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小沢一郎が、日本共産党の独裁者イルミナティ宮本顕治天皇に変貌する可能性はあるのか? 【民主主義文学『4月号事件』】
http://www.asyura2.com/09/senkyo70/msg/639.html
投稿者 愚民党 日時 2009 年 9 月 04 日 22:57:46: ogcGl0q1DMbpk
 


http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/fuwahimitu.htm#m42

民主主義文学同盟『4月号問題』事件 1983年

 〔小目次〕

   1、党中央による全面批判

   2、文学同盟側の反論

   3、“かんまんな精神的拷問システム”の5カ月間継続

   4、『葦牙』批判大キャンペーンと粛清

   5、『葦牙』側の反論

   6、「4月号問題」の性格

 1、党中央による全面批判

 1983年4月初め、党中央は、『民主文学』4月号の『赤旗』広告掲載を、発売とともに拒否した。広告の拒否は『民主文学』にたいする党中央のきびしい批判だった。当初、広告部の責任者には、載せない理由は言えない、とつっぱねさせた。その号には、小田実寄稿文が載り、「野間宏を団長として、中国訪問した」記述が“5行”あった。編集後記には、中野健二編集長の寄稿謝辞が“一言”あった。

 4月、党中央は、文学同盟常任幹事の党グループ会議を招集した。その会議へはいつものグループ会議とちがって、党中央の文化関係幹部5人を派遣した。中心は、教育・イデオロギー担当の書記局次長宇野三郎(常任幹部会員)とした。そのほかは、知識人委員会の責任者小林栄三(常任幹部会員)、文化局長兼文化部長で文学同盟の幹事でもある西沢舜一(幹部会員)、新日本出版社の幹部で文学同盟の常任幹事である津田孝(幹部会員)、文化部員の高橋芳男である。そして、4月号の問題だけでなく、最近の文学同盟の活動全般にわたって党中央が批判を行なった。宇野は、約一時間半にわたって、用意してきた原稿を読みあげた。それには三つの問題があったが、要約は以下である。

 1)「4月号」問題 中国共産党はわが党への乱暴な干渉をいまなお謝ろうとしないばかりか、依然として反党分子との交渉をつづけて反省の色がない。日中文化交流協会常任理事である野間宏らの訪中もそのひとつである。したがって野間訪中の事実を記述した小田実論文をのせ、しかも貴重な原稿をいただいて感謝するという中野健二編集長の編集後記を載せるような雑誌の広告を『赤旗』に掲載できない。また、日本の革新運動の一翼をにない、中共の無礼な干渉をうけた民主主義文学同盟(注、寄贈していた『民主文学』が送り返されてきた)の立場からも、このような記述をのせることは、運動の基本方針と伝統から逸脱した軽挙であり、思想の風化がみられる。とうぜん編集長の責任が問われなければならない。

 2)文学者の反核声明 1982年1月20日、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」が発表され、マスコミでも大きな反響をよんだ。この声明は34名の「お願い人」が文学者たちに署名をおねがいして、約500人の賛同をえたものであったが、文学同盟では中里喜昭が「お願い人」の一人になっていた。ところが、「お願い人」のなかに「反党分子」が一人入っていた。反核運動は重要だから、党員文学者がそれに署名するのはいい。しかし、あの声明の呼びかけ人には反党分子がはいっていること、また「すべての政党・団体・組織から独立した文学者個人」の署名を呼びかけていることには、党員としてはちゃんと批判すべきである。長崎の中里には、党中央文化部長から「お願い人」などになった責任を追及するきびしい電話をした。理由はいうまでもなく、「お願い人」のなかに反党分子が一人入っているということであった。

 3)民主主義文学同盟第10回大会への幹事会報告草案 (1)、中国の大国主義的な干渉が、日本の民主運動・民主文学運動に障害をもたらしている事実に言及すべきである。(2)、革新統一運動の一翼としての文学運動であることの認識が弱い。(3)、現代の危機を悲観的にとらえ、危機とたたかっている革新勢力についての記述がよわい。環境破壊や科学技術についても、文明の終末論的にとらえられていて、独占資本の経済的ゆきずまりや、科学技術を民主的にコントロールできなくなっている事実にはふれていない。(4)、戦後民主主義のブルジョア的限界にふれず、民主主義を絶対的に擁護すべきものとしてとらえている。(5)、個の確立が抽象的に強調されすぎている。(6)、『民主文学』の作品はみな褒めてあって、問題点の指摘がなく、めでたしめでたしになっている。(7)、全体として近代主義的で、思想のノンポリ化がめだつ。

