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「わたしのマニフェスト」を一挙公開
http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/191.html
投稿者 Orion星人 日時 2009 年 8 月 13 日 19:50:24: ccPhv3kJVUPSc
 

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090811/173831/?P=1

2009年8月11日

 総選挙の公示を1週間後にひかえ、今回は、わたしが2003 年9月の衆院選の際に自民党の国家戦略本部事務局から頼まれて執筆した自民党用のマニフェスト(政権公約)を全文掲載する。マニフェストには、日本をどういう国にしたいのか、という全体像が描かれていなければ意味がない。その点を念頭に入れ、各政党の気の抜けたマニフェストと読み比べていただきたい。ここに掲載するのは6年前のものであることをお断りしておく。
 なお、このマニフェストの顛末については、文末に書いた。依頼されたので、善意の市民・納税者としてかなりの時間を使って、もちろん無料で作ってあげたが、この「作品」は遂に日の目を見ることがなかった。私としては、政治家がいかにダメか、マニフェスト制作がいかに政治家にとって飾り物に過ぎないか、身につまされる貴重な経験となった。
 マスコミや識者があたかもマニフェストを政党による公約集であるかのごとく縦横斜めに切り刻んで解説しているが、全く意味のない作業である。制作する政党自体(あるいは委託された広告代理店など)にとってマニフェストとは「思いつきアイデア集」、あるいは所属有力議員の「持論集(民主党は表紙にINDEX2009と書いているが、このタイトルではまさに索引、見出し、と自ら認めているようなものだ)」にすぎない。全体を貫く思想も哲学もないし、日本をどういう国にしたいのか、あるいは国民生活のどこにどのような問題があり、それをどうしようとしているのか、が見えない。
 若干古いものではあるが、その後何も実現していない(!)ので陳腐化はしていない、ということで、「私が政党の党首ならこのような形で訴える」という雛形として参考にしていただければ幸いである。

■自民党用日本再生ビジョン草案(2003年某月某日)
《総論》
【はじめに】
 小泉首相の「聖域なき構造改革」によって、利権や既得権などを守ろうとする人々の望みは打ち砕かれた。これからは古いものの延命を図るのではなく、新しいものを創り出していく努力が求められている。
 私たちは蓄えた富のほとんどを使ってしまった。それでも足りない場合には「将来」から借りてきた。仕事のやり方や経済の仕組みを変えないまま一時的に持ちこたえていれば、昔の景気や経済成長が戻ってくるという幻想を抱いていた。
 しかし、私たちはいま、より深刻な挑戦を受けている。それは21世紀の経済や外交がすでに現実世界を支配し始めている、ということである。もし、私たちが過去100年に日本が達成した奇跡とも言われた進歩と繁栄を21世紀にも維持したいと望むなら、古い概念、期待、習慣を捨て去り、新しいものを学び始めなければならない。集団で達成した成功や繁栄に代わって、すべての人が個人として国境のなくなった世界の中で競争できる能力を身につけ、地球人としてすべての人々と共存していく道を探さなければならない。また、すべての地域は国に依存した経済単位であることを脱皮し、世界地図の上で意味を持ち、情報、資金、企業、個人が往来することによって繁栄を呼び込む自助努力をしなければならない。
 世界が従来の延長線上にあれば、体制を守る役割を持った官僚に任せておくこともできた。しかし、新しい世界に対応できる新しい社会を創るのであれば、国民すべてが新しいルール作りに参画しなければならない。それは新ビジョンを共有する政治家を国会に送り込む、ということと同義語である。
【基本認識】
 日本は1980年代初頭から迷走が始まり、それが90年のバブル崩壊後の「失われた10年」でさらに加速している。80年代半ばに起きた世界の大きな変化、とりわけボーダレス経済、マルチプル経済、サイバー経済、従来の経済が融合した新しい経済(ニュー・エコノミー)への対応が遅れたからである。いままでの対策のほとんどが、19世紀型の古い経済体制を前提としたものであるため、この10年で300兆円を超える景気刺激策が次々と行われたが、効果はほとんどなかった。経済社会を支配する法則が抜本的に変わったのだ、という現状認識がなかったために、日本はいたずらに持てる資源を浪費してしまい、国力が疲弊してきている。いま自民党は、政権担当の中核政党としてこの事実を危機感を持って自己認識し、反省しなければならない。
 たとえば、日本の景気対策は未だに公共事業が中心である。しかし、統計データによると、公共事業を1使った時のGDP押し上げ効果は0.2に過ぎない。つまり公共事業に10兆円使っても2兆円分しかGDPに寄与しないのである。一方、民間が1使った時は0.6〜0.7のGDP押し上げ効果がある。

