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大久保太郎氏:元東京高裁部統括判事―裁判員制度のウソ、ムリ、拙速(池内ひろ美と考える 裁判員制度)
http://www.asyura2.com/09/senkyo61/msg/112.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 4 月 02 日 08:29:31: twUjz/PjYItws
 

(回答先: 裁判員制度を問い直す議員連盟が発足した(保坂展人のどこどこ日記) 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 01 日 22:47:20)

http://ikeuchihiromi.cocolog-nifty.com/saibanin/2008/07/post_bc2e.html

裁判員制度のウソ、ムリ、拙速
大久保太郎(元東京高裁部統括判事)-------------文藝春秋2007.11月号


 「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(通称「裁判員法」)が平成十六年五月に成立し、五年以内の政令で定める日から施行されることに一応なっている。

 しかし、この法律の定めるいわゆる裁判員制度については、制度自体の概要など表面的なことは報道されても、この制度が憲法違反の疑いその他の多くの重要な問題点を包蔵しているという真実(実態)は、ほとんど全く国民に知らされていないのではないだろうか。私は、この制度のいつわりのない真実を説明し、日本国憲法のもとでこのような制度が決して実施されてはならないことを国民に訴えたいと思う。

 裁判員制度の対象は、法定刑の中に死刑、無期刑などが定められている事件などであり、殺人、同未遂、傷害致死、放火、強盗致傷罪、強姦致傷罪、身代金目的の誘拐、通貨偽造、爆発物使用、麻薬・覚せい剤の輸入などの事件がこれに当たる。ただし、裁判員に対するテロのおそれのある場合は除かれる。
 
 もし裁判員法が施行されると、このような重大事件の裁判が、現在の裁判官三人のほかに、選挙人名簿からくじで選ばれ、一定の手続きを経て選任された裁判員六人が加わって行われることになる。
 
 ところが私が法律家以外の人々と会って話が裁判員制度に及んだとき、例外なく耳にするのが、「どうして今こんな制度が突然に出来たのか」という強い疑問の声である。この疑問は、つぎのような裁判員制度誕生の経緯からしてまことに無理もない。
 
 外国における国民の裁判参加制度として、英米法系の諸国では陪審制(刑事事件の場合、陪審員が有罪、無罪の判断をし、有罪の場合、量刑は裁判官が行う)が、独仏等の欧州大陸法経の諸国では参審制(参審員は裁判官とともに事実認定と量刑を行う)が、それぞれ問題を伴いながら伝統もあって今日行われている。
 
 わが国には、全体から見ればごく少数であるが、矢口洪一元最高裁長官司法制度改革審議会のメンバーでもあった中坊公平など法曹(OBを含む)の中に極めて熱心な、刑事裁判への国民参加制度導入論者がいて、このような論者が同調者らとともに、先般の司法制度改革審議会(平成十一年七月設置)を好機として強力にかかる参加制度の導入を図った。
 
 この意図が、以下に記す好条件を得て、参加主体である肝心の国民一般には詳しい説明もされず、国民がどういう理由でそうなるのかほとんどわからないうちに法案となった。
 
 そして国会でも、影響するところの大きい法案でありながら、問題点が国民によくわかるような実質のある審議もされずに、平成十六年夏の参議院議員選挙前の忙の間に法律となったのだ。
 
 好条件というのには二つある。
 一つはオウム事件、殊に麻原死刑囚に対する第一審裁判に代表される、一部の刑事事件審理の異常な長期化が、「こんなことでは困る。改革が必要だ」との空気を社会に瀰漫させていたことである。
 
 もう一つは、法務省および最高裁判所が裁判制度の専門家として、裁判員制度の導入意見に対し本来「それは違憲の疑いがあり、実際上も無理だ」として反対すべきであったのに、どういうことか反対しなかったことである。
 
 なお、重要なことであるが、国会で審議らしい審議もされなかったのは、もし法案の抱えている憲法問題や裁判実務上の問題が細かく議論され始めれば、疑問や反対がつぎつぎに出て来て、法律化などとてもできないことが明るみに出るからであったと思われる。
 