 文学同盟の幹事会で決定してプリントまでされた大会報告草案に、党中央が全面的に批判を加えることは、これまでないことだった。しかも、文学・イデオロギー関係の幹部5人が勢揃いして、ながながと批判した。宮本顕治氏と党中央は、「4月号」問題を機に、民主主義文学同盟の徹底的な思想改造を意図したのであった。これらの党中央見解原稿は、事前に宮本氏の見解に基き、宮本氏と5人が綿密に打ち合わせし、作成したものであった。宇野(元宮本秘書)は、それを一字一句間違えないよう、ぼう読みするかたちで開陳した。

 この党中央見解には、小田実と「日本はこれでいいのか!市民連合」(以下「日市連」と略)の問題、宮本氏の1981年1月1日の『赤旗』の新春インタービューでの「市民運動がほんとうに発展するためには、反共主義的偏見は捨てなければならない」発言、上田副委員長と宮本委員長とのあいだに、「日市連」評価のくいちがい問題などが関連しているが、それは省略する。この2人の意見の違いは、後にのべる『平和委員会・原水協問題』とも関連している。

 2、文学同盟側の反論

 民主主義文学同盟にたいするこうした全面的な党の批判は、前代未聞だったので、みな驚き、反発して、反論が続出した。そのため、4月号問題だけでも論議をつくすことができず、討議は翌日にもちこした。

 議題1)「4月号」問題について、翌日のグループ会議における、党側出席者は昨日と同じであった。宇野書記局次長はまず、昨日論議が集中した「4月号」問題について、党側見解をくりかえした。それにたいして文学同盟は、多くの人が前日にひきつづいてほぼ次のように反論した。

 問題になっている小田実の文章は、「昨年くれの中国訪問で、私は何人かの中国の作家とあった。野間宏さんを『団長』としてかっての『使者』の同人仲間と一種の『作家代表団』をかたちづくって行ったので(野間さんと私の他に行ったのは、井上光晴、篠田浩一郎、真継伸彦の諸氏だ)、招待者の作家協会のほうでもそういう機会をつくってくれた」――というくだりだったが、そこを読んで、これはまずいと思った人は、津田孝のほかには誰もいなかった。

 もう一つの問題とされている編集後記は、「翻訳の労をとられた福地桂子氏ならびに小田、丸山両氏のご好意に編集部として感謝したい」であり、それに不都合を感じた人も、誰もいなかったのである。当時の日中両党の関係からいって、日本共産党が野間訪中団を非難することはありうるが、小田実がそれについて、大衆団体の雑誌である『民主文学』にたった5行ふれたのが、どうして不都合なのか理解できない。小田実は野間訪中団に加わって訪中した事実をかいているだけで、それについてとくべつのコメントをしているわけでない。それに、小田は民主主義文学運動にとって数少ない理解者の一人であり、その原稿がもらえたことに感謝するのはあたりまえである。そしてなによりも、津田孝をのぞく常任幹事のだれもが小田論文に疑問をもたなかったし、幹事からも、同盟員からも、読者からも、それを指摘してきた人は一人もいない。それが世間の常識である。それを党中央がめくじらたてるのは異常ではないか、などの反論だった。

 3、“かんまんな精神的拷問システム”の5カ月間継続

 この全面批判を貫徹するために、まず、党中央文化関係の機構人事を変えた。これまでの文化局と知識人委員会を統合して文化・知識人局を新設し、局長に宇野三郎、次長に津田孝をすえ、津田を文化部長にも抜擢した。また、『赤旗』には「干渉主義を正当化する張香山発言について」という、中国共産党批判の一ページ大の無署名論文を載せ、つづいて翌日には、池上芳彦署名の「中国からの干渉の問題と民主主義文学運動の伝統」という論文を載せた。池上論文は、グループ会議で宇野元秘書が「4月号」問題についてのべた党の見解とおなじ趣旨であった。党の規約では、党内で論議中の問題は外部にだしてはならないことになっている。しかし、それは下級組織への統制、規制であって、党中央にはそういう制約はなく、自由に国民大衆に訴える権利がある、という一方的な事実を、この池上論文は示した。

