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Re: 副島隆彦は典型的な「お山の大将」のうぬぼれ屋である
http://www.asyura2.com/09/wara9/msg/610.html
投稿者 怪傑ゼロ 日時 2009 年 7 月 04 日 21:26:06: Wmm/PVcgalDww
 

(回答先: 「電話してくるな、失礼だ」と副島【きくちゆみのブログとポッドキャスト】 投稿者 Palapala 日時 2009 年 7 月 04 日 19:19:59)

副島隆彦はうぬぼれに酔う点では悪名が高く、自分だけが偉いと思い上がって他人に失礼なことを言い、実力のなさの馬脚を露呈したことは翻訳事件として有名だ。 
こういう狂犬的な人物はロックフェラーに食らいついていればいいのだが、残念ながら弱いものいじめが好きらしいから困るのである。
<貼り付け>
★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ42 > 269.html
Re: ウヌボレに酔う副島先生の英語の実力の馬脚を見た
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/269.html
投稿者 カクジツ先生 日時 2005 年 12 月 01 日 10:42:49: ruqSwQk46icfg

(回答先: 聖域の中の小泉には食いつかない狂犬様の不思議 投稿者 怪傑ゼロ 日時 2005 年 11 月 30 日 13:35:14)


副島隆彦先生の英語論が幼稚で独りよがりであることは、山岸先生によって完全に論破されているだけでなく、名誉毀損の訴訟において敗訴して罰金を払った事実が証明している。
<以下引用>
【参考】産経新聞 (1996/10/03)より
■「欠陥辞書」訴訟 宝島社、2審も敗訴
 研究社の二冊の英和辞典が宝島社発行の「別冊宝島」に「ダメ辞書」と批判されたことで、研究社が宝島社に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁の稲葉威雄裁判長は二日、四百万円の賠償を命じた東京地裁判決を支持、宝島社の控訴を棄却した。
 判決理由の中で稲葉裁判長は、別冊宝島の記事中で辞書の編集方針などを批判する部分について、「権威への挑戦として許される過激さ、誇張の域を越え、公正な論評としての域を逸脱するもの」と述べた。 
 問題の別冊宝島は、平成元年十月、「欠陥英和辞典の研究」と題して出版され、研究社発行の「ライトハウス英和辞典」「新英和中辞典」に掲載されている八十五の例文を取り上げ、いずれも不適切な表現として「ダメ辞書」と批判した。
<引用終了>
ダメ辞書と決め付けて罵詈雑言をした著者が副島隆彦先生であり、その見せしめとして罰金四百万円の支払いを命じられているのだが、副島氏はサディスト趣味か他人に悪口増減する癖を改めずに、遂に国民作家の司馬遼太郎氏にまで吠え掛かっている。それにしても副島先生が、得意にする英語の分野でいかに実力が無いかについては、以下の山岸教授のサイトの記事で明らかになっている。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_12.htm
XII 和英辞典の著作権と批評方法
1.和英辞典と著作権
 昭和63年(1988年)1月28日、『アンカー英和辞典』(編集主幹・柴田徹士;以下『アンカー』)の発売元である学習研究社は、『サンライズ英和辞典』(編者・小川芳男;以下『サンライズ』)の発売元である旺文社を相手取り、『サンライズ』が『アンカー』の著作権を侵害したとして、『サンライズ』の発行・販売の差し止めと総額4000万円の損害賠償・謝罪広告を求める訴訟を東京地裁に起した。関係者の間では、「アンカー・サンライズ問題」として知られている。学習英和辞典で、著作権を根拠に発行・販売の差し止めを求める訴えを起こしたのは、我が国の英語辞書編纂史上初めてのことである。
 提訴までの詳細に関しては省略するが、提訴の一大理由は、『サンライズ』が『アンカー』の定義・訳語・表記法等々、推定2万箇所を流用したことにあるらしかった。 
 数年にわたる裁判が行われ、その後、両者の間で和解が成立したようであるが、このような問題が生じた背景には、明治以降、我が国の英語辞書編纂者の間に、「糊と鋏」式の辞書編纂は必要悪であるというような、安易な姿勢や、編集主幹あるいは編集責任者として往々に「名ばかり」の無責任な立場の人を選出した事情などがあったように思われる。 
 「辞書に著作権はあるか」という問題はこれまで一度も議論されたことがない。その問題に多少とも言及した論文と言えば山岸 (1988b;1988c;1990a) あたりではなかろうか。柴田氏は、「今回の提訴は本来一辞典対一辞典の問題である。しかし、その背景には、日本の文化、教育、特に、英語教育という大問題がある」と言われたことがあるが、筆者も同感である。しかし、英語関係者からは、「糊と鋏」式の辞書作りを容認もしくは擁護するような発言が多く聞かれた。
 そうした声が聞かれる中で、柴田氏の次の言葉は、辞書編纂者としての良心の感じられるものであった。
   辞典は伝統を受け継いで進歩する。どこまでが模倣かの判断は
   微妙な問題でもある。(中略)しかし、どの辞典にも誇りはあり、少
   なくとも 独自の特色・編集方針は持っている。
 詳細に関しては、上記山岸論文および山岸(1990c)を参照されたいが、このような問題が和英辞典に関連して起きないという保証はどこにもない。筆者が精査したところでは、和英辞典においても用例・語法注記・解説等の流用や盗用の(悪質な)例が散見される。俗に言う「親亀こけたら皆こけた」式の誤訳もその1つの表れと見ることができよう。同一の執筆者が複数の出版社に依頼されて原稿を書く場合も、これと類似の問題を生じさせる恐れがある。和英辞典版「アンカー・サンライズ問題」を生じさせないためにも、英語辞書の「共有財産」とは何か、「独創性」とは何か、そして「著作権」とは何かをきちんと議論しておく必要ある。たとえば、“日本英語辞書学会”のような全国組織によって、そこでこの種の問題を取り扱うことができるであろう。筆者が残念に思うことは、この問題は、英語辞書関係者の間ですら、真剣に議論されなかったということである。「アンカー・サンライズ問題」は当事者間では、示談が成立したとしても、英語辞書関係者は、時の流れに任せて、その問題を風化させてはならないであろう。
2.和英辞典批評の在り方
2.1 非建設的・非共栄的な辞書批判
 平成元年(1989年)10月26日の朝日新聞朝刊に、「日本でいちばん売れている英和辞典はダメ辞典だ!」という挑発的な文句と共に、副島隆彦&Dictionary-Busters著『欠陥英和辞典の研究』(JICC出版局)の大規模宣伝が掲載された。対象となった辞典は、研究社刊の『新英和中辞典』(1985年、第5版)と『ライトハウス英和辞典』(1984年、初版)の2点であった。著者は当時、代々木ゼミーナールで英語講師を務めていた日本人(副島氏)と外国人(3名)であった。
 上掲の新聞広告には、研究社の辞書2点の外箱が、破られ、押し潰されて、両辞典から引き裂かれた何十頁分もの頁と共に、まるでゴミのように打ち捨てられていた。問題の『欠陥英和辞典の研究』(右書影;付箋は同書の誤謬箇所を示すもの)には、目を覆いたくなるような字句が所狭しと並んでいた。
 研究社は当然、「名誉毀損、悪質な営業妨害」として、東京地裁に提訴した。それから長い年月を経た1996年(平成8年)2月28日に、控訴審判決があって、東京高裁は、「権威への挑戦として許される過激さ、誇張の域を越え、公正な論評としての域を逸脱するもの」と述べ、名誉毀損に当たるとして、『欠陥英和辞典の研究』の出版元である宝島社に400万円の支払いを命じた。宝島社らは高裁判決については上告せず、判決は確定した(下記【参考】参照)。                      
 実は、副島氏はその間に『英和辞書大論争!』(別冊「宝島」113号; 1990年6月)を出版している。同書の表紙には、「タダの予備校講師・副島隆彦が天下の研究社をノックアウト! 『欠陥英和辞典の研究』(別冊宝島102号)の批判に耐えきれず、研究社は卑怯にも裁判所へ駆け込んだ。あれからいったいどうなった?と思っているあなたへ」という、前著同様の挑発的な字句が並んでおり、研究社2辞典の写真には今回は注連縄(しめなわ)が張ってあった(右書影;付箋は上掲書の場合と同じく、同書の誤謬箇所を示すもの)。 
 確かに、副島氏側の指摘が的を射ている箇所、指摘に基づいて再考すべき箇所も少なくなかった。しかし、それよりもさらに深刻な問題は、氏を中心とする『欠陥英和辞典の研究』の執筆者たちの辞書批判の姿勢と、同書および『英和辞書大論争』で彼ら自身が犯した多数の誤謬・謬見であった。裁判結果はその事実への司直の手による裁断と見ることができる。両書を通じて才能の煌(きらめ)きを感じさせた同氏(および Dictionary-Busters諸氏)には、建設的で、共栄的な辞書批判をして欲しかった、と心から思う。