 私は、当時テレビの座談会で与党の有力議員が、国民に善きものを与えるかのごとく、国会の会期も残り乏しいのに「この国会で法案が成立しなければ、もう裁判員制度は出来ませんよ」と発言していたのを思い出す。このような次第だから、裁判員法は、文字通り拙速立法といわざるを得ないものである。
 
 ちなみに、裁判員制度の実質は刑事裁判のやり方(手続き)だが、まことに驚くべきことに、司法制度改革審議会の委員の中にOBも含め刑事裁判官はいなかったのである。
 
 国民一般が今もって「何でこんな法律が出来たのか」と疑問に思うのは当然なのだ。
 
◇違憲のデパート

 新潟大学教授 西野喜一氏の論文「日本国憲法と裁判員制度」(「判例時報」平成17年1月11日号、同月21日号)は、裁判員法がわが憲法に適合するかどうかを詳しく研究した労作であるが、西野氏は裁判員法について違憲またはその疑いのある点として十二点を挙げ、「裁判員制度は『違憲のデパート』になりかねないという感さえある」と言っている。国民には一向に知らされていないが、裁判員法には違憲と考えられる点がそれほど多々あるのだ。私の考えるその主要なものを挙げると、つぎの通りだ。
 
■憲法の「司法」の規定に違反
 裁判員は裁判官と同等の裁判の評決権(「一票」の権利)を持つから、実質は裁判官である。ところが憲法第六章「司法」中の八〇条一項は、「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指命した者の名簿によって、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる」と定めている。裁判員はこれに真向から抵触する。
 裁判員制度は、裁判員が裁判官とともに裁判をするもので、参審制に属するが、元最高裁判事伊藤正己氏は、「素人を裁判官として参与させる参審制は、憲法にそれについての規定がなく、しかも裁判官の任期や身分保障について専門の裁判官のみを予想しているところから違憲の疑いが強い」と述べ(『憲法入門』第四版)、また、元最高裁判事香川保一氏は、「裁判官は、最高裁判所の提出する名簿によって政府が任命すると憲法上決まっている。抽選的に選ばれた裁判員が裁判の審議、判決にも裁判官と同じ資格で関与することは憲法違反ではないかと思」うと述べている(「リベラルタイム」平成16年6月号の対談記事「裁判員制度は憲法違反だ!」)。
 西野喜一氏の前記論文の言葉を借りれば、「裁判官でない者が刑事被告人の運命の決定に関与できるとするためには相応の根拠、規定がなければならない。特に、被告人としては、何故裁判官でない者が、憲法上の規定に拠らずに、自分の運命を左右できるのかと問うであろう。他方検察官も公益の代表者として当然そう言えるのである。また、裁判官でない者が、裁判官と対等に判断に関与できるとするためには、なぜその者の判断が憲法に根拠を持つ裁判官の判断と同等の意義を持てるのか、持っても差し支えないのか、という疑問が解明されなければならないが、これらは解明も解答もされていない」のだ。
 つまり「なぜ裁判員が裁判に参加することが憲法上許されるのか」という根本問題からして、何の説明もないことを国民は知らなければならない。
 人間の生命は地球よりも重いといわれる。判決確定前の被告人の生命も同様だろう。憲法に根拠のない裁判員が、裁判官とともにであるにせよ、被告人に死刑その他の刑を科することなど、どうして許されるのであろうか。現実の裁判は模擬裁判ではないのだ。
 なお最高裁自身、司法制度改革審議会で、いったんは、参加者に評決権を与えることは憲法上問題があるとし、「評決権なき参審制」を提案したことがあったのだ(しかし最高裁はその後不可解なことに、審議会の裁判員制度の提案に同調してしまった。この点は後述する)。

■「公平な裁判所」の保障違反
 憲法三七条一項は被告人に「公平な裁判所」の裁判を保障しているが、裁判員の参加した裁判所はこの保障に違反する。憲法七六条三項は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定し、実際その通り実践されている。
 しかし裁判員はこれと異なる。裁判員法八条には「裁判員は、独立してその職権を行う」と書かれているが、これは法の建前であり、裁判員の中にはいろいろな人が混じるのは避けられず、実際には裁判上の適法な判断材料以外の情報により、あるいは時には他から精神的圧迫を受けて、判断を左右されるおそれのあることを免れない。
 また、裁判員は氏名も住所も公表されず、判決書に署名もしない。つまり言い放しの立場であり、その判断に責任を問われることもない。被告人の立場からみれば右から来て左へ去るその場限りの人たちによって自己の運命が決められることになってしまう。
 このような裁判員の参加した裁判所がどうして憲法の保障する「公平な裁判所」といい得るのだろうか。

