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腐敗した所得配分システムの矛盾 ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだより
http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/807.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2009 年 8 月 26 日 06:43:04: KqrEdYmDwf7cM
 

ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだより
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-140.html


リンゼーのサイクル理論とその予測

選挙が週末に迫っている。そのため、今回は日本について記事を書いてみたい。一昨年、ジョージ・リンゼーのサイクル理論に基づいた日本の未来予測を紹介した。過去に何度も紹介した以下の予測である。しつこいようだが再度掲載する。

「リンゼーの本には非常に多くの具体例が紹介されているようだが、これを試みに日本に当てはめるとちょっと面白いことが分かる。戦後日本の出発点はいうまでもなく1945年の敗戦だろう。終身雇用、護送船団方式、行政指導など日本型システムの骨格を成す国家管理型資本主義の枠組みは戦時中にすでに存在していたものの、これが経済成長を本格的に達成するために基盤として導入されたのは戦後になってからである。その意味では、1945年はまさに現在の日本の出発点だといえるだろう。

1945年からちょうど40年後は1985年、41年後は86年だが、興味深いことに85年はバブル経済の発端となったプラザ合意(先進5カ国蔵相)、86年にはバブル景気が始まった年である。バブル景気はまさに日本型成長モデルがもたらした成果だったので、ちょうど 1945年の敗戦で本格的に導入されたシステムが発展し、バブル景気で最高潮を迎えたといえるだろう。それは日本型成長モデルの始まりから終結へと向かう過程だった。

さらに1945年から55年後は2000年に当たる。小泉政権が誕生し構造改革がスタートするのが2001年 4月26日なのでほぼその時期に匹敵する。57年後の2002年は政府の不良債権処理策の否定面が出て株価が7000年台に突入する2003年に近い。これらの出来事からみると、55年ないし57年の周期では1945年に導入された日本型システムは完全に破綻し、寿命を終えたように見える。その後は構造改革に基づく市場原理主義のモデルが導入された。

では未来はどうだろうか?45年から64年後は2009年になる。2年後だ。この頃に敗戦期に匹敵するような巨大な変動があり、それに伴いまったく新たな社会システムが導入されるのかもしれない。自民党は2009年頃には消滅し、日本はまったくあらなた政治勢力が支配しているのかもしれない。」

現在、小泉構造改革の負の遺産の十分な反省が欠如した自民党には強い逆風が吹き、解体か消滅の危機に瀕している。昨年くらいまでは誰も予想しなかったような、日本の政治システムに根本的な構造転換を迫るような事態が進行しつつある。その点では、リンゼーのサイクル理論を日本に適用した上記の記事の予測は的中しつつあるといってよいのかもしれない。

大変動とこれから起こる可能性のあること

だが、2009年が1945年に匹敵するくらいの歴史がリセットされる時期で、その時に日本のシステムが大きな変動を経験することになるならば、それはどのような「大変動」なのかその中身を改めて具体的に押さえておくことが重要になるだろう。

自分の国に関することなので、無用な不安をもたないためにもこの点は重要である。確かに、未来にはあらゆることが起こる可能性は一応ある。だが、そうした事態の中にも起こり安い事態と、そうではない事態があるはずだ。

極端な予測と不安感

例えば、年内に日本で極右軍事組織による軍事クーデターが起こり、北朝鮮なみの独裁政権が誕生するという予測と、民主が300議席を獲得する一方、自民の獲得議席が100を切り、民主主導の政権が誕生するという予測では、起こる可能性はまったく異なる。確かに前者が発生する可能性はゼロではない。だが、現在の日本の状況から見ると、後者の可能性が圧倒的に大きく、それに比べると前者の可能性は圧倒的に低いことに間違いない。

よくあることだが、日本の状況をよく知らない海外のサイトなどでは、たとえばあたかも前者のような過激な事態がすぐに発生するかのように書いているところもある。日本に住むものであれば、そうしたサイトにたいしては現在の日本の状況を詳しく説明し、これから起こることは政権交代であり、軍事クーデターではないことを説明するであろう。軍事クーデターの発生を無用に心配するよりも、政権交代の成り行きからどのような状況になるのか見守ったほうがより生産的であることは間違いない。

