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創価学会と政治 大転換のとき 〜縮小路線へ舵を切るか〜 (中野 潤)
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投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 8 月 22 日 12:39:25: mY9T/8MdR98ug
 

「ともあれ今回の大勝利、おめでとう」
 東京都議選から三日後の七月一五日、東京・八王子の東京牧口記念会館には、今年一月で八一歳になった創価学会名誉会長・池田大作の野太い声が響いた。
 自民党が、結党以来最低の議席に並ぶ惨敗を喫した今回の束京都議選。だが、公明党は逆風を跳ね返し、擁立した二三人全員の当選を果たすという離れ業を演じた。都議選での公明党の全員当選はこれで五回連続だが、今回はマスコミの事前予想で三人程度は落選すると見られていた。それだけに創価学会は「まさかの大勝利」に沸いた。
 だが表面的な勝利プロパガンダとは裏腹に、学会の中枢幹部らの表情は険しかった。この選挙で自分たちを取り巻く環境がいかに厳しいかを思い知ったからだ。今回の都議選は、投票率が前回比で。一○ポイント以上も高くなり、得票数は惨敗した自民党や共産党でさえ前回より増えていた。その中で公明党だけが、四万票以上も得票を減らしたのである。「完全勝利」といっても、世田谷では次点とわずか四〇〇票余の差で二人目が滑り込むなど僥倖に恵まれた面が大きく、間近に追った衆院選を考えると幹部らの気分は沈みがちだった。
 苦戦の背景には、多くの要因がある。例年、都議選の年は、年明け早々から全国各地の学会員たちが応援のために交代で東京に入る。だが、今年は衆院選の準備と重なり、各地域で衆院選に向けた運動を進める必要があったため、他府県からの応援の量がかなり減った。それが原因のひとつだと言われている。公明党が首相・麻生太郎に対し、都議選と衆院選の時期をできるだけ離すよう再三求めてきたのは、こうした事態を心配してのことだったのだ。
 だが、より根本的な原因は別にある。それはここ数年、創価学会内部で起きている変化に起因している。そして今回の衆院選で自公両党が野党に転落した場合、創価学会は政治進出を決定してから初めて、政治との関係を縮小させる方向に舵を切る可能性が強まっているのだ。

