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渡邉良明氏書評:植草一秀著『知られざる真実―勾留地にて―』を読んで 続き1
http://www.asyura2.com/09/senkyo70/msg/273.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 8 月 31 日 11:27:54: twUjz/PjYItws
 

(回答先: 渡邉良明氏書評:植草一秀著『知られざる真実―勾留地にて―』を読んで 投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 8 月 31 日 11:25:09)

http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/WA2-64.HTML


2009.6.15

植草一秀著『知られざる真実―勾留地にて―』を読んで 続き1
――植草氏の一日も早い名誉回復を祈りたい


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◆植草氏の「平等観」の原点――「みんなちがって、みんないい」の心

 今日、われわれ日本人に最も欠落している心情は、「他者を思いやる心」ではないだろうか。多くの人々がタコ壷のタコよろしく他人の事などお構いなしに、自分だけの世界に没入している感じだ。携帯電話などがその現代人の利己的な一面を如実に物語っている。

 また、今日の日本は“悪しき能力主義”や浅薄な優劣主義が蔓延している感じだ。「悪しき能力主義」とは、どんな手段を使おうともただ勝てばよい、他者を出し抜けばよいという考えだ。この思いがいきおいモラルハザード(倫理崩壊・倫理欠如)を生み出す。

 「人間の優越」に関して、植草氏は次のような考えを披瀝する。彼は言う。

 《人間に優劣はない。みんな平等だ。学校の成績は良いが絵を描けない。成績は悪いが歌を歌える。スポーツが得意だ。できることは少ないけれど優しい心を持っている。

 完全な人間はいない。同じ人間だ。皆、欠点と長所を持っている。背伸びする必要はない。肩肘を張る必要もない。失敗を恐れなくていい。皆失敗する。思いのままぶっかって駄目ならしかたない。失敗を恐れて萎縮するより、当たって砕けた方が爽やかだ》と。

 まさに“地獄の苦しみ”を体験した植草氏の言葉だけにたいへん共感を呼ぶ文章だ。同氏が拘置所内で目にしたある詩人の言葉が、これとまったく同じ思いを表現していた。その詩人こそ金子みすずである。またその詩こそ、「わたしと小鳥とすずと」である。

《私が両手をひろげてもお空はちっともとべないが、

 飛べる小鳥はわたしのように地面をはやく走れない。

 わたしが体をゆすっても、きれいな音はでないけど、

 あの鳴るすずはわたしのように、たくさんな歌は知らないよ。

 すずと、小鳥と、それからわたし、

 みんなちがって、みんないい。》

 この「みんなちがって、みんないい」という心、あるいは、Everyone is special(すべての人々がかけがえのない存在)という思いこそ、植草氏の「平等観」の原点だと思う。

 事実、植草氏はこの思いを次のように忌憚なく言い表す。

 《「優劣」の意識に立つと生きることが息苦しくなる。「平等」の平原にいれば安らかな気持ちですごせる。「優劣」意識が人とのつながりを隔てていたと思った。意識なく誰にも自然に接することができるようになった》と。

 彼は自らの“回心”を正直に吐露している。

 私事だが、私が家庭教師として接した人生最初の教え子は実は植草氏と同い年の男子だった。彼、ケイイチ君は出産時、母胎と結ばれた臍の緒が首に巻きついて仮死状態で生まれた。命こそ取りとめたものの、昏睡状態の間、彼の多くの脳細胞が死滅した。それゆえ彼は一般の子のようにはいかなかった。

 ケイイチ君が5歳のときだ。彼は道に止めてあった外国製の高級車のボンネットにのぼって跳ね回り、車の天井部分をかなりへこませてしまった。その車の所有者は近くに住む華僑の金持ちだった。その華僑がケイイチ君の首根っこをつかみながら彼の家に怒鳴り込んできた。そして、彼の父親に向かって言った、「コレ、オマエノコカ?」と。

