと対等になれる人だ。アメリカ人の気質なんてあの人からみたら小さいですょ。人間の器が違う。
岸内閣末期にパリにいた吉田さんを訪ねたことがあった。一緒に帰るわけにはいかないから、二、三日ずらして帰った。吉田さんをオルリー空港まで見送りに行ったんだが、赤い絨毯の上を歩いてゆく後ろ姿が本当に堂々としていた。背の低いずんぐりした人だが、日本を代表する人だと思ったね。池田勇人や佐藤栄作とは格が違っていた。

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・吉田茂(一八七八〜一九六七年)が首相となったのは昭和二十一年。昭和二十二年の総選挙に敗れ下野するが、昭和二十三年、芦田均内閣の後を受けて再び首相となり、昭和二十九年十二月まで長期政権を維持。首相在任中にサンフランシスコ講和条約を締結、独立をかちとった。
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池田後継を決めたパリでの会談
田原 吉田さんの次が鳩山内閣ですが、四元さんは小畑さんの紹介で、鳩山さんには会ったのですか。
四元 鳩山だけには会わなかったんだ。
田原 なぜですか。
四元 会う機会がなかったんだろうね。
田原 その鳩山さんが、日ソ交渉でモスクワに行くとき、吉田さんはたいへん反対したそうですね。
四元 吉田さんは「ハトヤマ」と聞いただけで不快な顔をするくらいだもの。

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・鳩山一郎(一八八三〜一九五九年)は自由党結党時の総裁。昭和二十一年、公職追放となり吉田茂を後継に指名するが、復帰後は吉田とライバルとなり、昭和二十九年に脱党して日本民主党を結成、吉田退陣に追い込み後継首班についた。昭和三十年の保守合同で自由民主党総裁となり、同年、日ソ国交回復を実現させた。
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田原 岸信介さんも嫌いだとか。
四元 そうだ。

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・岸信介(一八九六〜一九八七年)は戦前の商工官僚。革新官僚として頭角を現わし、東條内閣の商工大臣。戦後A級戦犯として逮捕されるが、昭和二十七年に衆院議員として政界復帰。鳩山内閣成立に助力した。昭和三十二年、鳩山退陣後の総裁選で石橋湛山に敗れるが、石橋の病気退陣で首相となり日米安保条約改定に尽力する。いわゆる安保騒動で退陣。
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田原 先にお話に出た岸内閣の末期、四元さんはパリで吉田さんと会われた際、次の後継総裁をどうするか、話し合ったそうですね。
四元 出しゃばるつもりはなかったのですが、僕は池田勇人とは仲がよかった。佐藤とも仲がよかったんだが、二人はライバル関係にあった。で、池田が、パリで吉田さんに話をしてもらえないかと頼んできたんだ。次の総裁は池田だと僕も思っていたから、引き受けた。
 そのとき、「佐藤のところをどうしようか」とわざと言った。すると池田が「行かんでもいいんじゃないですか」と言ったが、僕はあえて佐藤のところに行った。「今夜、吉田さんに会いにパリに行く」と言ったら、佐藤は驚いていた。そして、「それは要するに、吉田の爺さんに、(後継者を誰にするかという)処方箋を書いてもらいに行くんだな」と言った。「そうだ」と答えた。
そこで佐藤が「それが四元処方箋にならんように頼むよ」と言った(笑)。僕は笑い飛はして「ばかなことを言いなさんな。吉田さんは、他人の言うことを聞くような人じゃないが、しかし、俺は自分の信ずるところは言う」と言った。すると、佐藤は「それは、結構」と言った。見直したな。あのとき佐藤のところに行かなかったら、その後の佐藤と俺との友情は続かなかっただろうね。
で、吉田さんから外務省に「ヨツモト、コイ」と電報を打ってもらって、すぐにパリに飛んだ。
田原 どんな話をしましたか。
四元 後継は池田がいいんじゃないか、ということだ。吉田さんも「そのとおり」と、一言も反対しなかった。