 「アンカー・サンライズ問題」と言い、この(通称)「宝島裁判」と言い、第三者的立場から観察していて、終始、不快な思いのする事件であった。この場合も、1つの理由としては、我が国の英語関係者の間に、辞書批判[批評]の在り方が確立されていなかったためと考えられる。批判や批評の在り方には個人差があろうが、やはり常軌を逸した誹謗・中傷にならないように、辞書関係者が全国規模の英語辞書学会のような組織を打ち立て、そこでそのための方法論や具体論を論議しておく必要があろう。 
 辞書批判は常に建設的・共栄的であるべきであり、破壊的であってはならない。前述したような、“鬼面人を威す”類いの言動による辞書批判だけは、何としても回避したいものである。本問題の詳細に関しては、山岸(1990c;1990d;1990e)を参照。【ここもご覧下さい。】
2.2 パソコン「ホームページ」と辞書批判
 最近ではパソコンのホームページ(website)を利用して、自分の意見や同好の士を求めることが以前よりも容易になった。特に、無料で開けるホームページの存在は一般市民にとっては有り難いものである。
 しかし、その種のホームページを見ていると、ネットワーク上で情報交換する際の礼儀である「ネチケット」(netiquette)を逸脱していると思われるものや、その境界線上にあると思われるものも混じっている。ホームページの場合、発信者は一般掲示板、意見交換の場といった、受信者側の意見を自由に書き込める場を提供していることが多く、E-mailアドレスも示されているが、発信者がどのような人物であるのかを特定することは一般市民にはできないのが普通である。従って、これを自分の一方的意見を述べたり、“憤懣”の吐け口としたり、“個人攻撃”の場としたりしている場合、その対象となっている人物は長期にわたって、自分がそれらの“的”になっていることに気付かずにいることが大いにあり得る。これはまた、深刻な問題に発展する可能性を持っている。最近では、特定の英和辞典、和英辞典の名がホームページに現れるようになって来た。従って、上記(2.1)で述べたような問題をネットワーク上に出現させないためにも、辞書利用者は「ネチケット」を順守し、他人への寛容精神の醸成や自己規制の徹底を図ることが望まれる。パソコンネットワーク上でも、辞書批判の在り方は、当然、建設的・共栄的であらねばならない。
            
