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投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 12 月 23 日 00:50:10: mY9T/8MdR98ug
 

九・一七は、分水嶺だった。二〇〇二年九月一七日の日朝首脳会談。過去の懸案を解決するはずの首脳会談は、衝撃の事実の公表とともに世論の激昂を招いた。それからの七年以上のあいだ、日本の政治やメディアで巨大な存在感を持ち続けてきた「家族会」と「救う会」。その十二年間の足取りを追う。(全三回)


青木 理
あおき・おさむ
一九六六年生まれ。
ジャーナリスト。共同通信社で警備公安警察を担当後、フリーに。著書に『日本の公安警察』(講談社)『国策捜査』(金曜日)など。


 二〇〇二年九月一七日に行なわれた小泉純一郎首相と金正日総書記による日朝首脳会談から七年以上の時が過ぎた。言うまでもなく、日本の首相が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の地を踏んだのは初めてであり、会談後には両首脳が「日朝平壌宣言」に署名している。
 この宣言は、日本による過去の植民地支配への反省と国交正常化交渉の再開が盛り込まれるとともに、いわゆる「補償」問題は国交正常化後に経済協力方式で行なうと明記された。また、核開発やミサイル問題の解決の必要性にも言及するなど、両国はもちろん北東アジア地域にとって極めて重要かつ歴史的な意味を包含するものだ。一方、最大焦点となった北朝鮮による日本人拉致問題では、日本政府が認定していた拉致被害者らについて北朝鮮側か「五人生存、八人死亡」と伝え、首脳会談の中でも金総書記が拉致を初めて認めて謝罪した。
 しかし、会談を受けて日本国内では激しい反北朝鮮ムードがをき起こった。それが拉致問題の衝撃によるものだったことは、今さら記すまでもないだろう。会談から約一ヵ月後の一〇月一五日に拉致被害者五人が帰国を果たし、翌○三年の五月二二日には小泉首相が再訪朝して被害者五人の家族とともに帰国したが、激しく燃え広がった日本国内の反北朝鮮ムードが沈静化することはなかった。
 結果、政界では安倍晋三氏が対北朝鮮強硬派として急速に人気を集め、○六年九月に五二歳の若さで宰相の座を射止めたのも周知の通りだ。その安倍氏はわずか一年で政権を投げ出し、以後は福田康夫、麻生太郎という二代の自民党短期政権を経て、現在は鳩山・民主党が政権の座を掌握するに至っている。
 だが、冷静に振り返ってみれば、日本国内に激しい反北朝鮮ムードが燃え上がって安倍氏に代表される強硬派が権力の中枢を歩むようになった時期以降、平壌宣言でうたいあげられた日朝問の国交正常化交渉が暗礁に乗り上げてしまったばかりか、安倍氏らが「最重要課題」と位置づけ続けた拉致問題も完全なる膠着状態に陥り、光明のない溢路に迷い込んでしまっているように見える。
 そして日朝首脳会談の前後から、日本国内で北朝鮮に対する強硬ムードを常にリードしてきたのが、拉致被害者の家族らでつくる「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(以下、「家族会」)と、それを支援する「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(以下、「救う会」)だった。もし拉致問題と両団体の力がなければ、安倍氏がこれほど早く執権することもなかっただろう。
 日朝首脳会談を大きな分水嶺として、二つの組織は日本外交に大きな影響を及ぼし、政府はおろかメディアもその動向に神経を尖らせ続ける存在になった。もちろん、拉致被害者とその家族の悲嘆は察してあまりあるが、一方で最近における両団体に対しては、極めて強硬で狭陰な政治運動としての色彩を強めてしまったのではないか、との指摘も多い。
 そんな「家族会」と「救う会」の歴史をあらためて振り返り、拉致問題と対北朝鮮外交をめぐる日本国内の現状と問題点を連載で追う。

