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投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 5 月 10 日 20:59:20: mY9T/8MdR98ug
 

雑誌「世界」五月号より

 人類の歴史上、ひとつの時代から次の時代への転換点を示し、一つの正統と思われた教義が別のものに取って代わられる、地殻変動的に重要なできごとが時たま起こる。こういったできごとの重要性が、進行中に明らかになることは稀である。それは歴史の高みに立ち、過去を振り返るときになって初めて明らかになるものである。そしてその時点では、そのよ今なできごとの行方や、勤労者と彼らが支える家族に対する影響を形作るために行動するには、手遅れであることがしばしばである。
 新たな千年紀に入ってわずかI〇年、冷戦の終了からわずか二〇年、そしてこの時代の経済上の正統な教義となっている、あの特殊な種類の自由市場原理主義、極端な資本主義、過度の強欲を意味するネオ・リペラリズムが勝利を収めてからわずか三〇年、私たちは、今まさにそのような時代に生きているのかもしれない。
 この変化を引き起こしているのは、私たちが世界金融危機と呼んでいるものである。わずか一八ヵ月の間に、この危機は、世界的な経済の安定に対する過去七五年間で最大の攻撃となった。よく言われているように、この危機は、「現代史上最大の規制の失敗を反映」している。それだけでもシステム全体にとって深刻であるが、この危機は、単に民間金融機関が直面している世界最大規模の危機というにはとどまらない。それぞれが重要なのではあるが、クレジット市場、社債市場、デリバティブ市場、不動産市場、エクイティ市場の危機以上のものである。
 この危機は、さまざまな局面へと広がりを見せている。金融危機は全般的な経済危機となり、それは雇用危機へと発展し、多くの国で社会危機を生み出し、さらには政治危機を作り出している。事実、ウォール街の瓦解が持つ長期的な地政学上の連累は、西側、特にアメリカ合州国の将来における戦略的作用力への影響としてすでに現れてきている。
 世界金融危機は、すでに人、特定の産業、あるいは国境線に全く頓着しないということを示している。この危機は、同時に個人的な危機であり、一国の危機であり、世界的な危機である。先進国の危機でもあり、発展途上国の危機でもある。この危機は、同時に制度上の危機であり、知性上の危機であり、イデオロギー上の危機である。この危機は、過去三〇年間広く流布していたネオ・リベラル的な経済上の教義に疑問を生じさせている。この教義こそが、現在私たちを襲っている経済上の大混乱を防ぐことにものの見事に失敗した、一国のそして世界的な規制の枠組みを支えていたのだ。
 歴史上かつてもあったことだが、社会民主主義者にとっての国際的課題は、開かれた競争的な市場の大いなる強さを認識しつつ、近年世界金融システムをゆがめてきた極端な資本主義と抑制の効かなくなった強欲を退けることによって、資本主義をそれ白身から救出することにある。
 大恐慌のあと、アメリカの資本主義を再建することは、フランクリン・デラノ・ローズヴェルトの手にゆだねられた。また同様に、アメリカ民主党が、ジョン・メイナード・ケインズの強い影響の下、戦後の国内需要を立て直し、ヨーロッパ再建のためマーシャルプランを策定し、国際的な経済の相互関与を運営・管理するためにブレトン・ウッズ体制を整えた。そしてこんにち、現在の危機によって示されている極めて深刻な課題に対し、民間部門の動機づけと公共部門の責任性との適切なバランスを取った世界的な金融システムを支えることは、オバマ大統領の政権と大統領のリーダーシップに国際的な支持を寄せる人々にゆだねられている。この三つのエピソードに共通するのは、適切に規制された市場を再構築し、国内需要と世界的需要を再生するために、政府の行動に依存するという点である。
 社会民主主義者にとっての第二の課題は、たらいの水と一緒に赤ちゃんまで流してしまわないように気をつけることだ。
 世界金融危機が進行し、雇用に対する影響が世界中の普通の人々に痛みを及ぼすに伴い、国内でも海外でも政府が全てを提供するというモデルに引きこもり、開放された競争市場の大義をすっかり放棄してしまおうとする圧力が、強まるだろう。保護主義は、一九三〇年のスムート・ホーリー関税法ほど露骨でないにせよ、穏やかにして巧みな形でその存在感を示し始めている。穏やかであろうと強硬であろうと、保護主義は世界的な需要の崩壊をさらに加速させ、不況を恐慌に変えてしまう確実な手段である。
 社会民主主義者にとっての知的な挑戦とは、私たちにこの混乱をもたらしたネオ・リベラリズムという極論を拒絶することだけではない。政府こそが、規制者であり、公共財の供給者あるいは資金提供者であり、全ての者に公平を約束することで市場につきものの不公正さを相殺するものであると同時に、適切に規制された競争的な市場の生産的な能力を維持するうえで、社会民主主義政府が最高の保証を提供するのだ、という論拠を示すことにある。社会民主主義に政治的正統性を与える哲学上の根拠は、民間部門と公共部門、利潤と賃金、市場と政府の間のバランスをとる能力にある。その哲学は、再度この時代が直面している課題に対し、明瞭に説得力を持って語り始めている。
 世界中の社会民主主義政府は、危機に対する現実的な政策を作り出して、木っ端微塵に砕かれた経済成長を再建すると同時に、将来の金融市場に対する新たな規制体制を編み出すという、さらなる課題に立ち上がらなければならない。これは、私たちにとって緊急の課題である。しかし、もし私たちが失敗すれば、極左勢力と国家主義的右翼が、新たな政治勢力としてこれまで否定されていた正統性を手にするようになる極めて重大な危険がある。ここでもまた、歴史はもっともぞっとするような前例で満ちている。
 したがって、私たちは、現在の経済危機の根本原因となっているネオ・リベラリズムが果たしてきた中心的な役割に関する率直な分析を行う必要がある。私たちはまた、過激な左翼と過激な右翼の両方を退ける未来へ向けた新たな契約の中で、適切に規制された市場と適切な政府の役割を果たす社会民主主義の手法について、しっかりとした分析をしなければならない。そして、各国政府がその責務を成功裏におさめようとするならば、この分析は、国際的な協力のための前例のない緊急・必要な課題に組み入れられなければならない。