2.3 客観的・建設的な辞書批評
 Chapmanの提案を引用しながら、次のように書いている。
     How should dictionaries be reviewed? Robert L. Chapman
   proposes that reviewers “use a random sampling device that
   covers the book from A to Z, so that the total average
    performance may be assessed. This might be something as
   simple as ‘the tenth main entry on every twentieth page’” or
   the fifteenth or tenth page, depending on the reviewer's stamina.
   He recommends that each such entry be carefully scrutinized
   according to McMillan's criteria of accuracy, completeness,
   clearness, simplicity, and modernity.
     辞書はどのようにして批評されるべきであろうか。ロバート・L.
   チャップマンは、書評者に対して、次のような方法を提案している。
   書評者は「全体から見た平均的な価値が評価できるように、辞書
   のAからZまでを網羅する無作為抽出法を採用すべきである。これ
   は、『二十ページごとの十番目の主見出し項目』を調査すると言った
   ような、簡単なも のでもよい。」 これは、あるいは、書評者の体
   力が許せば、十五ページごとでも十ページごとでもよいであろう。
   チャップマンは、正確さ、 完全さ、明確さ、単純性、現代性というマ
   クミランの基準に従って、そのような各項目を注意深く検討するこ
   とを勧めている。(小島ほか訳)
 この場合の辞書は英英辞典が対象になっているが、方法論自体は和英辞典にも援用できる。辞書批評は何よりも建設的で客観的なものでなければならないのであり、2.1に示したような批判的書評の在り方は論外とみなされるであろう。
 ほかにも辞書批評の方法はある。たとえば、筆者が『学習和英辞典編纂論とその実践』(2001)の第21章「ハイブリッド方式和英辞典の問題点」で行ったように、文レベルでの問題、語句レベルでの問題、地域ラベルの問題、語義分類の問題…と言うように、範疇別に一通りのチェックを行う方法である。このように幅広く検討して行けば、客観的な書評にならざるを得ないであろう。

  【文献】
  山岸(1988b):英和辞典の提訴問題に思う 「現代英語教育」誌、1988.4
  山岸(1998c):『アンカー』『サンライズ』問題に思う 「現代英語教育」誌、1988.7
  山岸(1990a):正しい『英和辞書』―二つの英和辞典提訴問題 「正論」誌、1990.5
  山岸(1990c):『欠陥英和辞典研究』の嘘 「現代英語教育」誌、1990.2
  山岸(1990d):英語辞書批評の在り方 「現代英語教育」誌、1990.3
  山岸(1990e):英和辞典と典拠主義  「現代英語教育」誌、1990.8

http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_13.htm
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_14.htm
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_15.htm
XV 英和辞典と典拠主義
        副島隆彦著 『英語辞書大論争!』を読んで

本稿は「現代英語教育」誌(研究社出版;平成2年 [1990年]8月号)に掲載され、小著『続・現代英米語の諸相』 (こびあん書房)に再録されたものです。14年近く前に書かれたもので、当時の義憤を文字化した箇所もありますが、多少の加除修正を施したい点はあるものの、大きな変化の必要性を認めません。。
はじめに
 かねてから衆目を集めていた代々木ゼミナール講師・副島隆彦氏が、「あれからいったいどうなった?と思っていたあなた」のために、『英語辞書大論争!』(別冊「宝鳥」113号、JICC出版局、以下『大論争』)を出版した。意気衝天の勢いである。
 私自身、「『欠陥英和辞典の研究』の嘘」(以下「研究の嘘」;ここを参照)、「英和辞書批判の在り方−『欠陥英和辞典の研究』の場合」(以下「批判の在り方」;ここを参照)において、氏による前著『欠陥英和辞典の研究』(以下『欠陥』;ここを参照)の問題点を指摘しておいたので、それに対する氏の反応を知りたいと思い、早速同書を通読した。その結果、氏が私の真意や忠告を曲解していることと、私が指摘しておいたにもかかわらず、英語に関していまだ数多くの事実誤認、謬見を放置していることを知ったので、心ならずも、本稿を書くことにした。

私が念頭に置く典拠主義
 副島氏は『欠陥』において、数多くのれっきとした英語表現・語句を、「〜はどんな英語国民にも通じない」「〜は完全な誤文である」「〜の使い方がまちがっている」「〜の例文はまちがいである」「〜のように使うことは決してない」「アメリカ人は絶対に使わない」「〜は研究社の捏造語だ」などと断定・即断し、それらの“英語性”を理不尽にも否定した。
 そこで私は、「とんでもない。英米の辞書にもあるはず」という思いから、手元にある英語国発行の辞典等を参照し、それらの存在を確認・発表した。ところが氏はその後、「“辞書にあったから正しい”では反論にならない」と問題を巧みにすり替え(『週刊文春』平成元年12月21日号)、しかも典拠による論法を“典拠主義”と命名して一方的にさげすんだ(『大論争』pp. 17−8)。
 断っておくが、私が“典拠”と言う場合、それは常に英米発行の英語辞書を対象としており、英和辞典は含まない(日本の英和辞典、和英辞典が諸問題を抱えているぐらいのことは、私自身、とっくの昔から承知しており、そのための改造案、改良案を常に建設的に発表してきている)。英和辞典に言及するのは、副島氏の“お気に入り”に意識的に言及する場合のみである。そこのところを明確にしておく。
 私が問題としたのは、“反論”以前のことである。つまり、こういうことである。氏は、英語について論じるときに、踏んでいてしかるべき手順を踏んでいなかった。換言すれば、氏は上記のような断定・即断をするとき、多くの点で、英米の諸辞典を本当には参照していなかった。そのことは、私の反証によって明白である(後述するが、新著でもその“悪癖”が随所に発見される)。もし、その手順をきちんと踏んでいれば、あのような無責任で、非学問的な断定・即断ができるわけがない。私はそこのところを問題にしたのである。  
 つまり、自分の無知、浅学、勝手な思い込みによって、ある英語の表現・語句などの“英語性”を軽々に否定しないで、まず英米の辞書家たちの縮纂した諸辞典を参照して、自分の断定・即断の正否・適不適を確認せよ、そういうことなのである。この“常識的手順”を第一に踏み、特定の表現・語句を学習英和辞典に収録するのに、どの表現形式や語[句]義を選んで収録するのがより良いか、あるいは最良か、などということについては、その後の手順とせよ、そういうことを私は言ったのである。氏よ、真実の前にもっと謙虚であれ。