四半世紀ぶりの会長交代が意味するもの

 自民党総裁が小泉純一郎から安倍晋三に交代した直後の二〇〇六年九月三〇日、公明党の代表も八年ぶりに替わり、太田昭宏が新代表に就いた。太田は、創価学会で池田大作の後を追うように男子部長、青年部長などの要職を歴任した池田の直系だ。新幹事長の北側一雄も、池田が創設した創価大学の第一期生で池田門下生だ。
 そのわずか1ヵ月余り後の一一月九日、今度は二五年もの間創価学会の会長を務めてきた秋谷栄之助が突如、辞表を提出。原田稔が新会長に就任することが発表された。事実上、池田による秋谷の解任だった。新会長の原田は長年、池田の秘書役を務めた側近中の側近。一連の人事は、学会・党ともに池田が直轄統治する体制が完成したことを意味していた。
 原田は東大卒業後直ちに学会本部に入り、若い頃から池田の身の回りの世話をしてきた「学会官僚」。内部では「あくまで池田先生の有能な『秘書』にすぎず、大組織をまとめあげていくタイプではない」と評されてきた。「ポスト秋谷」の有力候補は、この時の人事で理事長に就任した正木正明か、副会長の一人で、若手幹部に人望がある谷川仕樹と見られていた。
 それがなぜ原田の起用になったのか。確かにまだ五十代前半の正木や谷川では、他の古参幹部や太田ら党幹部たちと年齢が逆転し、無理があっだのは事実だ。そうであるならば、なぜここで秋谷を替えたのだろうか。
 結局、池田が、自らと同じく二代会長・戸田城聖の門下生である秋谷を外し、自分が健在なうちに池田体制を磐石にすることが目的だったというのが、関係者の一致した見方だ。そこから将来、池田が白身の長男で副理事長の池田博正に「世襲」させる布石だとの見立てが、主に反学会の識者らの間から出されているが、現職の幹部たちは。一様にこれを強く否定する。もともと高校の教師だった博正は学究肌で、巨大組織を統括できるような人物ではないというのが、幹部たちの一致した評価だ。それは父親である大作自身が最もよく分かっており、それゆえ博正は、学会をひとつにまとめるための象徴としてSGI=創価学会インタナショナルの会長職に就く可能性はあっても、学会本体の会長への就任はありえないというのが幹部たちの解説だ。
 話が脇道に逸れたが、池田は、今回の会長交代に際しての挨拶で、「ここに集まった大切な最高幹部たちは、皆会長と同じです」と述べている。つまり、新会長の原田も、自分の下で集団指導体制を担う幹部の一人にすぎないと公言しているのだ。実際、新体制の発足に伴い、前会長の秋谷は螢居に追い込まれ、日常の組織運営は、原田、正木、谷川、それに副理事長の長谷川重夫の四人を中心とした集団指導体制に移行。同時に原田らを通じて池田の意向が、より強く日常業務に反映されるようになっているという。
 問題は、この四半世紀ぶりの首脳人事が、政界にどう影響するかだ。前会長の秋谷は、日本最強の選挙部隊である創価学会の婦人部・青年部を養成し、その指揮を執ってきた。早大同窓である前自民党参院議員会長の青木幹雄とは、秋谷が会長に就任する前からの古い付き合いで、青木がかつて秘書を務めていた故・竹下登を筆頭に旧経世会(=現津島派)などに幅広い政界人脈を誇ってきた。そして学会の集票力を背景に自民党議員たちをがんじからめにしてきた。
 一方で新会長の原田を知る政治家は、ほとんどいない。このため、自民党内からは「四半世紀も学会の集票マシーンを率いてきた秋谷が退任する影響は大きい。これからは学会が自民党のためにフル回転するのは無理ではないか」と心配する声が上がっていた。
 その秋谷を「切った」池田の真意については当時、「旧経世会人脈を誇った秋谷を退け、当分は安倍の出身派閥・清和会(森−町村派)とやっていくとの意思表示だ」との解説も出回った。確かに田中角栄以来の旧経世会人脈がもはや重要ではなくなっていたことも、秋谷を切ることができた理由のひとつだろう。だが、現職幹部によれば、両トップの交代の目的はあくまで池田が学会と党に直接、睨みをきかせることにあり、同時に党はあくまで学会の「下僕」であることを再確認させることにあったという。それゆえ、この交代劇によって直ちに変化が現れたのは、自民党との関係ではなく、公明党との関係だった。
 公明党幹部が、普段よりかなり早く、午前七時頃には議員宿舎を慌しく出て行く姿は、以前からたまに目撃されていた。彼らが向かう先は、東京・信濃町の学会関連施設。創価学会の幹部たちとの非公式な協議に出席するためだ。
 それが、公明党代表と創価学会会長が相次いで交代すると、月一〜二回程度だったこの協議が毎週のように開かれるようになった。学会側の出席者は、先ほど触れた原田、正木らの大幹部に加え、婦人部長や青年部長など約一〇人。一方の党側も太田をけじめ、幹事長や政調会長、それに国対委員長ら約一〇人だ。会合では党側が政策課題や国会の見通し、選挙情勢などについて報告し、それに学会側が注文をつけるといった形で行われる。昭和四五年、創価学会による「言論出版妨害事件」を機に、池田自らが宣言した学会と公明党の「分離」は、どうなったのか……そう考えざるを得ないほど、最近、両者の関係はより一体化してきている。