■裁判官の独立の侵害
 評決の方法を定めた裁判員法六七条によれば、裁判官三人全員が有罪だと確信しても、六人の裁判員のうち五人が無罪だといえば、結論は無罪となり、裁判官は無罪判決を書かねばならない。前記のように憲法七六条三項は裁判官の独立を保障しているが、「このように裁判官全員が有罪を確信していながら無罪判決を出さざるを得ない状況を裁判官に負わせるのは、憲法の右条項に違反する恐れが極めて大きい」(西野喜一氏前出論文)といわなければならない。
 
◇「国民の自由」にも反する

 欧米諸国の陪審制も参審制も、それぞれ固有の理由があって幾世紀も前から存在しているものだ。しかし現代のわが国は国民各自がそれぞれ自己の生活目的をもって忙しく活動している社会である。このような時代に突然「国民参加はいいことだ」として、上からお仕着せ的に国民に裁判員制度のような厳しい義務づけを伴う制度を押し付けることは、憲法の自由権、財産権の保障と衝突する。
 
■自由権、財産権の侵害
 憲法一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定め、同一八条後段は「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服せられない」と定め、同一九条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定め、さらに同二九条一項は「財産権は、これを侵してはならない」と定めている(このうち「良心の自由」については、政府は立案段階で指摘を受け、これに違反しないように政令で辞退事由を設けることを約束している)。
 ところが裁判員法によると、くじにより裁判員候補者とされた者は、具体的な事件ごとに行われるくじに当たって裁判所から呼出を受けたときは、自分の仕事や予定を放り出してでも、裁判員選任期日に出頭しなければならない。
 裁判員または補充裁判員(裁判員欠席の場合に代わって裁判員となる)に選任されると、これまた自分の仕事や予定を犠牲にして公判期日(一回で済むものは少なく、数回、時には数十回におよび、期間も数日から数カ月にもなるだろう)に出頭しなければならない。しかも公判の全審理に立ち会い(一日も一刻も欠席はできない)、審理が終われば、裁判員は評議の席で自分の意見を述べ、判決宣告期日にも出頭しなければならない(その他の義務は省略する)。
 もっとも裁判員法は若干の辞退事由を定めているが、事由はごく限定的で、しかも事由のあることを裁判官に認めてもらわなければならないから、電話で済まない場合は、半日か一日をつぶして裁判所に出かける必要がある。厄介なことなのだ。
 憲法に根拠もないのに突如裁判への参加は公共の福祉だとして、国民にその意思に反して以上のような被害(雇用主の財産的被害を含む)を及ぼす法律を作ることは、国民の自由権、幸福追求権は立法その他の国政の上で最大の尊重が必要だとする前記憲法一三条に違反し、また前記憲法一八条の苦役強制の禁止、同一九条の良心の自由の保障、同二九条の財産権の不可侵に違反することが明らかである。
 このような状況では、国民が裁判所から裁判員法に基づくもろもろの強制に服しなくても制裁を受ける理由はないといわなければならない(実際上も裁判所は「違反者」に過料を課すことはできないだろう)。
 
■裁判員の途中交替の違憲性
 裁判員法には、裁判員制度の運用を維持するために、裁判の原理と憲法の規定からすればとても許されない規定がさりげなく挿入されている。それは二回以上に及ぶ公判の途中で裁判員または補充裁判員が病気その他の理由で公判に出頭しなくなり、裁判員六人の定数が欠けた場合の対処規定である。
 もし読者のあなたが裁判員候補者だったとして、或る日裁判所に呼び出され、裁判長からつぎのような話を聞かされたら、どう思うだろうか。
 