危機の途方もない規模

 こんにち全世界で拡大している危機の速度、程度、範囲を目のあたりにして、人々が茫然としていることは十分理解できる。世界金融危機の原因は複雑だが、いくらかの簡単な測定基準により、その大きさとそれが金融市場や実体経済、政府財政にどのような破壊をもたらしたかを伝えることができる。
 金融市場は、私たちが生きてきた間で最大の混乱を経験している。全世界のエクイティ市場は、最高値から三二兆ドルの価値を失ったが、これは○八年のG7諸国のGDPの合計に匹敵する。クレジット市場はほとんど枯渇し、クレジットの成長は第二次大戦以来最低の水準に落ち込んだ。そして、危機の中核には、多くの国で起きている住宅価格の暴落があり、アメリカの住宅価格は、史上最速の割合で下落している。
 実体経済は、史上もっとも厳しい状況に直面している。IMFは、先進国全体の経済が六〇年来初めて縮小し、OECD加盟国で八〇〇万人が失業者に加わると予測している。発展途上国では、ILOの予測によれば、金融・経済危機の結果、一億人以上が貧困層へ押しやられてしまう。
 さらに、この危機は、各国政府に対し前例のない負担と負債をもたらしており、その影響は数十年に亘って感じられるだろう。二〇〇九年のアメリカ合州国の財政赤字は、GDPの一二・五%に達するとも見られている。そしてさまざまな銀行に対する救済や保証額(実際のものと万一に備えたものと)の合計は、一三兆ドルを超える。これはアメリカ合州国が過去戦った主要な戦争の戦費合計を上回る。このことが、アメリカ合州国が今後行う国際的な借り入れに関して意味するものもまた、前例がない。
 しかしながら、経済危機が、失業の増大、賃金の減少、資産価値の暴落といった形で普通の人々の生活に影響する一方で、金融機関の役員報酬が、最近のできごとという現実から明らかに遊離して、天井知らずに上昇を続ければ、茫然自失は急速に怒りへと変化する。二〇〇七年、S&P五〇〇社の最高執行役員は、平均一〇五〇万ドル(アメリカの典型的な労働者の年収の三四四倍)の報酬を得ていた。上位五〇人のヘッジファンドとプライベートエクイティファンドのファンドマネジャーの場合は、平均五億八八〇〇万ドル(典型的労働者の年収の一万九〇〇〇倍)となっていた。二〇〇七年、ウォール街の上位五社の役員は、彼らの投資銀行が経済危機以来アメリカの納税者によって救済されているのだが、合計で驚くべきことに三九〇億ドルのボーナスを受け取っていた。
 これらの数字は、壮大な強欲によって生み出された壮大な数字である。困惑し怒りに駆られている人々は、次のような疑問を持つだろう。どうやったらこのようなことが許されるのか。どのようなイデオロギーが、どのような政策が、どのような地位の悪用が、こういったことを可能にしたのか。警告はなかったのか。もしあったとすれば、警告はなぜ無視されたのか。