安倍晋三との密会 - 池田大作の真意

 このトップ交代劇の直前、安倍晋三は池田大作とひそかに会談した。池田はこの十数年、公明党以外の国会議員との面会要請はすべて断ってきたといわれ極めて異例の会談だったが、これも学会・公明党のトップ交代が深く関わっていた。安倍が密かに首相官邸の官房長官室を抜け出し、東京でも屈指の高級住宅地である松濤の学会施設に向かったのは、自民党新総裁に選出された二目後、首相就任の四目前の午後だった。大邸宅が立ち並ぶ一角にひっそりとたたずむこの施設は、信濃町周辺の通称「学会村」とは異なって一般には全く知られておらず、密会にはもってこいだった。
 会談で、池田はまず安倍の祖父である元首相・岸信介や父親の元外相・安倍晋太郎との交流について雄弁に語った。さらに日中国交正常化に大きな役割を果たした学会の歴史に触れながら、日中協力が今後、ますます重要になると説いたという。一方の安倍は、目前に追っていた二つの衆院補選や翌年の参院選での協力を要請した。政権の命運がかかった政治決戦を前に、安倍にとっては、公明・学会嫌いの本心を抑えても池田に会談を申し入れる理山は十分にあった。 では、池田が安倍の申し出を受けたのはなぜだったのか。この時点で、公明党代表を自分の直系の太田に交代させることはすでに決まっていた。さらに池田は、創価学会の会長も替えることも決め、そのタイミングを図っていた。それが安倍と面会した理由のひとつだったのだろう。政界との太いパイプを誇る秋谷を切るためには、学会内の不安の声を抑える必要があった。政界との関係も自らが仕切れることを見せつけておくことが得策だと考えたのだ。
 池田は一○月七日、東京・八王子の創価大学で開かれた二○○個目となる名誉学術称号の授与式で、数百人の出席者を前にあえて安倍との公談に触れた。
 「日中友好の重要性については、このあいだアンちゃんにもよく言っておいた」
 安倍に外交を「指南」してやったのだと会員たちに宣伝したのだ。最高幹部たちは、「アンちゃん」とは安倍晋三のことであるとすぐにピンと来たという。
 さらに注目すべきは安倍−池田会談の同席者だ。そこには会長の秋谷の姿はなく、副会長の一人で弁護士の八尋頼雄のみが寄り添っていた。
 八尋は、裁判対策など池田に関わる裏仕事を一手に引き受けてきた側近。政界とのパイプも太く、以前から自民党の中川秀直や二階俊博らと親しい。つまり、池田は、今後の政界との連絡役は、秋谷ではなく、八尋だということも事前に安倍に示したのだ。これは安倍にとっても好都合だった。なぜなら秋谷は、安倍が影響力を排除したいと考えていた青木の盟友で、学会との関係が秋谷頼みでは青木に頭が上がらない。安倍にとって秋谷抜きのパイプは渡りに船だった。
 自ら「夕力派」を標榜する安倍と「平和主義」を掲げる創価学会。池田の個人的な思惑もあって矛盾を棚上げして蜜月関係を演出した両者だったが、それはすぐに瓦解することになった。

