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投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 8 月 11 日 21:50:07: mY9T/8MdR98ug
 

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読書案内『新しいインターナショナリズムの胎動』ダニエル・ベンサイド著/柘植書房

帝国の戦争と地球の私有化に対抗して

NPA結成を
貫く問題意識


 ダニエル・ベンサイドの『新しいインターナショナリズムの胎動』(訳/湯川順夫、加藤洋介、星野秀明、柘植書房新社刊)が出版された。原著の出版は二〇〇三年だが、決して古くなってはいない。邦訳書の刊行時期は、現在そのスポークスパースンであるオリビエ・ブザンスノーが「サルコジへのライバル・ナンバー1」としてフランスで大きな注目を集めている反資本主義新党(NPA)の躍進とも重なっている。著者が指導者として活躍してきたLCR(革命的共産主義者同盟、第四インターナショナル・フランス支部)が自ら解党して、NPA結成へのイニシアティブを取った経過や背景を深くつかみとるためにも格好の素材である。
 ちょうど同じ時期に、ベンサイドと共著の『フランス社会運動の再生』(湯川順夫訳、柘植書房新社)を書いたクリストフ・アギトンによる『「もうひとつの世界」への最前線』(増田一夫、稲葉奈々子訳、現代企画室)も刊行されたが、両著の書かれた時期、テーマ、問題意識は重なっており、合わせて読めばより理解も深まると思う。

国際主義―危
機からの再生

 本書は「新しいインターナショナリズム」、「帝国の新たな混迷」、「全面戦争からグローバル戦争へ」の三部構成となっている。
 第一部では一八世紀から一九世紀にかけた資本主義の全地球的拡大と軌を一にした「ネーション」の形成と小ブルジョア的コスモポリタニズムからインターナショナリズムへの変容を説きおこし、「階級に帰属する文化」と「国民共同体に属する文化」の競合関係を経て、階級に帰属するインターナショナリズムが第一次世界大戦で深刻な危機に逢着したこと、そしてこの危機を突破したロシア革命もスターリニズムの官僚独裁を正当化する国家イデオロギーへと堕落することによって、その生命力を奪われたことを簡潔に叙述する。キューバやベトナムの革命が体現した第三世界の新しい活気に満ちたインターナショナリズムの息吹もまた、このスターリニスト官僚制の厚い壁を掘り崩すことはできなかった。
 一九八九年から九一年にかけた東欧・ソ連の「社会主義」官僚独裁の崩壊、湾岸戦争の勃発と「新世界秩序」の宣言は、その帰結だった。
 世界はアメリカ帝国主義の単独覇権と「ワシントン・コンセンサス」が主導する新自由主義グローバリゼーションの嵐に飲み込まれた。「オルタナティブなど存在しない」というマーガレット・サッチャーの言葉が勝ち誇った支配階級の気分を代表していた。
 しかしその中から新自由主義に対する新しい抵抗の機運が芽生えざるをえなかった。国際的にその先鞭をつけたのはNAFTA(北米自由貿易協定)の発効を射程に入れたメキシコのサパティスタの蜂起と全世界へのメッセージであり、一九九六年八月にその拠点であるチアパスで開催された「新自由主義に反対する人類のための大陸間会議」だった。先進資本主義諸国では一九九五年末のフランスの公共部門のゼネストである。フランスのストライキは、既存の政党や労働組合というよりも下からの新しい労働組合運動と新自由主義の資本攻勢に抗して登場した失業者、ホームレス、移民、女性たちの運動がその活性化に大きく貢献した。
 新自由主義の攻勢に対する頑強な抵抗は、世界的な反響をただちに見出した。新自由主義の世界と調和する「市民社会」からの「グローバル・ガバナンス」の枠組みを超えて、社会運動のグローバリゼーションの力学が解きはなたれた。世界社会フォーラムが体現した「抵抗のグローバリゼーション」は新しいインターナショナリズムの萌芽だった。