 ケイイチ君の父親は平謝りに謝った。だが、父親はよほど堪忍できなかったのだろう。その華僑が立ち去ったあと、思わずケイイチ君の頬を殴ってしまった。

 ケイイチ君はその直後、家を飛び出し、近くの派出所に駆け込んだ。そして、一人の巡査を家に連れて来て、父親を指差しながらこう言った。「この人がボクをぶった!」と。

 ケイイチ君が中学2年生のとき、私は彼と初めて会った。実は、青森県弘前市から東京学芸大学内の知的障害児教育の教室へ内地留学していた方が私と同じ下宿にいた。彼は障害児教育を専門とした小学校教諭だった。私は彼の紹介でケイイチ君の家庭教師をすることになった。「自閉症」だという触れ込みだったが、そのわりに彼はよくしゃべる子だった。だが、学校では誰一人、彼の話し相手にはなってくれなかったようだ。

 高校受験を前にして、“できれば受験をさせたい”というのがご両親の切なる希望だった。だが、それまでのケイイチ君の通信簿は見事なまでに「オール1」だった。とはいえ、受験を前にしつつも、まずは彼の聞き役、同好の士(?)が求められた。それゆえわれわれはさまざまな所へ行った。たとえば東京周辺の山々、動物園、鉄道公園、果ては当時アイドルだったキャンディーズの追っかけまでした。ちなみに、ケイイチ君はスーちゃん(田中好子さん)の大ファンだった。池袋のデパートの屋上で彼女たちが歌っていたとき、スーちゃんを一目見たいと思った彼が私に言った。「センセイ、ボクを肩車して」と。だが、彼も中学3年生、結構、体は大きくなっていた。しかし私は彼を肩車した。ケイイチ君はすごく喜んでくれた。当時、私たち二人はまさに一心同体で“青春した”のだ。

 このような状態だったので、ケイイチ君の高校受験は見事に失敗した。だが、これはご両親も私も十分予想できたことだった。ケイイチ君との交流はその後も続いた。彼は8年間、1週間に1度は私に電話をくれた。やはり話し相手がほしかったのだろう。ケイイチ君はいま練馬区内の焼き鳥屋さんで働いている。いたって元気なようだ。

 植草氏が「ウェークアップ」に出演中、私はテレビで“輝くほどの”同氏をみながら、いつもケイイチ君のことを思い出していた。二人は、知力や知性の点ではまったく対照的である。だが、植草氏の言にもあるように「人間に優劣はない。みんな平等」なのだ。

 正直、私は、ケイイチ君と行動をともにしながらも、何一つ彼に教えられなかった。だが、彼の「聞き役」と「同好者」(?)にだけはなれた。むしろ、彼から学んだことの方が多かったように思う。実は植草氏も、数々の耐え難い体験を通して、詩人・金子みすずから弱き人々への“思いやり”と「平等観」を学ばれたように感じる。

 本著の冒頭、植草氏は、山田洋次監督が「人との結びつきで心にとめておくことは?」との質問に対して答えた言葉をあげている。山田氏の答えはこうだ。

 《一言で言えば、想像力。相手のこと、たとえばイラク戦争の空爆で死んでいく子どもや女性たちがどんなにつらい思いをしているのか。想像することは、つまり思いやること。いまの時代、注意深く相手を観察する能力がとても欠けていると思います》と。

 この人への思いやりである「想像力」こそ、植草氏の「平等観」の“力”となるものだ。そしてそれは、「みんなちがって、みんないい」の心から発していると思うのだ。


◆植草氏は何より“人柄のよい人”

 日本人が好きな言葉に「まごころ」がある。それは「良心」とも言える。イマヌエル・カント風に言えば、それは「善意志」であり、また中江藤樹の言う「良致」でもある。

 私は、植草氏の全体像を示すのは、その豊かな才能よりもむしろ“人柄の良さ”だと思う。彼は天才的な才能(いわゆる天分)の持ち主というよりむしろ努力の人であり、公平・無私の人だと思うのだ。実際、同級生のブログに次のようなものがある。