典拠主義は健全なもの
 氏は、「(英語母国語使用者との)膝詰めの共同作業という実践理念こそは、まさしく、典拠主義に対する唯一の対極概念であり、唯一の活路である」(『大論争』p. 247)などと大見得を切っているが、辞書編纂上、“典拠主義” と“膝詰め共同作業”とは対極概念でも、後者が唯一の活路でもない。両者はむしろ、“車の両輪”(難しくは“唇歯輔車”)の関係と形容すべきものである。その両輪[両者]を適切に稼働させて初めて、真に理想的な(学習)英和辞典が出来上がるのである。氏は『欠陥』における大量の“嘘”が“native speakers”との“膝詰め共同作業”の所産であったことを忘れるべきではない。
 氏は言う。「私は、学者ではないが、本当の学者の心がわかる者でありたい」と(『大論争』p. 82)。これまでの氏の言動からは、氏が“春華秋実”を備えようとしている人とはとうてい思えないが、万が一その努力をしようというのなら、なおさら、“膝詰め共同作業”だけが唯一の活路だなどと思うべきではない。「本当の学者の心がわかる者でありたい」と心底願う者なら、まず何よりも、あれだけの間違いを内包した『欠陥』という名の欠陥商品を放置しておけるはずがない。1989年11月24日に初刷発行、1990年3月15日第6刷(私が見た最新の刷)という莫大な売上げを誇りながら、私が指摘した、表紙の英語の間違い1つさえ直していないではないか。初刷公刊までにはすでにその間違いに気づいていたと告白しておきながら、「表紙を刷り直すのにはお金がかかるんですってね」(前掲『週刊文春』)などと、無責任なことを言う。
 本論に立ち戻ろう。もし氏が私が念頭に軽いている“典拠主義”を実践していれば、また、真理探求に真摯な態度で臨んでいれば、『欠陥』『大論争』におけるあのような無責任な記述にはならなかったはずである。
 たとえば、氏は『欠陥』で、He failed in the examination.(彼は試験に落ちた)という文章の fail in の用法について、「とんでもないまちがいと言うか、日本の英語教育全体の頑迷さをよく反映している訳文である」と断定した(p. 92)。こう断定するには、氏の共著者である “native speakers”との“膝詰め共同作業”があったであろう。しかし、私は fail in を使った文が“まちがい”でも“誤文”でもないことを立証するために、「研究の嘘」において、その句を収録・解説している英米辞書等から文例を引いた。氏の謬見を知らしめるために、私は“典拠主義”に徹したのである。氏はこの点を看過して、すなわち、fail inの、“典拠”による“英語性”確認作業を怠って、一足飛びに「まちがい」「誤文」と断定した。私はこの際の一方的な “順序の飛び越し”そのものを問題にしたのだ。
 もう一例、挙げよう。氏は(as)numberless as the sands of the sea (浜の真砂の数だけの、無数の)というような言い方を「自分勝手に造語するでない」と言って、研究社側を責めた。そこで私は、これ『旧約聖書』の「ホセア書」(1・10)と『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(9.27)にも見える、立派な“英語表現”であることを前掲「研究の嘘」で明らかにした。その際、両聖書に目を向けさせたのが、私の“典拠主義”なのである。この言い方が古色蒼然としたものであるという事実は、私は百も承知であったし、何よりも、その段階ではその点はまだ別問題であった。つまり第二段階目での論究問題であった。私は、ただ氏の“勇み足”を指摘したに過ぎない。その“勇み足”が“膝詰め共同作業”に起因するものであるならば、それはその共同作業者が無知であっただけである(だからこそ“典拠主義”を軽視してはならないのだ)。
 にもかかわらず、氏は『大論争』(pp. 185−6)でも、この(as)numberless as the sands of the sea に関して、意味不明のことを繰り返している。しかも、「私は、『浜の真砂の数だけの』という意味の形容詞句 adjective phrase をとらえて、こんな熟語がいったいあるのか、これも研究社の造文ではないのか、と前者で疑義を提議した」と、前言を糊塗(こと)したことを言っている。『欠陥』では氏は、「自分勝手に造語するでない」と憤慨していたではないか。
 氏は私の「研究の嘘」を、“(B)個別には反論しないこととする。なぜなら、同教授の批判は[C]の「『欠陥英和辞典の研究』の分析」(研究社発行小冊子)への詳細な検討と総反撃に内容的に包括されるからであると断じ、“ちなみに、山岸教授は典拠主義に基づく私への研究社の反論の原型をもっとも早く提出した人であり、そのかぎりにおいて研究社に対する貢献度少なからぬものがあるとだけ評価しておこう”と言って茶化してくれている。冗談ではない、と言いたい。
 断言しておくが、研究社による「『欠陥英和辞典の研究』の分析」は昨年の12月11日に出ており、私による「研究の嘘」は本年1月12日に出ている。私は研究社に対して何ら“作為的頁献”はしていない。私は私自身の信念に基づいて、行動し・論考を発表したに過ぎない。真に必要とあれば、今後もそうする。
 氏は、私の「研究の嘘」も「一括して論駁すれはそれで済むような代物」(『大論争』p. 17)とか、私の「研究の嘘」を含めた「他の8つの『論文』はいずれも典拠主義一点張りのおそまつなものでしかない」(同書p. 18)などと、虚勢を張って見せるが、問題ををすり替えるなと言いたい。
 第一、私の“典拠主義”は、氏によって“一括して論駁される”ほど軟弱なものではない! 氏には、問題提起者しての自分の側の事実誤認、謬見の深刻さが少しも分かっていない。「批判の在り方」でも言及したことだが、ここで再度言う。氏は、まず、自著に満ち満ちている“嘘”を訂正し、問題を整理し、それから本格的に「英和辞典論争」に取り掛かるべきである。「タダの予備校講師・副鳥隆彦が『天下の研究社』をノックアウト!」などと、奇を衒うことに心を砕かずとも、何が真実か分かる人には分かるのだ。
 言明しておくが、私がこれまでに念頭に置き、長年実行してきた“典拠主義”は、“膝詰め共同作業主義”とは「車の両輪」を成すものである。私との“膝詰め共同作業”に従事してくれる“native speakers”も、“典拠主義”という補強剤を、自分たちの意見や記述の加除修正には必須のものだと考えている。その点をわきまえている彼等こそが、日本の英語教育に本当に資る“non−Japanese”なのである。

