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ワルシャワ・ゲットー (『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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投稿者 新世紀人 日時 2009 年 1 月 14 日 15:32:57: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: ワルシャワ・ゲットー蜂起 (『ウィキペディア(Wikipedia)』) 投稿者 新世紀人 日時 2009 年 1 月 14 日 15:29:26)

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ワルシャワ・ゲットー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ワルシャワ・ゲットーにおける反乱犠牲者の碑ワルシャワ・ゲットー (getto warszawskie) は、 ナチス・ドイツによって、ポーランドに住むユダヤ人を強制収容するためにワルシャワ市内に設けられた区域。同種のゲットーでは最大規模のものである。

目次 [非表示]
1 「ゲットー」の設営
2 ゲットーでの生活
3 移送と抵抗
4 参考文献
5 関連項目


[編集] 「ゲットー」の設営
1939年11月7日、ワルシャワ地区の知事フィッシャーは、30万人と見こまれる市内のユダヤ人をゲットーに閉じこめるべきであると提案した。同じ時期、ドイツ軍司令官はユダヤ人の大半が居住していた旧市内の地域に「伝染病汚染に付き立ち入り禁止区域」を設営し、ドイツ兵の出入りを禁じた。11月28日の総督府令により、人口一万人以上のユダヤ人共同体は24人からなるユダヤ人評議会を組織せねばならなくなった。ワルシャワでは、ナチスがポーランドへ侵攻する以前のユダヤ人指導者が評議会のメンバーとなり、1940年10月からその活動を開始した。しかしすでにその年の3月18日にユダヤ人共同体は「ゲットー」を針金や柱で取り囲み、さらに監視することを要請されている。

10月から11月にかけて「ユダヤ人居住地区」を設営した。それは旧隔離地区の三分の二の広さであった。11万3000人のポーランド人がゲットー地区を離れ、13万8000人のユダヤ人がそこに入った。さらに7万2000人のユダヤ人がワルシャワ西部からゲットーに送り込まれた。


[編集] ゲットーでの生活

ゲットー内にはこの様な親のいない孤児があふれていた。(1941年)ゲットーの広さはワルシャワ市の2.4%であり、市全体の30%と見こまれたユダヤ人を収容していた。ゲットーはT字型をしており、「アーリア」居住区が狭い南部と広い北部を分けていた。この2つの部分をつなぐのは「アーリア」回廊となった地帯に架かる歩道橋だけである。当初は28あった出入口は15に削減され、通行許可書の数も制限された。

人口は1941年3月の段階で445,000人、面積は3.36km²、部屋数は61,295。ワルシャワの「アーリア人」の一部屋あたりの人数が4.1人だったのに対して、ゲットーでは7.2人であった。

ユダヤ人評議会は初めナチスの行動部隊Wに対して責任を負い、その後は市管区長から指示を受けた。ゲットー成立以前の1939年9月から評議会議長に任命されていた技術者アダム・チェルニアコフが、ゲットーにおける市長の肩書きを持っていた。評議会はそのメンバーと外部からの専門家を含む委員会が、審議の内容を準備し、行政機関を運営していた。扱う仕事は、治安・保健・住宅・労働・経済・金融などと多岐にわたり、記録保管さえ含んでいた。食糧・石炭を分配する部局は臨時事業機関となり、製造部門はユダヤ人製造有限会社として合体された。商業部はゲットー外への配達のための販売会社となり、銀行部はユダヤ人居住地区のための協同組合銀行へと名称変更された。ユダヤ人によって構成された治安部隊はピーク時には2,000名を数え、ゲットー内で最大の警察力だった。もう一つ「ユダヤ人居住区における闇取引と価格つり上げとたたかう監視センター」という名称のユダヤ人警察は、俗称「一三」ともいい約500名を抱えていた。

ワルシャワ・ゲットーには私企業が存在し、わずかながらも資産を持っている者もいたが、外部から切り離され今までの仕事も顧客も失った状態では、最初から安定した歳入どころかゲットーの存続すら危ぶまれていた。ワルシャワでは多くの闇市交換があり、税は不当にならないぎりぎりの程度しか徴収できなかった。ゲットーからの輸出は、財産没収・労働者の搾取・食料輸入の禁止などの措置により、労働は意味をなくしていた。仕事を持たないユダヤ人は評議会が労働部隊に組織し、街の除雪や街路の清掃を行わせた。一日の平均的な人数は8,000〜9,000人だった。1941年9月では34,000人しか経済活動をしていなかったが、「移送」が始まる直前の1942年7月までには95,000人が労働力として登録されている。

1941年5月には、ユダヤ人1人あたりの配給は週700グラムのパンであり、2ヶ月で死亡率が2倍になった。12月に評議会議長チェルニアコフは、ワルシャワ・ゲットーには資本を持った1万人、自活できる25万人、衣食に事欠く15万人がいると推測している。「資本家」だけが闇市価格で入手した食糧で身を保つことができた。腸チフス・結核・インフルエンザなどの疫病がシナゴーグと、何千ものホームレスを収容していた公共の建物から始まった。1942年3月に死亡者数は1ヶ月あたり5,000人に上り、42年の「移送」が始まるまでに83,000人が死んだ。