 《エリートと言われる人を闇雲に批判したい人達の決めつけ方の一つに、「お勉強だけして、まともな人間形成をしてこなかった」というのがある。事件後、彼をこんなふうに言う人がたくさんいたが、かずちゃんは勉強だけをしてきたわけではない。

 私は、中学生になってからは、一度も同じクラスになったことがないので詳しくは知らない。クラス対抗合唱コンクールの指揮者をしたこと、生徒会長になったこと、運動会の応援団の指揮を執ったことは知っている。彼がテストで一番になっても驚かなかったが、私が心底びっくりしたのは、彼が素晴らしいアスリートぶりを発揮した出来事だ。

 小学生の頃は体も小さくて、体育は苦手のようだった。その彼が、中学生生活最後の運動会のマラソンで、なんと優勝してしまったのだ! その中学校の生徒数は全部で千人弱だったろうか。男子の中で一番ということは、女子も含めた誰よりも早いということになる。彼よりもっと体格も良く、スポーツ万能と言われる生徒は大勢いた。その中で一位を取ることがどんなに難しいことか。しかも得意分野でない体育系で一番になることが容易なはずはない。人の知らないところで、彼はどんなに懸命に練習したのだろうかと思った。》

 「努力の人」と題されたこのブログは、植草氏の見えざる一面を如実に表現している。努力家という面と同時に、「文武両道」のバランスのとれた人間性がうかがい知れると思うのだ。実は、植草氏が小学1年生の頃の愛らしい話がある。ある女性は次のように記した。

 《かわいい思い出がある。小学校に入学して、まだそんなに経っていない頃だったと思う。学校からの帰り道でかずちゃんと一緒になった。ポツポツ雨が降ってきたが、私は傘を持っていなかった。かずちゃんが自分の傘に一緒に入れてくれた。彼はこういうことを、ごく普通にしてくれる子供だった。何を話したのかは覚えていない。でも彼と話すのがとても楽しかったのは覚えている。この子とお友達になりたいという気持ちが湧き起こった。

 ちょうどその時、同じ小学校の年上の男の子達が3、4人後ろから走って来て、「アベック、アベック」とからかって去って行った。二人ともびっくりして走りだし、そのままそれぞれの家まで逃げ帰った。「男の子と女の子はアベックなんだ!」と知って、それ以後、かずちゃんと私が特に親しくなることはなかった。

 この時の、私が彼を好もしいと思う気持ちは、異性に対するものなどではなく、「善いもの」に対するあこがれだったと思う》。

 私は、小学1年生のときに友だちに「善いもの」と感じさせた、“まごころ”や“人柄のよさ”を同級生のブログを通して植草氏に対して強く感じるのである。この“人柄のよさ”は終生変わらないと思う。 次に、彼の指摘する「小泉政権」の本質について論じたい。


◆植草氏が指摘する「小泉政権の五つの大罪」

 今日、政府・自民党の混迷や迷走には目に余るものがある。無論、もともと能力のない麻生氏が総理の座に居座っていることにその原因もあろう。だが何よりも、小泉政権が撒いた種が毒草やあだ花として開花し、自民党を結党以来の混乱に陥れている。まさに「自民党をぶっ壊す!」という小泉氏の言葉が、彼の思惑を越えてこれから実現されていくように思われる。私からみれば、小泉氏自身がアメリカによって日本に仕組まれた“時限爆弾”のようなものだ。それがいままで日本社会を破壊してきたように思うのだ。

 これから、20〜30年後の日本において、小泉構造改革なるものが一体どう評価されるだろうか? われわれの子孫が独立心と良識をもっていれば、完璧な“従米政策”だったとして否定的に評価されるだろう。だが、愚昧な子孫ならばそんな批判さえ起こらず、政治にすらほとんど関心を示さないことだろう。ただ言えることは、その頃にはもう自民党は消滅しているということだ。また、政治もあるいは女性たちによって主導されているかもしれない。