ここまで極端ではないにしても、これはわれわれにも起こり得ることである。発生する可能性の低い事態を想像して不安になるよりも、将来現実的にどのような事態になる可能性が高いのか判断することが重要だろう。

このブログでは、予測や予言になんらかの妥当性があるのかどうか見るためにできるだけ客観的な立場で公開してきたが、それでも多くの人の恐怖心をあおるようである。ちなみに筆者はWeBotなどを読むと、これが予想できる最低線の状態なのか思い、形の無いものに対する不安感が逆に吹っ飛び、生きる勇気と希望が沸いてくるのだが、そうではない人も多いようだ。

WebBotなどは海外の状況に関する予測である。しかし、われわれの生活する日本に関する予測となると話は異なる。われわれの感情を惹起させる直接的な影響力があるだろう。不安に駆られてむやみに感情的に反応しないためにも、社会システムの正しい理解は重要だと思う。

状況の理解とは社会システムのメカニズムの理解

判断をするためには、いまの日本の状況をできるだけ正確に理解しておくことが大切だ。そして状況の理解とは、われわれの社会システムがどんなメカニズムで動いているのかその構造を理解することである。例えば、エンジンに問題がある車を運転しているとき、エンジンの構造に対する最低限の知識さえあれば、ある程度エンジンの問題を突き止めることができるので、このまま運転し続けるとどういうことになるか予想することができるというのと同じだ。つまり、システムの構造が理解できると、将来起こる可能性の高い事態がある程度見えてくるというわけである。そうであるなら、将来それを回避することもできるだろう。

マスメディアにだまされないために

またシステムの知識を得ることは、メディアのプロパガンダにわれわれが影響されないためにも重要である。いまマスコミなどでは「公務員が多すぎる」「公共投資のばらまきはやめるべきだ」「あまりに無駄が多い」「霞ヶ関は解体すべきだ」「日本は破産しつつある」などの論調が流布しているが、こうしたものには正確な状況判断に基づいているものあれば、単なるプロパガンダやまったく根拠のない幻想であるものも多い。

2005年、構造改革を唱える小泉政権が勝利したが、この政権は政府の経済に対する管理機能を大幅に緩め、それを市場のメカニズムによって置き換える市場原理主義の政権だった。

当初国民は、市場原理の活性化による所得の伸びと経済が新たな成長軌道に入ることを期待したが、結果は正反対であった。族議員の解体、規制緩和、談合の禁止などプラスの側面はあったものの、日本経済の外需に対する依存度の増大、医療システムや公的年金、そして福祉などの生活維持に必要な基礎的システムのほころび、終身雇用の放棄と解体、労働者派遣法などによる保証のない派遣労働者の激増、先進国でも有数の格差社会の出現、自殺率の増大、外資系金融資本による国民資産ののっとり、経済諮問会議メンバーなどによる民営化利権のむさぼり(この点は民主党政権のもとで明らかになるはず)など、これで日本経済は自力で経済を回復させる機能を失い、明らかに大多数の国民にとってはマイナスの結果ばかりが目立った政権となった。

しかし、日本社会のシステムの知識をもとに小泉政権の政策を判断すると、日本がこのような事態に陥ることは、遅くとも2002年くらいには十分に予測可能であった。今回の金融危機がなくてもこのようなことは確実の起こったはずである。事実、多くの論者がこれを予測し、早期に警告を発していた。森田実氏や植草一秀氏、そして金子勝氏、本山美彦氏、関岡英行氏などはそうした論者の代表であろう。一部を除いてこうした論者の多くが主要メディアから排斥されたことも記憶に新しい。

しかし、2005年の総選挙の結果は小泉自民の圧勝に終わった。いわば「構造改革」を大合唱するマスメディアの大規模なプロパガンダにのせられ、日本国民は自分たちの生きる社会を自らの手で解体し、そして貧乏になるプロセスを開始してしまったのだ。

このような愚行の繰り返しを防ぎ、メディアにだまされないためにはどうしたらよいのであろうか?それには日本の社会に関する基礎的な知識と認識を持ち合わせ、メディアが宣伝する政策を実行した場合、どういうことが起きるのかきちんと判断できる力をわれわれ一人一人が身につけることである。