ネオ・リベラリズムという教義

 ジョージーソロスは、「現在の金融危機が持つ顕著な特徴 は、それが外からの衝撃によって引き起こされたのではなく、 システムそれ自体によって生み出されたことだ」と述べている。ソロスの言うとおりである。現在の危機は、ネオ・リベラリズム、経済自由主義、経済原理主義、サッチャリズム、あるいはワシントン・コンセンサスなどさまざまな名称で呼ばれている自由市場イデオロギーが、三〇年間に亘って経済政策を独占してきたことの到達点である。このイデオロギーの中心には、政府の行為は抑制されるべきであり、最終的には市場原理に置き換えられるべきだという考えがある。
 過去一年間、私たちは、抑制なき市場原理がいかにして資本主義を奈落の底に突き落としたかを見てきた。西側諸国の銀行システムは崩壊に近づいた。ほとんど一夜にして、政策立案者やエコノミストは、ネオ・リベラリズムの解説書を引きちぎり、各国政府は、パニックを食い止め世界的な金融システムを崩壊のふちから引き戻すために、前例のない非常な介入を行っている。
 偉大なるネオ・リベラリズムの旗手であり、アメリカ連邦準備銀行総裁を長きに亘り務めたアラン・グリーンスパンですら、白身のイデオロギー上の見方は間違っており、現代のリスク管理に関わる「知的構築物の全て」が崩壊した旨、最近の議会公聴会で証言した。下院の監視および政府改革委員会のヘンリー・ワクスマン委員長が、グリーンスパンに対し、「つまりあなたの世界観、あなたのイデオロギーは正しくない、機能していないということに気づいた、こういうことですね」と問いただすと、グリーンスパンは、「まさにそのとおり」と答えた。かつては「マエストロ」と呼ばれた人物が自ら過ちを認めたことは、全世界に反響を呼んだ。
 ネオ・リベラリズムの失敗を理解するためには、その中心を構成する要素を考慮しなければならない。抑制なき自由市場というイデオロギーは、大恐慌によって信頼を失った。しかし、高インフレと低成長という経済上の問題は全て政府による過度の市場への介入が原因だとする考えが流行するなか、一九七〇年代に再登場した。一九八〇年代、サッチャー政権とレーガン政権は、この反税、反規制、反政府を掲げた保守勢力であるネオ・リベラリズムの動きに政治的な声を加えた。
 ネオ・リベラリズムの政策処方僥は、規制されない市場、特に規制されない金融市場が至高のものであるとの理論的信念にその起源を持っている。こういった主張は、究極的には「効率的市場仮説」に基づいているが、この仮説は、もっとも強固な形では、金融市場の価格は株式市場の価格と同様に存在する全ての情報を統合しており、したがって資産価格の最も正解に近い推定値を示していると主張している。すなわち、市場が完全に効率的であり、価格が完全に理解されているのであれば、価格バブルが起きる可能性を信じる必要はない。たとえ起きたとしても市場が自らそれを正すであろうから、政府がバブルを防ぐべく介入する正当な理由はない。ネオ・リベラリズムによれば、市場効率性からの乖離は外からの理由に帰せられなければならないから、バブルやそのほかの混乱は市場自身ではなく、政府やそのほかの「不完全なもの」によって引き起こされる。
 この理論によって、個人の自己利益に対し完全な自由が与えられるべきであり、市場が決定した収入の分配は、自然なものであり所与に正しいと考えられるべきであるとの信念が正当化される。ネオ・リベラリズムによれば、市場は市民社会における自然発生的な、そして自己規制する産物であり、政府は外部からの異質で強制的な侵入者である。
 ネオ・リベラリズムの経済哲学は、ハイエクとフォン・ミーゼスの理論にそのルーツを持つ。彼らは、社会とは、個人が自分たちの目的を法と伝統によって定められた枠組みの中で追求するときに生ずる「自然発生的秩序」によって特徴付けられるべきだと信じていた。理想的には、政府の役割は、契約を履行させ財産権の配分を保護することに過ぎない。そのほかの全ての経済上の機能は、レーガンが「市場のマジック」と呼んだものにゆだねられるべきである。ハイエク白身は、市場を「ゲーム」、特に「交換する」を意味するギリシャ語から取った「キャタラクシイ」のゲームであり、「ルールの下に競われ、優れた技術と力と運のよさによって決定される競技」であると説明している。ハイエクの秩序の中では、社会民主主義の中にある「先祖帰り的」な社会正義の考えとは対照的に、「ゲーム」こそが資源を配分する上で唯一の正しい決定要因である。
 ネオ・リベラリズムの提唱者は、すきあらば社会民主主義政府のありとあらゆる要素を打ち壊そうとしてきた。社会的財に関する集団的な取り決めの中に反映されている社会的連帯という考えは、国家統制主義的ナンセンスだと片付けられる。公共サービスの削減に対する激しい抵抗に直面して、ネオ・リベラリズムは、政治的手段として「兵糧攻め」、すなわち各国が教育、医療や経済基盤へ投資する能力を窒息させるための減税を行ってきた。その結果、経済の中に民問の市場のための最大限の空間が作り出される。
 徐々に、ネオ・リベラリズムは、経済上の正統な教義となった。それは、次から次へと押し寄せる減税の波に示されていた。さまざまな政府は、債務の水準が下がることが成功だと自慢したが、生産性の向上につながる教育、技術と訓練への投資を怠っていることの長期的な経済上のコストを認めようとしなかったし、長期的な経済成長を支える社会基盤への投資を調達する上で公的債務が果たす適切な役割を退けていた。ネオ・リベラル論者はまた、労働市場の完全な規制緩和への熱烈な意気込みを示している。彼らは、労働が他の経済財と変わらないと考えている。ネオ・リベラリズムの理想の形では、労働市場における保護とは、適切な報酬や交渉における最低限の水準ではなく、肉体上の安全に限定される。ここでもまた、より広い概念である社会契約ではなく、契約法が優先されるべきだと考えられている。
 ネオ・リベラリズム政権は、市場の失敗を見極めそれに反応することに消極的であることで悪名高い。気候変動がそのよい例で、ニコラス・スターン卿が、正しくも人類史上最悪の市場の失敗と表現したものが、ネオ・リベラルの手にかかると、市場の力に対する理不尽な介入を行うための処方箋だと片付けられてしまう。