ネグリ「帝国」
への鋭い批判

 第二部では、新自由主義的グローバリゼーションの時代における世界支配の再編がテーマとなっているが、そこではジョージ・W・ブッシュがアフガニスタンとイラクに対して発動した「対テロ」グローバル戦争のさなかに日本でも邦訳出版され話題をさらったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』への批判が問題意識の一つの基軸をなしているように思われる。
 ベンサイドは述べる。「マイケル・ハートとトニ・ネグリが『帝国』において展開したテーゼは、時代遅れとされた帝国主義のコンセプトを、資本の直接的影響下にある等質な商業主義秩序の地球規模での到来を強調する帝国の概念でもって代用する。諸国家の媒介と領土の不均等な発展とは、そこでは副次的、さらには残滓的な役割を果たす以上のものではない。グローバル化した商業空間では、資本の支配は政治的・制度的媒介抜きに行われるものであるのだが、その考えは、この著者たちを、資本の乗り越え不可能な権力に対する永続的な抵抗という仮定と、抵抗に対して脆弱な、裸にされたシステムのカタストロフィ的崩壊という仮定との間で動揺させている」。
 ベンサイドは「帝国」を「非中心化した権力のネットワーク」とするネグリとハートの分析がついには「古き良き経済決定論と、古き良き『進歩幻想』と、そして古き良き(乗り越えられた帝国主義の古き誘惑に反対する帝国の進歩主義的エリートたちとの)同盟を再発見するだろう」と断罪している。実際、マイケル・ハートはジョージ・W・ブッシュの「対テロ戦争」について「今のアメリカの行動は帝国ではなく、旧来型の帝国主義であり、ブッシュのアメリカはグローバルな総資本の利害を代表していないので、ちゃんとした帝国に戻るようエリートたちに呼びかける」という文章を「ガーディアン」紙に投稿するまでになってしまった。ネグリもまた「EU憲法」への賛成の立場を公然化することにより、自らの論理の陥穽にはまってしまうことになる。
 ベンサイドは「資本主義とは、制度的装置と切り離すことができ」ないものであり、市場もまた「歴史的制度」であること、そして「資本主義のグローバル化は、商業主義的オートマティズムへと当たり前のように立ち返ることを意味するどころか、グローバル化した新たな制度的体制を、新たな領土的分割の切り抜きを、新たな国際的な商業的・法的ルールを押しつけるために支配的国家が強く先導する政治的対抗改革を暗示するものなのである」とネグリらの経済決定論的傾斜を批判している。この指摘は、新自由主義的グローバリゼーションの展開過程での「国家」の役割、ないし「階級権力の回復」を強調したD・ハーヴェイの『新自由主義』(邦訳は作品社刊)の主張と重なり合っている(同著の書評は本紙07年7月23日号に掲載)。
 かつて私は『<帝国>』の書評で、「帝国主義とは対照的に、<帝国>は、脱中心的で脱領土的な支配装置なのである。これは、そのたえず拡大しつづける開かれた境界の内部に、グローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいくのである」としたネグリ、ハートの論理に疑問を投げかけ「反<帝国>の主体が、グローバルに自らを構成する<帝国>内的存在であると著者(ネグリとハート)たちが主張する時、そこから抜け落ちるのはグローバル<帝国>内の重層的ヒェラルヒーからも『排除』される膨大な人びとの存在であり、もはや『外部』を持たないとされる<帝国>が、それでも再生産せざるをえない『外部』なのではないだろうか」と批判したことがある(本紙03年9月1日号)。もちろん当時私は、このベンサイドのネグリ批判に接していなかったが、問題意識としては共通するところがあるはずだ。
 グローバル資本主義の中での旧来の「国民国家」的主権が流動し、制約される中で民衆にとっての「主権」をどう再定義するのかという問題もベンサイドが取り上げる重要なテーマである。ネグリらによれば「国民」的主権のレベルでの抵抗は、もはや無効だということにならざるをえない。しかし事はそれほど単純ではない。私は、前掲の書評の中でグローバル化への抵抗の中で「『国民的主権』そのものの民衆自身による民主主義的再定義が必要である」と主張した。ベンサイドによればそれは「属地主義のラディカル化」の問題であり「社会的市民性がナショナルな市民性に対して優位となるような『居住の市民性』を推進すること」の重要性である。ベンサイドはここで「チアパスのサパティスタの運動は、おそらく他方に対する差別と独立とを交換することにしか行き着かないであろう分断という展望のうちにではなく、メキシコ革命から生じたネーションの再定義という展望の中で、原住民コミュニティ特有の権利を構想する」ことを具体的な参照例として挙げている。ここも私の大いに共感するところであった。
 第二部の第4論文である「ユダヤ人問題への国際主義的返答」も、今日の「イスラエル―パレスティナ問題」にアプローチする上できわめて重要なものだが、ここでは紙面の制約もあり、論評は差し控えたい。