いずれにせよ、こうした目的で、これから数回に分けてリンゼーのサイクル理論の適用から見えてきた2009年から始まる大変動の中身を、日本のシステムの理解を前提にかいま見ことにする。

社会のサバイバルの原則

最初に、単純だが重要な原則を確認しておきたい。拙著『こんな時はマルクスに聞いて見よ!』にも記した点だ。

国際社会などという言葉が頻繁に使われるが、フォーリン・アフェアーズ誌の有名な論文にもあるように、国家間の関係では、警察力で秩序を恒常的に維持する政府のような機関は存在していないので、国際社会なるものが実際に存在しているかどうかは相当に疑わしい。

これはどういうことかというと、世界は基本的には弱肉強食であり、この状態は18世紀以来あまり変化はしていないということなのだ。そしてそうした弱肉強食の世界でサバイバルに失敗する国も多く存在するのが世界の現状である。

社会のサバイバルのための5つの原則

だが、弱肉強食の世界は分かるとしても、サバイバルに失敗するということはどういうことだろうか?少し分かりにくい。

一言で言うと、サバイバルの失敗とは、国の経済政策の失敗などで経済が縮小し、自力で国民を食わすことができなくなったり、内乱や革命による混乱で社会の機能が麻痺したり、戦争に負けて他国の侵略を受けるような状況である。1945年に日本は敗戦を経験したが、それはまさに国家や社会がサバイバルに失敗した状況であった。

一方、国や社会がサバイバルするためには、次の5つの原則を充足しなければならないといわれている。細かく説明すると長くなるので、要点だけを列挙する。

A)経済システムの整備
国民が生活できるような安定した経済システムと、そのもとでの成長の確保。インフラの整備、食料生産の確保も含む。

B)社会の安全の確保
国内の安全と秩序の維持のための警察組織、ならびに外国からの侵略を防止するための軍事力の確保。
C)エネルギーの安定的な確保
社会のインフラはエネルギー源なしには機能しない。どんな状況でもエネルギーを安定的に確保すること。

D)社会的安定性の保証
どんな社会でも矛盾は存在する。こうした矛盾を放置すると社会は不安定となり、極端な場合は暴動や内乱などが発生し、社会の安定性が脅かされる。これを防止するために、医療や福祉などの機構を整備し、社会的矛盾を緩和する処置をとる必要がある。

E)教育の整備
国の経済成長は労働力の質の高さに依存する側面が大きい。また、社会のあらゆる分野では質の高い人材の確保が必要になる。これを行うためには教育のシステムを整備しなければならない。

弱肉強食の国際社会の中で、こうした条件の確保に失敗して社会が不安定化すると、それは国際的競争力の低下、長期的な停滞による社会のいっそうの不安定化、そして最悪の場合は他国からの侵略を受けることにもなりかねない。

公共性の領域

細かく分類するとまだまだあるが、こうした条件は社会の体制が資本主義であろうと、社会主義であろうと、また独裁体制であろうと、どんな国家体制でもサバイバルするためには絶対に確保しなければならない条件である。これは基本的に体制とは無縁な、どんな社会にも共通した原則である。したがってこの原則を公共性の領域とよぶ。

公共性の領域の維持と市場原理

ところで、警察や裁判所、そして軍隊や学校、医療機関、行政組織のすべてを完全に民営化した社会がかつて存在したためしがないように、公共性の領域すべてを市場原理で維持することは不可能である。最近の歴史でも1873年から1914年、1919年から1933年、そして1995年から2008年までと幾度も公共性の領域の広い分野を市場原理にゆだねる実験を行ったが、どの時代も社会的矛盾の拡大から社会が不安定になり早期に破綻している。

なぜかといえば、企業はより大きな利潤を求めて投資先を決定するからである。公共性の領域を市場の原理にゆだねるということは、こうした領域を利益を生む対象にするということである。この場合、企業が対象とし得るのは、十分な支払い能力のある国民に必然的に限定せざるを得なくなる。

しかしながら、公共性の領域はかならずしもそうした国民を対象にした領域ではない。医療や社会福祉、そして基礎教育のように、支払い能力のない国民が対象となることのほうが圧倒的に多い領域である。そのような領域を無理に市場原理だけで維持しようとすると、公共性の領域がカバーしきれない膨大な数の国民が生まれてしまい、社会は不安定化する。