[編集] 移送と抵抗
詳細はワルシャワ・ゲットー蜂起を参照

1942年1月20日、ベルリンで行われた「最終解決」のための会議で、総督府でのユダヤ人の「移送」が要求され、ワルシャワ地区のユダヤ人はトレブリンカ強制収容所へ移されることが決定した。7月にラトヴィアの第22大隊と第272大隊がワルシャワ・ゲットーでの大規模な検挙のためにリガから連れてこられた。すでに2月には大量移送の噂がワルシャワ・ゲットーに流れはじめ、3月にリヴォフ・ミェーレツ・ルブリンなどの都市で移送が始まると、評議会から独立したユダヤ人組織の創出が試みられる。これらのユダヤ人反対派は共産主義者からナショナリスト、シオニストなどの主な政党にわたっていた。4月に内密の文書が発覚し、ゲシュタポは51名を射殺した。

ゲットー全体の移送を知ったユダヤ人評議会議長・チェルニアコフはドイツ政府との完全協力に賭けていた自分の政策が敗れたことに絶望し、7月22日に自殺した。議長代理のリヒテンバウムがドイツの命令に機械的に反応し続けたのに対し、ユダヤ人政党組織は代表者16名が集まって武装抵抗について議論した。7月末までに6万人が移送され、作戦が終了した9月には30万人が移送されていた。ゲットー内に残っていたのはせいぜい7万人で、半数が登録され大多数が20歳から39歳の間であった。抵抗に向けて真剣な準備の始まったのはこの秋からだった。共産党がシオニストと合同し、さらに社会主義者のブントと一緒になった。この合併は10月20日に行われた。その共同団体の傘下にハショメル・ハツィアル戦闘集団、共産党戦闘集団、ブント戦闘集団など22の部隊が置かれた。組織の総指揮官は24歳のモルデハイ・アニェレヴィッチ (Mordechaj Anielewicz) である。

すでに8月には戦闘組織によりユダヤ人警察長官をはじめとするドイツ人との協力者が射殺されていたが、1943年1月16日6,500人の移送のさいにドイツ軍に数人の死傷者が出た。1943年4月19日ユルゲン・シュトロープ指揮する鎮圧部隊はゲットーを包囲し、侵入した。抵抗組織は火炎瓶・機関銃で迎え撃つが、圧倒的な軍勢を投入されてついに5月16日には戦闘行為は終了していた。数千のユダヤ人が瓦礫の下に埋まっており、捕虜となったうち7,000人が射殺され、7,000人がトレブリンカ強制収容所に送られ、15,000人がルブリン強制収容所に運ばれた。ドイツ人とその協力者の損失は死者16名、負傷者85名だった。とはいえ、抵抗組織の武装人数は約750人であり、対する親衛隊は1日平均2,090名の兵力を動員することができた。

1943年夏、2,500人の強制収容者と1,000人のポーランド労働者は一年以上働いてゲットーの破壊されたビルを撤去し、壁を取り壊した。1945年1月にソ連軍が到着するまでに、ワルシャワ市内で生き残っていたユダヤ人は約200人だったという。


[編集] 参考文献
エマヌエル・リンゲルブルム/ジェイコブ・スローン編/大島かおり訳 『ワルシャワ・ゲットー捕囚 1940‐42のノート』 みすず書房、ISBN 4622005964
ハイム・A.カプラン/アブラハム・I.キャッチ編・英訳 松田直成訳 『ワルシャワ・ゲットー日記 ユダヤ人教師の記録 縮訳版』 風行社 2007年 
ハイム・A・カプラン/アブラハム・I・キャッチ/松田直成訳 『ワルシャワ・ゲットー日記 ユダヤ人教師の記録』 風行社上下 1994年
アブラハム・レビン/A.ポロンスキー/滝川義人訳 『涙の杯 ワルシャワ・ゲットーの日記』影書房 1993年 
ブラドカ・ミード/滝川義人訳 『壁の両側 ワルシャワ・ゲットー 1942〜1945 ホロコースト! その恐怖と苦闘のはざまで』クプクプ書房 1992年
ラウル・ヒルバーグ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』 柏書房、ISBN 4760115153
ラウル・ヒルバーグ編 『The Warsaw Diary of Adam Czerniakow』 Ivan R Dee、ISBN 1566632307

[編集] 関連項目
ウィキメディア・コモンズには、ワルシャワ・ゲットー に関連するカテゴリがあります。パヴィアク刑務所
ゲットー
戦場のピアニスト
ワルシャワ・ゲットー蜂起

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カテゴリ: ホロコースト | ナチス・ドイツ | ワルシャワの歴史
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