 「実はこの事件は、被告人は某夜某邸宅に侵入し、家人二人を殺害し、多額の金品を奪ったという強盗殺人事件である。被告人は全く無実だとしゅちょうし、多数の証人を尋問した。途中いろいろな事情で裁判員と補充裁判員の中に公判不出頭者が相次ぎ、補充裁判員も尽きた。先日の公判で審理を終え、直ちに評議をして結論を出す予定だったが、当日も事情があって公判が予定より遅れ、検察官の論告と死刑の求刑を終えたが、弁護人の弁論と被告人の最終陳述は次回公判に持ち越してしまったところ、その後裁判員の一人が急病で入院してしまい、出廷できる状態でないという。裁判員が五人になってしまったのでこのままでは裁判ができない。従来の審理に全く立ち会っていないあなたに、にわかに裁判員を引き受けてくれというのもおかしな話だが、裁判員法がそうなっているからお願いするのだ。従来の公判での争点と証拠をよく説明するから、何とか裁判員になっていただけないだろうか」
 
 事柄をまともに考える人であればびっくりするだろう。被告人が無実だとして必死に争っている事件で、証拠調べに全く立ち会っていない者を裁判員に仕立て、「公平誠実に職務を行う」旨の宣誓をさせ、法廷で従来の公判での争点と証拠を説明するといっても、初めて裁判を経験するような素人には何のことだかさっぱりわからないであろう。
 加えて審理を終えるや、その人に「被告人は有罪か無罪か」、有罪の結論となった場合「極刑がやむを得ないかどうか」の意見を述べよ、つまり一票を投じよというのである。裁判員法六一条はこのようなことを行えと定めているのだ。裁判員の途中欠如の危険性は常にあり、何としても裁判員制度を維持するために、背に腹は代えられないからだ。
 外国では参審員や陪審員が途中で一人でも定数を欠けたときは、手続きを初めからやり直さなければならない。しかしわが国では憲法上根拠がない裁判員制度のために、手続きをやり直すことは迅速な裁判を受ける被告人の権利(憲法三七条一項)を侵害するから許されないと考えられる。また、裁判員法も採るところではない。
 右設問の場合、後任の裁判員を引き受ける人がいたとしても、自己の職責を真面目に考えない人ではないか。恐ろしいことだ。
 要するに、証拠調べに全く、または一部にしか、立ち会っていない裁判員を裁判に関与させて被告人の運命を決めることを許すなど、憲法三一条の適正手続き(デュー・プロセス)の保障、同三七条一項の公平な裁判所の保障に違反するものである。従って、詳述は避けるが、卑見では、少なくとも主要な証人の取り調べ後に裁判員の欠如が生じたときは、もはや適法な裁判体を構成できないのだから、訴訟を打ち切る裁判がなされなければならず、被告人も釈放されることになると考えられる。俗な言葉でいえば、重大事件が途中でつぶれるのだ。
 なお裁判官は途中交替が許されるが、これは、裁判官は従来の証人尋問調書等全記録を精読して公判の経過と全証拠を理解し得るからであり、法の専門家ではない裁判員を同列に論じることはできない。
 つまり裁判員制度の無理がこの問題にも現れているのだ。その無理を通すために、正しい裁判を犠牲にしてはならないのである。

◇長期審理に対処不可能

 刑事裁判に関する最も基本的な法律は、刑法(基本的な犯罪と刑罰を定める)と刑事訴訟法(裁判の手続きを定める)であり、裁判員制度のような国民参加制度を作ろうとするならば、当然この両法律との間に不調和を来たすことがないかを、あらかじめ綿密に検討しなければならない。しかし裁判員法はここでも拙速に、両法律との関係が十分検討されることなく立法されたのだ。
 