二○○七年八月 密かに路線転換を決めた学会

 二〇〇七年七月二九日の参院選で安倍自民党は歴史的惨敗を喫し、自民党と連立を組む公明党も敗北した。安倍内閣は参院選から二ヵ月後に総辞職する。
 参院選後に召集された臨時国会で、参院では議長と議運委員長をともに野党の民主党が握った。自民党結党以来初めてのことだったが、その意味は極めて大きかった。中でも首相や閣僚の問責決議や証人喚問が野党の意向だけで実現するようになったことは大きな変化だった。これまでは野党側がいくら強く求めても与党側が応じなければ実現しなかった証人喚問が、これからは野党側が求めれば実現するのだ。
 そこで早くから小沢周辺で検討されていたのが、池田大作の証人喚問だった。なぜ池田なのか。
 かつて細川政権から橋本政権までの問、自民党と公明党は激しく対立した。公明党が小沢一郎と組んで細川連立政権を誕生させ、自民党を野党に追い落としたことが発端だった。細川政権で公明党からは四人が入閣。初の政権参加だった。
 これに対して自民党は、公明党とその背後の創価学会を徹底的に攻撃することによって政権復帰を果たした。攻撃の中心となっだのは、亀井静香と野中広務だった。亀井らが反学会の学者・文化人に働きかけて作った「四月会」の設立総会には、自民党に加え、社会党と新党さきがけの代表も来賓として出席した。敵対していたはずの自民党と社会党・新党さきがけは、そのわずか一週間後に一緒になって村山連立政権を誕生させた。そのことは、村山政権が「反小沢」政権であると同時に「反学会政権」だったことを示している。
 その後、橋本政権になっても、自民党は、公明党を含む非自民勢力が大同団結して作った巨大野党・新進党を支えていた創価学会への攻撃を続けた。その武器は、宗教法人法改正と池田の証人喚問だった。「政界の狙撃手」と呼ばれた野中は、村山政権で国家公安委員長に就任すると、オウム真理教の事件捜査が宗教法人法によって阻害された面があるとして、法改正の必要性を指摘。その関連で創価学会会長の秋谷が国会に参考人として招致された。自民党内には「次は池田の招致だ」との声が渦巻き、学会は「このまま自民党と対立していたら何をされるか分からない」との恐怖心が広がった。
 いまの創価学会は「池田教」であり、公明党議員にとっては池田を守ることが最大の使命だ。公明党にとって池田の国会招致は、何としても阻止しなければならない最重要任務なのである。それゆえ、自民党からの激しい攻撃に耐えられなくなった公明党・学会は、次第に小沢と距離を置き、野中に接近した。野中は近づいてきた学会に対し、「中選挙区に戻して公明党が当選しやすいようにしてやるから公明党を復活させろ」と甘い言葉を囁いて懐柔。こうしたアメとムチによって学会と小沢を引き離したことが契機となって、翌九七年には、新進党は解党を余儀なくされる。そして小渕政権下で、復活した公明党は自民党と連立を組むに至るのだ。
 野中らに脅された創価学会がどういう反応を示したのか、その一部始終を間近に見ていたのが小沢である。それだけに自民党と雌雄を決する次の衆院選に向け、今度は公明党を自民党から引き離すために、小沢が池田喚問をちらつかせてくることは確実だと思われた。自民党議員の多くが学会の協力なしではまともに選挙を戦えない体質になっている。自民党と公明党に少し距離をつくるだけで、次の衆院選は民主党に俄然有利になるのだ。
 ところが、参院選から二ヵ月後、安倍が退陣し福田康夫が首相の座に就くと、小沢は全く別の方法で公明党を揺さぶってきた。自民・民主の大連立だ。小沢は、福田との党首会談に先立って元首相・森喜朗と事前に秘密折衝を行ったが、その中で小沢は、公明党を政権から外すよう執拗に要求してきたという。
 一方で、与野党逆転の参院では一〇月一六日、小沢に近い民主党副代表の石井一が公明党から池田大作個人への上納金疑惑を取り上げて「池田氏を参考人として招致したい」と声を張り上げた。公明党には衝撃が走り、太田や北側ら幹部が緊急会議を開いて対応を協議した。
 実は、こうした事態を見越して、創価学会は参院選直後、密かにある方針を決めていた。それは微妙な方針の変更であるために表面化しなかったが、公明党が自民党と連立を組んでから初めての大きな方針転換だった。
 毎年夏、名誉会長の池田が避暑のため軽井沢に滞在する機会を利用して全国の幹部が軽井沢の学会施設に集結して開かれる恒例の「全国研修会」。八月中旬に行われた二〇〇七年の研修会で方針は決まった。これを受け、全国各地で異変が起き如めていた。
 創価学会は、自公連立後も前々回○三年の衆院選までは、個々の選挙区事情に応じ、かなりの数の選挙区で密かに民主党候補を支援していた。大阪の中野寛成や束京の城島正光など旧同盟系労組出身の議員がその代表格たった。彼らは見返りに労組票などを比例で公明党に回してきた。
 しかし、○五年の郵政解散に伴う衆院選ではそれが消えた。学会が小泉の求めに応じて彼らを切り、公明候補がいないほぼすべての選挙区で自民党を支援したからだ。その結果、中野も城島も落選。民主党からは学会シンパの議員が消えた。民主党とは完全に縁が切れたはずだった。
 ところが、○七年の研修会を境に、以前、学会と良好な関係にあった民主党の議員や元議員らに対し、学会幹部や公明党議員が再び接触するようになった。参院選の結果をみれば、次の衆院選で民主党政権が誕生する可能性は排除できない。そのため、公明党も学会も幹部が個人的なつてを活かし、民主党側とのパイプの復活に取り組むことになったのだ。基本的に自公の選挙協力は維持しつつ、水面下で民主党との関係づくりを進める - それが○七年七月の軽井沢で決まった新たな方針だった。