景気が良くなるということはGDPが伸びるということである。したがって本来、日本はGDP誘出効果の薄い公共工事などで景気刺激をする代わりに、個人消費や企業の投資意欲を伸ばす徹底的な規制緩和を進めるべきであった。小泉改革ではそのことを謳ってはいたが、実際にレーガン改革やサッチャー革命などに比較してその徹底を欠いていた、と言わざるをえない。日本は子孫からの借金である国債などを発行して景気刺激にこれを浪費するよりも、世界中から企業や資金を呼び込んで、繁栄のメッカとならなくてはならない。しかし、そういう改革は遅々として進んでいない。
 なぜか? 最大の問題は、官僚が政策を立案し、それに予算を付けて実行していくという官僚主導・中央集権の日本型システムにある。このやり方は戦後の復興には効果的であったが、その後経済がより複雑になり、世界との相互依存交易が盛んになり、さらには情報や資金が国境を瞬時にまたぐグローバル経済の時代になるにつれ、その機能と効果は陳腐化してしまった。
 しかも、官僚統制経済は本質的に毎年予算を組む単年度主義である。これは、ソ連邦の崩壊などで見られた計画経済の欠陥を本質的に共有している。日本の場合も長期計画に基づき、1年ごとに若干の修正が加えられるだけで、しかも慣習と既得権が優先されるため、本質的に国も地方も時代に合わせて大きく変化することはできない。政治は官僚に若干先行してビジョンを提示するかたちになってはいるが、実質的には官僚機構の中に組み込まれ、官僚の手のひらに乗せられている、と言わざるをえない。
 しかも、80年代以降は官僚組織そのものが自己目的化し、国全体のことを考えるよりも細分化した官僚組織それぞれが局所最適化を始めてしまった。いまや官僚機構は、そのことに自分で気がついて直す「自力更生能力」を完全に喪失している。そのような官僚機構と中央集権を前提にする限り、日本は仮に正しい答えがわかっても前進できない。それほどこの問題は、日本の再生にとって致命的な障害になっている。
 たとえば、北朝鮮問題をはじめとする外交問題について、外務省に新しい外交戦略を期待できるだろうか? 金融機関の不良債権処理問題が、財務省や金融監督庁に任せておいて解決するだろうか? 荒廃した学校教育を改善する良いアイデアが、文部科学省から出てくるだろうか? すべて答えは「NO」である。したがって、日本を再生するためには、官僚機構を全部解体してゼロベースの改革を始めるしかない。
 ところが、考えてみると、それを担う母体がない。官僚組織をリストラクチャリングしようという試みは何度もあった。中曽根政権時代から行政改革が始まり、それ以降のすべての政権が官僚機構を改革しようとした。自民党にとって代わった細川、羽田、村山内閣においてもこうした試みは続けられた。しかし、それらはすべて掛け声倒れに終わり、目的は全く達成されていない。官僚機構のスリム化を目指した橋本行革の省庁再編は役所が引っ越しただけで、減った役人の数はゼロである。これは中央省庁だけでなく、地方自治体においても全く同じことが言える。

 日本の公務員は失業保険を払っていない。つまり、失業を前提としていない。犯罪をおかすなどして懲戒免職にでもならない限り、失業する恐れがないのである。憲法ですべての人の法の下の平等を謳っていながら、あたかも日本人の中に生涯保障で恩給がつく人々の集団(=公務員)という“身分”ができたかのごとくである。
 時あたかも民間企業ではリストラの嵐が吹き荒れ、多くの人々が雇用や給料引き下げなどの不安におののいている時代に、そうした現実世界と無縁の人々が将来計画を立案し、予算を付けている。これでは、世界に伍して競争力を維持していく国家ができるわけがない。そういう組織に改革案を作らせる従来の発想では、何度やっても同じことの繰り返しになるのは火を見るよりも明らかだ。
 したがって今回の「日本再生ビジョン」は官僚機構に作らせるのではなく、国民に選ばれた政治家が官僚機構を前提とせずに作る、というところまで持っていかなければならない。
 小泉首相は官僚主導体制から脱却するために、道路関係四公団民営化推進委員会などの委員会や審議会、諮問会議を連発した。しかし、それらの会議体は提言を出しただけで、フォローして実施していくという仕掛けが全くない。このため、どれもこれも言いっ放しで終わってしまい、実施する頃には官僚機構によって骨抜きにされるという従来と同様のパターンに陥っている。つまり、議論の端緒のやり方が変わっただけで中身は全く変わっていないのだ。
 だから結局、小泉改革は何も成果を生んでいない。郵政三事業の民営化も道路関係四公団の民営化も、本質的には官僚機構の延長線を是認しており、官僚組織から出てきたものが公社などのかたちで延命して残っていく。特区も同様だ。特区は現代の“出島”であり、そこだけ特例を認めるというコンセプトだから、逆に言えば、日本全体は開放したくない、規制・管理したい、という官僚の「目こぼし」思想の賜である。特区という許認可を受けなければならないわけだから、初めに中央集権ありき、官僚機構ありきを認めてしまった制度にほかならない。
 要するに、小泉首相の三大改革はすべて中央集権・官僚機構を前提とし、下手をするとそれに正当性を与えて形を変えながら巨大化・延命化することを助長しかねない。むしろ事態は悪化している、と言っても過言ではないだろう。
 改革は、やらないよりはやったほうがよい、という意見をよく聞く。橋本行革の時もそうだった。その理由は、これまで一度も手を入れたことのない中央官僚組織に、未来永劫同じではないぞということをわからせるだけでも大きな効果がある、というものだった。その論理は、小選挙区制を導入した時の論理とよく似ている。戦後一度も手をつけられなかった中選挙区制を変えるだけで二大政党ができ、政策議論が活発になる、と小選挙区制導入の旗を振った人々は言っていた。しかし「変化そのものに意義があるから変えたほうがよい」という意見は無責任だ。現に、橋本行革にしても小選挙区制にしても現在の小泉改革にしても、変化は起きても良い方向には行っていない。なぜなら、最後の味付けをすべて官僚がやっているからである。官僚組織が持っている“染色体”の恐ろしさを認識するところから、「日本再生」に向けた新しい改革は始まるのだ。