もっと誠実に、もっと綿密に
 副島氏は執筆に際しては、言語事実に対して、もっと誠実で謙虚な態度をとるべきである。たとえば、『大論争』でも、まだ“a running nose”(鼻水の出ている鼻)における形容詞 running の正当性を認めようとはしない。それどころか、「この他にCOBUILD、0xford American Dic.、WNWD も調べたが、running nose の例文は見つからなかった。したがってこれも、勝負あった、ということだ」などと、ヌケヌケと恥知らずなことを言っている(p. 183)。最初の辞典 COBUILD には限定形容詞としての running がチャンと独立して収録されており、しかも If you have a running nose、mucus is flowing out of it、usually because you have a cold. EG Some were coughing. Others had running noses. と用例まで載っているのが見えないのか。このことは「批判の在り方」ですでに指摘してあったではないか。氏は物事に対してもっと綿密になるべきである。もし“典拠主義”に徹してれば、COBUILDに大きく収録されている running の定義と用例など、見落とすはずがない。どこまで杜撰であれば気が済むのか。
 氏は、highly pleased という言い方についても、同書(p. 207)で、まだ、「他にもこの highly pleased という用例があったら見せてほしい」などと寝ぼけたことを言っているが、私が「『欠陥英和辞典の研究』の嘘」(現代英語教育」誌、'90. 2)に示した用例を見なかったのか。もっと見たいと言うのなら、ためしに、The Collins English Dict., '89 という有名な現代英語辞典の highly の項を引いて見るがよい。第一義の第一用例に、何と出ているか?! 
 それから、氏には相も変わらず不健全な断定・即断が多い。たとえば、a dog worrying shoes の場合の「worry に関する例文盗用問題の出発点は、OALD に起源するものであることは、ちょっと調べたらわかった」と意気揚々と言う(『大論争』 p. 177)。続けて、「OALD3 の worry の記述を見ると、次のようになっている。 3 (esp of dogs) seize with the teeth and shake: The dog was worrying the rat. 研究社が、この the rat を shoes に安易に変更して自分たちの例文としたのだということは、他の事例と同様に明らかなことである」とも言う。
 こういう場合、私なら、“典拠主義”に徹して、The puppy worried the edge of the carpet.(Scholastic Dict. of American English, '66) や Father was angry when he saw the dog was worrying his slippers. (Dict. of Basic Wordss, '69) の用例がその下敷きになっているのではなかろうかと考える。これらの例は「批判の在り方」にも掲げた。あるいは、a dog worrying an old shoe という用例 (Webster's Student Dict., 初版 '69)が下敷きとも考えられる。“典拠主義”に徹するとは、このように綿密に、客観的に、多角的になることである。
 もう1例、 The stars are glistening in the sky. (『大論争』 pp. 131-2)の glisten の場合も同様である。氏はこれについても、「ちなみに、このglisten の例文の元凶も ISED にあった。ISED の definition (語の定義)が、shine brightly となっているだけで不完全であるために、ここから、研究社はつまづきが始まったのであろう」などと、憶測だけで断言しているが、“典拠主義”に徹している人ならば、こういう場合、「これは Thorndike Barnhart Advanced Dict. (初版 '41) にある、shine with a twinkling light: The stars glistened in the sky.に影響されたのではないか」と推測するものだ。そのほうが、氏の憶測よりも、はるかに“説得力”を持つではないか。
 “鬼面人を脅す”類いのことばかり書いて、世人を惑わすものではない。氏による、“玉石混交”のままの言動は、ただただ事を煩雑にするだけである(と言っても、“石”のほうが多いが)。研究社の英和辞書に発見される諸問題は、まず、自分自身の“諸問題”の修正・訂正が済んでから、改めて話題にすべきである。 “典拠主義”が健全であることは、氏自身が内包する“諸問題”を、私が指摘する場合にも“大きな威力”を発揮することからも分かる。私はこのように、まず、“典拠主義”に徹することにより、ある表現・語句の“英語性”を確認し、続いて第二段階として、The stars glistened in the sky. という文章における glisten の用法と意義の、英和辞典への収録の適不適について、“膝詰め共同作業”で考えるようにしている。

