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吉良の仁吉
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投稿者 新世紀人 日時 2009 年 1 月 12 日 09:34:41: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: 野党ばかりか与党すら利用に懸命。だって自分達が何もしなくて乗っかるだけだから簡単! アソウ政権延命策にも。 投稿者 新世紀人 日時 2009 年 1 月 12 日 09:28:20)


http://kojima.boy.jp/page025_kiranikiti.html

  吉良の仁吉

  

  街道名物数あれど 三河音頭に笛太鼓

  ちょいと太田の仁吉どん 後ろ姿の粋なこと

  吉良の港はおぼろ月 泣けば乱れる黒髪の

  赤いてがらも痛ましや お菊十八恋女房

  引くに引かれぬ意地の道 せめてくれるな名がすたる

  いやな渡世の一筋に 辛にわかれがなぜできぬ 

                        

               吉良町のパンフレットの仁吉像。像は個人持ちの物で町には無い。

 

 任侠の男

 芸者から歌手になった”美ち奴”が唄って、昭和の14年に作られ大ヒットした歌謡曲の一節だ。我が家にあっ
た78回転の蓄音機から、スリ切れるような音で唄っていて、耳から自然に覚えた歌詞だった。

 三州吉良の庄が誇る忠臣蔵の吉良上野介と、人生劇場の尾崎士郎。任侠の男、吉良の仁吉。仁吉こと太田
仁吉がモデルの歌だ。

                       

              吉良町自慢の三偉人。吉良の仁吉、尾崎士郎、吉良上野介。

「任侠」とは辞典で意味を探れば、「弱者の味方になる気性の人」または「男気」とある。仁吉が若い生涯で任侠
の男の名を冠したのは、それなりの理由がある。荒神山の縄張り争いの喧嘩で有名になった、義理と人情に生
きた仁吉を追ってみよう。

 天下人の徳川家康を産んだ三河で、忠臣蔵で損な敵役になって有名な吉良上野介の里、三州横須賀村(現
在の愛知県幡豆郡吉良町横須賀)で天保11(1840)年に農家に生まれた。幼少より背が低く顔はアバタ面で
あったという説もあるが、ここは歌の文句のとおり後ろ姿でさえも粋であった仁吉ということにして、映画の主演
スターのようないい男ということにしよう。

 

 渡世人であれば子供の頃からの目茶ぶりはかなりのエピソードがある。仁吉がこの道を歩むには親分との出
会いがある。ある時、鳥羽(幡豆町)の火祭りで余興相撲があったときに、横綱格の力自慢を寺津の間之助(ま
のすけ)親分に見出され、親分子分としての盃を交わすこととなったが、順序として、ここで親分の寺津の間之
助(愛知県西尾市寺津町)にふれてみよう。

 寺津の間之助

 浪曲の清水の次郎長シリーズで売った広沢虎造が語る次郎長でさえも、頭の上がらぬ親分としての間之助で
あった。

 森の石松が次郎長の言い付けで、讃岐の金比羅に代参に行き、大阪からの船旅の船上に

て、鮨をつまみながら酒を飲んだ。「江戸っ子だってねえ」と話し相手に「全国の親分で一番二番は誰だい! 」と、
親分子分のランクを聞く有名な「石松三十石船道中」のくだりで、「東海道の親分衆が多くいるうちで、なんてた
って一番の親分は寺津の間之助。それに西尾の治助と・・」肝心の次郎長と子分の石松の名が出てこずに、
「肝心なのを忘れてやしませんか!てんだ」石松をやきもきさせる有名なくだりがあるように、一番が寺津の間
之助、通称藤村間之助と数え上げられている。

 三州寺津港(愛知県西尾市寺津町)は、幕末当時は明治政府の廃仏毀釈の令で宗教一揆の大浜騒動があ
った菊間藩の大浜陣屋(現在、碧南市)の支配下にあり、間之助は大浜代官所より名字帯刀を許されて、バク
チ打ちが役人という、まさに二足の草鞋稼業で朱房の十手、御用も掲げていたと言われる。

 他に海運業なども兼ねて莫大な資力を持って、三河の港界隈では有名な親分であった。

それほど有名であっても切った張ったのバクチだけで、次郎長ほどの刃傷沙汰がなかったのか、現代で言う次
郎長ほどマスコミに乗る機会と事件がなかった。

       

          間之助の地元の寺津港 

                            

