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臓器移植法「改正」をめぐって(鷲田 清一)
http://www.asyura2.com/09/social7/msg/259.html
投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 6 月 27 日 21:11:20: mY9T/8MdR98ug
 

http://allatanys.jp/B001/UGC020005320090626COK00327.html

 臓器移植法の改正が、衆議院で採決された。委員会での議論は9時間にも満たないものだったと聞く。あまりにも大きな問題がここには含まれており、ここで許される紙幅ではその全体について一つ一つ論じることはできないが、現時点でとにかく確認しておかねばならないと思われる点についてのみ記しておきたい。

 今回改正されたのは、11年半前に採択された臓器移植法である。これはその3年後に「見直し」をするとしていたが、じつはその後現在までたなざらしにされてきたものである。その問題性については最後に書く。

 今回の改正点でもっとも重要なことは、まず、「死の定義」が変更されたことである。現行法では、本人と家族の両方の同意があるときにかぎり、脳死となった人を死者とみなし、臓器を摘出できるとしている。これはつまり、移植を前提としたときのみ脳死は人の死とされるとするものである。しかも15歳未満の子どもからは臓器摘出できない。今回それが「改正」された。一律に「脳死を人の死とみなす」とされたのである。

 こうした「改正」を待望する背景には、移植待機患者をどのようにしたら解消できるかという問題がある。小児の場合には、現在のところ海外での渡航移植しか手がないということもその背後にある。臓器提供の条件の緩和ということが、現行法改正の主眼点になっているのには、こうした差し迫った事情がある。

 これに対して「改正」に慎重である人たち、あるいは反対する人たちが深く危惧するのは、技術的な問題と「そもそも」の問題とである。

 技術的な問題というのは、小児にはしばしば長期脳死というケースも見受けられ、じっさいの脳死判定がきわめて難しいということである。これに論理的な問題をもつけ加えるならば、仮にもし小児についても精確な脳死判定の方法が確立したとしても、それはあくまで「脳死状態」の確定にすぎず、それで「死」であるかどうかは別の問題である。

 さらにここからは、技術的な問題を超えて次のような問題も出てくる。昨日まで元気だった小児が、事故や病気で突然、脳死状態になった場合に、はたしてその家族に冷静で沈着な判断ができるのかという、これまた大きな問題である。

 「そもそも」の問題というのは、他の患者からの臓器提供を期待する、つまりは他者の「死」を前提とするような医療が、そもそも医療として適切なものかどうかという問題である。じっさい、わが国の難病、心臓病、人工透析患者を救うには、それに見合う怖ろしい数の脳死者が必要となる。が、ほんとうは交通事故の防止対策と、より充実した救急医療体制の確立によって、そうした脳死者の増加を(待望するのではなく)防ぐのも、わたしたちの社会に迫られたもう一つの課題であるはずである。

 このように、一方には、なんとしてもこの人、この子のいのちを救いたいという、待ったなしの切なる要請がある。他方には、なんとしてもこの人、この子の死を、十分納得したうえで認めたいという思いがある。あるいは、納得できないまま、長期脳死状態にいる人の傍らで懸命に生きている家族の姿がある。臓器移植が医療の課題であるとしたら、それはそもそもこうした二律背反に引き裂かれざるをえないものである。

 いいかえると、それらは両立しがたい要請である。それはまず、「時間がない」と「時間が要る」との背反だからである。それはまた、たんなる臓器の問題ではなく、いずれもたがいの要請に反するかたちで「だれ」という名をもったかけがえのない存在を(それぞれ反対方向から)護ろうとしているからである。

 臓器移植という先端医療は、このように二つの生命のどちらかを二者択一しなければならない状況を生みだしている。あるいは、「人としての幸福」への希求と、「人としての尊厳」という倫理的要請とがここでは二者択一という対立関係に入っている、と言い換えてもよい。

 臓器移植法改正の前と後にある二つの重大な問題を、次に指摘しておきたい。
 まず事後の問題として危ぶまれるのは、これにより脳死が一律に人の死とみなされることによって、今後、移植を前提にしない治療でも脳死判定し、死亡宣告できるという事態が起こりうるということである。人の死が法律によって規定されることによって、本来、こうした医療従事者のうちにあるはずのジレンマが解消されてしまわないかということを、わたしは怖れる。

 つまり、「このことで、失われゆくひとつの命が救われるのだからやむをえず」という、脳死者の臓器を待望してしまうまさにその苦渋がしだいに薄まり、「法律に則っているのだから問題はない」というふうに、その苦渋が免除され、「人としての尊厳」に無感覚になってしまいかねないということである。法律化されることによって、もやもやした倫理的な責めの意識が医療従事者からすっきり免除されることのほうを、わたしは怖れる。

 次に事前の問題としてわたしが指摘しておきたいのは、今回の衆議院での議論においては、現行法が制定されるまでの賛否両論の長い困難な議論が、十分に検証もしくは参照されなかったことである。これまで10年近く、現行法の「見直し」は放置されてきた。これが決定的な問題であろうと思う。

 この議論には、そもそも先にふれたような二律背反が含まれているかぎり、全員が同意できる「正解」はありえない。ありうるとしたら、それは「納得」と言うしかないものである。
 例としては適切ではないかもしれないが、家裁の調停員をかつてやっていた知人の経験によれば、たとえば離婚の調停において、双方がそれぞれの言い分をとことんぶつけあって、「もう万策尽きた」「もうあきらめた」と観念したとき、まさにそのときにかろうじて話し合いの道が開けるのだという。訴えあいのプロセス、議論のプロセスが尽くされてはじめて開けてくる道がある、と。「正解」がここに下りてくるというのではない。「理解できないけれど納得はできる」「解決にはならないけれど納得はできる」という事態が生まれるということである。

 「納得」ということは、果てしのない議論からどちらも最後まで降りなかった、逃げなかったということの確認のあとにしか、生まれてこない。長くて苦しい議論、譲れない主張の応酬の果てに、そんな苦しいなかで双方が最後まで議論の土俵から下りなかったことにふと思いが及ぶ瞬間に、はじめて相手に歩み寄り、相手の内なる疼きをほんとうに聴くことができるようになる。

 そういう「納得」をもたらすはずの時間、あるいはもたらすことに通じる時間を削除してきた。これがこのたびの「改正」に到るまでの、衆議院議員のみならず、わたしたち全員の、ほんとうの怠慢であったのではないだろうか。

 

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