 家族会の出発

 一九九七年三月二五日、東京・港区海岸一丁目の「アジュール竹芝」。東京湾岸地域の再開発に伴って九一年に竣工し、東京都職員共済組合が所有するホテル内の小さな会議室に、北朝鮮による拉致が疑われていた七人の家族が一堂に会していた。横田めぐみの父・滋と母・早紀江のほか、蓮池薫の父・秀量と母・ハツエ、兄の透、増元るみ子の父・正一と弟・照明、市川修一の兄・健一、有本恵子の父・明弘と母・嘉代子……。
 新潟や兵庫、鹿児島など全国各地に点在する家族のほとんどはこれが初対面であり、名刺などを手にしながら互いに少し緊張した面持ちで挨拶を交わした。続く会合では「家族会」の結成が決められ、今後の活動方針なども話し合われた。会の名称は「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」。現在とは異なり、「北朝鮮による拉致」という部分にカギカッコがつけられていた。
 「ウチの場合は『拉致』と言えるかどうか分からないから」「会の名称で『拉致』と決めつけてしまうのはいかがなものだろうか」
 そんな一部家族の声もあり、最終的に「北朝鮮による拉致」にカギカッコをつけることになったのだという。
 代表には、満場一致で横田滋が選ばれた。滋は「私よりも年長の方がいらっしゃるので」といったんは固辞したものの、「横田めぐみさんは拉致問題の象徴だ」という他家族の説得に背を押された。
 「家族会」結成の翌二六日午前には、家族が揃って東京・霞ヶ関の外務省と警察庁を陳情に訪れ、午後は永田町の参院議員会館内で記者会見も行なった。この模様は翌日付の各新聞などでも比較的詳しく伝えられている。以下は会見で横田滋が読み上げた「訴え」の一部だ。
 〈私たちの息了や娘たちが突然、姿を消してしまいました。茫然自失の私たちは、行方不明となった理由・原因について、ありとあらゆることを考え、また、自分たちでできる、あらゆる方法で、その行方を探しましたが、まったく手がかりを掴むことができませんでした〉
 こうはじまる「訴え」は、韓国への亡命工作員の証言などによって家族が北朝鮮に拉致されていた可能性が強まったと指摘し、次のように続けられる。
 〈私たちは、(略)本当に藁にもすがる思いです。(略)聞くところによると、北朝鮮では自然災害などがあり、わが国に対して、人道的な立場から、食糧の援助を申し込んできているようであります。私たちは食糧援助に反対するものではありませんが、人道的立場を云々するのであれば、まず私たちの息子や娘を返していただきたいというのが、率直な気持ちです。(略)どうか、国民の皆さまに、私たち家族が置かれている状況に深い同情とご理解をたまわり、私たち家族全員が一日も早く一堂に会せることができますよう、お力添えくださるよう心からお願いする次第です〉
 いまから約十二年前に遡る「家族会」結成−−−。この大きな原動力となったのが、当時は共産党の参議院議員秘書だった兵本達吉と、大阪に本拠を置く朝日放送プロデューサーの石高健次だった。

