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東欧ユダヤ人と西欧ユダヤ人の対立 【ヘブライの館】
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投稿者 愚民党 日時 2009 年 1 月 13 日 00:50:05: ogcGl0q1DMbpk
 

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作成 1998.1

 

東欧ユダヤ人と
西欧ユダヤ人の対立

 

 

■■■第1章:西欧ユダヤ人とドイツ諸侯の結びつき (宮廷ユダヤ人の実態)


■■「ホフ・ユーデン(宮廷ユダヤ人)」の登場


●まず、西欧のユダヤ人について説明したい。


●西欧キリスト教社会においては、古くからユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着していたため、ユダヤ人の職業は制限されていた。1078年にローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を発令すると、全ての職業組合からユダヤ人が締め出される事態となった。

キリスト教は、他人にカネを貸して利息を取ることは罪悪であると考えていた。ところが、ユダヤ教は『タルムード』の中で異邦人から利子を取ることを許していたので、ユダヤ人は古くから自由に高利貸業を営むことができた。そのため公職追放令が発令されると、ユダヤ人はキリスト教徒には禁止されていた金融業に喜々として手を染めていったのである。「カネに汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着したのはこの頃からだと言われている。


●そして、十字軍遠征活動に代表されるように、キリスト教の修道士や騎士階級が異教徒征伐政策を正当化するにつれて、ユダヤ人に対する迫害は露骨になっていった。13世紀にローマ教会が「異端審問制度」を確立すると、ローマ教会の横暴さは頂点に達した。

ゲットーは1554年にヴェネチアに初めて設置されたもので、ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制すると、またたくまに世界各地へ広まった。ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と宗教文化が保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は完全に制度化してしまったのである。

 

 
「ユダヤ人集団隔離居住区(ゲットー)」

16世紀に誕生した「ゲットー」は、またたくまに世界各地へ広まり、
その後、約300年間存続した。各地の「ゲットー」には2つ以上の門を
設けることが禁止され、高い塀で囲まれ、門の扉は外から閉ざさ
れたうえ、施錠され、鍵はキリスト教徒門衛が保管していた。

 

●しかし、全てのユダヤ人がゲットー生活を強いられていたわけではなかった。完全に自由な特権を享受していた少数のユダヤ人が存在していたのである。彼らはドイツ諸侯の高級官僚や宮廷出入りの御用商人となっていたため「ホフ・ユーデン(宮廷ユダヤ人)」と呼ばれていた。彼らは天性の商才によって、莫大な富を蓄積していった。ロスチャイルド財閥も、もともとはホフ・ユーデンの出であることで知られている。

このホフ・ユーデンについて具体的に紹介しよう。

 

■■宮廷ユダヤ人の経済力に依存したドイツ


●15世紀末に始まる大陸発見時代と、それにともなう商品経済の著しい拡大は、商業資本による利潤の追求という重商主義を生み出した。重商主義は、16世紀以来成立する絶対主義王朝下で各国の君主達にとって、自国の富国強兵を図る最大の関心事となった。こうした新たな資本経済発展のもとで、ユダヤ人たちは次第に中世的な商工業組合(ギルド)の拘束や制限から解放され、ユダヤ人の経済活動は大いに有利な方向へと変化していった。

封建制度が遅くまで残り、小さな領封君主や騎士領などがひしめいていたドイツでは、国際商取引網や金融力を持っていたユダヤ人は特に必要とされた。ヨーロッパ諸国のうちで、ドイツほど宮廷に召しかかえられたユダヤ人(ホフ・ユーデン)の経済力に依存した国はなかった。17、8世紀のバロック時代を通して19世紀に至るまで、ドイツの諸侯でユダヤ人を宮廷の側近として持っていなかった者はほとんどなかった。


●例えば、ドイツの分裂と衰退を決定的なものにした30年戦争(1618〜1648年)の際、フォン・ヴァレンシュタイン将軍はカトリック側に立って、ドイツ皇帝フェルディナンド2世のために傭兵隊を組織したが、その財源はオーストリア・ハプスブルク家の宮廷ユダヤ人ヤコブ・ハセヴィにより提供されたものであった。

また、バイエルン王国の筆頭宮廷ユダヤ人アーロン・エリアス・ゼーリヒマンは、1802年に全バイエルン王国の税収入を担保に取り、300万フランケンを王国に融資している。またその6年後には同国の関税収入を担保として、400万フランケンを貸し付けている。


●プロイセンの宰相ビスマルクと皇帝ヴィルヘルム1世の経済顧問であった宮廷銀行家ゲルソン・フォン・ブライヒレーダーは、普仏戦争(1870〜1871年)に勝ったドイツが、フランスから取るべき賠償金の額を決定した人物であった。

ビスマルクは、この宮廷ユダヤ人に彼個人の財産管理を全て託していた。ビスマルクはブライヒレーダーに相談することなくプロイセン王国の財政や戦費を動かすことはなかったという。

 


プロイセンの宰相ビスマルク

宮廷ユダヤ人に財産管理を
全て託していた。

 

●更にヘッセン侯国の宮廷御用商人として出発したロスチャイルド家が、金融業100年(1804〜1904年)を記念して出版した記録には、ロシアを含む全ヨーロッパ諸国の王侯、貴族の多数がロスチャイルド家の融資を受けていることが記されている。

ヨーロッパに銀行大帝国を築いたロスチャイルド家の5人兄弟の母親グードゥラが、戦争の勃発を恐れた知り合いの夫人に対し、「心配には及びませんよ。私の息子達がお金を出さない限り戦争は起こりませんからね」と答えたという。

 

 
(左)ロスチャイルド財閥の創始者
マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド
(ロスチャイルド1世/1744〜1812年)
(右)はロスチャイルド家の紋章