■刑法との関係
 わが刑法は被告人が二つ以上の事件で起訴されている場合、原則としてこれを併合して審理し、いずれも有罪ならばまとめて一つの刑を科すことになっている(この原則を急に改め、各罪個別の科刑とすることは困難だ)。オウム事件の麻原死刑囚が地下鉄サリン事件など合計十三件の事件で審理され、死刑判決を受けたのが典型例だ。
 しかしこれでは、つぎに述べる刑事訴訟法の特異性と相俟って、被告人が二つ以上の事件で起訴されている場合、時として、国民参加が可能な数日とか十数日以内の公判では審理を済まし得ないケースが生じることになる(この点でもオウムの諸事件は典型例だ)。わが刑法下では、特に重大事件については国民参加制度の導入は、もともと不可能なのだ。しかし裁判員制度はこの点を無視して立法された。
 もっとも、当局はこの点の対応策として平成十九年に裁判員法の一部を改正して、「部分判決制度」なるものを新設した。この制度は、被告人がA、B、C三事件で起訴されている場合に、各事件を、裁判官三人は変わらないが、裁判員はそれぞれA群、B群、C群に担当させて審理し、いずれも有罪の場合、A、B各事件については犯罪事実およびこれに関連する情状事実を示すだけの「部分判決」をする(科刑はしない)。C事件担当の裁判員は裁判官とともに部分判決をも「踏まえて」全体について量刑し、科刑するというものだ。審理を分担するのだから裁判員の負担は減るだろうが、C群の裁判員にとっては、部分判決書など裁判官が書いた報告書(伝聞証拠)にすぎない。それになぜC群の裁判員が拘束され、それを前提とした科刑を強いられるのか。重要な問題だが、何の説明もない。珍無類の「リレー裁判」である。
 のみならず部分判決制度は「犯罪の証明に支障を生ずるおそれがあるときその他相当でないと認められるときは」適用できない。その上一件であっても、事案が複雑であるとか事件の規模が大きいとかで、長期の審理が必要となる場合もあるのだ。つまり部分判決制度はなにも審理期間短縮の決定的方策というものではないのである。
 
■刑事訴訟法との関係
 世界の主な国々の刑事訴訟法には二つの型がある。(1)独仏等の欧州大陸法系型(職権主義)と(2)英米法系型(当事者主義)である。わが旧刑事訴訟法は(1)型であったが、戦後新憲法の人権保障規定等にふさわしくないとして大幅に改正され、(2)型の要素が多く採り入れられ、かくしてわが現行刑事訴訟法の基本構造は、世界にも珍しい(1)型と(2)型の折衷法となった。この結果、わが現行法のもとでは、事件により時として公判で審理されるべき事項が格段に多くなった。前述の刑法の併合処罰の原則とも相俟って、検察官が主張と立証を、弁護人が防御をそれぞれ尽くすために、公判回数として数十回以上を要する事件が生じることになった(戦後、長期審理の事件が多くなった大きな理由だ)。
 だが刑事訴訟法のこの基本構造を改めることは困難だ。国民参加制度導入論者がこの点を考えずに、わが国でも欧米諸国のような陪審制や参審制が容易に実現できるかのように説くのは、世を誤るものである。遺憾ながら裁判員制度も、この点を無視して立法されたのだ。
 もっとも、当局は裁判員制度実施のためには、刑事訴訟を促進する必要のあることはわかっていて、刑事訴訟法の一部を改正し、平成十七年十一月から施行されている。その主眼点は二つあり、一つは裁判所の訴訟指揮権の強化であり、他は公判前の準備の強化だ。訴訟促進の効果はすでに相当上がっており、今後、異常な長期化はなくなるだろうが、しかしだからといって重大事件のすべての訴訟を数日、あるいは十数日程度にまで短縮することなど、とてもできることではない。
 たとえば重大事件ではないが、先ごろ第一審判決のあったライブドア事件は、第一回公判前に準備が行われ、弁護人も協力する等、迅速裁判に最も適した事件だったと考えられるが、それでも第一回公判から審理の終了まで約四カ月、公判二十数回を要した。同様の事情下の村上ファンド事件も、第一回公判から証拠調べの終了まででほぼ同じ期間、公判回数を要している。
 重大事件の中で事案が複雑、大規模なものであれば、いっそう長い期間、多くの公判回数を必要とするものがあることを、当然予期しなければならない。忙しい国民にどうしてこのような事件への参加を求め、義務づけ得るというのであろうか。ここでも何の説明もないのだ(このような事件の審理期間を無理に短縮することは、検察官も弁護人も立証を尽くし得ないことになり、正しい裁判はできない)。
 以上のようにわが刑法および刑事訴訟法との関係から見て、重大事件の中には長期の審理を要する事件のあることは避けられず、裁判員制度がこれに対処することは不可能なのである。
 