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池田勇人(一八九九〜一九六五年)は大蔵官僚出身。昭和二十四年、衆院議員に初当選後、吉田内閣の蔵相に就任。吉田学校の優等生として吉田を支えた。昭和三十五年に岸内閣の後継として首相となり、「所得倍増」「覚容と忍耐」などのスローガンで高度経済成長政策を推進した。
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田原 で、池田さんは後継総裁になるわけですが、池田さんが首相になって、日本の政治が大きく変わります。岸さんや鳩山さんは憲法を改正して再軍備しょうと言っていましたが、池田さんからは、「憲法改正」を言わなくなりました。
四元 それだけ池田が現実派だということですょ。僕も現実派だよ。憲法なんて上手に使えばいいんです。都合の悪いところだけ直せばいい。
田原 でも四元さんはもともと民族派、いわば右翼出身でしょう。憲法改正派かと思っていましたが。
四元 いや、僕は右翼じゃないです。あえて言えは、右のさらに右、左のさらに左。
田原 憲法は改正しないほうがいいと思ってますか。
四元 今はもう、いじらなくてもいいでしょう。
田原 で、池田さんの後の佐藤内閣は戦後最長内閣ですね。
四元 やっばり頭がいいんですな。中曽根よりはるかに頭がいい。
田原 頭がいいというのは……。
四元 先が見えるということでしょうね。頭のいい、悪いは一緒に食事をすればわかる。うまいものを食わして昧のわからん奴は頭が悪い。竹下は味がわかるな。彼は頭が悪くない。中曽根は頭がよくない(笑)。
田原 味がわからない(笑〕
四元 佐藤のほうがまだいいですね。
田原 そこが中曽根さんの魅力かもしれませんね。
四元 でも、もう魅力なくなったんじゃないかな。
田原 だめですか。
四元 佐藤孝行のような悪い奴を信用しているようではね。
佐藤栄作との話で面白い話がある。僕が吉田さんに岸のことを「糞土の牆(しょう)はぬるべからず」と言ったことを、彼が大蔵大臣になったときに話したら、佐藤は「焚き物ぐらいにはなるだろう」と言ったよ(笑)。彼も負け惜しみが強いから。でも、実の兄貴だからね、僕も悪いことを言ったよ。

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・佐藤栄作(一九〇一〜七五年)は岸信介の実弟。昭和二十三年、運輸官僚から政界に転じ、内閣官房長官、政調会長、幹事長、建設相として吉田を支えた。昭和三十九年に池田勇人の後継として首相となり、昭和四十七年まで長期政権を維持した。
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大平は田中より利口

田原 佐藤さんの後継総裁の田中角栄さんですが、たいへん力のあった政治家だと思いますが、四元さんはだめだそうですね。
四元 彼も私心の塊だからね。
田原 会ったことはありますか。
四元 まだ彼が土建屋出身の代議士だったころ、橋本龍伍(自民党衆歳院議、橋本龍太郎の父)が自分の弟分のようなことを言って紹介してきた。
田原 どんな印象でした?
四元 何もないな。少なくとも魅力は感じなかった。あるとき鹿児島で若い経済人たちと議論したことがあったんだが、僕が「あんな奴はすぐ刑務所行きだ」と言ったんです。2〜3年たって、僕の言うとおりになった〔笑〕。
 こんなことがあったょ。田中が三十代で郵政大臣になったころ、吉田さんが僕に「だれか、若い、いい代議士がいないか。田中角栄なんてちょっといいんじゃないか」と言うから、僕は「自分のことしか考えない、ろくでもない奴です」と言い切った。それから吉田さんは二度と田中の話を僕の前でしなくなった。その年の暮れ、僕のところにへんな鮭が送られてきた。開けてみたら、田中が吉田さんさんに送った鮭が転送されてきたんだ。「吉田さんも田中を卒業したかな」と大笑いした。以後、吉田さんは田中のことをぜんぜん口にしなかった。まあ、ああいう太っ腹な人だから、持ってきてくれた金は平気で使ったかもしれない。
 田中という総理を作った責任は佐藤栄作にあると思うけれども、岸の跡目を継いだ福田赳夫がしっかりしていたら、田中は出られなかったでしょうね。佐藤内閣の末期に、僕は「後継はどうするつもりだ」と聞いたことがある。すると佐藤は「福田」と答えた。昭和四十六年に福田を外務大臣にしたのも、彼を総理にする用意なんだ、と。そのくらい佐藤は一生懸命、福田を後継にしょぅとした。
 福田が凡才じゃなかったら、必ず総理になれたほずです。福田は総裁選で田中に負けた後、「毎日新聞」に「敗軍の将、兵を語る」という連載を書いた。
それを読んで、僕は福田と会って「あなたは、田中に負けたのは中曽根が自分の陣常に来なかったからとか、佐藤栄作がもう少しがんばってくれたら、と書いているが要するに福田赳夫がだめだから負けたんじゃないか。それ以外には何もない。それがわからなけれは、政治家として成り立たない」と言った。福田は頭を下げて、上げられない様子だったね。完全無欠な人間はいない。
だが、自分の弱さがわからないような奴には、本当の強さもわからない。何もないくせに自惚れだけが強い。だから人のせいにする。
 ともかく、佐藤は田中を後継にとは夢にも考えていなかった。そのことをいちばん知っていたのも田中だった。
佐藤栄作は後継首班に大蔵官僚出身の福田赳夫を望んだが、田中は、昭和四十七年の総裁選で、候補となっていた大平正芳、三木武夫との連合を組み「角福戦争」と呼はれた激しい選挙に勝利した。それでも、だれも福田が負けるとは思わなかった。僕も福田総理実現のため一生懸命やった。
で、結局負けた。大平正芳とかが、田中を担いだりしたからでもあるんだ。
大平も、田中と同種類の男ですが、利口ではあった。大平と話したことがあったんですが、中国は「井戸を掘った人のことは忘れない」なんて言って、田中が日中友好の大恩人だとされていた。ところが真相を大平に聞くと、そうじゃないんだ。田中角栄は、途中で脅迫状などが来たりして、怖くなって「もうやめようか」と言い出した。それを大平が「どんなことをしても日中国交回復はやらねばならん。これで命を捨てようや」と言ったんだそうだ。 