 実は、ほぼ20年前に上梓した自著『ゴルバチョフとケネディ―指導者の栄光と悲劇』(創流出版)のなかの終章の部分で私は次のように書いた。

 《さて、今日の政治において、“リーダーシップ”の問題が、ますますその重要性を増してきた。だが、これは、単に指導者の問題であるだけでなく、国民の政治意識・政治意欲にかかわる問題でもある。畢竟、国民の資質の問題である。

 確かに、国民と指導者とは、互いに鏡のような存在だ。つまり、低級な国民は、低級な指導者しか選べない。もし仮に、われわれ国民が、自らの指導者を低級だと思うなら、その前にわれわれ自身が低級なのである。それを自覚してこそ、心からの政治参加も真の「民主化」も可能となろう》と。 上記の「低級な国民は、低級な指導者しか選べない」という思いは一人私だけの考えではなく、たぶん多くの国民の共通認識であろう。私は正直、小泉氏も麻生氏も“低級”だと思う。だが、小泉氏は単に低級であるばかりでなく、“邪悪”でもある。

 私は、拙著『J・F・ケネディvs二つの操り人形―小泉純一郎と中曽根康弘』のなかで、小泉氏を“ラッキョウのような男”と書いた。つまり、芯も何もないという意味でそう書いたのだ。この思いはいまも変わらない。つまり彼は本質的に無責任、かつ無節操な男だと思うのだ。私は自らの直感と経験則でそう感じている。

 だが、植草氏はこのような感情的な表現は一切しない。同氏の素晴らしいところは、その持ち前の「公平さ」や「公正さ」であろう。彼は、すべての存在の表と裏、長所と短所、美点と欠点を公平に評価する。あれほどに耐え難い侮辱や迫害を受けつつも、決して人を憎まず、あらゆる物事に対してつねに“冷静さ”を失わない植草氏の度量の深さと広さに私は心から感服する。彼こそはまさに稀有な「大器」だと思うのだ。

 第一章「偽装」のなかで、植草氏は「小泉政権の政策」に関して次のように論ずる。

《小泉政権の政策を批判したのは五つの理由による。個人的な感情に由来しない。小泉政権を全否定もしていない。「改革」という言葉を広めて変革の気運を広げたことは成果だと思う。〈略〉

 しかし、政策の内容には賛成できなかった。私は小泉政権の発足時から、政策修正を表明するなら小泉政権を支持すると言い続けた。しかし、政策修正の表明はなかった。金融行政や財政政策の内容は実質的に全面変更された。だが、小泉政権が政策変更を隠蔽したため、真実を正確に知る者は少ない。

 第一は経済政策だ。深刻な不況と不良債権問題。他方で巨大な財政赤字が累積した。日本は「三重苦」に直面した。「三重苦」への処方箋として私は小泉政権と異なる提案をした。「改革なくして成長なし」と「成長なくして改革なし」の対立だ。

 第二は「改革」の具体的内容だ。小泉首相は郵政民営化が改革の本丸だと言った。道路公団民営化も改革だと言った。しかし、これらの施策を「改革」と呼ぶことはできない。真の改革は「天下り制度の全廃」である。改革の本丸は「郵政」ではなく、「旧大蔵省」、現在の財務省と特殊法人、公益法人だ。

 第三は弱者に対する施策だ。競争原理のメリットを引き出すうえで「過保護」は弊害が多い。公正な競争により活力を引き出す考え方には賛成だ。しかし、「豊かな社会」であるための最大の条件は「弱者に対する必要十分な保護」だと私は思う。弱者を守る施策を廃止する前に、高級官僚への特権措置を排除すべきだ。小泉政権は官僚利権を死守する一方で、「弱者切捨て」政策を推進した。「障害者自立支援法」がその一例だ。