そしてそのように不安定化した社会を維持するためには、警察力の増大など莫大なコストが逆にかさみ、結果的には政府の財政を圧迫する結果となる。イギリスなどはこのよい例かもしれない。

公共性の領域と社会主義

また逆に、公共性の領域をすべて政府の管理にゆだね、市場原理をいっさい排除すると、これはこれで問題を引き起こす。この場合、公共性の領域の維持は政府予算の配分に一元的に依存するため、政府と公共性の領域を担う組織との間に癒着が起こり、利権や汚職のなどの腐敗がはびこる。また、競争原理が働かない分、とても非効率になりやすい。

バランスのよいシステムと日本の特徴

このように、公共性の領域がきちんと維持できていなければ弱肉強食の世界では国や社会は生き残れない。だが他方、その維持には絶対的な方法など存在しない。政府主導のシステムを基本に、ある程度の市場原理を組み合わせたバランスのよいシステムの構築が必要になる。

ところで、公共性の領域の維持という視点から、自民党の長期政権と、その元で築かれた日本社会のシステムを見てゆくとこれまで見えなかったさまざまな点が見えるようになる。これまでの日本のシステムを大ざっぱに概観する。

日本型の安定したシステム

八〇年代の終わりに全盛期を迎えた日本型資本主義のシステムは、以下の特徴によって支えられていた。

1)終身雇用と年功序列を機軸とする日本型雇用システム

2)メインバンクとの金融的な結びつきを背景にした長期的な信用関係

3)ケインズ的経済政策を主体とした政府主導の旺盛な公共投資

4)地域と政治家とのインフォーマルな関係によって決定される公共投資を通した富の再配分システム

@ によって労働者に雇用の安定を約束した企業は、Aのメインバンクとの長期的な信用関係の構築によって息の長い設備投資が可能となり、さらにBの政府主導の公共投資によって国内の有効需要が保証されたため、巨額な設備投資の危険度が低く押さえられ、一定の利潤が保証された。

このようなシステムは、労働力の外部市場から必要な労働力を雇い入れ、必要がなくなればこれを解雇するという、絶えず変化する市場への対応が迫られる競争型のアングロサクソン型の資本主義にくらべ、はるかに長期的な経営、投資戦略を可能としたため、企業の安定成長を保証した。

さらに、公共投資が経済の牽引力になることは、国内景気を刺激するだけではなく、投資が行われる地域を選別することで、政府自らが地場産業を強化する地域を選択することができるようになった。これは、所得の低い地域に投資を配分し所得を引き上げるという効果をもたらしたため、日本型の所得再配分システムを作り上げた。

しかしながら、公共投資の地域別の配分は、明白なルールに基づいた機構を介して行われるのではなく、政治家や官僚のインフォーマルな人間関係を通して決定されたため、投資の決定に関与する人間たちがそこから利益をかすめ取るという、腐敗した関係を恒常化することにもなった。

しかし、政治的には腐敗の構造を抱えながらも、総じて日本社会はこうしたシステムがうまく機能している限り、完全雇用とまでは行かなくてもかなりの高水準の雇用が保証され、また、市場や世界経済の変化にかかわらず、どのような状況においても一定程度の成長率を確保することに成功した。それは安定した社会であった。

安定した生活世界

このように、高度な安定が保障された社会では、同じく安定した生活世界が展開した。それは生活の営みを組織化する次の三つの共同性を前提に成立した。

@会社村

企業による従業員の長期的な雇用保証は、当然のことながら企業を共同体に近い状態に組織化する。毎年の学卒者の新規雇用や定年退社を除き、社員の中途入社や退社がほとんどな いため、メンバーの顔ぶれは固定化し、彼らの間に長期的に安定した人間関係が成立した。

人間関係は、企業の指揮命令系統にしたがって上司―部下の縦の水準で組織化されたフォーマルな人間関係と、同期入社などを通して結ばれた仲間としての、横のインフォーマルな人間関係の二つの軸で構成された。