    
ロスチャイルド1世には5人の息子がいたのだが、それぞれをヨーロッパ列強の首都に派遣して次々と支店を
開業させ、それぞれがロスチャイルドの支家となった。上の写真は左から、長男アムシェル(フランクフルト本店)、
次男サロモン(ウィーン支店)、三男ネイサン(ロンドン支店)、四男カール(ナポリ支店)、五男ジェームズ(パリ支店)

 

●このように、19世紀に入ると、宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)は今や立派な「宮廷銀行家」として、王国の財政を左右するほどの力を持ったのである。そして、絢欄豪華な絶対主義王朝下で、宮廷ユダヤ人はまた金、銀、宝石等の供給者として大儲けをしていた。

彼らは自ら所有する金、銀、銅を用いた貨幣鋳造者(ミュンツペヒタ)として、領封君主の委託のもとで貨幣を鋳造し、供給した。多くの宮廷ユダヤ人の富は、しばしばこの貨幣鋳造業の請負による利益に由来するものであった。

 

■■ユダヤ人資本家と深く結びつくようになったドイツ


●以上の事柄は宮廷ユダヤ人に関するほんの一例にしかすぎないが、宮廷ユダヤ人は彼らの国際的連帯と、また上下の密接なつながりにより、大きな資金源をドイツの諸侯に提供し、また国際商取引の代行者として、きわめて重要な役割を果たしたのである。

彼らは君主より多くの特権を賦与され、ゲットーでの居住強制から解放されていたのをはじめ、多くの義務からも免除されていただけではなく、しばしば貴族の位にまであげられていた。

(金融力によって最強の宮廷ユダヤ人となったロスチャイルドは、本来ならユダヤ人が絶対にもらえない「男爵位」を得ている)。


●南ドイツ、アウグスブルクの大商業資本家ヤコブ・フッガーによるローマ教皇や諸侯に対する高利貸し付けはあまりにも有名であるが、この16世紀フッガー家により始められた王侯、貴族に対する宮廷貸し付けは、宮廷ユダヤ人を生み出し、20世紀初頭まで、ドイツの王侯・貴族とユダヤ人資本家との関係は切り離せない深い結びつきがあったのである。



●ユダヤ人の歴史に詳しいある研究家は、次のように述べている。

「そもそも金融経済そのものはユダヤ人によって作られたものである。中世のヨーロッパでは、キリスト教徒は利息を取ることを禁じられていたため、野蛮な職業とされていた金貸しなどの金融業はユダヤ人にあてがわれた。商人か金貸し以外の職業を禁じられていたユダヤ人は、その二つのどちらかに就くことを強いられていたと言ってもいい。つまりユダヤ人は、キリスト教徒によって、質屋や金塊の管理人、あるいは両替商などの利子や利息を扱う金融業に追いやられたのである。

当時の彼らが到達することの出来た最高の栄誉こそ、王侯貴族の財産を管理する『宮廷ユダヤ人』となることだったのである。

ところが、1600年代に、神聖ローマ帝国の権力が弱体化すると、諸侯は皇帝権力からの脱却を目論んで独自に領地を支配するようになっていった。そこでは深刻な官僚不足と、それに加えて貨幣とその原料となる銀の不足が問題となった。それを解決させたのが、数百年以上にわたって培ってきた金融取引のノウハウや、幅広く商取引を展開していたユダヤ人たちだったのである。

このようにしてユダヤ人たちは国家の中枢に入り込み、金融という媒介を通して、国家に対して影響力を持つようになっていったのである。

幾多の弾圧や追放を通り、世界中に離散させられた不条理の歴史は、結果的に世界の各地に『信頼できる同業者』ネットワークを生み出していった。彼らはこのネットワークを生かして、貿易などの商取引に深く関わり、為替システムを発達させたのだ。

当時の船は海賊に襲われることが多く、船が沈んだら『投資家』たちはただ損をするだけであった。そんな中でユダヤ人は、貿易商人たちから積み立て金を徴収し、万が一の時の損失を肩代わりする保険業を誕生させた。また、事業のリスクを多人数で負いあう株式会社の原理をも生み出したのである。

しかしユダヤ人は、財産が没収されるというリスクと背中合わせで生きていたため、無記名の銀行券を発行させて流通させた。これは後に欧州各国が中央銀行において紙幣を発行する際に応用されたシステムである。おわかりの通り、ユダヤ人こそ金融経済のからくりそのものを構築した人々なのである。」



●ちなみに、宮廷ユダヤ人研究の権威者ハインリッヒ・シュネーは、30年戦争から19世紀のナポレオン支配からの解放戦争(1813年)に至るまで、ユダヤ人の資金無しで行なわれた戦争はほとんど全くなかったと指摘している。


●ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトは次のように述べている。

「もしユダヤ人たちが、北半球諸国に分散移住していなかったとしたら、近代資本主義経済は生まれなかっただろう」

 


ドイツの経済学者
ヴェルナー・ゾンバルト

 

●また、『反ユダヤ主義の歴史』という本を著わしたレオン・ポリアコフという人の研究によれば、19世紀後半以来、産業革命・経済面で大活躍をしたユダヤ人は、1900年頃はドイツの人口の1%足らずにすぎなかったが、彼らは平均してドイツ人より約7倍の富を貯えていた。つまりドイツの人口の1%のユダヤ人が全ドイツの資産の6〜7%を所有していたという。