                             空き地が寺津の間之助の居宅の跡

 出船入り船のにぎわいも過去の寺津港から遠からぬ狭い路地の一角(寺津町西市場)に、間之助の居宅が
昭和の始め頃まであったという。

 間之助は文化8年(1811)に生まれ、明治10年、67歳の生涯を終えて、同町内の養国寺には墓がある。見
学した日は境内の木立が木枯らしに揺れ、墓地をかすめるように鳥が鳴きながら飛び去った。

 

                     

                      養国寺境内の間之助の墓

 次郎長が天保13(1842)年、23歳の折、ささいなことから喧嘩となり、相手の二人を川に投げ込んで「殺し
てしまった!」と思った次郎長は国を売る羽目となる。全財産を処分し、女房のお蝶とも別れて間之助宅に草鞋
をぬいだという。

 これが、有名な次郎長のやくざ稼業の第一歩といわれ、逃亡者の次郎長が間之助一家と西尾の治助親分に
も、次郎長は生涯で何度も草鞋をぬいでいる。その間に侍上がりの吉良の武一の道場で剣を学んだ。

 このような関係を見れば、間之助の面倒見の良さが渡世人の世界で格付けされたであろうし、同じ釜の飯を
食ったであろう仁吉と次郎長も、当然親交があり、歌の文句のように、”堅い契りの義兄弟、こんな小さな盃だ
けど・・”という関係に発展したことは違いない。 

                  

 間之助の名は町内の銘菓「間之助羊羹」として生き続けている。浜風を肩で切り、次郎長でさえ頭の上がらぬ
男の意気が、甘さの中にキラリと感じる味で親しまれている。

(小松屋製菓舗0563-59-6555)

 義理と人情

 間之助や次郎長の元で修行を終えた仁吉は、22歳の折りに間之助から代貸しの資格を与えられて、故郷の
横須賀村に一家を構えたといわれる。

                 

                                     

仁吉が一家を構えたときにもらった帖ダンス(菩提寺、源徳寺蔵)

   

 安政にペリーが来航し、桜田門の変や外国から開港を迫られていた幕末の世情においても、やくざの世界の
できごとは慶応2年、伊勢の神戸の長吉(かんべのながきち)が寺津の間之助をたずねて、

「伊勢の荒神山観音寺の縄張りを穴太徳(あのうとく)に取られたから、取り返したいから助っ人をお願いした
い」

と、助力を頼みに来た。

 間之助は高齢のために自分の代わりに仁吉を助っ人として派遣することを決めた。すなわち神戸の長吉に対
する義理で、吉良の仁吉28歳の時である。

 話がややこしくなるのはここからで、喧嘩相手の穴太徳、穴太の徳次郎の妹が仁吉の女房のお菊であった。
喧嘩が始まれば仁吉は女房の兄の穴太徳を義理の兄として、加勢するのが当然の人情であったが、仁吉は義
理を選ぶか人情を重んじるかの板挟みになる。しかし、渡世の社会で生きる仁吉は義理を選択し、間之助親分
の命の神戸の長吉の加勢に行く決断をする。映画も講談も浪曲もここがハイライトである。

(仁吉の女房はお米という名の説もある。お菊という方が美人に見えるのだろうか) 

  

           五木ひろしが仁吉の菩提寺の源徳寺に仁吉役を公演の際に参詣、奉納した。

 命をかけた白刃の喧嘩勝負に、背後を顧みる必要のないように女房のお菊に三下り半の離縁状をわたし、
敵となる穴太徳とは無縁の関係にする。

「お菊、何にもわけ(理由)を聞かずに、たった今、ここで別れてくれ!」

「おまえさん!また、藪から棒になんでまた・・・」

 五木ひろし演ずる吉良の仁吉が、御園座のステージで愛妻菊をつきはなすシーンだ。愛する菊がすがって泣
く泣く別れる。紅涙をしぼる名場面であり、仁吉は義理と人情に苦しみ、最後に義理を重んじて、助っ人として清
水の次郎長の子分で兄弟分の大政、桶屋の鬼吉、法印大五郎、大瀬半五郎、益川仙右衛門と有名な子分衆
もまじえて総勢22名といわれ、寺津の港から四日市港へと漕ぎ出し、荒神山へ向かった。

文明開化の明治まで、秒読みの時代の慶応2(1866)年4月の出来事である 。

  

                        本来の高神山観音寺の山号。

 荒神山観音寺

 東名阪の鈴鹿サーキットで名高い三重県鈴鹿インターを下りて10分ほどの距離に荒神山観音寺がある。本
来は「高神山」と寺の山号を名乗るが、講談、映画、口伝などで荒神山が一般化して、今更、少しの力学では変
わらぬほど固定化し、寺のパンフレットにも( )して本来の山号が併記してある。