【改革のテコ】
●廃県置道と財源移転
 では、日本を再生する仕掛けとしての“改革のテコ”をどこに求めるのか? 官僚機構や委員会、審議会、諮問会議などの民間に求めないとすれば、いまの日本の制度の中では「クーデター」しかない。振り返れば、明治維新は無血クーデターであった。江戸幕府には変えることができなかった国家体制を、薩長連合がクーデターによって変えたのである。現在の日本も江戸末期と同じような閉塞状況にあるとすれば、明治維新に匹敵するクーデターを起こさなければ変わらないと考えられる。
 小泉政権がその担い手となるためには、まず官僚依存の中央集権から脱するために「第二次廃藩置県(廃県置道)」、つまり「道州制」の導入を推進して統治の単位を地方に移さなければならない。なぜなら、クーデターの具体的な手段は「新・薩長連合」、すなわち「知事連合」しかないからだ。もはや、いつ解散されるかわからない衆議院の順列組み合わせをどのように変えても“改革のテコ”にはなりえない。政権の延命につながるだけである。直接選挙で選ばれて4年間は地位の揺るがない知事たちが連携しながら改革に取り組む必要がある。
 すでにそれに向かって自然発生的に2つの動きが出てきている。1つは、地方交付税の地方移転である。国で集めて地方に配布している税金を、最初から地方に取らせるという案だ。だが、この案には欠点がある。現在の都道府県の単位で税金を持たせてみても、それはモザイクのガラスの中に血管を埋め込むようなものだから、竹下政権の「ふるさと創生」のように矮小で無意味なものになってしまうのだ。したがって財源移転は、世界と交易して経済が自立できる大きな単位の統治機構=道州を作ったうえで行わなければ意味がない。
 自治体の首長などによって「地方自治」という言葉が安易に使われているが、経済的な「自立」なくして「自治」を論じても無意味である。したがって、統治機構の基本単位は雇用創出をするための産業基盤を自前で作れるだけの十分な大きさの単位でなければならない。
 そしてもう1つの自然発生的な動きは、青森、秋田、岩手の3県による道州制を前提とした「県連合」結成の動きである。地方自治体側から見ると、もはやそうでもしなければ地域の将来像が描けなくなっているのだ。九州にも非公式ながら「九州府」を前提とした自治体の予備的な活動が見られた。また、関西の財界は戦後一貫して「府県連合」や「関西府」の設立を提言してきている。
 この自然発生的な2つの動きを、責任与党である自民党は、自らの政策として正面から取り上げるべき時期に来た、という認識を持つ。中央集権を明確に終焉させるために統治機構を再編成し、日本を「道州連邦」の国家とするのである。
 「連邦」と呼ぶ理由は、道州が基本単位で、国家はそれらが共同運営するものだ、という明確な役割分担を想定しているからである。国民の統合の象徴としての天皇制や、憲法で保証している安全、平和、そして人間の尊厳を失わない生活の保障などは、国家の仕事として残ることは言うまでもない。
 道州には産業基盤を確立するための徴税権を与える。国家はコーディネーター的機能を果たすが、教育から税制に至る競争力維持、雇用の維持に関する基本政策の策定、および実施は道州の責任となる。
 自民党は2005年をもって日本を「道州連邦」とし、それを21世紀に栄光ある国家として日本が存続するための大改革のテコにする覚悟である。

●地域間競争の促進
 経済政策は基本的に、国が許認可でもって全国一律に同じルールを当てはめることをやめ、すべて道州レベルに落とすべきである。なぜなら、1985年以降の新しい世界の中では日本全体に通用する最大公約数は見つからなくなってしまったからである。
 したがって、今後は自主財源を持った道州それぞれが、自分たちの地域が経済発展していくためのルール、あるいは政府が掲げる環境と経済発展の調和や世界に負けない国際競争力の維持といった目標を実現していくためのルールを決めていく。なぜなら、産業発展は雇用の維持につながるからである。雇用維持という最も大切な任務は、国の仕事ではなく道州の仕事になるのだ。ただし、道州によって掲げる目標は異なってくるはずだから、ルールも道州ごとの目標に沿ったものになるだろう。
 たとえば、東北地方は工業よりも観光に特化する、北海道は一律の工業化ではなく付加価値の高い第一次産業とプロフェッショナルサービスを中心とした第三次産業に注力する、ということになってくるかもしれない。それぞれの道州が自分たちの特長を生かして地域全体を「特区」にすればよいのである。自分の経営資源が足りない時には、世界中から資金や企業や人や技術を呼び込んでくればよいのである。
 そうすれば、変化は必ず生まれてくる。なぜなら、変化のエンジンが中央の巨大単発エンジンではなく、道州の中型10発エンジンになるからだ。もし、そのうちの7つが不調でも3つは活発に動くから、変化は持続する。そのうちに不調なエンジンも活力を回復して成長しはじめる。そういうパラダイム転換によって地域間の健全な競争を起こすことが、再び活力のある日本を作る必須条件なのである。
 バブル崩壊後の日本は、国が1つの解を求めて何かを解決しようとしてもうまくいかなかった。その最大の理由は、日本のように大きな国に単一の解はないからである。世界で繁栄している地域を見ても、地域連邦制のところか、あるいは人口数百万人の小国で21世紀の情報化社会に素早く対応しているところばかりである。