三〇年に亘る実験の失敗

 ネオ・リベラリズムによる規制撤廃のお題目は、金融市場の運営においてさらに顕著である。アメリカ合州国では、金融規制撤廃は、大恐慌後に成立したグラス‘スティーガル法の廃止でルビコンを波った。アメリカの商業銀行は、伝統的に預金を槃めローンを細むことが業務だったのだが、一九二〇年代の酪町状態のようなバブルの中で右肩上がりの市場に飛び込み、自らの口座で株取引を行い、新株発行を引き受け、無謀な投機に参加した。一九二九年に株式市場のバブルが崩壊すると、商業銀行がその道連れとなり、その連鎖反応は以後一〇年間に亘って経済全体に大災害をもたらした。一九三三年、ローズヴェルト大統領は、通常の商業銀行が、ウォール街の奇行の前に無防備でさらされることを防ぐため、グラス・スティーガル法を制定した。白身が成功した投資家であったケインズは、「ある国の資本の発達が、カジノの副産物に成り下がってしまえば、仕事の結果は好ましがらざるものになるだろう」と述べている。
 三億ドルをかけた金融サービス産業のロビー活動の結果、一九九九年に商業銀行による投資銀行所有の禁止が取り除かれ、グラス・スティーガル法は事実上廃止された。巨大な金融サービスコングロマリットの創出へ扉が開かれた。新体制を最初に活用した一つが、通常の銀行であるシティコープと、投資銀行ソロモン・スミス・バーニーを統合したトラヴェラーズグループによって形成された、シテイグループてある。
 問題は、そのように統合された企業は、システム上重要すぎて倒産させられない一方、投資銀行部門はそれを救済しようとする政府の財政をも危機に陥れてしまうような、巨大な投機にかかわることが認められることだ。事実シティグループは、納税者の負担が二四九〇億ドルに及ぶ救済案を受けることになった。ネオ・リベラル論者が唱えていた、反政府の教義を考えるとはなはだ皮肉であり、信じがたいほど偽善的なのだが、民間金融コングロマリットがこのように巨大なリスクに身をさらしていることは、銀行が倒産した際に政府が行わなければならない介入の規模を鑑みると、政府も同時並行してリスクにさらされることを意味する。しかしながら、バブル時代にはこういったことは全く考慮されず、銀行に対してあたえられた暗黙の保証によって、巨大な利益は民営化される一方、予想される損害は公有化された。
 国際的には、銀行のリスクはバーゼル合意によって規制されている。しかしながら、二〇〇四年六月に発表されたバーゼルHの指針は、リスクの測定を欠陥のある格付け過程と、銀行白身の内部評価である「自己規制」にゆだねており、不十分であることが証明されつつある。しかも、バーゼルのルールは、技術革新された財務構造を使って、簡単に迂回することができた。リスクを銀行のバランスシートから移すために、投資ビーグルが意図的に用いられた。ジョセフ・スティグリッツが主張しているように、「アメリカの大銀行の多くが、『貸し出し事業』を離れて『ころがし事業』へ転じ」、伝統的な役割であるリスクの評価やクレジットの価値の審査に重きを置くのではなく、ローンを作り出し、それを包み代えて売ることに焦点を合わせるようになった。
 そのかわりに、極めて重要なリスク評価の機能は、大部分が格付機関にゆだねられた。格付機関は、銀行に収入を依存しているという利害関係があるため、甘い格付けをすることで大きな利益を上げるという誘惑に絶望的なまでに絡め取られていた。ムーディーズ社のクレジット部門の責任者だったジェロームーフォンスは、二〇〇八年一〇月に、「ムーディーズの関心の中心は、投資家を保護することから市場に動かされる組織であることに移ってしまった……経営陣の関心事は、収入の最大化に向っていた」と認めている。最終的には、この収益性への過度の関心のために、民間の格付機関は、顧客の投資が持つ固有のリスクを好意的に評価する立場を取るようになっていった。
 金融の自由化はまた、広く銀行仲介市場として定義される、ヘッジファンド、プライベートエクイティファンド、住宅ローンブローカーといった、多くの新しく、規制されない金融機関の登場につながった。負債株主資本比率が三〇対一にもなるような投資銀行は、弱々しくお粗末な会計幕準によって支えられたが、それはまた、上場企業に対し、資産を「市場に添付する」、すなわちブーム時の市場価格の急上昇に合わせて資産を再評価することを促した。
 過去一〇年間に起きた一連の金融危機は、立ち止まって振り返り、介入し、行動するきっかけとなるべきだった。一九九七年のアジア経済危機は、大規模な経済・社会上の破壊をもたらし、「新たな国際的金融制度」を求める声が急増した。このような声は、しかしながら先進国からは、主として危機に巻き込まれたアジアやそのほかの発展途上国を利するものだとして、鼻であしらわれた。「クローニー資本主義」を非難するほうが、世界の金融資本を支配し続けるネオ・リベラリズムの教義(その中には、ヘッジファンドが通貨に対し全く抑制されることなく攻撃を加えることも含まれている)の根本を見つめるよりもたやすかったのだ。さらには、一九九八年のヘッジファンドLTCMの救済や、二〇〇〇ー○一年のドットコム・バブルの派手な破裂のような警告はあった。
 危機が発生するたびに、アメリカ連邦準備銀行は、市場に流動性を注入し、それ以上の悪化を防ぐために金利を大幅に引き下げた。一九八七年の株式市場暴落の後も、湾岸戦争の後も、九四年のメキシコ危機の後も、九七−九八年のアジア経済危機の後も、九八年のLTCM破綻の後も、二〇〇〇−○一年のITバブルの後も、対応はいつも同じだった。
 次第に投資家は、物事がうまく行かなければ、「グリーンスパン・プット」として知られるようになった金融政策、すなわち金利引き下げ、高い流動性、資産価格の保護といった政策によって護られると信じるようになった。緩い金融政策は、発生するどんな市場の不安定も治癒できる万能薬と見られた。実際には、安い金が豊富に貸し出しできるという形で、火に油を注ぐことになった。
 低金利の結果、アメリカ合州国には、住宅ローンブローカーによってマイホームを買うようそそのかされた、新しい借り手の階層が生み出された。その結果、巨額の資金がサブプライムローン市場へ流れ込み、薄弱なクレジットの記録しか持だない借り手へと向けられた。金融市場に広まっていた反規制の文化は、同時に「組成販売型金融仲介モデル」と呼ばれる新しい銀行の形を育て上げた。住宅ローンブローカーは住宅ローンを作り出し、それはヘッジファンドや投資ビーグルを含む他社へ転売される。このようにして、クレジットの価値を評価するものと、最終的にローンを所有しているものとのつながりが切断されてしまう。
 ここで、二つの世界が出会うこととなる。グリーンスパンのネオ・リベラリズム的金融秩序を代表する緩和されたクレジットの世界と、リスクを実質上原子化し粉微塵に分散してしまう新たな銀行のモデルを持つ、規制されない金融機関というもうひとつのネオ・リベラリズムの世界である。この組み合わせは、猛毒性を持っていた。前例のない規模での、そしてさらに重要なことに銀行仲介市場を通じて国際金融市場に前例のない範囲で到達する、資産バブルを生み出した。バブルが破裂すれば、政府が暗黙のうちに保証している主流の商業銀行とのつながりのために、(市場ではなく)政府が責任を取る破目になる。このことが、ネオ・リベラリズムが、現在そして未来の納税者に残した遺産の本質である。
 後は、もちろん歴史が示すとおりである。アメリカ合州国のサブプライムやそのほかの証券化された住宅ローンは、二〇〇一年の一六〇〇億ドルから二〇〇六年には六〇〇〇億ドルに増加した。低金利と旺盛な住宅需要は、住宅価格の高騰をもたらした。二〇〇〇年までの三〇年の間に、アメリカの住宅の価値は年率平均∵四%上昇していたが、二〇〇〇年から二〇〇六年の間は、サブプライム市場の急成長と共に年平均七・六%の上昇となった。金融が不安定になっている兆候は、注意を払っていた人々には徐々に明らかになっていった。ウォーレンーバフェットは、二〇〇三年の時点で、金融の技術革新、緩い金融政策そして弱い規制が持つリスクを認識しており、新しい金融手段の多くは「金融における大量破壊兵器のようなもので、今は潜伏しているが致命的な潜在力を持つ危険をはらんでいる」と述べている。−
 国際決済銀行(BIS)は、常に他の機関よりは懐疑的であり、最初に警鐘を鳴らした公的機関だった。○七年の年次報告書の中でBISは、「何年にも亘る金融政策の緩和は、世界的に巨大なクレジットバブルヘ燃料を供給しており、私たちは一九三〇年代のような落ち込みに直面する危険がある」と警告した。しかし、組織的な行動は何もとられなかった。
 一〇年間に三度の危機を経験していたにもかかわらず、そしてそのたびにはっきりとした警告が発せられていたにもかかわらず、ネオ・リベラル論者は、自分たちのイデオロギー上の正しさを信じ、さらに市場は生来自己調節するとの疑う余地のない信念に基づき、現れてきた問題の深刻さを認識することすら拒んだ。ネオ・リベラルのモデルではこのような問題は発生しないはずなので、証拠はあっさり斥けられた。ネオ・リベラリズム強硬派は、心の底から彼らが正しいことを確信しているので、問題に関心を示さなかった。
 現在の危機と共に、過去三〇年間の大いなるネオ・リベラリズムの実験は失敗し、王様は何も着ていないと宣言するときが来た。ネオ・リベラリズムとそれが生み出した自由市場原理主義は、経済哲学を装ってはいたが、実は個人の強欲に過ぎないことが明らかになっている。そして皮肉なことに、自由資本主義が自らを食いつくしてしまうことを防ぐ仕事は、社会民主主義に託された。