 第四は外交姿勢だ。郵政民営化は小泉氏の個人的怨念=ルサンチマン(*旧田中派に対する―筆者注)と米国政府の要求によって推し進められた。2003年3月に米国がイラクへの軍事攻撃を開始した時、国連や多くの欧州諸国はイラクの大量破壊兵器保持疑惑に対し、戦争でない平和的手段による問題解決への努力継続を訴えた。米国は制止を振り切ってイラク攻撃を開始した。結局大量破壊兵器は発見されなかった。

 4年の時間が経過した現在(2007年当時―筆者注)、イラクは「内戦」の泥沼にある。米軍兵士の死者も3000人を突破した。2003年3月20日、小泉内閣は米国などのイラク軍事攻撃について、「わが国の同盟国である米国をはじめとする国々によるこの度のイラクに対する武力行使を支持する」との首相談話を閣議決定した。

 小泉政権発足後の2年間で日本の株価は半値に暴落した。地価も同様だ。不良債権の処理加速とは、具体的には企業の破綻推進と銀行における不良債権の内部処理を意味した。

貸出先企業の状況が危なくなる時、銀行は企業破綻に備えて内部処理を進める。具体的には「引当金」を積み立てる。貸出金と同額を積み立ててしまえば貸出先が破綻しても追加の資金負担は発生しない。銀行は内部処理を終えた債権をまとめて外部に売却する。「バルクセール」と呼ばれる。

 景気の深刻化、企業倒産の広がり、銀行の貸し渋りなどにより、日本企業の資金力は枯渇した。この時期に小泉政権は海外諸国に「対日直接投資倍増計画」を政策公約として示した。日本政策投資銀行などの政府系金融機関が資金援助して外国資本による日本の実物

資産底値買い取りを積極的に支援した。

 生命保険、損害保険、銀行などが次々に外国資本の手に渡った。郵政民営化を渇望したのは米国だ。米国は郵便貯金、簡易保険の350兆円の資金に狙いをつけ、米国の意向を反映した民営化法案を小泉政権に策定させた。日本の金融市場開放と競争促進政策は方向として間違っていない。だが実行に際しては日本国民の利益を優先するのが当然だ。私が異を唱えたのは、小泉政権が日本国民の利益でなく、米国政府や米国企業の利益を優先したことだ。

 第五は小泉首相の権力濫用だ。国家の三権は立法、行政、司法だ。日本は「議院内閣制」を採用しており、国民に選出される議員で構成される国会に「国権の最高機関」の地位が付与されている。国会の多数派から内閣総理大臣が選出される。内閣総理大臣は行政権の最高地位であると同時に議会多数派政党の党首を兼ねることが通常だ。この地位にある者が権限を最大に行使すると、事実上の独裁者になることができる。

 世論が政治に強い影響を与えているが、世論はマス・メディアに支配されている。メディアを「第四の権力」と呼ぶことがあるが、世論が政治を動かすことを踏まえれば「第一の権力」と呼んでもよい。問題は、マス・メディアが行政の支配下に置かれていることだ。新聞の再販価格維持制度、放送の許認可権などによりマス・メディアは行政にコントロールされる。またマス・メディアが伝えるニュースの発信源の大半は行政官庁と議会与党だ。

 内閣総理大臣が権限を最大限に活用すればメディアを支配できる。行政官庁の中心に財務省・旧大蔵省が位置する。小泉政権の任期中に財務省の権力が飛躍的に拡大した。後ろ盾になったのが小泉首相だ。

 テレビ・メディアでは政権批判者が一掃された。自民党では反対意見表明議員が追放された。議院内閣制度が想定している民主主義と異なる現実が生まれた。本来、メディアは歪んだ現状を批判すべき存在だ。しかし、現実にはマス・メディアが権力迎合に走っている。「知識人」と呼ばれる人の大半も経済的事情、社会的事情から権力に迎合している。》