インターナショ
ナルめざして

 第三部は、冷戦崩壊以後の湾岸戦争、コソボ戦争、そして「9・11」以後のアフガニスタン・イラク戦争と絶え間なく続く「帝国」の戦争の論理を鋭角的にえぐりだす論考からなっている。それは新自由主義的グローバル化という資本主義の到達した現状と背中あわせのグローバル戦争であり、西欧知識人たちが雪崩をうってこの戦争の論理に同調するプロセスを伴っていた。政治と外交の延長としての国家間の対立の表現である戦争ではなく「民主主義」や「自由・人権」といった「絶対善」の普遍的価値をふりかざした「帝国」による、「非人間化=動物化」された「絶対悪」を滅ぼすための、終わりのない戦争。これは決してブッシュという特異な人格と思想の持ち主が引き起こした偶然の産物なのではなく、今日のグローバル資本主義の帰結であることをベンサイドは説得力に満ちた筆致で描き出している。
 「民主主義」「自由と人権」の普遍的価値を排他的に独占した支配者が仕掛けたこの戦争は、国際法を葬り去り、「絶対悪」としてのテロリストとの闘いを口実に「帝国」内部の自由と人権をも踏みにじった。しかし一九九九年のシアトル、二〇〇一年のポルトアレグレが作り出した抵抗のグローバリゼーションは、ブッシュのイラク攻撃を前にして二〇〇三年二月十五日の空前の全世界同日反戦デモを生み出すことになった。
 「『グローバル統治』の圧政的亡霊たちにつきまとわれながらも、この下からのインターナショナリズムのグローバリゼーションは、グローバル化されたリバイアサンでしかないグローバル国家の神話に従うことを拒否する。それは、グローバル国家に対して、山のような運動を、形態の多様性を、政治に固有の調停の技術を対置する」「『名前のないインターナショナル』? 出現しつつあるその形について、われわれは(まだ)その輪郭を知らない。指導部が存在していないことは確かだが、共闘が存在しないわけではない。なぜなら、この新しいインターナショナリズムは、過去からの継承なくして、過去の経験を想起することなくして、活動家の意欲やアソシエーションや労働組合や政党の分子活動なくして、おそらく存在しえないからである」(著者による本書あとがき「新しいインターナショナル、新しい同盟」)。
 本書が書かれたのと同時期に開催された第四インターナショナルの第十五回世界大会(2003年2月)は「歴史の中で存在したインターナショナルの建設は、それぞれの時期において大規模な社会的かつ政治的発展と結びついた新しい諸課題に関連していた。再組織化の新しい政治サイクルは、その当初から新たな大衆的・革命的・反資本主義/反帝国主義的なインターナショナルの問題を提起する」と述べ「二十世紀の諸革命の経験から引き出した根本的な理論的教訓を明確にしつつ」この課題に挑戦することを明らかにした(『社会主義へ、新しい挑戦 第四インターナショナル第15回世界大会報告集』 柘植書房新社刊)。
 「抵抗のグローバリゼーション」は紆余曲折を不可避としながらも、資本主義の世界的危機の中でその基盤を広げていくだろう。日本でもその兆候はすでに現れつつある。ベンサイドの本著が、新しいインターナショナルへの論議を触発する素材となることを期待したい。   (国富建治)
(この文章は『トロツキー研究』54号に掲載した書評にごくわずかな訂正と補足を加えたもの。)

 

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