政府の役割の明確化

 ネオ・リベラリズムの凋落と共に、政府の役割が根本的であるとして再び評価されている。政府は、現在の危機に対し三つのはっきりした分野で対応できる主要なプレイヤーである。それは、@民間の金融システムを崩壊から救済すること、A民間需要が崩壊しているので実体経済に直接の刺激をあたえること、B政府がルールを決め実行させる最終責任を持った一国内および国際的な規制体制を作ることである。
 社会民主主義者にとってこんにちの課題は、政府の役割とそれに関連する社会民主主義の政治経済体制を、将来の危機にも繁栄にも備えるように鍛えられた、包括的な哲学的枠組みに作り変えていくことである。そうすることにおいて、社会民主主義者は、長いケインズ主義の伝続からその一部を引き出すだろう。社会民主主義者はまた、ケインズの『一般理論』が刊行されてから七〇年後という現実に鑑み、ケインズを超えたところに手を伸ばす必要がある。
 「第三の道」という言葉が一九九〇年代の政策文献で大衆化されるずっと以前から、社会民主主義者は、国家による社会主義と市場原理主義の両方を斥け、政治経済理論の中道を示していると考えていた。社会民主主義者は、市場経済に対するしっかりとした支持を維持する一方、市場は混合経済の中でこそ機能できると主張している。そこでは、政府は市場の規制者であり、公共財のための資金と公共財そのものを提供する役割を果たす。競争と消費者保護の法によって確立された透明性と競争的中立性が、根源的に重要である。 社会的公正もまた、社会民主主義を構築する上でたいへん重要な構成要素と見られている。社会民主的な社会的公正の追求は、例えば教育への投資はそれが生産性の向上に直結するから正当化されるという完全に功利主義的な議論ではなく、平等であることの価値は自明であるとの信念に基づいている(幸いどちらも正しいのだが)。さらに広く表現すれば、社会的公正の追求は、すべての人々が人間としての尊厳、機会の平等、そして満たされた人生を送るべきであるという点で生来の権利があるとの主張に基づいている。同様に、アマルティア・センは、白由とは経済的安定と成長をもたらす手段であると同時に、それ自体が目的であると論じている。したがって、政府は、普遍的な教育、医療、失業保険、疾病保険、退職後収入といった公共財の提供に、はっきりとした役割を持っている。これは、人の価値は第一義的に、そして無感傷的に、市場によって決定されるべきだとするハイエク的な見方とは対照的である。
 さまざまな社会民主主義政府は、技術革新と投資の拡大と生産性の向上のために市場の力を利用すると同時に、リスクを管理し、市場の間違いを正し、公共財への資金拠出あるいは公共財そのものを提供し、社会的な平等を追求する効果的な規制の枠組みをそれに組み合わせるという、継続した課題に直面している。そのような政府の一例は、一九八〇年代と九〇年代初期のボブ・ホークとポール・キーティングによるオーストラリア労働党政権である。ホークとキーティングは、野心的で断固とした経済近代化のプログラムを推進した。彼らの改革は、オーストラリア経済を国際化し、保護貿易的障壁を取り除き、より大きな競争へと導いた。彼らは、平等をさらに高めることができる公的医療と教育サービスの供給において、政府の役割を拡大すると同時に、オーストラリア経済の民間部門の生産性を劇的に向上させることができた。