◇はじめから破綻している制度

 このようにわが憲法の諸規定、刑法および刑事訴訟法との各関係、多忙な現代社会という基盤などを直視して検討すれば、(1)参加者を選挙人名簿の中からくじ引きで選出する、(2)参加者に裁判官と同等の評決権を与える、(3)重大刑事事件を対象とする、というような国民参加制度を導入することが、いかに無謀であり、もともと不可能であることが明らかであろう。国民の理解と協力さえあればうまく行くというような制度ではない。はじめから破綻していて、うまく行く道理のない制度なのだ。
「国民参加が実現すれば裁判に世論が反映され、裁判がよくなるのではないか」とか、逆に「誤判が増えるのではないか」といった議論をする以前に、そもそも裁判員制度は法的に無理だということなのである。こんな裁判員制度が「司法改革の目玉だ」などと、どういう根拠で言えるのであろうか。

 法務省は行政上、また最高裁は司法行政上、重大刑事事件を審判する裁判制度が、一点の憲法違反の疑いも招くことのないものであり、また事案の複雑な、あるいは大規模な事件を含むあらゆる事件について順調に運用され得るものであることについて、重大な責任を負っていよう。

 そうだとすれば、法務省と最高裁は、法的に無理のある司法制度改革審議会の裁判員制度の提案に対し、「それは違憲の疑いがあり、実際上も無理だ」として毅然と反対すべきであったといわなければならない。

 実際に、裁判員制度が提案される前の平成十二年九月十二日の審議会で、最高裁は「陪審制、参審制を採用する国では、憲法上これを保障又は許容する旨の規定が置かれている国が少なくない。しかし、わが国の憲法では、司法権の担い手としての裁判官について身分保障等の詳細な規定が置かれている一方、陪審制、参審制を想定した規定はなく、果たしてこれが憲法上許されるかどうか問題である」とし、「陪審制について憲法問題を回避するためには、旧陪審のように陪審員の事実認定に裁判官に対する拘束力を認めない形態のものが考えられるであろう。また、参審制について憲法上の疑義を生じさせないためには、評決権を持たない参審制という独自の制度が考えられよう」と述べたのであった。

 しかし最高裁は、審議会がこれを聴き入れず裁判員制度を提案したのに対し、全く沈黙し、やがて全面的に同調してしまった。

 私は、当時、最高裁が「評決なき参審制」を提案したのに対し、司法制度改革審議会の佐藤幸治会長が「それじゃあ(参加する)国民はお客さんじゃないか」と発言したとの報道に接し、「ルビコン」を渡ってしまったなと思ったことを想起する。

 元最高裁判事香川保一氏は司法改革について「司法関係者は積極的に発言する責任があります。しかし、関係者もみんないい子になってしまった。ケンカを知らないというか、ケンカをしてはいけないと思っているのが現在のエリートです。ですから軸足がはっきりしない。これでは本当の改革はできませんよ。国民参加による司法改革等という主張は、無責任です」と述べ、裁判員制度の導入が今回の司法改革の目玉だが、裁判官からの発言はあまりなかったようだがとの質問に対し「いや、関係者はそれなりに積極的な発言をしたと思います。司法行政の関係者は、それなりに問題点を理解しているでしょう。しかし、裁判官が政府とケンカするような信念を持って意見を述べたかというとそれは疑問です」と述べている(前出対談記事「裁判員制度は憲法違反だ!」)。ここに「裁判官」とういのは最高裁の裁判官を指していよう。

 私は、もとより国会にも拙速立法の責任はあるが、法務省と最高裁が裁判制度の専門家として裁判員制度に反対しなかったことは、司法制度始まって以来の大失策であると思う。私が上来指摘した数々の問題点は、単に私一人のものでなく多くの法律家が共有するものだが、これについて国民はほとんど何一つ説明されていない。法務省も最高裁も説明できないのだ。

 日本弁護士連合会は、被告人の権利擁護が重要な使命だろうが、既述のように裁判員制度は幾多の場面で被告人の権利侵害を伴わざるを得ない制度だ。日弁連はなぜこの制度に反対しないで推進に努めるのか。

 本来ならば失策はどこかで清算されなければならない。しかし法律になってしまった以上、前途にいかなる破綻が待っていようと、とにかく前を向いてペダルを踏みつづけるほかはない。私の目にはこのように映るのだ。国民は何も知らずに司法の大失策に付き合わされているのである。
 
◇違憲審査権はどこへいった?