しかし、いずれの人間関係においても、正規のメンバーとして認められるためには、会社に対する最大限の忠誠心が要求されることでは変わりはなかった。反対にこれは、終身雇用制のもとでは自ら退職を選択しない限り、会社に忠誠さえ誓ってさえいれば職は保証されることを意味していた。

A専業主婦の共同性

夫が日常のほとんどの時間を企業で費やすことが期待される一方、サラリーマンの妻には夫や家族を支える専業主婦としての役割が期待された。やむをえない場合を除いて、結婚した女性が社会に出てキャリアを積むことは期待されていなかった。

家にいることを半ば強制された専業主婦は、同じ状況に置かれている他の専業主婦と地域内で主婦の共同性を形成した。共同性は、学校のPTA、団地や住宅など住まいの周辺エリアで自然に発達した。

そこでは、生活に必要な多様な情報が交換されるだけでなく、もっとも負担の大きい子育てを参加者全員で行う共同性が形成された。いわゆるママさん共同体である。

B学校の共同性

このような共同性に親が包摂されると同時に、子供も学校の共同性に包含されることが期待された。

学校では、終身雇用制のシステムで長期間働くために必要となる規範化された行動形式が教師によって媒介された。相手に対して敏感に反応し、相手の期待をどんな状況でも裏切らないように自分の行動や発現を柔軟に調整する作法などを徹底して教え込まれた。

他方、学校には生徒同士の横のつながりも存在した。教師との関係がフォーマルな縦の関係であるとするなら、これはインフォーマルな横の関係であった。ここでは、他者に対する配慮、自分の欲望や感情をコントロールする方法など、子供は所属する集団から逸脱しないでうまくやってゆくためのもっとも基本的なルールを身につけた。

公共性の領域の維持から見た日本型のシステム

小泉政権による構造改革まで日本はこうしたシステムにとって運営されてきたのだ。このシステムを一言で要約すると、終身雇用で雇用を安定させ、政府主導の経済政策で景気をコントロールする所得再配分システムということになろう。

このシステムを公共性の領域の維持という観点から捕らえ直すと興味深いことが分かる。

ところで、公共性の領域を維持する方法は政府主導である必要は必ずしもない。特にD)の社会的安定性の確保とE)の教育の整備などは、その多くの部分を地方自治体や地域の共同体が担うことができる。アメリカの保守層が考える伝統的なシステムは、警察や司法も含め、A)からE)までのほとんどの領域を地域共同体が担い、地域がどうしても担うことができない外交と軍事のみを政府にゆだねるというものであった。

公共性の領域の維持という視点から日本の政府主導の所得再配分システムを見ると、このシステムは、地域の共同体ではなく、政府が公共性の全領域の維持を担当し、それに全責任を負うことを特徴とする、強い中央集権的なシステムであるということができる。

中央集権的所得再配分政党としての自民党

このようなシステムを時間をかけて構築してきたのが、55年体制といわれる自民党主導の長期政権であった。このシステムでは、上地方への所得の再配分を、公共投資の地方への配分を通して行った。公共投資の配分を決定しているのは市場の原理ではない。上述のように、族議員、官僚、地方の有力者の3者のインフォーマルな密談によって決定された。

多くの日本人が強い息どおりを感じていたのは、このインフォーマルな決定のシステムであった。それは関係した緒集団の利権の巣窟と化し、まさに草狩場ということばがふさわしい状況を呈していた。

まだ経済が成長し、国民の所得の増大が期待できていたうちはよい。どれほど腐敗した状況が明るみに出たとしても、所得の確実な伸びが期待できるうちは、「政治は誰がやっても同じ」として我慢することができた。

確かにこのシステムは腐敗していた。公共性の領域のあらゆる側面が関係集団が利益を掠め取る対象であった。談合、天下り、族議員の口利きしかりである。しかし、この腐敗を抱えたシステムによって、経済成長と所得の伸びは確保され、社会の維持に不可欠な公共性の領域も維持されていたのもまた事実なのである。このシステムには明らかに二面性があった。