 さらに、党中央は「4月号」問題をたんに文学同盟の内部問題、思想・文学の問題でなく、党員としての政治的原則の問題であることを強調するようにエスカレートさせた。党中央はこの思想キャンペーンを重大視して、もし常任幹事グループがあくまで「4月号」問題の責任を認めようとしないなら、直接の責任者である編集長の党除名もありうる、また文学同盟の分裂も、『民主文学』の停刊も辞さない、という強い姿勢を“言外に”伝えた。

 これら“裏側の党フラクション”党グループ会議と、“表側”の文学同盟常任幹事会は、大会後もあわせて、延べ5カ月間継続した。その中で党中央派遣5人は、宮本氏への連日報告、直接指令に基いて、常幹22人の結束を崩すことに全力を挙げた。グループ・メンバーへの各個撃破を執拗に行い、当初の姿勢を変え、あるいは軟化させることに成功した。党中央の強硬な姿勢を見て、常幹側も、5月3日の大会直前になって、最初の妥協をした。彼らは、編集長の人事問題にはしないことを条件に、小田原稿のあつかいは適切でなかったことを、常任幹事会として認めることになった。それにはまだ反対意見もあったが、編集長を救うためには、それもやむをえない、ということに追い込まれた。そこで党側の責任者である宇野も、『編集長の人事は文学同盟の問題だから、党はそれには関与しない』と明言した。

 ところが、宇野発言は、“建て前だけのウソ”であった。グループ会議のあとの文学同盟の常任幹事会になると、津田常幹(党中央文化・知識人局次長・文化部長)は、『あくまで編集長を辞めさせよ』とする党中央秘密指令に基いて、編集長の責任問題をもちだした。しかし、みなの反撃にあって孤立してしまったので、『この問題は大会後の新常任幹事会でまた問題にしたい』と意見を保留した。

 1983年5月3日、民主主義文学同盟第10回大会が開かれた。宮本氏と5人は、大会後の情勢はかれらに有利になる、とのヨミがあった。しかし、それはすっかりはずれてしまった。大会は、冒頭から4月号問題で荒れた。大会には幹事会の一般報告のほかに、4月号問題の非をみとめた常任幹事会の合意事項が補足報告されたが、その合意事項についての質問が殺到したのである。

 合意事項は、一、野間宏を団長とする文学代表団の訪中は、文学同盟にとっても容認できない中国の干渉主義のあらわれである。二、そのことを肯定的に記述した小田実の原稿を『民主文学』に載せ、寄稿に感謝するとしたのはあやまりであった。三、この教訓をこんごに生かしていきたい。というものであったが、それは党中央の主張をおおすじで容認したものであった。

 討議に入ると、その三点合意にたいする異議と質問が殺到した。とくに、二が納得できないという若い人たちのきびしい糾弾があいついだ。霜多議長はそれらに弁明した。『この問題は常任幹事会でも意見がわかれて、長いあいだ論議をかさねたすえに、やっと到達した結論である。だから、ここでこれ以上論議しても、結論はなかなかえられないとおもうので、常任幹事会ではこういう結論になったのだということを了承して、大会ほんらいの文学論議にうつっていただきたい』。この弁明はいちおう了承されて、つぎの議題にうつった。霜多の『南の風』を批判した「津田個人報告」にも、予想をこえた批判が集中した。霜多も反論したが、及川和男や中里喜昭、あるいは小田悠介、草野ゆき子など主として若い人たちからの集中攻撃をうけて、津田常幹(党中央文化局長)は立ち往生した。

 大会の最後に、次期幹事を選出する選挙になった。津田より(党中央方針支持派)とみられる人たちが、こぞって低位当選、逆に編集長支持派はみな上位当選という結果になった。党中央は、津田常幹に、役員選考のさい、中野健二を編集長からはずせという“秘密指令”を与えていた。しかし、大会最終日におこなわれた新幹事会で、津田常幹による、その執拗な主張はとおらなかった。

 大会が終わると、『赤旗』はさっそく大会取材記事で、常任幹事会の合意事項が大会で「採択された」と強調し、佐藤静夫文学同盟副議長も『赤旗』でそれを主張した。4月号の不当が大会で承認されたとなれば、編集長の責任追及が容易だからである。しかし『民主文学』では、中里喜昭が、大会事務局の録音テープをおこして、合意事項の補足説明は採択されていないことを証明した。合意事項には反対だという発言が続いたので、それは常任幹事会での合意であることが強調されて、そのことが了承されたのであって、合意事項が大会で「採択」などされていないことを明らかにしたのである。それにたいし、『あくまで合意事項は大会で採択された』とする党中央は、中里は大会決定違反だとして、『赤旗』その他で批判した。