 最高裁は現在懸命に裁判員制度の広報に努めている。法務省と日弁連も同様の努力をしているが、最高裁が主であるようだ(平成十八年度の広報予算は最高裁一三億円、法務省三億円、日弁連二四〇〇万円という)。この最高裁の広報活動は、裁判員法附則二条一項が政府とともに最高裁にも制度の広報義務を課していることに基づくものだが、果たしてこのようなことが憲法に照らして許されるのであろうか。

 憲法八一条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と定めている。いわゆる違憲審査権であり、最高裁が「憲法の番人」と呼ばれる所以だ。この権限は法令の衣を被った行政と立法の行過ぎをチェックして、国民の権利を守るためにも大切なのだが、憲法の右条文上も明らかなように、それはあくまで具体的な訴訟(訴訟や抗告など)における裁判として行使されるべきものだ。だから最高裁はこの権限を裁判の場でフリーハンドで行使することができるように、司法行政の上でも中立性、公平性を保つために最大限腐心し自戒しなければならない職責があるはずだ。

 もとより新しい裁判制度を国民になじませるために広報活動をすることも、憲法問題など何もない場合ならば、最高裁の司法行政上許されることだろう。しかし裁判員制度は既述の通り「違憲のデパート」といわれるほど多くの違憲の疑いを抱えている。だから最高裁は裁判員法が作られる際「裁判員法は憲法問題を含んでいるから、その広報は行政でしてもらいたい。最高裁は同法とは一定距離を保ちたい」として広報義務を拒否すべきであり、法廷の改造等の庁舎改築も、政府による広報活動の結果を見て要否を判断すべきだったのではないか。

 最高裁が裁判員制度の広報に懸命であることは、同制度およびその運用に関して通常予想されるような憲法問題について、将来の争訟を待たずに早々と最高裁が「合憲」のお墨付きを与えるもの、つまり違憲審査権を事実上放棄するもの、少なくともその疑いを招くものではなかろうか。

 なぜなら広報に努める最高裁があとになって制度の「はしごを外す」ような違憲判断などすることはあるまいと、誰もが考えるからだ。もしこれが真実だとすれば、これは最高裁自身が犯す重大な憲法違反の疑いではなかろうか。最高裁はどう説明するのであろうか。これは心ある法律家の多くが抱いている疑問である。

 裁判員法附則二条一項が政府のほかに最高裁にも裁判員制度の広報義務を課したのは、将来裁判において最高裁に違憲判断をさせないためだとの趣旨の論も聞くが(田中克人著『殺人犯を裁けますか?---裁判員制度の問題点---』)、もしそうだとすれば、これは関係当局がいかに将来の違憲判断の出現を危惧しているかを示すものであると同時に、あってはならない恐ろしいことではないか。

 最高裁はこのような重大な問題のあることも全く知らぬげに、裁判員制度の広報に努めている。人権擁護を使命とする日弁連も指摘しないし、マスコミも報道しないから、国民も知らない。日本国憲法のもとでこんなことがあっていいのか。「憲法の番人」以下すべてがこの制度に舞い上がってしまっているかのようである。
 
◇施行前に廃止を

 当局やマスコミは、裁判員法は平成二十一年五月までに当然に施行され、裁判員制度が始まると言い、国民もそう思い込まされているが、これはおかしい。
 
 裁判員法附則二条二項は施行に条件をつけている。同法の施行の日を決める政令を定めるに当たっては、政府および最高裁の広報活動「の成果を踏まえ、裁判員の参加する刑事裁判が円滑かつ適正に実施できるかどうかについての状況に配慮しなければならない」と規定しているのだ。裁判員法を作ってもそれが円滑かつ適正に機能するかどうかは、裁判員になる国民の協力如何によるのだから、その協力が得られることを確認してから施行せよと言っているもので、当然のことだ。平成二十一年五月までに当然に制度が始まるように言うのは、この規定を無視するものである。
 