金融システムの安定は公共の利益

 現在の危機において、社会民主主義はしたがって、政府が中心的に果たすべき役割を主張し続けてきたという、たいへん有利な立場にある。一方ネオ・リベラリズムは、金融市場を崩壊から防ぐために、心の底から軽蔑しきっている政府に頼らなければならないというイデオロギー上の難問に直面している。このため、各国の社会民主主義政府は、クレジット市場の規制、介入、需要の喚起といった、現在の現実的な仕事に取り組むことができる。ネオ・リベラル論者にとって不愉快きわまりない真実は、リスクを負担し、自信を取り戻し、バランスシートを再建し、世界的な資本の流れを解き放つ上で、民間機関や民間のメカニズムに頼ることができないでいることだ。このことは、政府機関を通じてのみ可能なのだ。
 世界的な金融崩壊の初期段階で、伝統的な左派政権も右派政権も銀行制度全体を保証するために行動したことによって、政府が果たす中心的な役割は再確認された。頑迷なネオ・リベラル論者は、「モラル・ハザード」を持ち出してきたが、それは家が燃え盛っているときに誰が消防隊の費用を負担するのかということで議論するようなものだ。世界の銀行関係者は承知しているのだが、政府が介入しなければ制度的崩壊が起きてしまう。
 二〇〇八年末に信頼を維持し流動性を取り戻した第一歩は、主要金融機関の預金に対するはっきりとした保証だった。人々がそれに付随した緊急の負債をためらわずに受け入れたことは、それぞれの政府を通じて示されたが、銀行制度の安定そのものが公共の利益であると広く考えられていることを明らかにした。ケインズの伝記作家であるロバート・スキデルスキは、「いざというときには、納税者はそれでも銀行を支持するのであり、破産に備える体制が重要であるということに、私たちは気づかされてきた」と観察している。
 さらに社会民主主義政府は、プライベート・クレジット市場において、前例のない介入を行う用意があることを示してきた。特に、政府は銀行への資金投入、銀行や企業株式の直接購入、民間金融機関とリスクを共有するためのジョイント・ビークルの設立、そして銀行間の貸し借りを支える政府保証に関わってきた。アメリカ合州国では、シティグループとバンク・オブ・アメリカの救済は、実質上国有化に相当する。これは住宅金融公社ファニー・メイとフレディーマックが管財人の下に置かれたこと、そして世界最大の保険会社AIGが実質的に国有化されたことに続くものだ。やはり、何の規制も受けない市場の力ではなく、社会民主主義に救済が求められた。
 こういった手段は、社会主義のイデオロギーに基づいて実行されたのでもなければ、国家所有や支配に戻るのでもない。金融制度が安定し世界的な不況が和らげば、政府は銀行への直接投資や運営から手を引くだろう。現在の介入の目的は、ビジネスや消費者のために民間のクレジット市場を確保しておくことを目的としている。しかし、明らかに規制も制限もない金融技術革新の日々は過ぎ去った。その日が再び来るようなことがあってはならない。経済への影響が大きすぎる。 金融システムの安定化は、システム全休の崩壊を防ぐ第一歩である。しかし、投機バブルの破裂とそれに続くクレジットの縮小は、すでに経済成長の停滞、失業率の上昇、そして長期に亘る世界的不況の可能性をもたらしている。オーストラリア公共政策研究所のアラン・モランのようなネオ・リベラルたちは、合州国財務長官アンドルー・メロンが大恐慌時にやったように、賃金引下げや解雇という形で雇用者が不況のコストを負担すべきだと考えている。これに対し社会民主主義者は、経済が停滞しているとき、消費と投資支出を合わせた需要を維持することにおける、政府の中心的な役割を強調する。すなわち、政府は、民間部門の需要の大きな落ち込みを相殺するために、直接需要サイドを刺激することに携わらなければならない。IMFは、○九年の成長予測を四度に亘り全世界で合計三%下方修正している。この「成長ギャップ」は、需要サイドのギャップを満たし、大規模な失業を避けるために政府が行わなければならない財政発動の規模を示している。これはまさに、古典的なケインズ主義である。
 ケインズは、スティグリッツの言葉を借りれば、「ひどい落ちこみの時には金融政策はさほど効果がない。財政政策が求められる」と主張した。彼は、劇的に経済成長が鈍ったときには、金融官庁が流動性の罠に陥り、「経済成長の水準を引き上げるためにクレジットの供給を引き上げるよう仕向けることはできない」と考えていた。あるいは、金融政策は、「あやつり糸の手を押すだけ」なので、うまく行かないのだ。 事実、ポール・クルーグマンは、「現在の危機における金融政策の失敗は、ケインズがはじめから正しかったことを示している」と述べている。真実は、財政政策が、総需要の点から金融政策を補強しなければならない。どちらもそれだけでは不十分である。
 財政上の刺激策を取らないことのコストは予算へのマイナスの影響を上回るとして、トニー・ブレアは、現在のリーダーたちに対し、「どんな手段を使ってでも、金融システムに血液が循環するように」懇願している。新時代のケインズ主義者にとっての課題は、この刺激が対象をしっかり絞り込むこと、時宜を得たものであること、そしてまた一時的なものにとどめることである。民間の消費とビジネス投資が恢復すれば、財政的な刺激は経済の恢復期にインフレーションを押し上げないように、同程度減らされるべきである。
 需要を刺激する能動的な手段を提案する上で、ケインズ的経済運営の中心的な原則である、経済サイクルを通じての予算均衡を強調することが重要である。それに失敗したことが、インフレーションに対して寛容でありすぎたこととあわせ、一九七〇年代前半にケインズ的経済運営が崩壊したことにつながった。公共投資と家庭への直接支給は経済を刺激するが、将来高い経済成長が戻ってきたときには、財政収支を好転させなければならない。
 社会民主主義者たちは、ケインズが予測不可能な投資家の「アニマル・スピリッツ」と呼んだものによって突き動かされる投機的なバブルとその崩壊によって金融システム全体のショックが起きる可能性を、常に強調してきた。金融規制によって、銀行や他の金融機関は、自らが金融システムの不安定の源泉になることなく、家庭の貯蓄と企業の投資の仲介者になるよう仕向けられなければならない。このことは、個々の金融機関が通常の経済状況の下での破産に備えて作られた標準を守ることからさらに進んで、破綻を未然に防止するための規制を必要とする。金融部門全体として、デリバティブ市場の行き過ぎのような、金融システムそのものへのリスクとなる行動を押さえ込まなければならない。最近の危機に照らして同様に重要なことは、社員個人が高いリスクを冒すのは、その企業でのインセンティブ構造の影響でもあることを、社会民主主義の枠組みが認識することである。社会民主主義者にとって、金融システムが安定していることと嘘をつかないことは、そのものが公共の利益であり、公共の利益は常に利益を最大化するための個人の機会に優先する。