 模索の時期

 弁護士出身の共産党参院議員・橋本敦の秘書を長く務めていた兵本達吉は、一九八〇年代の後半から日本人拉致問題に関心を寄せ、日本海沿岸などで七八年に相次ぎ失踪した三組の男女の家族らを直接訪ねて接触するなど、独自の情報収集に乗り出していた。兵本が振り返る。
 「何の罪もない人がある日突然、神隠しにあったかのように蒸発してしまう、そんな不思議な事件に強い問題意識と関心を感じたのがきっかけでした。また、大韓航空機事件(八七年)で金賢姫に日本語を教えていた女性が拉致された日本人だったという情報もあり、失踪した三組の男女の被害者家族を実際に訪ね歩いてみようと思ったんです」
 拉致問題をめぐる当時の状況をあらためて振り返れば、一九七八年七月から八月にかけて福井・新潟・鹿児島で相次ぎ失踪した三組の男女−−−地村保志・浜本富貴恵、蓮池薫・奥土祐木子、それに市川修一・増元るみ子−−−については、八〇年一月七日付の『サンケイ新聞』(現・『産経新聞』)が北朝鮮による拉致の可能性を示唆する形でいち早く報じ、以後は他メディアも警察情報などを根拠に「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と伝えはじめていた。
 また、八五年には韓国の治安機関・国家安全企画部が北朝鮮工作員グループを摘発し、その供述から大阪の中華料理店店員だった原敕晃が宮崎の海岸から拉致されていた事実が発覚。さらに決定的な衝撃を与えたのが、兵本も語るように大韓航空機爆破事件だった。
 ソウル五輪を翌年に控えた八七年一一月二二日、乗客乗員一一五人を乗せたバグダッド発ソウル行き大韓航空八五八便がミャンマー沖上空で爆破された事件では、拘束された北朝鮮工作員・金賢姫の供述から、教育係として金賢姫に日本語を教えていたという「李恩恵」なる人物が拉致された日本人女性だった疑いが浮かび上がった。現在ほどではないにしても、このころもメディアなどでは拉致問 題への関心は高まっていた。
 例えば、八八年二月に日韓両国の捜査当局は金賢姫への聴取結果を発表しているのだが、その直後には新聞各紙も社説を掲げて次のように指摘している。
 〈金(賢姫)の供述内容が事実とすれば、北朝鮮の行為は人道にもとるだけでなく、わが国の主権に対する重大な侵害である。(略)「李恩恵」以外にも、日本人が北朝鮮側にら致されたことを疑わせる事件が何件も発生しているし、未遂事件も起きている〉(八八年ニ月九日付『読売新聞』朝刊、マルカッコ内は引用者注)
 〈日本の警察が北朝鮮にら致されたのではないかとみている三組の男女についても、疑惑は大きく膨らんでいる。発表では、金賢姫は李恩恵から、ら致された日本人夫妻に会ったと聞いた、という。この点の捜査も詰めてもらいたい〉(同日付『朝日新聞』朝刊)
 そうした時期、兵本は独白に調査を続け、それをもとに参院議員の橋本敦が国会の場で拉致問題を取り上げた。八八年三月二六日、参院の予算委員会。当時は竹下登が政権を率いており、外務大臣は宇野宗佑、国家公安委員長を兼務する自治大臣には梶山静六が就いていた。以下は当日の質疑の一部だ。

橋本敦 警察としては、この「恩恵」なる人物は日本女性で、日本から拉致された疑いが強いと見ているんじゃありませんか。
城内康光(警察庁警備局長)そのように考えております。
橋本 問題はこれだけではなくて、昭和五三(七八)年七月と八月、わずか二ヵ月間に四件にわたって若い男女のカップルが姿を消すという事件が立て続けに起こっているのであります。福井、新潟、鹿児島、そして富山。一件は未遂であります。水難で死んだとか自殺をしたとかいったような状況も一切ない。営利誘拐と見られる、あるいはその他の犯罪と国内で見られるような状況が一切ない。いかがですか。
城内 諸般の状況から考えますと、拉致された疑いがあるのではないかという風に思っています。
橋本 自治大臣にお聞きしたいんですが、この三組の男女の人たちが行方不明になってから、家族の心痛というのは、これはもう量り難いものがあるんですね。捜査を預かっていらっしゃる国家公安委員長として、どんな風にお考えでしょうか。
梶山静六 昭和五三(七八)年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性に鑑み、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、ご家族の皆さん方に深いご同情を申し上げる次第であります。
橋本 外務人臣、いかがでしょうか。
宇野宗佑 ただいま国家公安委員長が申されたような気持ち、全く同じでございます。
 ×   ×
 北朝鮮による拉致の疑いが濃厚−−−。前述した通り、新聞などには警察情報として福井、新潟、鹿児島の連続失踪は拉致の疑いが高いと報じられてはいたが、日本政府が公式に明言したのは初めてだった。有力な根拠となったのは、警察庁警備局が管理して全国各地に拠点を置く通信傍受組織−−−警察内部では「ヤマ」という符号で呼称される極秘組織−−−による無線傍受記録などだった。いずれのケースも、失踪前後に現場海域周辺で北朝鮮の工作船絡みとみられる暗号電波が警察によって捕捉されていたのである。
 さらに九一年五月には、金賢姫に日本語を教えたとされる「李恩恵」が埼玉県に住んでいた飲食店店員・田口八重子であると警察庁がほぼ断定している。また、このころには欧州で八〇年代に失踪していた被害者家族が政府やメディアなどに直接訴え出るようにもなっていた。
 だが、当の被害者家族たちの声が大きなうねりとなることはなかった。橋本敦が参院予算委員会での質問に立った八八年前後、各地に点在する被害者家族のもとを訪ね歩いた兵本が振り返る。
 「私か突然訪問して会った家族は、いずれも想像を絶する心痛に喘いでいました。ただ、当時はまだそれぞれの家族が『共通の拉致被害者』という意識は持っていなかった。他の被害者家族と集まりをつくったらどうですかとも申し上げたんですが、むしろ『拉致なんて信じられない』『そっとしておいて欲しい』という反応を示す方もいました」
 そうした状況を大きく転換させる契機となったのが、新潟市で失踪した十三歳の中学生少女−−−横田めぐみの拉致疑惑だった。