○七年参院選 分析結果の衝撃

 今回の衆院選は、学会にとってかつてなく厳しい状況の下で行われる。それは各種データからも一目瞭然だ。○七年の参院選比例区の公明党票は、前々回比で八六万票も減少した。過去最高得票の○五年衆院選比例区との比較では一二二万票もの減少だ。選挙区でも愛知・埼玉・神奈川の三選挙区で現職が落選する惨敗となった。
 学会では参院選後、この選挙結果について詳細な分析を行った。その結果、F(フレンド)票と呼ばれる学会員以外の支持者の票が減ったことが直接の敗因ではあるものの、地方を中心に多くの学会員自身が公明党に投票していなかったという驚愕の事実が浮かび上がってきたのである。本来は公明党への支持を外に広げるべき学会員が民主党に投票していたこの分析結果は党・学会の幹部たちに衝撃を与えた。
 原因はいくつもある。ひとつは公明党が自民党と連立を組んで一〇年、庶民の目線に立って暮らしを守るという「平和・福祉の党」である公明党が、党是に反する政策を推進せざるを得ない立場に立だされるようになったことだ。たとえば評判の悪い後期高齢者医療制度を推進したのは、小泉内閣で厚労相を務めた公明党の坂口力だった。次に入閣した国交相の冬柴鉄三は、国交省の利益を代弁するかのような国会答弁を繰り返して世論の矢面に立った。
 学会では、次の衆院選を意識して昨年三月、各種の集会で政治問題を積極的に取り上げるよう指示を出した。だが、その途端に道路特定財源の問題が大きな関心を集め、暫定税率維持を主張する冬柴や公明党への非難の声が噴出した。釈明に追われたある地方幹部は「公明党は自民党以上に守旧派と見られており、これでは選挙にならない」と苛立った。
 学会内部の軋みも指摘される。二五年ぶりの会長交代で選挙への悪影響が懸念されていたことは先に述べたが、実際、秋谷退任の後、公明党の選挙はほとんどがうまくいっていない。
 会長交代は、前述のように、池田が自分の直系の若い世代に学会運営を移行させるために行ったことだが、その世代交代が古参会員たちの不満を招き、選挙での戦闘力を鈍らせているとの指摘はあながち的外れではないだろう。池田の愛弟子たちが初めて指揮を執った参院選は惨敗だったが、その陰には、「常勝関西」をはじめ各地方組織でも世代間の軋みが起きていたことと無縁ではない。
 それでも池田は昨年三月、再び大規模な人事を行った。選挙で絶大な力を発揮する婦人部長が十数年ぶりに交代。青年部長なども若返りを図った。さらに各ブロックの責任者である「方面長」も関西など各地で交替した。八一歳になった池田は、もはや当面の選挙への悪影響よりも、自分の目の黒いうちに内部を池田色に染め上げることを最優先しているように見える。