日本人の「あんたにお任せ」メンタリティー

このような、戦後の自民党長期政権のもとでは日本人に特有なメンタリティーが発達した。それは「あんたにお任せ」メンタリティーとでも呼べるものである。

多くの日本人にとって、政府、役所、会社など自分たちが所属するすべてのシステムは、自分たちが国民の意思ではいかんともしがたい存在の「お上」であった。多くの日本人にとって、自分たちが生活する「お上」のシステムが腐敗していることは公然の事実であった。それが政権を揺るがすような大問題になりにくかったのは、目の前で展開される不正や腐敗にも目をつぶり、黙って指示通りにやってさえいればすべて「お上」がめんどうを見てくれるというような期待が存在していたからだ。別なことばで言うなら、どんな不正や腐敗があっても、思考停止して自分ではいっさい判断しないというメンタリティーである。

しかしながら、このシステムのすべてが許されたのかと言えばそうでもないのもまた事実だった。

この「お任せメンタリティー」は、基本的にはすべてを「お上」に任せるものの、自分たちが満足しなければすぐさま裏で文句を言うという側面をもつ。欧米では行政などに不満があった場合、デモや裁判など直接的な行動に国民は出るが、日本人はそれとは対照的である。直接的行動に訴えて「お上」にめんどうを見てもらえなくなるリスクを犯すよりは、不満を内に秘め黙った耐えるか、個人的な文句として「お上」には分からないプライベートな場で吐露する方法を選んだ。

そのような政治的には消極的なメンタリティーが主流である限り、経済成長が実現され、所得の伸びと生活の安定が保証されている限り、「お上」の腐敗と不正は相当程度許容されたのだ。これが政権の長期的な安定性を支える基盤でもあった。

日本人の潜在的な不満

だが、このような日本人の気性にも限界があったのも事実である。その限界を露呈したきっかけとなったのは、景気の悪化による所得の伸びの停止という、バブルの破綻以降に出現した状況であった。

バブルの破綻から始まった景気後退は、当初早期に回復するだろうと見られていたが、それは失われた10年といわれるほど長期化した。そして1997年になると、アジア経済危機が日本を襲い、拓銀や山一証券などの大企業が破綻し、自殺者の数が戦後初めて3万人を突破するほど状況は悪化した。

しかし他方では、これまでと同様、族議員、官僚、企業ぐるみの不正と腐敗を伝える日々のニュースにはことかかなかった。

こうした状況を見て多くの日本人の怒りは頂点に達した。そして、これまでは、会社、役所、そして政府のあらゆる領域の不正や腐敗に目をつぶっていたに日本国民も、10年以上にわたる景気後退が続き、これまでのような所得の伸びの保証がなくなると、これまで抑圧してきた「お上」に対する鬱積した不満が爆発寸前の臨界点に達するようになった。

鬱積した怒りのはけ口

メディアの誘導もあったが、国民の鬱積した不満のはけ口になったのは、不正と腐敗で草狩場と化していた自民党政権の基盤の所得再分配システムそのものであった。この腐敗したシステムの存在こそ、長期的な不況から日本が回復できなくなっている根源的な原因だというわけである。そしてこのシステムをとことん壊し、それをはるかにクリーンで透明性の高いな別なシステムに取り替えるならば、日本は再度成長し、所得の伸びも保証されると考えたのだ。これは無理からぬことであった。

腐敗した所得配分システムの矛盾

だが、先に述べたように、自民党長期政権の屋台骨であったこのシステムは、明らかに2面性があったことも事実でなのある。つまり、これまで日本の経済成長と国民への所得の配分を保証し、さらに冒頭に説明した公共性の領域を維持することで、社会に安定性を付与していたものこそ、この腐敗したシステムだったということなのだ。実はわれわれは、こうした逆説のもとで長い間暮らしを立てていたのである。いってみればわれわれは、不正と腐敗に目をつぶる代償として、安定性を享受していたということなのだ。

しかし、非難の大合唱が始まった90年代の終わりから2001年ころの時期に、この逆説的な事実を指摘する論者はほとんどいなかった。

小泉政権の誕生

2001年、「自民党をぶっ壊す」をスローガンにして小泉政権が誕生した。多くの国民は「ぶっ壊す」のスローガンに熱狂した。小泉政権の目玉は、これまでの政府主導のシステムを民営化し、これに市場原理を持ち込むことで、腐敗の温床となっているシステムもろともぶっ壊し、これを根本的に改革することだった。

長くなるのでいったんここで終わる。第2部に続く。


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