おわりに
 氏に再度忠告する。前回と今回の氏の言動が、もし本当に、“日本の英語教育を憂うる一途な気持ちから出たもの”であるならば、氏は何よりもまず、自著における多数の事実誤認・謬見・認識不足の例を一掃せよ(さもなければ、氏による牽強付会の説ばかりが、日本の英語教育界に広がる恐れがある)。その後で「本格的辞書論争」に取り掛かるべきである。それが、かりそめにも“教育の場”に身を置く者の社会的責任ではないか。氏のこれまでの言動は、余りにも“醜悪”である。氏への忠告はこれを最後にしたいと思うが、私の名への言及はその忠告を実行してからにしてもらいたい(もっとも、それを実行してくれさえすれば、あとは氏と私が関わる問題は何もない)。
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◆『英語辞書大論争!』が発刊されてから13年近くが経過しました。本ホームページに当時の拙稿を転載したことで、同書の著者(諸氏)が再び議論を展開したいという意向を持たれるようであれば、喜んでそれに参加します(場所は本ホームページ上でも、他所でも構いません)。ただし、条件として、「あくまでも、建設的、共栄的に、節度を守って」ということを条件にしたいと思います。本ホームページまでメールを下さい。山岸勝榮【後日記:その後、「XXI『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う」を書きましたから、この注記は無効となりました。】
それにしても副島先生の罵倒癖は、良心的な人に対して迷惑至極であり、吠えれば吠えるほど自分の無知をさらけ出しているというのに、それに気づこうという誠実さが無いのは残念なことである。英語の分野で誠実な姿勢で辞書作りに生涯をかけている山岸先生は、学問という舞台を使って批判に答えているが、それに対して副島先生は反論もしないで黙殺どころか悪口をはき続けているのは情けないところである。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/elf_dictionaries_16.htm
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/efl_dictionaries_21.htm
XXI 『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う

 

私はかつて、副島隆彦氏の二著作、すなわち『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』を対象とした論考数点を発表しました(本来なら、副島氏が問題とした『新英和中辞典』と『ライトハウス英和辞典』の編者諸氏が出て来られて、副島氏に対して、私が行ったような反論なり論駁なりを示されるべきであったと思います)。本欄に転載した諸論考(@、A、B、C)がそれらです。転載時、すなわち本HP開設時の平成13年[2001年]3月に、氏を念頭に置いて、氏に論争の意思がおありなら私まで連絡を乞うという趣旨の注記をそれらの末尾に添えておきました。
 数ヶ月前、副島氏系掲示板の1つで私のことや私の論考に関して、ご本人ではなく、その周辺の方達が、牽強付会(けんきょうふかい)の説を交えて、熱心に取り沙汰しているという噂を聞きました(何しろどこのどなたかも不明な上、恣意的、一方的論理展開が為されているようでしたので、同掲示板を訪問してみようかという好奇心さえ湧きませんでした)。そして過日、卒業生の一人から、「副島隆彦の憎しみ掲示板」(後日記:リンクしておいた同掲示板は、いつの間にか削除されています!)と題する別の掲示板で、私に関して、副島氏自身が書き込みをしているということも知らされました。正直なところ、私には全く興味はありませんでしたが、その卒業生が笑いと共に余りにも熱心に勧めてくれるものですから、そうまで言うならということで、そこを訪れてみましたが、案の定、憫笑(びんしょう)にのみ終わってしまいました。次のような取扱いがなされていたからです。関係箇所のみコピー & ペイストします(当然、誤植もそのままになっています)。

[74](2) これは、山岸勝栄(やまぎしかつえい)のサイト 投稿者:副島隆彦投稿日:2003/04/26(Sat) 07:29:04


副島隆彦です。
以下のサイトは、私、副島隆彦の本を批判する事で、ご飯を食べいてる
山岸勝栄(やまぎしかつえい)という人のサイトです。
はじめて覗いて、随分と、商売になっているようだと、驚きました。
馬鹿な人だけど、こういうのが、典型的な日本人の一種なのでしょう。
副島隆彦記
上記ののサイトのURL
http://jiten.cside3.jp/index.html