 1983年5月、大会後すぐ、党中央は、第4回中央委員会総会を開いた。そこでは、中国の干渉問題と「日市連」の問題をとりあげて、文学運動だけでなく、一般知識人のあいだにも思想の風化がひろがっているので、イデオロギー活動の強化が必要だと強調した。

 中央委員会総会後、『「赤旗」陣容も、文化・知識人局の陣容も充実させ、共産党らしいイデオロギー活動をやる』という宮本議長の言葉どおり、文学同盟でもさっそくグループ会議を招集し、小田と「日市連」問題、中野編集長の責任問題を再び追求した。そして、その後も、大会前後で5カ月間にわたり、何回となく会議を招集し、個人的な説得もますます執拗に行なった。党中央は、5人に『常幹側意見をきくというのではなく、中央の意見をききいれるまでは、なんどでも説得を続けろ』と指示していた。このため、中野編集長を擁護してきた役員たちは、もはや党との関係では文学路線の対立解消を期待できないとして文学同盟役員を辞職することを決意した。

 そこで、中野健二が編集長を、霜多が議長を、山根献も事務局長を辞退し、3人は同時に常任幹事を辞任した。そして常幹22人中、松崎晴夫、中里喜昭、上原真、井上猛、武藤功、飯野博、平迫省吾らを合わせて10人のメンバーが、常任幹事を辞任した。編集部員の織田洋子と荒砥例は退職した。

 党中央としては、中里と中野の排除を目論んで、これらの行動に出た。しかし、霜多をはじめ常任幹事の半数近くが、それに反対するとは予想外のことであり、こうした結果に終わったことは、党中央としても失敗だった。その「混乱」の指導責任を問うとして、西沢文化局長を辞任させた。

 4、『葦牙』批判大キャンペーンと粛清

 1984年11月、辞任メンバーは雑誌『葦牙(あしかび)』を創刊して、抵抗した。わが党は、自分たちに対する彼らの反抗を“反党行為”とみなし、それを一切許さないと決断した。1985年4月以降、徹底した『葦牙』批判キャンペーンを、『前衛』『民主文学』『文化評論』『赤旗評論特集版』で、17回にわたって展開した。それだけでなく、党からの排除、粛清をした。

 (1)霜多正次は、「離党届」を出したが、党中央は彼の“離党の自由”を認めず、4カ月間放置し、その上で規約に基く「除籍」措置にした。これは、「除名」処分と同質の党外排除である。彼は、『ちゅらかさ―民主主義文学運動と私』を発行し、そこで「4月号問題」とその経過を克明に分析、発表した。

 (2)中里喜昭は、1987年3月、「離党届」を出した。しかし、党中央はその受け取りを拒否し、半年後の9月、彼に「除籍」を通告した。彼は、『葦牙』誌上で、党中央の『葦牙』批判キャンペーンへの反論・批判文を書いた。党中央は、17回の『葦牙』批判キャンペーン中、『中里喜昭の変節と荒廃』など、6回にわたり中里名指し題名の批判文を掲載した。

 (3)武藤功は、キャンペーンへの反論文だけでなく、『宮本顕治論』を発行し、そこで宮本氏の「あとがき」内容を詳細に分析、批判した。党中央は、武藤を「党内の問題を党外に持ち出した」として「査問」した。その「党内の問題」というのは「民主集中制」を一般公刊の書物で批判したことである。「葦牙」関係で「査問」をしたのは武藤一人である。査問は2日間行い、場所は茨城県委員会の建物の一室だった。中央委員会を代表して文化局長が、武藤「党籍」のある水戸まで出張し、茨城県委員会からは3人の常任委員(副委員長、書記長、文化担当常任委員)が党側のメンバーだった。「査問」の上、彼を「除籍」した。

 彼は、「葦牙1993年1月号」で、『久野収とのインタヴユー「市民権思想の現代的意義」』を行なった。その内容、とくに丸山真男『戦争責任論の盲点』からの引用個所に宮本氏は激怒した。久野による引用内容は、『日本共産党の非転向の指導者たちはたしかに思想的には立派にちがいないが、政治的にはどうなのか。彼らは軍旗ごと捕虜になってしまった部隊ではないのか。軍旗を下ろさなかった点ではまことに立派であるが、丸山眞男ふうに言うと、木口小平は死んでもラッパを離しませんでした、というような結果になりはしないか』というものであった。13回にわたる『丸山真男弾劾キャンペーン』はここから出た。しかも、そのキャンペーンは、第20回党大会での党綱領改悪の基礎となった。