 上記には、植草氏による的確な小泉政権批判がなされている。たとえば、植草氏の持論「成長なくして改革なし」こそ真実だったこと。改革の本丸は現在の財務省と特殊法人、公益法人であること。弱者を守る施策を廃止する前に高級官僚への特権措置を排除すべきこと。アメリカが攻撃し日本も追従したイラクの実情がいまだ「内戦状態」にあること。小泉政権によるさまざまな経済政策や「郵政民営化」が日本国民の利益ではなくむしろ米国政府や米国企業の利益を優先したこと。小泉首相が不当に権力を濫用したこと、などである。まさに正論だと思う。この植草氏の指摘に共感する読者は多いと思うのだ。

 「テレビ・メディアでは政権批判者が一掃された」という言葉を記したとき、植草氏には一体どんな思いが去来しただろうか? だが歴史上、「政権批判者を一掃する」ような政権や国家は必ず崩壊する。小泉氏が生み出した虚構の「自公」政権は早晩、崩壊しよう。それは植草氏や森田実氏をはじめ不当に“一掃された”政権批判者こそ「正義」だからである。正義が全うされない「政治」などもはや「政治」と呼ぶに値しないのだ。


◆小泉訪朝は経済政策の失敗隠し

 小泉政権が5年半も続くなどと一体どれほどの日本国民が想像していただろう? 実際、“1期2年がせいぜい”と思われていたのではないだろうか。同政権が誕生した背景には、森政権があまりにもお粗末だったこと、国民的人気の高かった田中真紀子氏の支援、対抗馬だった亀井静香氏を中曽根康弘氏が裏切ったことなどがあげられる。だが、最も強力な理由として、アメリカの金融資本が小泉氏をバックアップしたことが考えられる。つまり、ニューヨーク・ウォール街の大資本家たちの支援なしに同政権が誕生し、かつ5年半も存続できるはずがなかったのだ。だが、日本国民はそんな裏事情をまったく知らなかった。

 そんななか、小泉政権の経済政策がいかに欺瞞的でアメリカ追従的なものであるかを知っている心ある愛国的識者も少なからずいた。植草氏はその代表的な識者である。事実、彼は次のように述べている。

 《小泉政権発足当初から、私は日本経済が最悪の状況に追い込まれる可能性が高いと警告した。圧倒的少数意見だった。小泉首相の掲げる「改革」の内容にも疑義を唱えた。財政健全化に反対しないが、緊縮財政が財政健全化をもたらすと考えなかった。

 財政と経済の関係は「果実」と「樹木」の関係に似ている。財政は経済という「樹木」が生み出す「果実」によって賄われる。「果実」の収穫だけを優先して「樹木」を枯らしては「果実」が消滅してしまう。「経済あっての財政」で「財政あっての経済」ではない。財政を健全化させるには、回り道に見えても経済の健全化を優先すべきだ。やみくもに緊縮財政に突き進めば、経済が悪化して財政も悪化してしまう。

 小泉政権の「改革」はまやかしだった。私は「改革」の本丸は「天下りの廃止」だと主張した。小泉政権が官僚利権の本丸である「天下り」全廃に取り組むなら小泉政権を全面支持した。夕刊フジの連載コラム「快刀乱麻」でも繰り返し表明した。だが、小泉政権は天下り廃止の意思を持たないだろうと考えた。洞察は正しかった。小泉政権は天下り利権を徹底擁護した。

 日本経済は懸念した通りに崩壊の一途をたどった。株価は5月7日(2001年)以降暴落した。日経平均株価は9月12日に1万円を割った。だが、前日に発生した米国の同時多発テロが経済失政を覆い隠した。小泉政権は「米国で同時多発テロが発生し、株価が1万円を割り込んだ」と説明したが、株価はテロ発生前に暴落していた。

 「企業の破綻推進」方針の下で大型倒産が相次いだ。9月に「マイカル」が民事再生法を申請した。12月には「青木建設」が破綻した。「青木建設」破綻報道について小泉首相は「構造改革が順調に進展している表れ」だとコメントした。首相が大企業破綻を歓迎する珍しい光景が放映された。