●ヒトラーが訴えたいわゆる「国際ユダヤ主義にたいする断固たる戦い」とは、縦横にしっかりと結びついて資金を操作、捻出し、ドイツ諸侯へ貸し付けた宮廷ユダヤ人の結束力に対する歴史的な回顧と恐れがあったのかもしれない。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●もっとも、ヒトラーが政権を握る直前のドイツでもユダヤ人は依然として巨大な勢力を誇っていた。首都ベルリンにおける産業の育成や交通の開発におけるユダヤ人の活躍は目ざましかった。プロイセンはもとより、バイエルン、オーストリアをはじめ、ドイツ各地における鉄道の布設、またロシアやルーマニアなどの鉄道の開設もドイツ・ユダヤ人の資本と人材なくしては考えられなかった。

ハンブルクにおける海運業、各地の大都市への百貨店経営の導入。また陶器(ローゼンタール)、銅、メッキ、化学工業の分野など、更にはベルリンにおける衣料、電気、機械、武器の製造、製油(食糧・燃料)業など、あげればきりがない。


●デパートの経営などは、ヒトラーが政権を握る1933年まで、全ドイツの80%がユダヤ人の所有・独占であった。産業革命におけるこうしたユダヤ人の活躍は、当時の投資家、出資者としてのユダヤ人銀行業を抜きにしては考えられなかった。

現在国際金融都市として著しい発展を見せているフランクフルトには、1880年にすでに210の銀行業を営む会社があったが、その7分の6(85%)はユダヤ人の経営下にあった。

また、アカデミックな分野でもユダヤ人は目立つ存在であった。1913年当時のフランクフルトの場合、弁護士218名のうち63%がユダヤ人であった。医師405名のうち36%がユダヤ人であった。



●ところで、ユダヤ人のラビ(ユダヤ教指導者)であるマーヴィン・トケイヤーは

著書『ユダヤ人の発想』(徳間書店)の中で、ユダヤ人の強さの一つは「ルフトメンシュ」であると述べている。

面白い内容なので、参考までに紹介しておきたい。

 

 
(左)ラビ・マーヴィン・トケイヤー。1967年に
来日、「日本ユダヤ教団」のラビとなる。
(右)彼の著書『ユダヤ人の発想』

 

「ユダヤ人が使用するイーディッシュ語で、『ルフトメンシュ』という言葉がある。『空気男』とでも訳せようか。

要するに、空気のように軽快な男という意味であるが、ここにはユダヤ人の歴史的なぺーソスがこめられている。

中世、ユダヤ人は迫害を受けていたので、ユダヤ人街の壁の中に閉じ込められ、農業、製造業といった正業につくことはできなかった。

そこで、多くのユダヤ人が金貸し、あるいはブローカーになった。もっとも金貸しになれたユダヤ人は、非常に運のよい者だった。もっと運のよい者は、当時の数学や商売の能力を発揮して、王侯貴族の番頭(宮廷ユダヤ人)となった。とにかくあの時代、字が読めて計算ができたのはユダヤ人をおいてなかったほどである。

しかしゲットーに住むほとんどのユダヤ人はその日暮しだった。だから、何でも機会があれば飛びついて、それを利用しなければならなかった。少しでも隙間があれば、空気のように浸透しなければならなかったのだ。そこで、『空気のルフトに人間のメンシュ』という言葉が生まれた。すなわちユダヤ人は、あらゆる状況に合わせて工夫をする能力を求められたのである。そしてユダヤ人はその能力をほとんどの者が持っていた。万能選手としての柔軟性と適応性を持っていたのだ。

今日のわれわれは、多様な価値観が並存する時代を生きている。その多様な価値観を活用するためには、『ルフトメンシュ』でなければならない。空気のように軽く、どこにでも入っていける人間。それでいながら、空気のようにだれもが求めるものを備えている人間。ユダヤ人の強さの一つは、『ルフトメンシュ』であることといえる。」

 

 


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■■■第2章:東欧ユダヤ人を蔑視していた西欧ユダヤ人


■■東欧ユダヤ人の大移住


●19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行した。このロシアにおけるユダヤ迫害は「ポグロム」と呼ばれ、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。

ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、帝政ロシアは、間違いなく、ユダヤ人が最も大量に殺された国であった。当時のロシアは、世界で最も多くユダヤ人が住む国であった。(そのほとんどはアシュケナジームであった)。

「ポグロム」はロシアから東ヨーロッパにかけて大規模に広がり、この結果、多くのユダヤ人がアメリカに渡り、今日のアメリカ・ユダヤ人社会の基礎を固めた。(現在アメリカはロシアに代わってユダヤ人が世界一多い国となっている)。

彼ら東欧ユダヤ人の活躍なしには、現在のイスラエルの建国もアメリカ・ユダヤ人社会の発展もなかったといえる。


●「ポグロム」とは、もともとロシア人キリスト教徒がユダヤ人に対して犯した、財産の破壊、略奪、殺人、レイプなどを含む行為であるが、人民はもちろんのこと、軍隊までが立ち上がってこれらの破壊行為を見物し、またいつでも参加することができた。キリスト教会は、この行ないに対して沈黙を保つどころか、支持さえしたのである。

特に1881年の春に、農奴解放で知られたアレクサンドル2世がユダヤ婦人が関与した暗殺事件に巻き込まれると、ロシア全土に狂暴な反ユダヤの嵐が吹きまくり、これが先例となって、「ポグロム」現象は第一次世界大戦の数年前まで間隔的に続発していった。

 


1881年に暗殺された
第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世

 

●また、この時の大衆暴動を契機として制定された非人間的なユダヤ制法としての「5月法」(1882年)は、帝政ロシアの何百万というアシュケナジームの権利をいっそう剥ぎ取るものとなった。

1880年代以降、ロシアから、またその影響をうけて他の東欧諸国から、西方(ドイツ、アメリカ合衆国など)へ、またある程度パレスチナへ向けてみられた強力かつ永続的なユダヤ移民の流れの少なくとも最初の原動力は、このようなポグロムヘの恐怖と、反ユダヤ立法の強化による生活の甚だしい窮迫化、旧制度下における絶望にあったのである。