【国の役割】
●外交と安全保障
 その時、国の役割はどうなるのか。基本的には、外交とそれにまつわる安全保障、国家標準の設立、通貨の発行と供給管理である。
 外交については、地方独自の外交をある程度認める必要がある。北海道の外交と九州の外交が違っていてもかまわない。しかし、日本全体としての外交のコーディネーションは国がやる必要がある。外交にまつわる、より重要な問題の安全保障、すなわち防衛も道州ごとではなく国家全体でやっていかなければならない。
 また、安全保障を長期で考えると、戦後60年近く続いてきた日米安保体制は当然、再考されるべきである。東西冷戦の終焉に伴う新しい世界の枠組みの中で、日本は「アメリカとどう付き合うか」「近隣諸国との距離をどうするか」ということを真剣に考え、再定義しなければならない。
 なぜなら、9・11以降のアメリカが「本土防衛」を国家目標にしたからである。本土防衛しか国家目標にしていない国と安全保障条約を結んでも、日本の安全は保障されない。しかも、アメリカの本土防衛と日本のガイドライン法を結びつけると、アメリカが本土防衛の名目で他国を攻撃する場合、日本は後方支援をする、というふうにつながってしまう。これは冷戦時代の西側同盟国としての日本の立場を前提にしていることから来る矛盾である。日本の安全保障は「日本の本土防衛・安全保障をどうするのか」という視点から、新しい地政学の中で再定義する必要があるのだ。
 その新しい安全保障の方向性は、はっきりしている。いまはアメリカとだけ結んでいる安全保障条約を中国、韓国、ロシアなどの近隣諸国とも結んで集団安全保障体制を構築し、日本の本土防衛と東アジアの安定を図るべきである。新しい日米安保条約がその中で重要な役割を果たすことは言うまでもない。

●日本経験の共有
 もう1つ、日本には非常に大きな安全保障・外交のカードがある。「日本経験の共有」である。戦後の著しい経済発展と経済的な富の蓄積が進んだ日本ならではの世界に対する貢献策として、国作りや人材作りにおいて戦後日本が成果を上げてきた一連の作業、すなわち“繁栄の方程式”を他の国々に移転してあげるのだ。
 日本はいま、経済的に停滞し長期不況にあると一般には信じられているが、人材以外にさして資源のない日本が戦後、世界第二の経済大国となり、国民1人あたりの所得でも世界のトップにあるということは、他の国から見れば羨望と尊敬の対象であり、その国家運営のノウハウは十分な価値を持つ。日本では、いまとなっては行き過ぎた中央集権・産業優先の弊害が出てきているが、これはすべての途上国が一度は通らなくてはければならない道である。

 「日本経験の共有」によって未開発国や途上国を真摯に助けることは、日本が単にそれをできるから、ということではなく、相手国から見れば、貧困や混迷の闇から抜け出す貴重な助けとなる。これによって日本は独特な仲間作りができると同時に、場合によってはその延長線上で自由貿易市場や共通通貨などEU型の模索を行うことも可能になる。
 この新しい形態の“援助”を評価してくれる世界中の国々との連帯、また、こうした経験の共有を提供できる立場にある諸国との協調関係、経済発展関係を積極的に促進して互いに経済繁栄を図り、それらの国々と安全保障条約や不可侵条約を結んで集団安全保障体制を確立していく。そういう「武力によらない経済発展の提供」を武器とした外交政策、従来の外交政策を180度転換した新しい発想――日本が世界の中で貢献できることを通じて外交基盤を作り上げていく、という発想――が、21世紀のポスト冷戦時代には必要となる。

●国家標準
 2つ目の国の役割である国家標準の設立とは、道州別に異なっていたら非常に都合の悪いもの、たとえば電圧や周波数などの共通化である。そもそもEUができた理由はこれだった。電気のプラグの形や電圧、周波数が国によって違っていたため、ユーロアトムとヨーロッパ鉄鋼同盟がベネルクス三国から標準化を始めたことが、EUのスタートだった。日本の道州がばらばらに経済発展を始めた時には、昔のヨーロッパのように標準が変わってしまう可能性もあるので、そういうことに関しては国家として標準を決めていかねばならない。
 ここでの国の役割は、官僚が決めて全国に通達する“お上”の役割ではなく、「道州協議体」の“コーディネーター”としての役割である。その役割においても、過度のコーディネーションは避けなくてはいけない。
 すでに日本では東と西で電気の周波数が50サイクルと60サイクルで異なっているが、こうしたことによる不便は今日では技術的に解決されている。したがって、国家標準の目的は、あくまでも国民生活者の利便性と国際競争力の維持にあり、創造性を滅殺するものであってはならない。

●通貨政策・金融政策
 通貨政策と金融政策に関する国の役割も、外交と安全保障や国家標準と同じくコーディネーターである。もちろんマネーサプライや金利の調整は中央銀行の役割として残るが、日本国内での役割は次第に小さくなり、ヨーロッパ中央銀行のようにアジアの広域でその役割を担わなければならなくなってくる。
 つまり、地域通貨やIMFなどを通じ、日本を代表して近隣諸国との関係をコーディネートしていく窓口的な役割を担うわけだ。これ以外に国の役割は残らない。通貨政策と金融政策においても、国の役割は著しく小さくなるのである。
 従来のように、景気刺激のために国債や株式を購入したり、公共工事を通じた有効需要の創造のために債券を発行する、といった必要はなくなる。それらは、道州が自ら経済運営の手法を磨きながら、必要に応じて実行していくことになる。