国際協調により地球規模の危機への対処を

 社会民主主義にとって、現在の危機におけるさらなる課題は、ほとんど前例のない地球規模に拡大した危機への対応を迫られていることである。これには、金融市場の統合と相互依存が、伝染の急速な拡大をもたらしていること、およびひとつの国の需要の崩壊が別の国の輸出に影響を及ぼすことで実体経済へ波及していることの二つの要素がある。
 リスクを世界中で広く分散させる代わりに、世界的な金融システムはそれを激化させた。ネオ・リベラリズムの教義は、世界的な金融市場が最終的に自己調節し、無規制の市場という見えざる手が、自らの均衡点を見出すとしていた。しかし、スティグリッツが辛辣に観察しているように、「見えざる手がしばしば見えないように思われる理由は、それが存在していないから」であり、金融市場は自己調節したりなどしない。世界的な金融の技術革新は、資産バブルの問題を解消するどころか悪化させた。ネオ・リベラリズムによる反規制というテーマは、アメリカの住宅ローン市場での問題を、急速に地球規模の金融・経済危機に転換してしまい、いまや開かれた地球規模の市場の将来を脅かしている。資本主義が自身を食いつくしているもうひとつの例だが、今回はぞっとするような地球規模の結果を生んでいる。
 ここで、三つの中心的な原則が明らかなっている。第一に、一国の金融市場は一国の政府による有効な規制を必要としている。第二に、世界的な金融市場は、単独の国の経済を圧倒してしまう取引量になっているという理由のみでも、効果的な世界規模での規制が必要である。第三に、いずれの場合も効果的に規制を達成する手段は、各国の政府が協同することによってのみ実現できる。私たちが直面している世界的な金融システムの不安定の規模と複雑さに対し、民間の金融市場で取り組むことができる解決策は、存在していない。
 だからこそ世界は、G20を通じた政府の共同行動に注目している。そこでは、世界の金融システムに即座に流動性を提供し、世界的な不況から生じる成長ギャップに対応するために十分な財政上の刺激を調整し、バーゼルVを含む将来のための世界的な規制のルールを再設計し、現存の世界的な公的機関、特にIMFを、二一世紀に求められているにふさわしい権限と資源をあたえるよう改革する必要がある。悲劇的なことに、ここ二〇−三〇年のネオ・リベラリズムの台頭の結果、ケインズがブレトン・ウッズで生み出したIMFが、世界中にネオ・リベラリズムの教義を広める機関となり、長期的なIMFへの評判が損ねられ、過去にIMFがひどい扱いをしてきた国々と共同で現在の危機に対して効果的に行動する能力も損なわれてしまった。
 各国政府は、世界経済の中で規制のもっとも弱いところへ資本が漏れ出してしまうような、どん底へ向っての競争を防ぐため、一貫した金融規制を策定しなければならない。私たちは、システム上重要な金融機関に対し、より強力な世界的な開示基準を作らなければならない。私たちはまた、役員報酬を含むより責任ある企業行動を促すような、強力な監視の枠組みを築かなければならない。
 さらに、IMFが破綻を未然に防止するための分析を行う権威を拡大し、制度上の弱点に対する早期警戒システムを強化しなければならない。そして、IMFのガバナンスに関する取り決めを改革しなければならない。世界的な金融システムの運営・管理の構造が、こんにちでも一九四四年の力の均衡によって支配されているのは意味を成さない。中国のような急成長を遂げている途上国に、IMFのような多国間の機関においてより大きな貢献を期待するのならば、このような場の意思決定へのより大きな発言権が与えられるべきである。 各国政府にとって長期的な課題は、過去一〇年間世界経済を不安定なものにしてきた不均衡状態、特に中国、日本、産油国のような巨額の債権を持つ国と、アメリカ合州国のような巨額の債務を持つ国との問の不均衡に対し取り組むことだ。短期的には、このような不均衡はアメリカの財政赤字がさらに膨れあがるとともに増大するだろう。中期的には、このような不均衡を克服し、より安定した世界的なマクロ経済の枠組みへと進んでいくために、世界経済上新たなレベルでの協力と調整が求められる。このような世界規模の不均衡を突然変更すると、例えば中国が合州国債の購入を急激に引き下げるとすれば、外国為替市場を激震させ、USドルと世界経済の恢復見込みの両方に恐ろしい結果をもたらすであろう。再度これは、政治手腕にとっての課題として迫っている。私たちは、個々の市場への参加者が、どうにかして魔法のように正しくふるまうとは期待できない。
 現在の世界的危機に取り組むにあたり、社会民主主義の役割にはもう一つの次元がある。貧困、および発展途上国における政治上の安定に対する危機の影響は、これまでのところ世界的な議論の中では十分に認識されていない。世界銀行の介入、二国間のODA、そしてミレニアム開発目標の継続した履行は、危機の影響を処理していく上で重要な要素となっている。さもなければ、発展途上国の多くを貧困に引き戻してしまうであろう。社会民主主義政府は、本能からも伝続からも、このことに関わりやすいのではあるが、先進国の予算が、危機によって引き起こされた前例のない国内需要縮小のためいっそう圧迫されていることから、こういったことはますます難しくなっている。
 ネオ・リベラル論者は、(外交政策におけるイデオロギー上のパートナーである)ネオ・コンと同じように、多国間での運営・管理の全てを本質的に疑ってかかる。事実、ネオ・リベラル論者は、政府がその国の市場に介入することを嫌うのと同様に、国際機関が世界市場に介入することに敵意を抱く。再度、社会民主主義との対照は有益である。私たちが、現在直面している世界市場の運営・管理や協力・調整の複雑さを考えると、社会民主主義の長い伝統である国際主義は、それ白身が多国間の解決策を受け入れやすい特徴を持つ。世界的な経済パワーがますます分極化していることを考えると、一国だけの解決策で足りるものはない。