●19世紀末から1917年のロシア革命が起きるまでの間に、300万人近くのユダヤ人が、ロシアを離れて他国へと移住した。その7割は、アメリカ合衆国を目ざしている。

1880年から1925年の間に、アメリカへ移住したユダヤ人400万人に対し、パレスチナへの移住者はたった15万人しかいなかった。

 

 
大型の蒸気船に乗って大西洋を越えるユダヤ移民たちの群れ

 

●また、第一次世界大戦後のドイツ国内には、この東欧からのユダヤ難民が洪水のように押し寄せたのだが、これがドイツ国民の反ユダヤ感情を刺激し、ドイツでナチスの台頭をうながす要因の一つになったことはいうまでもない。

 

■■東欧ユダヤ人に不快感を示した西欧ユダヤ人


●18世紀末から19世紀初めにかけて、「啓蒙主義」が当時のヨーロッパ知識人階級の支配的思想となった。この「啓蒙主義」に強い影響を受けたドイツのユダヤ人たちは、伝統的なユダヤ教を最小限にとどめて、一般のヨーロッパ人と同じ教養を身に着けることこそが、ユダヤ人を差別と貧困から解放する道であると考えた。こうして、ユダヤ人がキリスト教ヨーロッパ社会の中に積極的に“同化”していくことを目指す運動──「ユダヤ啓蒙主義運動(ハスカラ)」が誕生した。

 


「ユダヤ啓蒙主義運動(ハスカラ)」の父
モーゼス・メンデルスゾーン
(1729〜1786年)

彼はレッシングと親交を結び、カントとも
文通する関係にあった。「ソクラテスの再来」と
言われた彼は、ドイツ啓蒙期における哲学者として、
またユダヤ人をして文化線上の創造的地位に
引き上げた原動力であった。

※ ユダヤ人をドイツ文化に同化
させようとしていた彼は、ユダヤらしさを
強く保持していた東欧ユダヤ人を蔑視した。

 

●この「ユダヤ啓蒙主義運動(ハスカラ)」の先駆者となったのは、ドイツのユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーン(作曲家フェリクスの祖父)である。

彼は閉鎖的ゲットー生活からの脱却、近代国民国家への個々の市民としての同化、他宗教に対しての寛容などを説いた。彼自身は、伝統的ユダヤ教の戒律に忠実なユダヤ教徒としてとどまったが、トーラー(モーセ五書)をヘブライ語からドイツ語に訳した。


●ユダヤ人をドイツ文化に同化させようとしていたモーゼス・メンデルスゾーンは、ユダヤらしさを強く保持していた東欧ユダヤ人を蔑視した。

ユダヤの詩人ハインリヒ・ハイネは、東欧ユダヤ人を嫌悪しながら、同化ユダヤ人(西欧ユダヤ人)に対してよりも親近感を持つ、愛憎交錯感情があった。またユダヤ人小説家のフランツ・カフカは、同化ユダヤ人が失いつつあったユダヤらしさを東欧ユダヤ人に見いだし、「隠された言語」を駆使して作品を書いた。

 

 
(左)ユダヤの詩人ハインリヒ・ハイネ
(右)ユダヤ人小説家フランツ・カフカ

 

●東欧のユダヤ人は、あきらかに西欧の同化したユダヤ人とは異なっていた。同化した西欧のユダヤ人は、どちらかというと、豊かで、企業家や学者・弁護士・医者等教養ある西欧文化の輝きを身につけた文化人だった。

それに比べて、ロシア革命後に東から流入し始めた東欧ユダヤ人は、貧しく、どちらかというと文化程度の低い人々で、同化しておらず、イーデッシュ語という独特の言葉を話す異質のユダヤ人だった。彼らは、無国籍であることがしばしばだった。

裕福で国民に溶け込んで活動していたドイツのホフ・ユーデン(宮廷ユダヤ人)たちの間では、この東欧からのユダヤ難民の流入は全面的に歓迎されなかった。彼ら上層階級のユダヤ人たちは、押し寄せる下層階級のユダヤ難民たちが、ドイツ国内で粗野な行動を起こすことによって、自分たちの安寧を脅かすことに危機感を持ったのである。


●例えば、ドイツ・ユダヤ人社会の公式な機関紙である『ナショナル・ジューイッシュ・ポスト』は、1923年6月号の記事で、次のようにガリチア地方からやってきた下層階級のユダヤ難民に対する憤りを表明している。
(※ ガリチア地方とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である)。

「これらの人々がポグロム(ユダヤ人虐殺)の国のほこりを靴から払い、より寛大な西欧へ逃れようとすることは、彼ら自身の観点からすればまったく正しいことである。イナゴが群れをなして我々の畑を襲うことも、イナゴ自身の観点からすれば正しいことである。だが人が、自らのパンと安寧を与えてくれる自分の所有地を守ろうとすることも、また正しいことである。そして、彼らが群れをなしてやって来るということを誰が否定できようか? 彼らは地代を無視する、役人たちを無視する。とりわけ彼らは、所有者の意志を無視するのである。彼らはただ1つの目的をもっており、それを促進するためにあらゆる機会を利用する。だが、彼らは家屋を強奪の対象とするだけでは飽き足らない。お金によって買うことができるものはなんであろうと、彼らの目には食欲の恰好の対象なのである。

〈中略〉

いかに多くのユダヤ人が東欧からドイツにやってきたかということは、一般には隠された事実である。公にされないため、ほとんどの人(非ユダヤ教徒)は知るよしもない。ただ我々だけが、公的および私的な統計がすべてデタラメであることを知っている。『ユダヤ人労働者救済委員会』も嘘をついている。われわれが問題にしている人々は、こうした委員会には行かない。彼らはガリチア地方──テルノポリ(ウクライナ西部の都市)とその周辺地域から流出して、ウィーンを征服し終え、いまやベルリンを征服しつつある。彼らがベルリンの支配者になったときには、彼らの戦略線をさらに延長させて、パリを征服するであろう。交換レートの下落によってつくりだされた真空が、彼らを吸いこむのである。」