 (4)中野健二は、第10回大会で編集長を辞めさせるという党中央戦略が失敗した後も、辞任に抵抗し続けた。しかし、彼が、他の常幹たちとともに辞任したので、事実上の「除名」処分である「除籍」措置にはせずに、「離党」を許可した。

 (5)わが党の第20回大会前後の丸山真男批判大キャンペーンには、丸山のプロレタリア文学運動論への批判も中心の一つだった。山根献は、『葦牙』の「丸山真男追悼集」で、「政治の優位性」論への批判を、丸山の見解と対比しつつ、緻密に展開している。 (6)『葦牙』同人会は、その後、隔月刊誌『葦牙ジャーナル』も、吉田悦郎を編集責任者として発行した。(7)元常幹上原真は、そこで、毎号『深夜妄語』を連載している。さらに、同人会として、『霜多正次全集全5巻』を刊行した。彼らは、インターネットHP『葦牙』において、『文学運動における「自主」と「共同」』を追求しつつ、「4月号問題」とその経過を解明する、特集記事、論文を多数載せて、批判活動を続けている。

 5、『葦牙』側の反論

 『葦牙』側は、党中央による批判キャンペーンにたいして、繰り返し反論文を掲載した。その中で、以下は、これらの背景に関して『葦牙』側が反論として行なった、宮本『文芸評論集第一巻』「あとがき」分析の要点である。1970年代は、高度経済成長による社会構造や生活意識の変化が大きくなった。そのため、民主主義文学同盟作家たちは、現実の変革主体の形成をめぐって、これまでのような単純にたたかう労働者よりも、職場や地域での、人びとの共同・連帯をつくりだすための地道な努力を重視し、それぞれ独自の方法を追及、模索していた。二度の石油ショックで世界経済が深刻な打撃をうけたなかで、日本の企業は徹底した「減量経営」で労働者への収奪をつよめ、労働組合運動の右傾化が一段とすすんだ。1980年には、「社公合意」(社会党と公明党が共産党排除の政権構想に合意)ができ、つづく衆参両院のダブル選挙では自民党が大勝するという事態になって、宮本委員長は「戦後第二の反動攻勢の時期」と規定した。

 1980年11月、宮本氏は、『文芸評論集第一巻』「あとがき」を出版した。宮本氏は「あとがき」の長大な論文で、プロレタリア文学の総括をおこなった。宮本氏は、この「あとがき」後、「もう、ぼくも文学に発言権ができた」と発言して、『民主文学』を中心に主要な論文や大会報告などを調べた。そして、文学運動は、運動を推進する強力な機関車が必要であるが、いまの文学同盟は、その機関車の役目をはたす理論活動が弱い。そのため、運動の高い峰が形成されず、裾野も広がらないことになる、と発言するようになった。宮本委員長のこのような発言は、とうぜん、まず『赤旗』や『文化評論』などの党出版物に忠実に反映され、文学の理論活動が活発に行なわれるようになった。

 それだけでなく、民主主義文学同盟が討論していた、独自の方法の模索と多様化を批判するかのように、『赤旗』の文化欄で、民主主義文学とはなにか、現実をどうとらえるか、批評の基準はなにか、などというテーマがつぎつぎにとりあげられるようになった。その意図は党的な批評の基準をおしつけようとするものであったから、動員される作家や評論家たちを反発させた。党では、「第二の反動攻勢」にたちむかう民主主義文学運動は、日本の革新統一運動の一翼をになうものであることを強調し、とくにその中心になる共産党員の活動がえがかれなければならない、としていた。しかし、そのような主張は、文学同盟の作家や評論家たちの問題意識とはかなりずれていたのである。

 「4月号問題」とは、「あとがき」の思考を、傘下の民主主義文学同盟運動、作品に“強行持ち込み”をしようとしたものであった。彼は、そこで「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。しかし、その戦後的文学の内実をしっかりと把握できていなかったために、「社会的発展性」とか「科学的法則性」とかいう空疎な観念でしか、文学創造の方法を見出すことができなかったという事態に立ち至った。それは「戦前回帰」というよりは「戦後認識の欠落」の文学的な現れだった。それは政治的には、政治における「戦後認識の欠落」と軌を一にする事態だといえる。当時、「4月号問題」における“宮本代理人5人”と民主主義文学同盟常幹たちとの議論で意見が分かれたのはまさにその文学における「戦後問題」だった。