 ところで最高裁は平成十八年一月、二月に裁判員制度について全国の二〇歳以上の男女八三〇〇人を選んで意識調査を行い、六二・三%に当たる五一七二人から回答を得たが、回答によると、「参加したい」「参加してもよい」が計二八%、「参加したくない」「あまり参加したくない」が計六二%であり、参加に積極的かどうかを問わず参加可能日数の問いに対し「一日も参加できない」が二九%、「三日以内」が三九%、「四〜五日」が八%であり、それ以上の日数は計五%、「わからない」が一九%であったという(同年4月28日付主要紙)。
 
 また読売新聞社の平成十八年十二月の全国世論調査では、七四・九%の人が「参加したくない」であったという(平成19年1月16日付読売新聞)。
 
 さらに内閣府の平成十八年十二月の特別世論調査では、「あまり参加したくないが、義務であるなら参加せざるをえない」が四四・五%、「義務であっても参加したくない」が三三・六%で、「参加消極派」は計七八%だと総括されている(平成19年2月2日付朝日新聞。同旨同日付産経新聞)。
 
 当局は裁判員制度の広報に躍起になっているから、今後同様の調査をすれば参加積極派の数は多少は増えるかも知れない。しかし国民各自が生活目的を持って忙しく活動しているという社会基盤は変わりようがないから、「参加可能日数」が大幅に増えるとはとても予測できない。
 
 そうだとすれば、今後いくら期間を置いて広報に努めても、公判期日数十回、期間数カ月以上を要する事件を含むすべての重大事件について、裁判が円滑かつ適正に行われ得る見通しなど、とても立つものではないであろう。
 
 もし裁判員法の施行を強行すれば、特に長期の審理を要する事件では、裁判員を揃って選任できないことになる。それは被告人の迅速な裁判を受ける権利の侵害にほかならない。またかりに裁判員になる人がいたとしても、その人が日当目当てだったりする危険性は排除できず(このようになることは国民一般の最も忌むところだろう)、しかも審理の中途で裁判員の不出頭により定数が欠ければ、前述の通り憲法に従う限り審理を打ち切らざるを得なくなるのだ。
 
 すなわち裁判員法附則二条二項の定める施行の条件が満たされる見込みが立たないのであり、裁判員法はこの理由によって施行を断念し、廃止されるべきものである。

「裁判員法を施行してみてうまく行かなければ考え直したらよいのではないか」とか、「段階的に良くして行ったらよいのではないか」等の意見は、どう考えても誤りだ。裁判員法の対象は重大事件であり、その一件一件の裁判の帰趨に被告人の人権が、被害者を含む社会公共の利益と安全が、切実に関係している。重大事件の裁判が全体として円滑適正に行われ得る確実な見通しもないのに、試行錯誤的に、いわゆる見切り発車的に、裁判員法を施行することなど、国としてあまりにも無責任であり、同法附則二条二項に違反し、違法なことであり、間違っても許されることではない。

 法律が施行前に廃止された例として、グリーンカード制に関する所得税法の一部改正がある(昭和五十五年三月に成立後、施行がいったん延期されたが、同六十一年一月からの施行を待たずに同六十年三月に廃止された)。
 
 さだまさし氏は「信号も守れない人に裁かれたくない」とする文章(高山俊吉著『裁判員制度はいらない』中の特別寄稿)の名かで、「もうひとつ言いたいこと。たとえ凶悪犯人であっても、人としての尊厳は守られるべきです。素人判断を押しつけ、被告人を不安の淵に追い込んでもよいという理屈はないはずです」と言っている。これは千金の値のある言葉だ。本来なら司法の指導的立場にある人が言わなければならない言葉であろう。それが民間の識者の口から出ざるを得ないところに、この制度の問題性が端的に現れていよう。
 
 最高裁、法務省、日弁連は、もしどうしても裁判員法を施行するというのならば、以上に指摘した問題点について、国民にきちんと説明すべきであり、説明できないならば施行を断念すべきである。これが国民に対する誠実な態度であろう。今や司法は、その誠実性が問われているのだ。
 
-------------文藝春秋2007.11月号

 

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