 ある雑誌記事

 テレビ朝日系列の準キー局として大阪に本社を置く朝日放送で報道局プロデューサーなどを務め、ドキュメンタリー番組を数多く手がけていた石高健次が拉致問題の取材に取り組みはじめたのは、九四年夏のことだった。もともと朝鮮半島問題に関心を持って番組も制作していた石高は、北朝鮮にわたった日本人妻の取材を続けるうち、拉致問題への問題意識を深めることになったという。
 そんな石高の取材は、大阪の中華料理店店員だった原敕晃の拉致事件を中心とし、福井や新潟、鹿児島で失踪した三組の男女のほか、欧州で行方不明となった有本恵子らの背後に見える北朝鮮の関与を追跡するもので、九五年五月に「闇の波濤から−−−北朝鮮発・対南工作」と題してテレビ朝日系列で放送された。石高はさらに九六年九月末、取材結果をもとにして『金正日の拉致指令』と題する著書を朝日新聞社から出版している。
 また石高は著書の出版直後、拉致問題に関する新たな情報を盛り込んだ原稿を朝鮮問題専門誌『現代コリア』の九六年一〇月号に寄稿した。石高が語る。
 「『現代コリア』という雑誌はまったく知らなかったのですが、依頼を受けて原稿を寄せました」
 『現代コリア』については今後詳しく述べていくことになるが、石高が寄せた原稿は四〇〇字詰め原稿用紙で一〇枚ほどの短いものだった。ところが、〈私が「金正日の拉致指令」を書いた理由〉と題して石高の原稿が同誌に掲載されると、予想外に巨大な波紋を引き起こす。次のような一文が引き金だった。

 これを読んで何らかの情報があれば是非お知らせ願いたいとの気持ちからここに紹介するが、この「事件」は、極めて凄惨で残酷なものだ。
 被害者が子供なのである。
 その事実は、九四年暮れ、韓国に亡命したひとりの北朝鮮工作員によってもたらされた。
 それによると、日本の海岸からアベックが相次いで拉致される一年か二年前、恐らく七六年のことだったという。一三歳の少女がやはり日本の海岸から北朝鮮へ拉致された。どこの海岸かはその工作員は知らなかった。少女は学校のクラブ活動だったバドミントンの練習を終えて、帰宅の途中だった。海岸からまさに脱出しようとしていた北朝鮮工作員が、この少女に目撃されたために捕まえて連れて帰ったのだという。
 少女は賢い子で、一生懸命勉強した。「朝鮮語を習得するとお母さんのところへ帰してやる」といわれたからだった。そして、一八になった頃、それがかなわぬこととわかり、少女は精神に破綻をきたしてしまった。病院に収容されていたときに、件の工作員がその事実を知ったのだった。少女は双子の妹だという。
 以上が私の知る「少女拉致」のすべてである。
 ×   ×
 今となってみれば、この「少女」が横田めぐみのことを指すと考えるのは容易い。ただ、当時は雲を掴むような話に近かった。続けて石高の話。
 「取材でたびたびソウルを訪れ、ある時に韓国の国家安全企画部幹部から聞いた話でした。でも、どこの誰かは幹部も知らなかった。必死で全国の新聞の縮刷版などを調べても該当者が見つからない。ウラが取り切れなかったので、番組はもちろん、本の中でも一切触れませんでした」
 ところが、ひょんなことから石高の原稿と横田めぐみの線が結びつく。