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竹下は私心をなくせば大物になる

田原 中曽根康弘さんも四元さんにいろいろ相談をされたようですが、世間では中曽根さんは世渡りのうまい風見鶏と言われています。本当はどうなんですか。
四元 難しい質問だな…。
田原 鳩山さんや河野さん、岸さんよりはいいと思っているのですか。
四元 そういいとは思っていません。能力はある。現に六年間、内閣が続いたんだから。それは後藤田正晴と伊東正義が支えたからなんだが、あの二人を使ったのは、やはり中曽根だからだよ。
田原 具体的に、中曽根さんにどんな忠告や進言をされました?
四元 しょっちゅうした。「私心をなくせ」ということをね。
田原 中曽根さんが全生庵で坐禅を組むようになったきっかけは、四元さんの進言だそうですね。
四元 そう、僕が坐らせた。彼が自民党総裁に決まったその日の夜、あそこで十二時まで三時間くらい坐った。僕と稲葉修、それから僕と一緒に服役していた古内栄司という男と四人で。初めての人が、三時問も坐るということは大変なことですよ。で、終わった後、お茶を飲んでいろんな話をした。
田原 どんな話をされましたか。
四元 忘れたな。坐った後だから生臭い話はしなかったよ。
田原 ところで四元さんは、中曽根さんの後継者は安倍晋太郎さんがいいと考えていたとか。
四元 彼は惜しいことをしましたね。彼が生きていたら、今の政治はずいぶん違ったものになっていたと思います。

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・安倍晋太郎(一九二四〜九一)は岸の女婿で福田(赳夫)派のプリンスと呼はれた。昭和五十七年、鈴木善幸の後継総裁選で中曽根康弘に敗れ、六二年のポスト中曽根総裁選に出馬するが、中曽根裁定で竹下に首班を譲った。竹下退陣直後に病死。
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田原 どこが魅力的だったですか。
四元 人柄ですね。人を見る眼があった。政治家として非常に優れた素質をもっていたんじゃないかな。
田原 四元さんは中曽根さんに、「次は安倍さんがいい」と言ったのですか。
四元 最後の最後まで言ったよ。
田原 つまり、中曽根さんは四元さんの言うことを聞かなかった。指南役の四元さんを中曽根さんは裏切った……。
四元 まあ、安倍も、ああ体が弱くては総理にはなれなかったでしょうが。
田原 竹下登さんという政治家はどう見てますか。
四元 知恵は中曽根よりある。でも「小知恵」があるだけだ。スケールが小さい。なぜかというと、私心があるからなんだ。私心が取れれば、世の中や国家を救う大きな知恵が生まれる。リクルート事件で彼が証人喚問に呼ばれる前に、直接そう言ったんだ。「これだけの事件があって、その責任者はあなただ。あなたが責任をとらなければ、自民党は二度と立ち直れない」と。それで彼は翌日の証言で「その罪、万死にあたる」と言ったんだ。その精神さえ忘れなかったら、やがて大物になるんじゃないですか。