●これ以前にも、西欧の上層階級のユダヤ人が、下層階級のユダヤ人に対して似たような不快感を示していたことがあった。

例えば、イギリスのユダヤ人指導者が1849年に発行した回覧状は、ドイツに来た東欧のユダヤ難民に対して、イギリスへの移住を制限するよう求めるものであった。また、1878年に開催されたパリ会議では、アメリカのユダヤ人の代表は公式に、東欧のユダヤ人の見境のない移住に警告を発していた。


●ナチスが強制移住や収容所への移送のため、組織させた「ユダヤ人評議会」が移送リストに最初に乗せたのは、多くの場合これら、東欧から流入してきた「外国人」ユダヤ人だった。ユダヤ人自身の中にもこうした一種の排外主義があった。

だから東欧のユダヤ人は、第三帝国の反ユダヤ政策によって最も多くの犠牲者となった。しかも彼らはその故郷ともいうべき、東欧で殺戮された。東欧のユダヤ人は、ともに300万人以上がいたポーランドとロシアが中心だった。アウシュヴィッツに代表されるナチスの「絶滅収容所」はドイツ国内ではなく、全てポーランドにあった。

デンマークやブルガリアのようにほとんどユダヤ人が移送されなかった国もあったし、枢軸国だったにもかかわらず、住んでいたユダヤ人の10%の死者しか出さなかったイタリアのような「何も解決しない」国もあった。ルーマニアのようなドイツ人が目をそむけるほどのむごたらしいユダヤ人へのポグロムを展開した国もあった。

 

 


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■■■第3章:東欧のシオニストと西欧のシオニストの対立


■■帝政ロシアで開始されたシオニズム運動


●1881年に南ウクライナにおいて発生した一連のポグロムは、ロシアにいるユダヤ人たちに大きな衝撃を与え、ロシア・ユダヤ人社会に大きく分けて“3つの動き”を生み出すことになった。

1つめの動きは、ユダヤ人の大移住である。これについては既に触れた。

2つめの動きは、革命への積極的参加である。ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したのであった。

そして、3つめの動きは、シオニズム運動の開始である。一部のユダヤ人は、当時オスマン・トルコ帝国下にあったパレスチナにユダヤ人の国家を樹立することこそ、迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開した。

 

イスラエルの旗は、1891年にシオニズム運動の
運動旗としてユダヤ人ダビデ・ウルフゾーン
(リトアニア出身)が考案したものである。

 

●まず1881年に、黒海北岸都市オデッサのユダヤ人医師レオン・ピンスケルが、オデッサ・ポグロムに遭遇したショックをもとに『自力解放』という本をドイツ語で出版し、ユダヤ人は自分たちの国を作って隷属状態から解放されるべきだと主張した。そして彼は、パレスチナにユダヤ人の植民化を推し進めるインテリや学生たちの「ヒバト・ツィオン」に加わり指導的役割を演じたのであった。

 


ユダヤ人医師レオン・ピンスケル

彼は医者らしく、反ユダヤ主義は
“不治の病”であるので、シオニズムこそが
唯一の“処方箋”であると説いた

 

●1882年にはユダヤの学生組織ビールー派によって「ビールー運動」が開始された。「ビールー」とは「ヤコブの家よ、来れ、行かん」(イザヤ書2章5節)のヘブライ語の頭文字の組み合わせである。

ビールー運動は、またたく間にロシアのユダヤ人青年の間に広まった。1884年には秘密警察を避けて、国境を越えたドイツ領内の町カトヴィッツで第1回の全国大会を開いた。その後、十数年間に約1万人のユダヤ青年がパレスチナへ渡り、約40ヶ所の地点に定着した。これがいわゆるシオニストの“第一波移民”である。

このパレスチナへの移住運動は「アリヤー運動」と呼ばれ、1904年から1914年までの10年間に、約4万人の東欧ユダヤ人がパレスチナに流入したのであった。


●このように、一般には、ハンガリー生まれのユダヤ人テオドール・ヘルツルが“近代シオニズムの父”とされているが、帝政ロシアにおいてすでにシオニズム運動は生まれていたのである。

 


白ロシア・ボブルイスクのシオニスト集団 (1902年)

 

●ロシアにおけるシオニズム運動の主流は「宗教的シオニズム」であった。宗教的シオニズムは、信仰の崩壊や解放や同化から、ユダヤ民族の統一を守ろうとし、もしユダヤ人が自らイスラエルヘの帰還を準備するとき、神の助けを期待するものであった。彼らは、パレスチナの植民地化を要求したが、しかし独立国家の樹立までは考えておらず、世俗的な運動(政治的シオニズム)による時期尚早の国家建設は、神への冒涜であると主張していた。

この宗教的シオニズムに対応する機関「ミシュラヒ」は、1902年ヴィルナで結成された。


●また、ロシアのシオニズム運動の中には、新たに「文化的シオニズム」という潮流も生まれた。この「文化的シオニズム」の創始者はキエフ州スクヴィラ生まれのアハド・ハアムだった。彼はパレスチナを訪れ、そのあとすぐに植民は誤れる道だと批判した。

彼によれば、ユダヤ国家の建設はまず当面は実現され得ない。それに代わるものとして、彼は2、3の入植地に集中して移住することを支持し、パレスチナを、離散におけるユダヤ民族のルネサンスがそこから出現するような、そうしたユダヤ民族全体の精神的拠点にすることに賛成した。彼も他の多くの東欧ユダヤ人と同じように、特に彼らの文化的独自性を強調し、いまこそそれを再生復活させることが大切だと説いた。