小沢一郎と学会幹部の密会

 衆院選に向け危機感を強めていた創価学会をさらに追い詰めたのが、麻生太郎だった。
 不人気の福田康夫が首相では総選挙は戦えないとして「福田降ろし」に動き、それを実現させた創価学会。目綸見 どおり麻生を首相の座に就けたまではよかったが、その麻生が解散時期を先送りしたことで、学会にとって重要な都議選と衆院選が近づき、学会はさらに窮地に立たされた。
 今年七月に東京都議選があることは初めからわかっていた。学会にとって都議会は昭和三〇年に最初に政治進出を果たした「聖地」。学会では都議は国会議員と同列に扱われる。昨年末、ある学会幹部は「麻生さんが年内解散を見送ったことで、公明党は衆院選と都議選の両方で敗北を覚悟しなければならない」と顔を曇らせ、麻生への不信感を口にした。それでも公明党が小選挙区で候補者を擁立する以上自民党に協力を仰がざるを得ず、幹部たちは苫悩の色を深めた。
 実は、福田が突然、退陣を表明する直前の昨年八月下旬、民主党代表(当時)の小沢は、密かに京都を訪れ、創価学会の総関西長兼副理事長・西口良三と会談した。自公の問にすき間風が吹き始めたことを見越しての会談だった。かつて細川政権の頃、小沢と西口は頻繁に連絡を取り合う仲だった。
 久しぶりに西口と会った小沢は、学会が自民党と距離を置き、次期衆院選で自民・民主両党と等距離を保つのであれば、公明党が候補者を立てる小選挙区で民主党候補を降ろし、協力してもよいとの思い切った提案を行った。
 小沢の提案の背景には、元公明党委員長・矢野絢也が学会幹部の妨害で評諭活動を中止せざるを得なくなったとして学会を相手に起こした訴訟があった。民主党の菅直人や国民新党の亀井静香らは、矢野を「勉強会」に招き、次は参院に参考人として招致する構えを見せていた。学会幹部から「何としても矢野の国会招致を阻止せよ」との指令を受けた公明党は対応に苦慮していた。小沢はこれを逆手にとって「民主に協力姿勢を示せば、矢野問題も取り上げないよ」と揺さぶりをかけたのだ。
 だがこの時期、学会は首相を福田から麻生に交替させた上での早期解散を狙っていた。小沢−西口会談と同じ頃、学会の理事長である正木は、公明党幹事長の北側と共に密かに自民党幹事長だった麻生と会談。早期解散に向けた戦略を協議していた。それゆえ、学会は小沢の申し出を即座に断る。これを受けて小沢は、太田が出馬する東京一二区からの立候補を仄めかすなど両者の関係はより悪化。だがそれでも内輪の会合を含め、池田自身が小沢の悪口を言うことはなかった。