 つまり、辞任した10人の常幹たちは、戦後的な情況における人間認識・把握については、そのヒューマニズムや人権のあり方、男女のあり方、政治的自由のあり方など多様な実態を固定的にではなく、ビビットに描くべきだと主張したのにたいして、“宮本氏の「戦後的総括」に忠実な代理人5人”は、「社会発展の方向」を描けとか「先進部分の闘い」を描くべきだというような「戦後的階級史観」を強固に主張し、ノンポリ化やマイホーム主義を批判すると称して実質「政治の優位性」の戦後版というような作品の創造を主張した。その文学路線の違いが「4月号問題」の根底にあったのである。

 6、「4月号問題」の性格

 小田実論文“5行”と中野編集長“謝辞一言”批判は、こじつけの口実であった。宮本氏と党中央の本音は、霜多正次の小説『南の風』など、常幹中心メンバーの作品・文芸評論内容や方向に危機感を抱いたことによるものである。彼らが、ユーロコミュニズムの一定の影響や、「文学にたいする政治(=共産党中央)の優位性」を押し付けたスターリンへの批判も根底にあって、『文学運動における「自主」と「共同」』を思考し、作品にも表わし始めていたからである。

 宮本逆路線とは、第14回大会以降、ユーロ・ジャポネコミュニズム路線と絶縁し、スターリン批判の研究・出版活動をストップさせ、『自由主義、分散主義との全党的闘争』に、“宮本氏と「宮本秘書団」の党”を、再転換させようとする、一大作戦であった。この宮本・宇野式粛清事件は、その逆路線を、民主主義文学運動分野でも、“常幹辞任を強要する手口”を駆使して、貫徹させたものである。それによって、宮本氏は、“文学者として見事に復活”し、「宮本型民主文学」の偉大なリーダーになった。党派的文学とはどうあるべきかを教える、74歳現役の文学教師となった。

 宮本氏は、“愛すべき”宇野三郎・元宮本参議院議員国会秘書が、文学運動分野での拷問システムを、ねばりづよく遂行し、10人を放逐した手腕にいたく満足した。「宮本・7項目批判」原稿を、一字一句も読み間違えてはいけないと、1時間半も“棒読み”をする、その絶対忠誠度に感激した。そこで、宇野・元秘書を常任幹部会員に抜擢するだけでなく、「社会科学研究所所長」「党史資料室責任者」にも大抜擢した。

 宇野・宮本コンビは、1988年『日本共産党の六十五年』、1994年『日本共産党の七十年』で、“宮本賛美を文学的に粉飾、改ざん”するための、緊密なチームプレイを発揮した。宇野・元秘書は、宮本側近グループの一人として、“文学作品「宮本史観党史」を創作”する上で、偉大な貢献をした。その『党史』で、宮本氏は、“左の共産党の中にも、右の天皇制の思考、体質が反映している”と分析した丸山真男を、真っ先に槍玉に挙げた。丸山だけでなく、田口富久治、霜多正次、中里喜昭、古在由重、草野信男、加藤哲郎、藤井一行らも、“その宮本「左側」天皇に、不届きにも逆らった、「不敬罪」に該当する学者・文化人”として、『党史』に「その罪状」を掲示した。

 緩慢な精神的拷問システムによって“常幹辞任を強要”された10人は、いずれも、当時、『民主文学』『文化評論』『赤旗』で活躍し、民主主義文学同盟の中心的活動家だった。10人粛清後の、“残存した”現民主主義文学同盟は、見事なほどに“「スターリン式・政治の優位性」を認める、従順な文学組織”に変質させられた。前衛党に従属し、単なるベルトになった文学組織が、どのような作品を生み出すかは、スターリン・ブレジネフ時代の「ソ連文学」を見れば分かる。前衛党“収容所群島”権力への批判・抵抗精神こそが、ソルジェニーツィンの一連の作品を生む原動力となった。

(宮地・注)、上記経過を克明に分析した、霜多正次著『ちゅらかさ−民主主義文学運動と私』の「13、4月号問題」は、HP『葦牙』の「4月号問題記録文書館」に全文が載っています。

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