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英知あるリーダー、出でよ

田原 これからの日本の政治を背負って立つ人について聞きますが、たとえば、河野洋平さんはどうですか。
四元 だめですね。
田原 小沢一郎さんは、どうですか。
四元 話にならない。
田原 お会いになったことは…。
四元 ない。
田原 橋本龍太郎さんはどうですか。
四元 彼のことは、小さいときから知り過ぎとるぐらいだが、大臣になっても官僚はついて来るが、本当の人は、ついて来ないな。
田原 加藤紘一さんは。
四元 だめだな。彼も若いときは、伊東正義と一緒に育てようとしたんだがね。
竹下がリクルート事件で辞める前、伊東正義総理大臣待望論が出た。そのとき、竹下と伊東が会って話したらしいんだが、竹下は総裁の件は何も言わず、こう言ったそうだ。総理というものは本当に親しい幕僚、子分がなくてはならない。伊東さんは、加藤紘一一人だけだ。後藤田に至っては、その一人もいない、と。要するに、田中や中曽根が総理になれたのは、やはり金だけではなくて、ついて来る人がいたからだ。ついて来る人がいなくては、やはり総理の器ではないということだ。
田原 これからの若手では、だれが有望ですか。
四元 いちばん期待するのは武村(正義)だな。安倍晋太郎の長所は、一目みて直感で人を見抜くところだったけど、武村君も、そういうところがある。彼は代議士になってすぐ安倍の派に入ったんだが、一、二年で安倍は彼を重用するようになった。伊東正義も、いちばん可愛がったのは加藤じゃなくて武村だった。
田原 細川護煕さんは。
四元 しばらく会ってないけれど、いま悩んでいる最中みたいだね。リーダーの資格はおおいにあると思う。武村君も彼に惚れ込んでいたけれど、小沢の隔離策にやられた。彼らが二人一緒になっていたら強いからね。
田原 ところで先日の統一地方選挙で、東京・大阪の知事に無党派の青島幸男氏、横山ノック氏が当選しました。これをどう受け取っていますか。
四元 青島さんは堂々たるものですね。ただし、彼は政治家でも何でもない。芝居の役者だ。一方は漫才師。政治家は何をしておるか、ということだな。
田原 どうして、こんな結果が出たんですかね。
四元 政治がだめだからです。政治が悪いから、政治がなくなったからだ。
田原 たしかに自民党の長期単独政権が終わった後、政治は混迷しています。その最大の原因は何ですか。
四元 いまの政治は、いちばん大事なものを失っているんじゃないかな。金よりも大事なものがあることを知らないから、政治家が金の亡者になるんだ。
田原 それは具体的にほ何ですか。
四元 「道」といってもいい、「神」といってもいい、「真理」といってもいい、「最高の道徳」といってもいい。とにかく人間としていちばん大事なものを失っている。そういうものを失うと、金と暴力と権力だけが支配するようになる。これは政治家だけじゃない。「人」が堕落しているから、オウム真理教や暴力団が出てくる。日本が悪くなっているのは、日本人自身に大きな責任があるんだ。
今の日本には、そのために生き、そのために死んでもいいというものが何もない。
さっき「狂人走不狂人走」と言ったけれども、やはりリーダーが間違うと国家全体が間違うということだ。ドイツのヒトラーしかり、日本の東條しかり。会社でも、社長がよくなれば会社は必ずよくなる。ましてや国のような大きな組織の場合、まずトップがよくならなければだめなんだ。
田原 では、リーダー、首相になる人物の条件とはなんですか。
四元 今西錦司さん、いちばん親しかった偉い哲学者(専門ほ生物学・進化論)で、京都に行く度に会っていた人ですが、彼は三つの条件をあげている。一つほ「生まれつき人に好かれること」。二番目は「責任をとりきること」。逃げる奴はだめだ。三つ目は「先が見えること」。
田原 リーダーの堕落と日本人全体の堕落には、相関関係がありますか。
四元 あります。だから怖いんだよ。民主主義の大原則とは「of the people, by the people, for the people」で、選んだ側に責任があるわけだ。しかしやはりリーダーの責任も重い。わかりやすく言うと、リーダーが品が悪い人だと、国全体が品が悪くなる。池田勇人でさえ訪仏したとき、ド・ゴールから「トランジスターラジオの販売人みたいだ」と言われたそうだけれども、吉田茂だったら絶対にそんなことは言われない。
よく制度疲労とよく言いますが、そんな馬鹿なことはない。制度は法律で作ったものであって、生き物ではない。もし疲労しているとすれば、それは政治家という「人」が原因なんですよ。他に原因などない。そこがわからなければ、本当の危機というものはわからないんじゃないでしょうか。政治は観念論では絶対によくならない。いいリーダーを出すことが大切です。たしかにいいリーダーには必ず優秀な幕僚がいて、社会が彼らを支持するから政治をリードできるわけだが、突き詰めていけば一人なんです。
ただ、一人の立派な人間がいても、今の日本ではなかなか出てこられないのが心配ですね。今西錦司さんには、学界外に中曽根をほじめ多くのファンがいたけれども、肝心の生物学界はみんなあの人を無視した。今西さんは日本の学者を馬鹿にしていたけれども、わかりますよ。
 中山素平さんという、日本興業銀行の今日を作った、優れたリーダーがいるでしょう。日本興業銀行この前の、バブルでだいぶ恥ずかしいことをやった。僕は中山さんに「これは、あなたの責任だ」と言ったんだ。すると彼が言うには、彼が頭取を辞めて会長になったとき、代表権も断って、経営には一切ノータッチにした。きれいな辞め方をしたわけだ。興銀の連中は本当に中山さんを完全にたな上げにしたな。ばかばかりだから相談にもいかなかった。だからああいう醜態を招いたんですよ。
 昭和六十年の春、第一次中曽根内閣のとき、今は亡き胡耀邦に会うべく、中曽根総理の信書を中国へ行った。その前に、京都で今西教授と貝塚茂樹教授を訪ねた。そのとき、今西教授はこういった。「今や、哲学も宗教も今日の危機を救う力はない。核兵器を使い合って人類はついに滅びるだろう」と。また、貝塚教授は「こういう恐るべき兵器(核兵器)できてしまった上は、人類ははもはや戦争なんかというばかなことはしないだろう」と言った。僕は、この2人の碩学の二つながら真実だと思う。底知れぬこの危機を、人類の英知は必ず克服するだろう。
 山本玄峰老師が「無門関提唱」でこう言っている、「現代の世界各国の指導者は、いわは亡者頭のような者だ」と。 
僕はこう思う、「偉人なる政治家、宗教家が今日期待される時はない。今日のこの深刻な危機を救うべき英知のリーダー、出でよ」。 