池田大作の「驚愕の指示」

 軽井沢での創価学会全国研修会は、昨年も七月最終週に開かれたが、そこでの池田の挨拶はかなり衝撃的だった。 「どんな政治状況になろうとも我々は勝たなければならない。そのためには『自公ありき』と考える必要はない」「選択肢を狭める必要はない。関係は幅広く作っておきなさい」
 つまり池田は「学会を守るためには自民党との連立に拘るな」「民主党政権に備えろ」と指示したのだ。昨年は研修会の時期に福田康夫が内閣改造に向けた最終調整を行っていたため、公明党幹部の姿はなかった。だが、一部の議員たちはさっそくこの池田発言に沿ってメッセージを出し始めた。たとえば、将来を嘱望されて衆院に鞍替えする前参院議員・遠山清彦だ。新聞のインタビューで「『自公』ありきではなく、どの枠組みが国民のためになるかとの視点で臨むべきだ。政策実現のためには『民公』の選択肢も排除しない」と発言した。
 とはいえ選挙は戦いである。とりわけ第一線で動く婦人部の活動家に「一部では民主党と協力」などと複雑な指示を出しても運動量が落ちるだけだ。今回も小選挙区に公明党候補を擁立する以上、基本は自民党と協力して戦うしかない。その結果、「財源なき政策、危うい安全保障政策、鳩山代表の偽装献金問題を訴える」(北側)と民主党批判を強めざるを得ない。選挙が近づくにつれ、池田の指示は無視されているかのように見える。しかし、それは表面的な見方だ。
 自公連立の一〇年で、両党の選挙協力は著しく深化した。公明党が候補を立てる八つの選挙区以外では、公明党・学会が自民党候補を支援し、その見返りに自民陣営から公明党の比例票を出してもらうというバーターがあたりまえのことになった。ところが、今回の衆院選は少し様相が異なる。自民党が支持率二割を切るような麻生の下で選挙戦に突っ込むことを決めたため、いくら公明党の比例票を増やすためといっても、評判の悪い自民党への投票を一般有権者に依頼するのは難しい。そのため自公の選挙協力は自ずと限定的になる。
 その一方で、自公両党の亀裂を見越して、民主党候補が地元の学会幹部に協力を求めるケースも片地で相次いでいろ。申し入れを受けた学会側も、○七年に決めた「民主党とのパイプも作る」との方針がベースにあるため、選挙区によっては限定的ながら民主党候補との協力を行うところも出始めている。それも過去に公明党と協力関係があった候補だけではない。たとえば岡山県では、前回の衆院選で初めて小選挙区で勝った若手の前職との間でそうした動きが見られるという。
 中央でも、民主党政権誕生を見越した動きが始まっている。
 六月三日夜、都内のレストランで、公明党出身の現職閣僚である環境相・斉藤鉄夫と創価学会副会長の中上政信が、東京電力労組の委員長らと向き合っていた。東電労組側が、温室効果ガスの削減目標や「環境税」導入などで東電に厳しい姿勢を示している斉藤と一度、意見交換をしたいと旧知の中上に頼んで実現した。だが、仲介役の中上には別の思惑があった。それは労組を媒介にした民主党と公明党との連携だ。
 一般には全く無名の中上だが、創価学会で長年、労組とのパイプ役を務めてきた。かつては同じ「中道政党」たった公明党と旧民社党の選挙協力=いわゆる「公民協力」を推進し、労組の中でも旧同盟系労組と極めて親しい関係にある。細川・羽田両政権で公民両党が一緒に政権を作り、その後、新進党を創価学会と旧同盟系労組が一体となって支えていたころは羽振りがよかったが、その後、公明党が自民党と連立を組むと出番が少なくなっていた。ところが、自民党の凋落が明らかになって民主党とのパイプ作りが学会にとっての課題となってきたため、中上の持っている労組とのパイプが再び脚光を浴びているのだ。
 民主党は、仮に今回の衆院選で単独過半数を獲得したとしても、参院では過半数の議席を持っていないため、社民党や国民新党と連立政権を作ることになる。だが、社民党は原子力政策では「反原発」、安全保障政策では「反安保」。社民党との関係で政権運営が行き詰まることも予想される。そこで、民主党が連合を介して公明党に助けを求めてくる場汲ゥ゙出てくるというのが、公明党や学会の期待なのだ。
 先に紹介した斉藤と労組の会合では、原子力政策では公明党と民主党の政策が一致することが確認され、民主党を支える東電労組側からは、民主党政権が出来た場合、公明党との協力関係を大事にしたいとの考えが示されたという。
 公明・学会としては、民主党政権が誕生したからといって、選挙で戦った相手にすぐに擦り寄るわけにはいかない。だが、一方で政権与党を完全に敵に回せば、かつて野中や亀井に攻撃された悪夢が蘇る。それを防ぐためにも、連合との関係を深めておくことには大きな意味がある。それゆえ最近では中上に限らず、理事長の正木や公明党幹事長の北側、それに副委員長の井上義久らが、連合会長の高木剛らと相次いで会合を持ち、関係の強化に躍起になっている。
 民主党政権が誕生した場合の対応をめぐっては、七月二一」日に開かれた公明党の拡大常任役員会で、政調会長の山口那津男が「衆院選後の政権の枠組みをどうするのかと報道各社のインタビューで必ず聞かれる」と指摘。代表の太田が「今は自公で勝つ』と言うしかない。後のことは分からない」と応じる場面もあった。ある幹部は「『連立野党』はあり得ない」として、民主党政権が誕生した場合は、自民党と決別する考えを早くも明確にする。 昨年の研修会における池田の発言をみても、民主党政権が誕生した場合、公明党が民主党との関係修復を急ぐことは確実だ。だが、そこから先の方針は、まだ何も決まっていない。