 株式市場に動揺が広がった。首相の大企業破綻歓迎姿勢を見て、市場関係者は大型倒産の連鎖を警戒した。市場の関心は「ダイエー」に注がれた。「ダイエー」破綻は大銀行破綻の引き金と理解された。「金融恐慌」が現実の問題として差し迫った。市場に緊張が走った。

 金融恐慌の危機が迫ると小泉政権はあっさり企業破綻推進方針を放棄した。この「変節」、良く言えば「柔軟さ」が小泉政権の基本特性のひとつだ。「退出すべき企業を市場から退出させる」方針は撤回され、2002年1月、ダイエーへの4000億円金融支援策が発表された。ダイエー支援策決定の裏に政府の介入があったことは明白だ。

 小泉政権は大型補正予算を編成した。追加的な資金調達額は約5兆円だった。財政赤字は28兆円から33兆円に拡大した。緊縮財政の公約も破棄された。小泉政権は「国債発行額30兆円以下」の公約破棄を隠蔽するために、会計操作で見かけの国債発行金額を30兆円に抑制した。粉飾決算と言ってよい。

 2002年年初、小泉政権は政策失敗により窮地に追い込まれ、当初の政策方針を全面放棄した。小泉政権の政策失敗は明白だった。日経平均株価は5月23日に1万1979円に反発した。ところが、「喉元すぎて熱さ忘れる」だ。小泉政権は政策路線を再び転換した。この結果、二度目の政策破綻が生じた。

 2002年7月、NHK日曜討論に出席した。竹中経財相が登場した。2002年度の経済政策運営がテーマだった。2001年度に5兆円の財源調達を追加する補正予算が編成されたため、02年度は同規模の補正予算が編成されて経済成長率が中立になる。したがって02年度にも同規模の補正予算が必要だった。私が指摘した。補正予算が必要になるから早期に方針を明示して経済心理の悪化を未然に防ぐべきと主張した。

 私の提案に対して竹中氏は「補正予算編成など愚の骨頂」と発言した。株式市場は冷徹だった。「愚の骨頂」発言を受けて株価は再び暴落し、日経平均株価は1万円を割った。経済不安が広がったが、小泉首相は関心をそらす行動を取った。9月17日に北朝鮮を訪問した。》


 竹中氏は、本質的な知力がないゆえに、“頂門の一針”とも言うべき植草氏の指摘に対してまさに常軌を逸した反応をした。たぶん、痛いところを突かれたのだろう。だが、竹中氏は仮にも経済学者である。むしろ、植草氏の言を十分予想できたと思う。しかし、それにもかかわらず、もし竹中氏がテレビという公器のなかで植草氏の言に対して「愚の骨頂」などと言ったのなら、彼はよほどのワルである。同時に、非常に愚劣な小物である。前述したように、竹中氏は真の学者などではない。

 もし、彼が冷静な真の学者なら、日本の経済政策の責任者の「愚の骨頂」などという言葉が市場でどんな影響をもたらすか、容易に想像できたはずだ。それを意識的・無意識的に知った上でこう発言したのなら、まさに“邪悪”だ。正直、私は竹中氏の言葉のなかに日本経済に対する飽くなき“破壊衝動”を感じる。彼は、何か善なるものをつくり上げようというタイプの人間ではない。むしろ、竹中氏には売国的で“邪悪な破壊性”があると思う。正直、彼はわが日本国に対して“憎しみ”さえ抱いていると思うのだ。

 実は、この時期は田中真紀子氏が外務大臣を更迭された頃でもあった。あの気丈な田中氏が「一生懸命やっているんですがねー」と涙ながらに訴えた。それを間接的に聞いた小泉氏が「涙にはかなわない。涙は女の武器だからねー」と心ないことを言った。まさに経済政策も破綻し八方塞がり状態だった。そんななかでの「戦後初の総理訪朝」だったのだ。


 

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