 


「文化的シオニズム」の
創始者アハド・ハアム

彼はパレスチナを訪れ、そのあとすぐに
植民は誤れる道だと批判した

 

●この「文化的シオニズム」は「政治的シオニズム」に対する、もう1つ別の決定的な道となるべきものであった。マルチン・ブーバーおよびその他の著名人たちによってさらに進められたこの「文化的シオニズム」は、とくに東欧ユダヤ人の根源を援用して、「ユダヤ的特性」を強調し、他の文化の評価を独自の文化への意識と結合させた。その限りにおいて文化シオニストたちは、パレスチナにおけるアラブ人たちとの妥協を支持したのであった。

 

■■“1つの民族”を強調した東欧のシオニストたち


●相次ぐポグロムの発生に危機感を募らせていた東欧のユダヤ人の間では、“ユダヤ民族”として1つの民族運動を形成しようとの熱意が広がっていた。


●レンベルク出身のフレート・ノシックは、ガリチア地方(西ウクライナ)におけるユダヤ人ナショナリズムの重要な理論家として活躍していた。既に彼は1886年に、東欧のユダヤ人と非ユダヤ人との間の紛争をなくすことができるのは、ただディアスポラ(ユダヤ人の大離散)に終止符を打ち、ユダヤ人の多数がユダヤ教の“約束の地”であるパレスチナに国家を打ち立てる場合に限られると、明確に定義していたのである。

1883年に、このレンベルクでは最初のユダヤ民族国家派の組織が設立され、この組織に続いて更なるグループの設立が続いた。意見の大勢は、比較的貧しい、危険にさらされているユダヤ人を、開拓民としてパレスチナに送り込むとともに、ガリチア地方そのものにおける民族の生存の保護育成を目指していた。


●シオニズム運動の文化的観点を政治的観点と結びつけたのは、ウィーン出身のナータン・ビルンバウムであった。東欧ユダヤ人の文化と出会って感銘を受けた彼は、ユダヤ人としての独自の自覚を見出すよう呼びかけ、1885年から新聞『自己解放』を発行し、1890年には「シオニスト」なる概念を打ち出した。それは、この新しい運動を一般的・民族主義的ユダヤ人の、そして純粋に博愛的な努力から引き離し、ユダヤ民族の新しい統一の目標を定めることを狙ったものであった。


●1908年には、ナータン・ビルンバウムによって組織されたイーディッシュ語の世界会議がチェルノヴィッツで開催された。彼は「世界シオニスト機構」の初代書記長を務めたが、1899年の「第3回シオニスト会議」以後、シオニズムの運動から離れ、ユダヤ人は離散のままで文化的・政治的自主性を持つべきであるとし、母国語としてイーディッシュ語を採用すべきであると主張し続けていた。

彼の影響で、作家、演劇家、歴史家、社会学者、ジャーナリストから、労働者、小売商人に至るまでの、幅広い層の人々が、政治的姿勢はそれぞれ異なるものの、己れがユダヤ人であることを、自覚をもって体験し、産業化や都市化や新しい生活環境のなかに、自分たちのアイデンティティを見出したのであった。


●このように、西欧では大抵のユダヤ人たちによって否定されたもの、すなわち、自分たちが“1つの民族”であることが、東欧の地、ポーランドやロシアではますます多くのユダヤ人によって意識され、はっきりとした自覚をもって強調されたのである。



●“東欧ユダヤ人”という民族の存在は、「ユダヤ民族党」によって最も強く主張された。

この政党は1928年にロシアの組織と並んでポーランドのために別個に創設されたものである。党の精神的支柱と認められていたのは、政治家でもあり歴史家でもあったユダヤ人シモン・ドゥブノフであった。彼が主張していた見解は、ユダヤ人は流浪の生活においても1つのまとまった文化的歴史的民族であり、それゆえ、そこにおいて1民族としての諸権利を当然要求することができるというものだった。

この「ユダヤ民族党」は、イーディッシュ語を公用語として公認せよという要求と並んで、国の職員ポストのパーセントによる割り当ての保証と、独立したユダヤ人代表部の設置とを要求した。けれども、そのしばしば挑発的となる態度が種々の反ユダヤ的反応を呼び起こし、ユダヤ人の間での支持は低迷を続けた。

 


白ロシア・ミンスクの前線でのシオニスト兵の会議 (1918年)

 

●このように、東欧のユダヤ人の間では、民族思想(ナショナリズム)が、まさに彼らが現に生活している土地でも発展を見ることが求められたのであった。こうした事柄は、西欧では見られない、東欧におけるシオニズムの特殊性を成すものであり、また東欧ユダヤ人の新しい自己意識の形成と連帯とに関係していた。

 

■■西欧のシオニストの台頭で新たな展開


●東欧のシオニストは右派から左派まで様々な団体を形成していた。「宗教的シオニズム」を支持していた正統派ユダヤ教徒の諸政党は、「イスラエル同盟」という形で連合した。彼ら正統派ユダヤ教徒の考えによれば、現状の変革はメシアによる救済をもって、初めて実現するはずであった。実際には、彼らはこうした態度によって右派の政策を助長していた。1920年代を通して、彼らは最も多数の支持者を集め、約50%の支持率を保っていた。

しかし、“ユダヤ民族”として1つの民族運動を形成しようとの、東欧からの始動は、次第にメシア救済を掲げる理想主義に走り、行き詰まるようになる。そして、この東欧のシオニズム運動は、西欧での「政治的シオニズム」の台頭によって大きな刺激を受け、新たな展開を迎えるのであった。