 少女は横田めぐみだった

 九六年の年末も押し迫った十二月一四日。新潟市内の古びた建物の一室で、ごく小規模な「勉強会」が開催された。講師役となったのは『現代コリア』を発行する現代コリア研究所の所長・佐藤勝巳。参加者は七○人ほど。「勉強会」を企画したのは、新潟市内で呉服店を営む小島晴則だった。
 これも詳しくは後述するが、佐藤勝巳と小島晴則は新潟出身の元共産党員だった。後にいずれも転向して共産党を離れ、佐藤は東京で現代コリア研究所を主宰していたが、かつては党員としてともに新潟で活動し、特に一九五二年にはじまった在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業に深く関わった仲間でもあった。小島が振り返る。
 「五九年にはじまった帰還事業で、私と佐藤氏は数多くの在日朝鮮人を新潟港から送り出す活動に現場で携わりました。しかし、後に北朝鮮内部の実情や帰還した人々の悲惨な生活が徐々に分かりはじめ、私たちが帰還事業の最前線で関わったことに対する忸怩たる思いを抱えるようになった。そんな帰還事業がはじまったのが五九年の十二月一四日だったから、その当日に合わせて佐藤氏を新潟に招き、講演会というか、勉強会を開こうじゃないかということになったんです」
 この「勉強会」の終了後に行なわれた宴席で、『現代コリア』一〇月号に掲戟された石高氏の記事が話題になる。続けて小島の話。
 「勉強会には新潟県警の関係者も参加していたんですが、石高氏の記事の話を聞いて『それ、めぐみちゃんのことじゃないか』と言い出したんです。みんな『えっ!?』って驚いて……」
 小島は間もなく新潟県の地元紙『新潟日報』の知人に連絡を取り、横田めぐみが失踪した当時の同紙記事を手に入れた。年が明けて翌九七年一月初旬のことだった。すると、ディテールに若干の食い違いはあるものの、石高氏の原稿と横田めぐみ失踪時の状況がほとんど一致した。
 この情報と『新潟日報』記事のコピーは、現代コリア研究所や関係者などを通じて兵本達吉や朝日放送の石高健次らにも伝えられ、石高と兵本が横田めぐみの両親を探し出す作業に着手した。石高と兵本はこのころすでに、日本海沿岸などで三組の男女が失踪した事件の情報収集をめぐって旧知の間柄になっていた。石高が言う。
 「めぐみさんのお父さんが滋さんという名前で、日本銀行の新潟支店に勤めていたことはすぐに分かったが、すでに定年退職していて連絡先などが分からない。そのことを兵本さんに告げると、国会議員秘書の立場で日銀などに問い合わせ、ようやく横田滋さんと連絡を取ることができたんです」
 兵本が横田滋に連絡し、初めて会うことができたのは九七年の一月二一日だった。今度は兵本の話。
 「電話連絡が取れた滋さんに『お嬢さんは北朝鮮にいるらしい』と伝えたら『えっ !?』って言って絶句して、その日のうちに自宅から参院議員会館の橋本敦議員室に飛んで来られてね。分かった範囲内で事情を説明したんですが、『めぐみに間違いない』と言って目に涙を一杯浮かべて……」
 ようやく輪郭が浮かび上がってきた横田めぐみ拉致疑惑は、石高の朝日放送と『産経新聞』が同年二月三日にスクープとして報じ、朝日新聞社の発行する週刊誌『アエラ』もほぼ同時に記事を掲載した。同じ日に国会では、当時は新進党の衆院議員だった西村真悟が衆院予算委員会でこの問題を質問している。こうして「一三歳の少女拉致」は「横田めぐみ」の名とともに初めて広く世に知られることとなった。