【税制の抜本改正】
 地方への財源移転に伴い、税制は抜本改正しなければならない。
 新しい税金は2つに簡素化する。1つは道州レベルで産業基盤を確立して雇用を創出する目的のために徴収する「付加価値税」である。これは消費税とは異なり付加価値段階すべて、つまりすべての商行為に漏れなくかける。現在、日本の国民の総付加価値(GDP)は約500兆円強あるから、これに一律5%をかけると税収は25兆円になる。その代わり、法人税などの利益に対してかける税金は全部廃止する。ITを駆使すれば、付加価値の把握は比較的低コストでできるはずだが、過渡期には徴税コストを抑えるために「付加価値税徴収機構」を作り、いったん機構がまとめて徴税してから経済活動に応じて道州に分配すればよい。
 この税金は経済活動に比例して分配額が増減するから、道州にとっては経済発展が大きなインセンティブとなる。その一方で、国税という概念はなくなる。国が徴収した税金を地方に分配するという概念もなくなる。
 もう1つの税金は、コミュニティの安全で快適な社会基盤、生活基盤を作るための「資産課税」である。これは金融資産・固定資産の現在価値に対して毎年1%を課税する。相続税と所得税は廃止する。
 高齢化の進む先進国では所得の伸びが停滞する半面、年金・保険・貯蓄などの金融資産および不動産などの固定資産が増大している。途上国型の税制を持つ日本の場合、このやり方では毎年著しい税収不足が発生している。
 いま日本全体では、個人の資産と企業の資産が合計3000兆円あると言われている。これに一律1%を課税すれば30兆円になるから、それをコミュニティの税収にする。この場合のコミュニティとは、現在の3300市町村を合併や分割によって全国400ぐらいの人口30万人程度の生活基盤としての「市」に再編成したものである。日本は道州とコミュニティの二階層で統治され、それぞれが独自の財源を持ち、またお互いに重複しない重要な機能(道州=産業・雇用基盤の確立、コミュニティ=社会・生活基盤の確立)を持つことになる。
 この2つの税金で合計55兆円になる。そのうち5%=2兆7500億円を国に上納する。それが役割の小さくなった国の年間予算になる。
 以上のように税制を抜本改正すれば、現在の複雑な税体系が非常にすっきりするうえ、例外がなくなって恣意的な脱税、節税もできなくなる。つまり世界一不動産を持っている会社や世界一売上高が大きい企業が、帳簿上の操作で法人税等を逃れているという不公平を是正することができるわけだ。

【官僚制度の改革】
 日本を再生するためには中央・地方を問わず、官僚制度の改革が不可欠だ。官僚制度が持っている前提には、重大な問題が2つある。1つは資格試験を受けて入ってくることである。資格試験は、クオリティの高い人材を採用するためには効果的だが、その一方で、最初に入った組織に一生定着してしまうという大きな弊害を生む。
 つまり、資格試験に受かりさえすれば、定年退職するまで、大半の場合はそれ以降も天下りをしてその資格が使えるという身分制度が出来上がっている。人間は生まれながらにして平等であるはずなのに、日本の場合は23歳にして就業後の身分保障がある人間(公務員)と、ない人間(公務員以外の人々)の間に著しい不平等が生まれているのだ。
 しかし、組織は例外なく流転するものである。すべての組織の寿命が20〜30年という時代に23歳から60歳まで40年近くも人間が固定しているわけだから、組織が硬直化するのは当然だ。
 かてて加えて、官僚組織には民間のような「アウトプレースメントや失業の原則」が存在しない。つまり普通の会社の場合、昇進しない人、組織の中にポジションがなくなった人は外に出される。また、新しいスキルを習得しなければ陳腐化され、給料なども当然下がっていく。若い人たちに魅力ある仕事をする機会を与えるためにも、すべての人は自己研修に励み、日々努力しなくてはいけない。
 ところが、官僚組織は、どんな人でも一度採用されればどこかにはめ込むし、失業することもない。これは若い人たちの就業機会を著しく妨げているのみならず、時代の変化に対して最も抵抗する人たちの集団を作ってしまう。官僚機構がなぜ保守的になるのかと言えば、その仕掛けそのものに保守性があるからだ。最も古くからいる人たちが最も堅固に守られる、というルールになっているのである。
 さらに【基本認識】でも述べたように、恩給がついて犯罪でもおかさない限り職を失う恐れがないという身分の安定が江戸時代と同じような階級の固定につながり、いっそう時代の変化を嗅ぎ取らない集団、自ら改革できない集団にしてしまった。この“失業保険のない集団”が日本の基本政策を立案し、地方自治体の運営を行っているのである。だから、彼らの作る最近の施策が一般の民間人の感覚からずれてきてしまったことは、構造上の問題に起因していると考える。
 したがって、官僚制度の改革は「身分制度を作らない」ということを大前提にしなければならない。たとえ資格試験に受かっても、すべての公務員は5年に1回か10年に1回、資格を再取得してリニューアルしない限り身分は保証されない、というルールを作るべきである。
 もっと具体的に言うと、公務員に「ローテーション制度」を導入すべきである。現在、47都道府県、3300市町村の間に職員の正規のローテーションはない。都道府県、市町村に入ったら最後、定年退職するまでその組織に固定される。さらに、同一都道府県の中でも、A市に勤めた人がB市に異動することはない。警察職員が消防職員に転職することもない。消防職員が市立図書館員になることもない。これが地方自治体の組織が硬直化している理由であり、地方の変化と発展を妨げている最大の原因である。
 また、このような前提で人材が職務に張り付くために、それぞれの組織が人員を増加させることになる。本来、一生公務員をやるのであれば、複数の職能をマスターすることは十分、可能であるはずだ。民間の工場では“多能工化”といって、同じ人がいくつものポジションをこなせるようになっている。いまの公務員制度で決定的に欠けているのが、この考え方である。郵便配達にしても、米の品質検定にしても、結局こうした職員の雇用を守るためにIT化や経済のグローバル化に遅れてしまった、という側面があることは否めない。
 地方公務員はせめて都道府県の単位で採用し、各市町村や警察、消防などがキャリアパスになっていくというシステムにすべきなのだ。つまり、公務員を民間のやり方と同じように“多能工化”するのである。それぐらいドラスティックな改革を自民党の責任において断行し、政策の実行部隊である公務員を、自治労まで含めて一気に流動化させなければ、絶対に変化は望めない。それこそが「聖域なき構造改革」の最たるものである。そこに手をつけたら自民党は公務員の票を失うかもしれない。だが、もしそうなっても最大600万票、7000万有権者の1割足らずだ。公務員の造反を恐れていたら「日本再生」は決して実現できないと肝に銘じるべきである。