選択の余地はない

 将来、世界的な金融危機に効果的に対応するためには、過去からの本質的な質問に対する回答が求められる。その質問の第一は、「どういうわけでそのような危機が広範な経済的・社会的破壊をもたらしたのか」である。危機の規模と、それが世界中で起こLている衝撃は、長く確立された教義を少々いじってみるだけでは不十分であることを示している。
 二つの動かしようのない真実、すなわち、@金融市場は必ずしも常に自己調整したり自己規制したりするものではない、A政府は、(一国でも国際的にも)経済の安定を維持する責任を決して放棄することはできない、ということがすでに確立されている。この二つの真実は、それ白身でネオ・リベラリズムが主張する継続したイデオロギー上の正統性を打破している。なぜなら、この二つの真実は、ネオ・リベラリズム的制度が築かれている基盤を取り除くものだからだ。
 ネオ・リペラリズムが私たちに残していった課題に対し、社会民主主義が効果的に、そして持続的に反応できる範囲については、未解決のままである。ネオ・リベラリズムの凋落に対し、中道左派がイデオロギー上の凱歌を上げることをためらわせているのは、ロバート・スキデルスキが最近思慮深く喚起した、歴史のサイクルである。
 《社会は、振り子のように活力と衰退、進歩と反動、放埓と厳格の間をゆらゆらと揺れ動くといわれる。それぞれの外へ向けての動きは、行き過ぎによる危機を生み出し、それが反動へとつながる。均衡点を達成するのは難しく、そしてそれはいつも不安定である。
 『アメリカ史のサイクル』(一九八六)の中で、アーサー・シュレジンジャー・ジュニアは、政治・経済上のサイクルを、「国家のかかわりが、公的な目的と私的な利益の問で常に移動していること」と定義した》
 私たちはさらに根本的な体制の変化を目早している、と主張する人もいる。一九四〇年代から一九七〇年代半ばまでのケインズモデルに始まり、一丸七八年から二〇〇八年までのネオ・リベラリズムの台頭につづき、戦後史上第三の、新しい体制が現在形成されているというのだ。おそらくこの新しい体制は、「社会資本主義」「社会民主資本主義」、あるいは単純に「社会民主主義」そのものとして呼ばれることになろう。命名がどうであれ、概念ははっきりしている。それは、能動的な政府によって明瞭に規制された開かれた市場のシステムであり、そして競争的市場が不可避的に生み出すより大きな不公平を引き下げるよう、政府が介入するシステムである。
 いずれにせよ、地殻変動のような変化が起きており、断層線は裂け目を生み出し、それはさらに深い地殻の動きを生み出すかもしれない。政府にせよ、政府を代表する人々にせよ、もはや無規制の行き過ぎた資本主義制度を信任することはできない。サルコジ大統領が述べたように、「自由放任よ、お前は終わった」のである。あるいは、中国の王岐山副首相がもう少し間接的な表現で語ったと伝えられているが、「先生はいまやいくらかの問題を抱えている」というわけである。 社会民主主義者にとって、開かれた市場のシステムを自己破壊から救うだけでなく、極左や極右からの極端な反応が根を下ろさないよう、適切に抑制された市場への信頼を再建するために、正しい答えを見出すことが肝要である。社会民主主義者は、自らの肩にかかっているものが大きいだけに、正しい答えを見出さなければならない。長期的失業の経済的・社会的コストが存在し、貧困が発坦途上田の中でそのおぞましい到達範闘を広げ、そして現存の田際政治・戦略秩序における、長期的な権力構造に与える衝撃もある。成功するか否かは選択の余地があるものではない。私たちが克服できる能力に、あまりに大きいことがかかっている。
 社会民主主義者が、この危機を通り抜け、長期的により公正で抵抗力のある秩序を構築するための効果的なコースを描くことができると、私は信じている。このことは、政府が創造的な行動を取り、さらに各国政府が協調することによってのみ達成できる。ネオ・リベラリズムの教義のもっとも劇的な失敗の後で、私たちが直面させられている最大級の課題に対し、ネオ・リベラル論者が夢見た最小限の政府が十分な力を持つなどと、どうして主張することができるのであろう。政府は、ネオ・リベラル論者が主張したような本質的に邪悪なものではない。適切に設置され方向づけられれば、政府は個人の自由と公正との両方を受け容れて公共の利益に供するものであり、少数者だけではなく多くの人々のためのものである。
 (この論文を書くにあたり、ラッド氏は、現在の危機のイデオロギー上の起源について共通の関心を持った、スタッフやアドバイザーなどから助言やコメントを得ています。)
   (すぎた ひろや 神奈川大学・青山学院女子短期大学講師)
 

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