 これが何かと話題に上る副島隆彦という人の私の論考への十数年後の反応もしくは回答です。この短い文章の中に、世を騒がせた『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』という2書の著者、そして前者の中で「何なら私が1年で1冊の現代英和辞典を作ってもよい」(105頁)と軽々に豪語[放言?]した人物の人間性や学問に対する姿勢の全てが込められているような気がしました。「1年で1冊の現代英和辞典」を作ることなど絶対に不可能です。もし氏がそれを本気でおっしゃっているのであれば、是非ともやってみせていただきたい。さぞや“名著”が誕生することでしょう。
 「私、副島隆彦の本を批判する事で、ご飯を食べいてる山岸勝栄(やまぎしかつえい)という人のサイトです。」 この1文は三歳の童子にも理解できる、明らかな虚偽であり、十分に名誉毀損になり得るものです。思うのですが、この種の文言を“実名入り”でインターネットに載せる氏に対して、“同病”相哀れむという人を除いて、尊敬と憧憬を覚える人などいるのでしょうか。どう考えても、氏の今後にとって不都合な一文だと感じるのですが。しかし、もうこれを抹消することは出来ません(「副島隆彦の憎しみ掲示板」はその後削除されましたが、私による上記のコピー&ペーストは残っています)。憫笑、憫笑。
 それに続く、「はじめて覗いて、随分と、商売になっているようだと、驚きました。馬鹿な人だけど、こういうのが、典型的な日本人の一種なのでしょう。」という1文に至っては、“噴飯物”“抱腹絶倒物”ですが、これはおそらく“冗談”のおつもりでしょう。そうでないのであれば、相当に不安定な精神状態の時か、夢遊の状態で書かれたものでしょう。いずれにせよ、再び、憫笑、憫笑。
 私はかつて氏と“英和辞典”を対象として真剣な話し合いをしたいと願ったこともあります。氏を“恥を知り名を惜しむ人物”だろうと思ったからです(氏は、「もののふは名をこそ惜しめ」という古い言葉の意味をご存じだろうか)。そして十数年の時が経過しました。現在、氏は、氏自身の言葉を借りれば、「政治思想、法制度論、経済分析、社会時事評論などの分野で評論家として活動」しているとのことです(http://soejima.to/profile.htm)。その道の“評論家”としての氏の力量は分野が異なるので軽々には断じられませんが、こと英語に関する限り、氏の力量は世人のよく知るところとなっていると思います【同氏に関して興味深い論評に出会いました。下段追記5参照】。その点は、前出の卒業生が教えてくれたAmazon.co.jpでの副島隆彦著『英文法の謎を解く』の書評の実態からも窺い知ることができます(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480056416/qid=1056641302/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/249-8509780-7209100)。また、インターネット上には、氏の翻訳力に言及したものも何点かあるようです。
 ある人が、某所で、「このような人物は、自分に都合の悪いことは悪党の陰謀であると捉え、専門家に対してはすさまじい憎悪を持ち、自分の正しさを証明する客観的証拠を示さず、他人には人格攻撃を仕掛け、自分が正しいことは自明なのだから証拠の必要はないと確信し、他人から批判を受けると自分をガリレオなどの人物になぞらえるという傾向もよく見られる」という趣旨のことを書いていたということも別の大学院生からメールを通じて教えられました。荊棘(けいきょく)の道を選ぶのもまた人生でしょう。しかし、これだけは言っておきたいと思います。「井戸の水を飲む時(=辞書を使う時)は、その井戸を掘った人たち(=辞書を作った人たち)の労を思え」と。人間の作ったものに完璧などということはないでしょう(そのことを最もよく示すのが、副島氏ご自身の上記二著作だとは、何という残酷な皮肉でしょう)。しかし、より良きものに仕上げることは可能です。そうすることこそが後輩たる私たちの、先人への人間的礼儀ではないでしょうか。それを、自分の不遇感、不充足感、ルサンチマンの発露に、先人の知と汗と努力の結晶を罵倒し、自己弁護に終始するのは、人間性の欠如だと非難されても仕方ないでしょう。そのような行為はまた、天に唾することにほかならないと思います。
 私は、氏の英語に関する言説を主に問題とし、前記諸論考で、上記2書の中身の学問的検証を行ないました。従って、それに対する学問的な論駁や反証のための書き込みなら大いに有益だと思いましたし、私もそれらを冷静に受け止める用意がありました。しかし、今はもう何を言っても無駄という思いを強くしています。氏にかかれば、白は黒になり、黒は白になるようですから。自著には『欠陥英和辞典の“研究”』だの『英語辞書“大論争”!』だのと立派な題名を掲げ、その中では「この本(『欠陥英和辞典の研究』)のどこが『揚げ足取り』で、なぜ『言いがかり』なのかを、明確に論証しなければならない」(170頁)などと大見得を切っておきながら、いざそれに学問的・建設的反論を寄せようとする人(たち)が出て来ると、今度はその人(たち)に猛然と敵意を示すというような氏の姿勢に、陋劣(ろうれつ)さ、頑陋(がんろう)さを感じるのは決して私一人ではないでしょう。
 いずれにせよ、私は今後ともあくまでも学問的、建設的、共栄的態度を堅持しようと思います。真実はどこまで行っても真実なのですから。それに、英和辞典、和英辞典の不備や改善点など、私は氏の何百倍、何千倍も多く見聞きし、実体験して来ているのです。したがって、こと英語辞書(英和、和英、英英)に関する限り、私が理不尽な威喝(いかつ)に屈するようなことはありません。
 最後に、氏の上記2書に、その後も少なからぬ誤謬・誤解が発見されていることを付言しておきます(これについては、いつでも証明できる用意があります)。牽強付会の説なき、“本物”の英語辞書論争なら、いつでも大歓迎ですが、それはもう望めないでしょうから、受忍限度を超える触法行為を除き、今後は副島系掲示板に書き込まれたことを含め(もちろん同所など訪問しませんが)、氏とその周辺の方達の発言のいっさいを無視します。したがって、同掲示板および諸他の副島系掲示板で山岸(論文)批判を読まれる方は、それがあくまでも一方的、歪曲的、自己弁護的、非共栄的なものであることを承知の上でお読み下さい【私に関する実名・筆名・匿名による誹謗中傷も同様です(実名によるものなどお目にかかったことはありませんが)】。立場が変われば見方も変わるものです。(2003/7/8)
________________________________________
追記1:上掲文を書いて間もなく、大学院生の一人から、同じ副島隆彦氏が主宰する掲示板「日本英語の謎を解く」(http://soejima.to/boards/pt.cgi?room=tomaya)に次のような書き込みがあることをメールで知らされました(関係部分を引用させていただきました)。どなたか分かりませんが、勇気付けられる書き込みです。良識を感じました。
ご意見ありがとうございます 投稿者:勝眞 投稿日:2003/06/26(Thu) 11:35:08 No.1012
(前略)