 縁起によれば、古く九世紀初期の嵯峨天皇の時代(812年)に開山され、徳川三代将軍家光の乳母の春日
の局も信仰厚く、鐘楼堂の梵鐘を天保4(1647)年寄進している。

                                       
            本堂と鐘突堂、梵鐘が春日局の寄進によるものと伝えられる。

 幕末に幕府の財政も逼迫して、寺々の管理もむつかしくなり、公認で寺々での賭博を開帳させて寺にはその
アガリで維持運営することを黙認した。俗に言う「テラ銭」の起源だ。

この荒神山観音寺とて、近在の渡世人が出ばっては賭場を開いた。ここは元来神戸の長吉の縄張りであった
のを穴太の徳次郎親分が横取りをしたことに始まる。

 観音寺裏手を舞台に穴太徳側百数十名ほど、神戸の長吉の手勢に、三河と清水の加勢組を入れての50名
ほどで対峙した。時に慶応2年4月8日のことである。

 双方がにらみ合うこと暫し・・・役人が双方に仲裁に入るが、ついに意地でぶつかりあった。少人数の長吉側
が火ぶたを切ったといわれているが、喧嘩馴れした清水や三河の加勢組の先制攻撃の戦法で、まず穴太徳の
用心棒を血祭りにあげた。それを聞き浮き足立った穴太徳陣営から、雇われた猟師の火縄銃の斉射によっ
て、不幸に仁吉の胸に命中した。

 急ぎ寺津まで運ばれたが、出血多量で途中で絶命した。侠客太田仁吉28歳の生涯であった。

 荒神山観音寺にて 広沢虎造の寄進による仁吉碑。

 この縄張り争いによる死者は仁吉と長吉の子分2名、穴太徳の用心棒角井門之助一名であり、他に清水次
郎長の子分の大瀬の半五郎が重傷であった。

 これを機に賭場は禁じられ、神戸の長吉、穴太徳ともに国を売り出奔した。


穴太徳側の鉄砲が放った弾丸の跡。仁吉を撃ったと言われる火縄銃。

 現在の境内には、飛び交った弾丸の一発が鐘楼の柱の一本に深い傷跡を残し、死闘の寺の裏手一角に一
世を風靡した浪曲師広沢虎造による仁吉の碑が建立されている。

 一瞬にして長吉側の勝利で終えた映画、芝居、講談の「血闘!血煙荒神山」の一席である。

 死んだ仁吉とて身分はお法度の渡世人稼業。ひっそりと吉良の源徳寺(愛知県吉良町横須賀)に葬られ戒名
は「釈馨香」とつけられている。

 

  

     清水次郎長が建てたといわれる仁吉の墓。墓石の欠片を持つと勝負事に勝というジンクスがあり、

     かけらを「かち勝石」として売っている。                                      
 

            

吉良町源徳寺の仁吉の戒名と過去帳。

 時が改まって講談、映画などで次郎長もので名が売れて、仁吉も世に引き出され観光の目玉に、日本人の好
きな「義理と人情」と言う言葉の代名詞としてアップされる。菩提寺の源徳寺には次郎長が建てたといわれる墓
に、幾多の仁吉のゆかりの品々が陳列されている。

吉良の仁吉は将来を間之助、次郎長を継ぐ大物親分になるといわれていた人物といわれる。

吉良の人々には、討ち入り300年の吉良上野介、人生劇場の尾崎士郎、博打打ちといえど仁吉も愛されて、
郷土の土産の饅頭に鍋焼きうどん、民宿の名前などに吉良の仁吉と付けている。


   

 気の毒なのは穴太の徳治郎。ちょっとばかりの欲で縄張りにツバをつけて末代までの悪党役。そこは吉良上
野介と同じ、憎々しい顔の悪党役者さんの出番となってしまう。存外、吉良公と同様に、地元では穴太の徳さん
人徳があるかも知れません。

 結末を聞いた次郎長が怒った。とむらい合戦にと400名の総員で「子分の仇をとる!」と荒神山に乗り込み。
最後、手打ちをする事件の顛末は又の機会に・・つとめましょう。

 丁度時間となりました。お後がよろしいようで・・・。

時世時節(ときよじせつ)は  変ろとままよ

                      吉良(きら)の仁吉(にきち)は  男じゃないか

                     おれも生きたや 仁吉のように

                     義理と人情の この世界

                    (人生劇場 佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲)

参考文献 実録荒神山(味岡源吾著)

    清水次郎長(江崎惇)

  人間清水次郎長(戸田書店)

[新世紀人コメント]
写真が転載できなくてすみません。


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