●西欧において「政治的シオニズム」運動を始めたのは、“近代シオニズムの父”とされているテオドール・ヘルツルである。彼はシオニズム運動とは全く無縁なハンガリーの“同化ユダヤ人(キリスト教社会同化者)”であった。ところが、フランスのドレフュス事件に遭遇し、自らの民族感情を呼び覚まされたのであった。

ヘルツルは、ユダヤ人の悲劇の根源は“国家”を持たないところにあると考え、ユダヤ国家樹立こそ急務であるとした。彼は『ユダヤ人国家』を著し、1897年には、スイスのバーゼルで国際的な「第1回シオニスト会議」を開催し、「世界シオニスト機構」を設立。自ら議長となり、シオニズム運動の国際認知のために、精力的な外交活動を展開していった。

 

 
(左)テオドール・ヘルツル
(右)彼が書いた小冊子『ユダヤ人国家』

 彼は「第1回シオニスト会議」を開催し、
「世界シオニスト機構」を設立した

「第1回シオニスト会議」の入場証

 

●むろん全体からすれば、シオニズムはユダヤ人全体の少数者にしか支持されていないものではあったが、ヘルツルの活動に影響されて、いまや世界のいたるところで、「シオニスト協会」ができた。

1911年に開催された「第10回シオニスト会議」では、総勢1万人を擁する103の「シオニスト協会」と13の青年組織の活動について報告されている。


●しかし既に紹介したように、“シオニズム”といっても複雑多様な運動形態があり、互いに反目しあったり、更にはシオニズムそのものに反対するユダヤ人は少なくなかった。

東欧で「文化的シオニズム」を提唱していたアハド・ハアムは、ヘルツルの「政治的シオニズム」を批判していた。また、ユダヤ教の主流ともいうべき伝統にのっとった正統派ユダヤ教徒は、シオニズム運動そのものが世俗的なものであるとして支持しなかった。ロシアのユダヤ人労働者総同盟「ブント」のメンバーも、シオニズム運動を“反動ブルジョア的”と決めつけ非難していた。

更に改革派ユダヤ教徒も、ユダヤ人は民族ではなく宗教集団であるから、国家を樹立する必要はないとして反対していたのである。


●また、東欧ユダヤ人たちの多くは西欧ユダヤ人たちを、「ディアスポラ(ユダヤ人の大離散)の苦労を忘れ果てている」といって非難していた。逆に西欧ユダヤ人の間では、東欧ユダヤ人たちを「時代に取り残された者」として蔑む者たちがかなりいた。もっとも東欧ではユダヤ人の物質的困窮が最大限に達していたので、西欧のユダヤ人たちは彼らに救いの手を差しのべようとはした。そしておまけに彼らを必要とした。東欧にこそ“ユダヤ人”の大半が住んでいたからである。

 

■■ユダヤ国家建設の候補地選びで激しい対立


●西欧と東欧のシオニストたちの意見の食い違いは、「世界シオニスト会議」において、常に緊張する場面が繰り返された。中でもユダヤ国家建設の候補地選びにおいて、大きく意見が衝突した。


●西欧のシオニストの多くは、ヘルツルを先頭にして、ユダヤ国家建設の候補地は、必ずしもパレスチナである必要はないと主張していた。実際にヘルツルは、1903年に開催された「第6回シオニスト会議」において、パレスチナにかわる代替入植地として「ケニヤ高地」を勧めるイギリスの提案を受け入れていた。

 

 
入植候補地の東アフリカ(=ウガンダ案)。ヘルツルはパレスチナにかわる
代替入植地として「ケニヤ高地」を勧めるイギリスの提案を受け入れていた。

 

●しかし、東欧のシオニストたちは、自分たちのアイデンティティの拠り所として、ユダヤ国家建設の候補地は“約束の地”であるパレスチナでしかあり得ないと主張し、ヘルツルの提案に大反対した。更に東アフリカの「ウガンダ」が候補地として浮上し始めると、東欧のシオニストたちは猛反発し、「世界シオニスト機構」を脱退するとまで言い出した。

 


紛糾した「第6回シオニスト会議」 (1903年)

 

●ユダヤ教に全く関心を持っていなかったヘルツルにとって、入植地がどこになろうと問題ではなかった。しかし、ナショナリズムに燃えていた東欧のシオニストのほとんどにとって、入植運動は、聖書の“選ばれた民”の膨張運動であって、アフリカなどは全く問題になり得なかったのである。そのため、「ウガンダ計画」に激怒したロシアのシオニストの一派が、ヘルツルの副官にあたるマクス・ノルダウを殺害しようとする一幕さえあった。

翌1904年7月、ヘルツルは突然、失意の中で死去した。わずか44歳であった。

結局、ヘルツルの死が早すぎたことが、パレスチナ入植を推進する東欧のシオニストにとっては幸いとなり、シオニズム運動の内部崩壊はかろうじて避けられたのであった。

 


バイカル湖の南端・イルクーツクでの東欧シオニスト大会

横断幕には「シオニズムはイスラエルの民のために
パレスチナに安全な場所を確保することが
目的である」と書かれている

 


■■「総合的シオニズム」運動の誕生


●「ウガンダ計画」をめぐる衝突において、東欧のシオニストたちは1903年から1905年までの間に、ついに自分たちの主張を貫くことに成功した。すなわち、シオンの国として求められるのは、やはりパレスチナしか許されないのだ、と。

彼らは「政治的シオニズム」とは別に「実践的シオニズム」を主張し始めた。

◆「政治的シオニズム」………“近代シオニズムの父”であるテオドール・ヘルツルが唱えたシオニズム。1897年の「第1回シオニスト会議」で採択された「バーゼル綱領」にあらわされる立場で、関係諸国を刺激しないように政治的配慮がされていた。