副島氏の言語に対する問題意識はこのサイトでは多く受け入れられているのかもしれませんが、私はいくつかの論点で強く反発しています。副島氏は言語学のことをあれこれ言う割に専門家からは相手にされていないために、自分の間違った考えを改める機会が少ないようです(指摘されても直さないと思いますが)。ただし山岸氏は例外です。彼はきちんと礼儀正しく反論しています。副島氏は彼ときちんと議論するべきでした。そんな山岸氏を人格攻撃まがいのことをして貶める副島先生の態度は最低としかいいようがありません。私はこの「憎しみ掲示板」(ひどい名前の掲示板だ)での書き込みを見て、本当に悲しくなりました。山岸氏のいったいどこが「馬鹿な人」なのでしょう。少なくとも、こそこそと自慰的な書き込みをする人より馬鹿だとは言えないでしょう。彼は彼の信念に従ってウェブサイトを運営しているだけです。「ずいぶん儲かっているようだ」とは、すごい言葉だ。ここまでひどいことを書く人とは思わなかった。いろいろな意味で実に悲しい。
規範って何? 投稿者:勝眞 投稿日:2003/06/27(Fri) 21:42:40 No.1015
(前略)
それから言論とは何を言ってもいいということではないと、私は信じています。山岸さんの文章は論理的におかしいと言うけれども、だったらその論理をついて反論すればいいだけであって、「馬鹿な人だ」とか「私を批判することでご飯を食べている」とか、そんな大人気ないことを言う必要はないでしょう。「頭が悪い」という発言は、議論の筋とは何の関係もないただの罵倒じゃないですか。もちろん議論をしている過程で、そういう物言いがでてきても、それはかまわないです(私だって今その衝動を必死に抑えている)。「憎しみ掲示板」とかいう、およそ今となっては誰も見ないような、言論を商売にしている人が考えるとは思えない汚い名前の掲示板の中で、いい年したおやじが自慰にふけるような書き込みを、「言論の自由」などという高級な言い訳で説明しないで欲しい。
悲しい、という言い方はやはり私の気分をきれいに表していないかもしれません。ばかばかしい、に訂正します。
この文章の中の「山岸さんの文章は論理的におかしいと言うけれども、だったらその論理をついて反論すればいいだけであって『馬鹿な人だ』とか『私を批判することでご飯を食べている』とか、そんな大人気ないことを言う必要はないでしょう」という箇所と「言論を商売にしている人が考えるとは思えない汚い名前の掲示板の中で、いい年したおやじが自慰にふけるような書き込みを、『言論の自由』などという高級な言い訳で説明しないで欲しい」という箇所に特に共感を覚えます。私は私が書いたことが全て正しいとは一度も言っていません。辞書を数点編纂した人間として、「誤りがあれば正す」、ただそれだけを大事にして来ました。私の信念は「真実に謙虚たれ」です。ですから、私に間違いがあれば、そしてそれに気づき納得できれば、いつでも訂正します。「人格攻撃は“臆病者”が最後の拠り所とする戦術だ」と言った人がいます。自戒に努め、驕慢(きょうまん)に陥らないように注意したいと思います。「政治思想、法制度論、経済分析、社会時事評論などの分野で評論家として活動」する者も、辞書を作る立場の者も、その仕事の真の目的は社会の繁栄と人々の幸福に繋がるものでなくてはならないはずです。そうであるなら、「真実に謙虚」であることは、そういう人々の基本的な遵守事項でしょう。(2003年[平成15年]7月8日夜記)
________________________________________
追記2: 本文中に、「これが何かと話題に上る副島隆彦という人の私の論考への十数年後の反応もしくは回答です」と書きましたが、“今頃になってなぜ私を貶(おとし)めようとするのか”という疑念を払拭(ふっしょく)できませんでした。同氏が『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の二書を(自費?)復刊したらしいということを昨夜、ある筋から知らされ、全てに合点がいったような気がします。“無謬神話”を作り上げたい人間やその“信奉者達”にとっては、当人の多数の誤謬を知る別の人間の存在は“目障り”この上ないでしょうから。(2003年[平成15年]7月10日記)
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追記3: Green and White (翻訳ソフトのページ;03.7.10) のoto3さんからも以下のような有り難い忠告を受けました。oto3さんに感謝します。(2003年[平成15年]7月10日記)
◆ 「山岸勝榮英語辞書・教育研究室」 03. 7. 8更新
 ・英語辞書論考 XXI 『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う
・・・ oto3も副島隆彦氏の『欠陥英和辞典の研究』を昔読みましたが、研究とはとても言えない作品です。社会常識のない罵倒宗教家(?)の副島氏を、山岸教授が相手にする必要はないと思いますね (^o^)
________________________________________
追記4:「翻訳通信」というところに書かれたある優れた文章を見つけましたので、感謝しつつリンクさせていただきました。そこには、『ジーニアス和英辞典』に関する論考と共に、(明記こそされていませんが)明らかに副島隆彦氏ほか著の『欠陥英和辞典の研究』への言及だと思われる箇所が出てきます。辞書批評をする者はかくありたいという敬服すべき批評姿勢が読み取れます。(2004年[平成16年]2月16日記)
________________________________________
追記5: 勢古浩爾著『思想なんかいらない生活』(ちくま新書、2004年6月10日第1刷発行)を読んでいたところ、「一人盛り上がりの似非インテリ―副島隆彦」と題された副島隆彦論に出くわしました(179−187頁)。「知識人批判は怨念めいている。しかしどうやら大真面目でもある。が、その大真面目なところが歪んでいる。そして、歪んでいることに本人は毛ほども気づいていない。被害妄想と誇大妄想の癖が強いようである。現在、副島は常葉学園大学助教授で法律学を教えているようだが、大丈夫なのだろうか。学生たちよ無事か。」(181頁)、「副島隆彦は自分で思っているほどのタマではない。その本質において三流の知識人である。」(186頁) など、舌鋒鋭い副島氏評がなされています。
________________________________________
追記6: 次の記事も参照。
研究社の英和辞典を巡る“論争”http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/08/post_cf11.html

(【以上の論文はいずれも、後日、拙著 『続・現代英米語の諸相』 (こびあん書房、1992年)に収録しましたが、 本ホームページにも、『欠陥英和辞典の研究』の嘘、英和辞書批評の在り方―『欠陥英和辞典研究』の場合、英和辞典と典拠主義、正しい「英和辞書」―二つの英和辞典・提訴問題については再録済みです】
<引用終了>
どう見ても副島隆彦先生は、まともな人から見れば狂犬に似た噛み付き犬であり、そのくせに小泉に対してだけは噛み付かないという不思議な習性を持つようである。


 

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