【提供者の論理から生活者の論理へ】
 道州制の導入と並ぶ“改革のテコ”は、自民党の政策を「提供者の論理」から「生活者の論理」に180度転換することだ。日本人が最も不満を感じているのは、世界で最高水準の給料をもらっていながら、その給料で買えるものが世界で最も見劣りすることである。これが提供者の論理から生活者の論理への転換の「キモ」になる。
 具体的な方法は、世界で最も安くて最も良いものが自由に手に入るようにすることだ。そのためには、生活者に選択権を与えなければならない。国が選んだものや認可したものが安全でもなければ良くもないことは、サリドマイド禍や薬害エイズ事件などで証明されている。したがって、国がこの商品は安全だとか危険だとか良いとか悪いとかは言わない。国が選択して国民に与えるという発想から、選択そのものを生活者に委ねる。その選択肢を増やすことが国の仕事になる。それが「生活者主権」という考え方である。
 もちろん薬その他の安全性や環境との調和などに関しては、十分な情報が民間の機関から一般生活者に届くようにしなければならない。しかし本来、「e‐Japan計画」(IT国家基本戦略)で提示された「すべての国民がインターネットに常時接続できるようにする」という考え方の中身は、こうした具体的な利便性の追求にあったはずである。物理的にインターネットにつながる、というだけのだけの段階から、選挙、買い物、重要な情報の検索など、国民生活のすべてにわたって「生活の中に溶け込んだインターネット」を使って、公共コストを下げながら公共サービスの質を上げることに注力したい。
 資金運用に関しても、国民がお金をどこでどのように運用しようが、国には関係ない。個人のお金に関して、ああしろこうしろ、許すの許さないのと国が言うのは余計なことだ。ただし、資産運用で得た利益や前述した資産課税については、日本で申告して税金を納めるよう要求するのは正しいと思う。
 もしかすると日本は、スイスのように二重国籍を認めるところまで大胆に議論すべきかもしれない。スイスは税金を払っている限りは二重国籍を認める。一方、日本は二重国籍を認めていない。しかし、それは日本にとって得だとは思わない。たとえば、年金生活に入った高齢者には日本で税金を納めることを条件に日本とオーストラリアなどの国籍を認め、両国で幸せな引退生活を送ってもらう。そうすれば社会的な老人福祉コストの負担もかなり軽減される。本格的な高齢化社会に突入すると、世話する人の数とされる人の数が合わなくなって介護者が絶対的に不足する。こうした問題に、外国人労働者の受け入れや高齢者が海外で快適な生活ができるような制度と併せ、いまから真剣に取り組まなければならない。
 提供者の論理から生活者の論理に転換して選択肢を増やしたら、結果的に日本はどのような国になるのか? 大半の人の給料は、3〜4割カットされるという方向にいかざるをえない。実際に賃金が下がるのか、それとも円安になってそうなるのかは別にして、そういうレベルまで下がることは避けられないだろう。しかし、その一方で大きく上がる人たちも出てくるだろう。両者の差は、21世紀の新しい産業に追随できるよう自分をリニューアルした人と、そういう努力をしないで学校を卒業した時までの勉強で一生暮らしていこうとしている人たちとの差である。リニューアルにチャレンジする機会は公平に何回も与えられるべきだが、それを拒否した人は給料が下がっても仕方がない。
 ましてや年功序列・生涯雇用という戦後の右肩上がり時代の感性は、ここで明確に払拭しなければならない。国民すべてが今日よりも明日のほうが良い生活、という約束は、多重債務に犯された現在の日本の国にはできない。唯一できることは、日本が世界のどこに比べても安全で快適な国であり、成長しようと努力する人にとっては大きな機会が用意されている、ということだけである。さらに、そうした努力をしてもうまくいかなかった人が人間としての尊厳を失うほどの生活苦にあえぐことになったら、そこに救いの手を差し伸べる憲法で保証された制度が、がっちりと受け止めてくれる。そういう国に、日本は今後10年ぐらいの移行期間をかけて生まれ変わらなければならない。
 また、生活者の選択肢を増やせば、生活費そのものは半減するだろう。とくに住宅部門の規制緩和が値下がりに大きく寄与するはずだ。道州に責任を移し、受験偏差値ではなく人材の質を競う時代になれば、教育コストなども大幅に下がるだろう。