◆「実践的シオニズム」………東欧のシオニストたちが唱えたシオニズム。ロシア・東欧のユダヤ人は合法であれ、非合法であれ、パレスチナへの移住とユダヤ人国家建設が先決であると考えた。社会主義シオニズム、労働シオニズムの源流になった。

 

●その後、ロシアのシオニストたちのスポークスマンであったメナヘム・ウシシュキンは、「政治的シオニズム」と「実践的シオニズム」の2つを統合することを提案。1907年の「第8回シオニスト会議」で、この2つのシオニズム運動が統一され、「総合的シオニズム」と名付けられた。名付けたのは、白ロシアのピンスク地区出身の化学者ハイム・ワイツマンである。

この「総合的シオニズム」運動が、各種シオニズム運動の中で有力路線となった。

 


白ロシアのピンスク地区出身の
化学者ハイム・ワイツマン

 

●ワイツマンは「世界シオニスト機構」の総裁を務め、その後、何年にもわたって世界のシオニズム運動の指導者となった。彼の本職であった化学兵器の研究は、第一次世界大戦においてイギリスに終局の勝利を与えたが、この時、イギリス国王は彼の功労に報いようとして、彼の欲するものを与えようと告げた。しかし彼はただ「われ欲する何物もなし、もし陛下にして賞せられなば、ただユダヤ人にパレスチナの地を与えられたし」と答えたという。

イスラエル建国後、ワイツマンは初代イスラエル大統領になった。

 

 


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■■追加情報: イスラエルは東欧系ユダヤ人の「ガリチア人」が支配している


●ユダヤ人作家ジョージ・ジョナスが書いた『標的は11人──モサド暗殺チームの記録』(新潮社)というノンフィクション小説がある。

この本はモサド暗殺チーム隊長を務めた男(アフナー)の告白に基づく壮絶な復讐の記録である。

 

 
(左)『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』
(右)この本を書いたユダヤ人作家ジョージ・ジョナス

この本はモサド暗殺チーム隊長を務めた男の
告白に基づく壮絶な復讐の記録である

 

●この本の主人公アフナーは、本の最後のほうで、ため息混じりに、こうつぶやいている。

「しょせんイスラエルを支配しているのはガリチア人だ…」


●この「ガリチア」とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチは、ユダヤ教の一大中心地となっていた。

下の地図を参考にして欲しい。

 


ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)

 

●さて、この本の中には「ガリチア人(ガリシア人)」ついて具体的に説明されている箇所があるので、参考までに抜粋しておきたい。

※ 下の文章に出てくる「キブツ」とは、イスラエルの「共同村」のことで、
キブツの出身者はイスラエル国家を政治的にも経済的にも
社会的にも支えるエリート集団であると言われている。


「アフナーは4年間キブツですごしたが、そこで学んだことが2つあった。

1つは同じイスラエル人でも、まるで異なるイスラエル人がいるという現実を初めて知った。

キブツの主流は東欧系ユダヤ人の『ガリチア人』が占めていた。

ガリチアとはポーランド南東部からウクライナ北西部にかけての地域で、排他性、自堕落、うぬぼれ、狡猾、うそつきを特性とする下層ユダヤ人の居住地だった。

ガリチア人は反面、機敏で活力にあふれ、意志が強いことで知られる。しかもすばらしいユーモア感覚を持ち、勇敢で、祖国に献身的である。が、常につけ入る隙に目を光らせているから油断がならない。概して洗練されたものには関心がなく、平然とうそをつくし、信念よりも物質に重きを置く。おまけに地縁、血縁を軸とした派閥意識がきわめて強く、何かというとすぐに手を結びたがり、互いにかばい合う。ことごとくがガリチアの出身者ではないだろうが、しかしこれらの特性を持ち合せていさえすれば、まずガリチア人といってよかった。」


「ガリチア人からすれば、アフナーのような西欧系ユダヤ人は『イッケー出』であった。イッケーとは、都会のユダヤ人街『ゲットー』や東欧のユダヤ人村『シュテトゥル』を経験したことがない、西欧社会に吸収された『同化ユダヤ人』のことである。礼儀正しく、万事に几帳面で清潔だ。書物を集め、クラシック音楽に耳を傾ける。しかも政治的には、イスラエルが北欧三国のような解放社会、独立国家になることを望んでいる。そして物不足になれば配給制を主張し、長時間の買物行列に加わることもいとわない。ガリチア人とは違って裏工作をしたり、不正な手段で物資を入手したりするのを忌みきらう。勤勉で時間、規則を重んじ、物事が組織的に運ばれることを好む。たとえばドイツ系ユダヤ人が圧倒的に多い。“イッケーの街”ナハリヤは区画整理が行き届いている。ある点で彼らはドイツ人よりはるかに“ゲルマン的”だ。」


「アフナーはキブツ生活を通じて“ガリチア流”なるものを思い知らされた。東欧系ユダヤ人、とくにポーランド系ユダヤ人、ロシア系ユダヤ人なら徹底的に面倒をみる流儀であった。最高の働き口、世に出る絶好のチャンスはすべて彼らの手に渡るよう仕組まれる。キブツの主導権は彼らががっちり握っていた。

たとえば誰の息子があこがれの医学校に進むかという問題になると、学業や能力は無視された。むろん、建前は民主的に運営され、総会にかけて全員が投票し、進学者を決める。ところが、常に当選するのはガリチア人の子弟にきまっていた。

アフナーはキブツばかりでなく、軍隊を経て社会人になっても、ガリチア人の優位がついて回るのを知った。

ドイツ系、オランダ系、アメリカ系ユダヤ人などの出る幕がないほどであった。オリエント系ユダヤ人にいたっては、ガリチア人の助けを借りない限り、手も足も出なかった。」


以上、『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』(新潮社)より

 

http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb300.html



 

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