小選挙区撤退論が強まっている理由

 公明党は自分たちの力だけで小選挙区を勝ち抜く力はないため、二大政党のどちらかと全面的に協力せざるを得ない。それゆえ今回も自民党と協力するわけだが、一〇人にも満たない議員を通すために、二大政党の一方と全国的に協力するというのはいかにも効率が悪い。それでも自民党政権が安定していた時は、自民党との協力によって比例代表の公明票をかなり増やすことができたが、現在のような状況になると、そのメリットもわずかだ。それに選挙で敗ければ、かつてのように政権側から激しい攻撃を受けるリスクが高まる。
 こう考えてくると、今回の衆院選で自公が野党に転落した場合、もはや公明党が自民党と細んで与党の民主党と敵対するという選択肢ほとり得ない。一方で、その次の衆院選で今夜は民主党と手を組んで同じことをやるのかといえばそれも無理がある。民主党が半永久的に与党であり続けるとの見通しがなければ、そんな危険な賭けはできない。常に与党であり続ける大政党がなければ、これまでのような戦術ほとり得ないのだ。
 それでは、創価学会は今後、政治との関係をどうしたらいいのか。内部では、政治との関係を縮小させるしかないとの意見が強まっている。
 創価学会では、数年前から、夏の軽井沢での研修会などで、政治との関わりをどうしていくべきかについて議論を繰り返してきた。その中では、今の小選挙区比例代表並立制を中選挙区に戻すことができればベストで、それが無理ならば小選挙区から撤退して、比例代表に特化するしかないとの意見が多数を占めているという。
 衆院選での獲得議席は、前回が小選挙区八、比例代表二三の計ご二議席。今の選挙制度になってから公明党として戦ったここ三回の衆院選は、いずれも三〇議席台前牛だった。 わずか八つの小選挙区での議席を維持するため、学会は運動員を周辺の都道府県から大量にその選挙区に投入。同時に自民党の支援を得るため、八つの当該選挙区以外のほぼすべてで自民党候補を支援するなど膨大な犠牲を払っている。
 仮に比例代表だけに特化すれば、小選挙区に割いているエネルギーも比例に注入できる上、自民・民主を問わず、公明党の比例票を出す上でより協力的な候補と臨機応変に選挙協力を進めることが出来るため、比例の議席を今より二〜四議席程度は増やすことが可能だと学会では試算している。そうであるならば、小選挙区から撤退しても差し引きで四〜五議席程度減らすに止まり、国会の中での公明党の存在感にあまり変化はないと見られる。 それに比例代表に特化すれば、国会で時の政権に対して是々非々の態度で臨んでキャスティングボートを握ることができる。その方が政策実現の上でも有利であり、いまはあまりにも無駄な犠牲を払っているのではないか - それが学会の多数意見だ。とりわけ若い世代ほど縮小路線を唱える傾向にあり、衆院からの完全撤退を主張する若手幹部も少なくないという。
 だが、これまで学会は縮小路線に転換する決断ができなかった。それは衆院への進出を決めたのも、小選挙区制の下で戦い続けることを決めたのも、池田大作本人だからだ。最高幹部たちは池田に異を唱えることになる縮小路線への転換を言い出せないでいる。 だが、その池田本人にも変化が見られる。先に紹介したように池田は、もはや国会で少しばかり議席を増やすことよりも、自分の没後も学会が「池田教」であり続けるよう手を打つことに関心を集中させている。さらに学会系の月刊誌『潮』での池田の功績を綴った連載では、池田自身がそもそも衆院への進出に反対だったことを明らかにしている。これも縮小路線へ舵を切るための布石だとも読み取れる。
 政治に進出して五四年。一貫して議席の拡大を目指してきた創価学会は、衆院選後、縮小路線に舵を切ることになるのか。学会は大きな転機を迎えている。    (文中敬称略)

 雑誌「世界」9月号より

 

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