《各論》
【生活者主権の日本再生プラン】
 今回の日本再生ビジョンのポイントは、国民(生活者)を主語にすることだ。国の政策は根本的にすべて国民のため、国民の生活を良くするためでなければならない。国民を中心に考える経済は、いくらでも浮揚するチャンスがある。生活の質を上げてコストを下げ、「生活者主権」の普通の先進国にすれば、結果的に日本は繁栄するのである。なぜなら、日本は未だに世界一お金を持っているし、稼ぎも十分あるからだ。この間、現行のシステムの基で如何に経済を浮揚するのか、と言うことに関しては、以下に述べる「税金によらない11項目の具体的な「経済再生プラン」を実行するものとする。

1.「大都市の整備」
 新しい産業を創出するために「PFI(プロジェクト・ファイナンス)」を加速し、地方税の減免を盛り込んだ「免税債」を利用して、街並み整備、職住接近の24時間タウン構築、首都圏の水際を再開発する「湾岸100万都市構想」、観光都市・横浜を運河を活用して再生する「横浜ベニス構想」を推進する。目玉は湾岸100万都市構想だ。これは横浜〜東京〜千葉・幕張に至る湾岸部の使われていない土地をベルト状に再開発して住宅やオフィス、交通網を一体的に整備し、新たに100万都市を創り出すプロジェクトだ。そのために必要な規制緩和・撤廃を行うことは当然である。

2.「住宅建て替えの促進」
 眠っている貯蓄を消費に向けるため、免税措置との併用で住宅の残存価値を評価し、所得や課税から控除する。たとえば、新築・リフォーム後10年間は償却額を課税対象所得から引き当てられるようにする。あるいは建築費に備品や什器を含め、とくにIT関連の投資を優遇する。いわゆる「書斎減税」である。さらにマンションなどの建て替えにおける容積比率の緩和や、住民の負担を最小限に抑えて新築への移管を促進することで、貯蓄が建築という消費に向かうようにする。

3.「リバースモーゲージ型生命保険の新設」
 高齢者に対し、生命保険は死亡した時に引き当てることを条件に、いま、お金を使えるようにする。たとえば、高齢者がバリアフリー住宅への建て替え、大型旅行、生前葬や墓地などの手当て、NPOや慈善事業などへの寄付、中小企業の株式購入やベンチャー投資などの消費活動をしたら、生命保険会社が支払う。その人が死んで生命保険が出てきた時にそれを引き当てる、という仕掛けを作るのだ。

4.「相続税の減免」
 高齢者が生前に消費拡大に貢献した場合、相続税の対象から控除する。つまり3.で挙げたような消費活動をしたら、それを損金として扱うわけだ。死亡時に中小企業やベンチャー企業の株が値上がりしていたら相続税の対象になるが、購入・投資時に使った金額については相続税の対象から外すのである。あるいは年金生活者が1年間に消費した分の領収書を集めておけば、それを相続税の対象から控除するという制度にしてもよいだろう。

5.「サラリーマンへの減損会計の導入」
 不動産や車など耐久消費財の評価損を損金処理できるようにする。または、時価評価と関係なく売却時に損金が出た(たとえばマンションを買い換えて損金が出たような)場合、10年間キャリーオーバーで引き当てできるようにする。つまり、将来的に地方税の一部と所得税を払わなくてよい、ということだ。さらに、自己啓発に対する投資やIT投資は経費として所得から控除できるようにする。この制度が実現すれば、サラリーマンに消費意欲が出てくることは間違いない。

6.「商店街の活性化」
 近代的なモールへの転換で一定条件を満たしたものはPFIの対象として免税債付き債券を発行できるようにする。つまり商店街の組合を債券の発行主体とするために株式会社にする。そしてサイバーモールの併設、宅配機能の充実、駐車場・駐輪場の併設を義務づける。そういうことがどうしてもできない場合は、組合員の3分の2の賛成があれば代替地を自治体が斡旋し、現有地と等価交換して新しくモールを造ることができるようにする。そのプロジェクトが良ければ、その会社に民間資金が集まってくるから、公的資金をほとんど注入せずに商店街を活性化できるわけだ。

7.「企業の跡地利用」
 工場跡地など遊休地の所有企業をPFI免税債の発行主体として認可する。ただし使用目的は、住宅や新しい産業など21世紀を見据えたものに限定する。つまり、そこにパチンコ屋や歓楽街は作らせない。ふつう、企業が跡地利用をしようと思ったら、土地を抵当に銀行から融資を受けなければならない。だから跡地利用が進まない。しかし、このプロジェクトで郵便貯金より利回りが良いとなれば、資金がどんどん集まってくる。地方がそれを奨励するなら、地方の免税債を付けてもいいだろう。

8.「公共財産の現金化」
 国、地方自治体の事業をアウトソースによって現在価値でキャッシュに換え、公債発行体の借金を減らす。たとえば、郵便事業をヤマト運輸に売ったり、厚生年金の計算業務をIBMに売ったりするのだ。これを東京都で試算すると、総額18兆円も減って無借金になる。その結果、公債発行体としての格付けがトリプルAになるから、ますます事業資金が調達しやすくなる。

9.「学校法人のベンチャー企業併設認可」
 アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)やスタンフォード大学、イギリスのケンブリッジ大学トリニティカレッジ、中国の北京大学、精華大学、東北大学など実績のある世界的な学校が日本で学校を開設できるようにする。一方、日本の学校も別法人を作り、ベンチャーファンドを組んで起業できるようにする。また、教授は一定の条件を満たせば株式を所有したり、長期休暇を取って起業に専念したりできるようにする。精華大学の場合、大学運営経費の3分の1は授業料、3分の1は国の補助金、3分の1は自分たちのキャピタルゲインと割り切って、上場企業を4つ作った。日本でもそれを可能にするわけだ。なぜなら、新しい産業は世界どこでも大学発だからである。ところが、日本は大学発のベンチャーはまだ400ぐらいしかない。中国の6000以上と比べても桁違いに少ないのだ。