天下一人にして興り、一人にして亡ぶ

四元 大徳寺一七○世の清巌和尚の「狂人走不狂人走」の一句は僕にとって長い間の公案というべく、又長年の課題であり続けている。歴史を見れば「狂人走不狂人走」の例は数多い。悠久の歴史でいえば短いとも云える狂人に依る暴走は幾多の不幸な狂気の悲惨な痕を残している。しかし人間社会は絶えず復元しながら成長していく。しかし、逆のことも起こる。

一人の賢人が多くの人々を指導して全社会が健全に成長してゆく時代もある。
古人の哲人政治の理想は然り。
人類の社会にとり最も大切なことは、一人のリーダー出よということである。
一人一人では決してない。このような時代においては、大衆は心から、すぐれたリーダーを待望していることは間違いない。どんな小さな組織であれ、また巨大な組織であれ、まず一人のリーダーこそ大切である。一人のリーダーは決して独りではない。その独り独りの結集はその全組織を起こす。
国家であれ、会社であれ、すぐれたリーダーの結集に依り興り、それ無くば即ち亡ぶ。
古語にいう、「天下一人にして興り、一人にして亡ぶ」と。

群(むれ)よびにひとつ奔(はし)ると見るが中に   
     長々しくもつくる蟻(あり)みち  (曙覧 作)

利(まうけ)のみむさぼる国に正しかる     
      日嗣(ひつぎ)のゆゑをしめしたらなん (曙覧 作) 

http://www.kamou.co.jp/keiten/yotu/yotu11.html
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