 順調のはずだった船出

 横田めぐみ拉致疑惑が浮上したことを受け、兵本は石高と相談しつつ、他の拉致被害者家族にあらためて連絡を取った。福井、新潟、兵庫、鹿児島……。
 「いつまでも個別に悩んで苦しんでいても解決しません。皆さんが一度集まって、家族の連絡会をつくって、政府と世論に訴えませんか」
 兵本らのそんな呼びかけで実現したのが、冒頭に記した同年三月二五日の「家族会」初会合たった。会合場所となったホテルの会議室は石高が手配した。翌二六日に参院議員会館で記者会見した際、各家族が手にしていた被害者のパネル写真も、石高が朝日放送の美術部に頼み込んでつくったものだったという。初会合では、兵本が司会役を務めている。
 一方、新潟では小島晴則がいち早く「横田めぐみの救出運動」に乗り出しはじめた。再び小島が言う。
 「兵本さんたちの尽力でご両親の連絡先が分かったので、私も滋さんに手紙を書いたんです。『できることがあればお手伝いしたい』って。地元の新潟で起きた事件だし、私には多少なりとも運動のノウハウがある。それに、かつて帰国事業に関係して、何度か北朝鮮にも行ってきた私としては、何か罪滅ぼしをしたいという気持ちもあって……。そうしたら滋さんから『是非よろしくお願いします』っていう連絡がすぐに来たんです」
 小島は、共産党時代からの旧友・佐藤勝巳や現代コリア研究所メンバーらと連絡を取り合いながら、新潟で支援団体をし立ち上げた。「横田めぐみさん拉致究明救出発起人会」。代表には小島自身が就き、横田滋と早紀江を新潟に招いて当時の新潟知事に申し入れなどを行なう一方、新潟市内の街頭で署名活動などにも取り組みはじめた。
 小島はまた、同年三月十三日付の『産経新聞』に〈”めぐみさん救出”に支援の輪を〉と題する一文を寄稿している。それが「アピール」と題された同紙の小欄に掲載されると、小島の自宅には全国から電話が殺到したという。
 「早朝から電話が鳴りっぱなしになりました。そこで電話をくれた人たちに署名用紙を送り、徐々に支援活動の輪が広がりはじめたんです」(小烏)
 だが、新潟だけで支援活動を続けることに小島はすぐに限界を感じはじめた。政府に働きかけるにせよ、署名集めなどをするにせよ、やはり東京に拠点を置く支援組織がなければ難しいと思ったからだという。続けて小島の話。
 「だから、私から佐藤勝巳氏に『東京の運動を中心になってやってくれないか』と傾んだんです。佐藤氏は辰初、忙しいからと固辞していたのですが、何とか頼み込んで東京の支援団体のトップに就いてもらうことになりました」
 実際に間もなく束京で「救う会」の結成準備が進み、九七年八月二日には東京・千代田区の学士会館で「準備会」が、さらに一〇月四日には港区の友愛会館で東京の「救う会」結成会が開かれ、トップである会長には佐藤勝巳が就いた。また、役員には佐藤の”弟子”でもある『現代コリア』編集長の西岡力も名を連ねた。後に「救う会」の副会長などを歴任し、佐藤とともに会の運営の中枢を担うことになる人物だ。
 こうして発足した「救う会」は、事務所も東京・文京区の現代コリア研究所内に置かれ、同研究所が完全に主導する態勢が整った。
 ところが兵本は今、こう振り返る。
 「最初はね、本当に良かったなと思ったんですよ。『家族会』の支援組織は必要だけど、私は議員秘書という立場だし、行高氏はマスコミの社員。それまで佐藤氏や『現代コリア』とは付き合いがなかったけれど、熱心に『家族会』の支援活動に取り組んでくれる強力な援車ができたと思ってね。でも、二年ほど経ったころから、これはマズいことになると感じるようになりました」
 小島もこう言う。
 「佐藤氏は古い友人だし、朝鮮問題の専門家として当時は信頼していたのですが、結局は拉致問題が佐藤氏や『現代コリア』の極端な政治的主張、思惑のために振り回されるような状況になってしまった。私も悪いのですが、今となっては強く後悔しています」
 「家族会」や「救う会」立ち上げの原点に関わった兵木と小島が口を揃えて語る後悔の言葉−−−。実際、現代コリア研究所が運動の主導的役割を果たすようになったことは、後の「家族会」と「救う会」の活動に暗い影と歪みを生み出す大きな要囚となっていく。
         (文中敬称略、以下次号)

 世界 一月号

 

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