10.「老人ホームの自営促進」
 独り暮らしの老人の家をバリアフリーに改築し、それまで住んでいた自宅を売り払った人たちと数人で共同生活ができるようにする。そして介護者の派遣時間を長くしたり、住み込みにしたりする。そうすることで公的資金を使って老人ホームを作らなくても、民間資金で充実した老人対策が可能になる。また、自宅を売って入居する側はかなり潤沢な資金を持ち込むことになるので、老後の不安がいっそう少なくなる。

11.「義理の里親制度による託児所」
 元気な高齢者で子供を育てた経験のある人の持ち家が一定の条件を満たしている場合、簡便な訓練をして託児所の免許を与える。これによって高齢者の社会的貢献が促進され、税金を使わずに託児所が増加して働く人が仕事に専念できる。現在の午前8時から午後6時までといった中途半端な時間ではなく、いつでも預かれるというメリットもある。
 
以上11項目が生活者の視点による「日本再生プラン」である。どの施策も制度を変えるだけで可能になる。公的資金をほとんど使わずに消費を拡大し、経済を膨らませることができる。すべて合わせれば、GNPの浮揚効果は10兆円以上に達するはずである。小泉政権はこれをすべて2005年までに実行することを約束する。

 以上が、私が国家戦略本部事務局から頼まれて書いた自民党用のマニフェスト原案である。2001年4月に小泉内閣が成立し、初めて2003年の総選挙の洗礼を受けることになっていた時期である。国家戦略本部の事務総長は、2001年に発足してからずっと元法務大臣の保岡興治さんであった。
 私の著作を読んでいれば、本草案は何も目新しいものではないし、「平成維新」などと通じる思想体系、世界観で書かれていることが理解されるであろう。自民党にも大きく変わってもらいたいと言う思いがあり、実は事務局も「戦後60年の棚卸しをして自分たちも変わらなくてはいけない」という意識が強かった。
 しかし保岡さんによると、原稿用紙40枚(16000語)にわたる本草案を小泉さんは読まなかった。理由は「長すぎる」ということであった。そこで原稿用紙2枚にしてくれ、と言われて、再び知恵を絞って2ページにしたものを事務局に持っていった。 すると、こんどはその2ページを机の上に置いて、小泉さんは「オレは勘が鋭い。あまり勉強するとその勘が鈍くなる」と言って結局読まなかった、という。
 たしかに小泉さんは政局に関しては鋭い読みがあり、その多くは当たっていた。しかし、政策に関しては必ずしも優れたものを持っていたわけではない。いわば在任の5年間にわたり小泉劇場で波瀾万丈ではあったが、その間、日本は経済的にも外交的にもズルズルと世界における立ち位置を後退させてきただけだった。鋭い政局勘と優れた政策が一致すれば、日本は大きく変われた時期だけに無念である。
 私は政党に関係なく、日本を良くしてくれる政治家がいれば誰にでも協力する、と言ってきている。私が創設した一新塾などでは民主党に行く人が多いが、それは民主党が成長しつつあり、大幅な人材不足であるためにそちらにスカウトされる卒塾生が多いだけのことである。元祖「無党派」「サイレントマジョリティーのための国作り」を20年以上にわたって標榜しているので、当然と言えば当然である。
 今回6年を経てこの草案を公開することに決めた理由は、発表されたマニフェストを読んで自民党も民主党も中心となるブレインがいないことを痛感したからである。マニフェストである以上はこの国をどうしたいのか、誰の立場に立って、何の問題をどう解決したいのか、という思想が一貫していなくてはいけない。予算の裏付けがあるかないか、などと言う批判は枝葉末節である。国民がやろうと思えば、予算は何とでもなる。そのための政策提言であり、選挙なのだ。またマニフェストはあらゆる人々に受け容れられるような癒しの言葉をちりばめてはいけない。少なくとも過去のどこに問題があり、政治はそれをどう変えようとしているのかを示さなくてはいけない。その意味では半数近い人々が反対しても、将来の日本にとって必要と思うことを述べなくてはいけない。いまの民主党みたいに発表して、反応を見ながら臨機応変に変えていくのは、哲学・思想がもともと欠落しているからである。少なくとも私のマニフェストに関して言えば、どんな反論が出ても、(最後の11項目の政策集は除いて)そう簡単には引き下がれないものばかりだ。
 6年経った今、修正することはないのか、という読者からの(予想される)質問に関しては、その後の世界情勢と、予想を上回る日本経済の弱体化、などを踏まえて書いた『最強国家ニッポンの設計図』(小学館、2009年6月発行)をご覧いただきたい。これが私の私的マニフェスト最新版である。今回はどこの政党からの依頼も受けずに、いやすべての政党に使ってもらいたいと思って、力を込めて執筆した。どの政党が政権を取るにせよ、まず落ち着いてこの本くらいを読破し、今度こそは「違いの分かる」国作りをしてもらいたいものと思っている。
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大前研一の「「産業突然死」時代の人生論」は、09年4月7日まで「SAFETY JAPAN」サイトにて公開して参りましたが、09年4月15日より、掲載媒体が「nikkeiBPnet」に変更になりました。今後ともよろしくお願いいたします。また、大前氏の過去の記事は、今後ともSAFETY JAPANにて購読できますので、よろしくご愛読ください。


 

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