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マスコミも含めてこの国は変化したか(日刊ゲンダイ新春特別号) …変わらずに残るためには、変わらなければならない(小沢氏)
http://www.asyura2.com/10/senkyo76/msg/1079.html
投稿者 新世紀人 日時 2010 年 1 月 02 日 15:47:29: uj2zhYZWUUp16
 

日刊ゲンダイ1月1日 新春特別号から転載

(前略)

〔マスコミも含めてこの国は変化したか〕

 政権交替で政治の風景はガラリと変わった。自民党の麻生や安倍、森といった顔をテレビで見ることは減り、国民のストレスはかなり解消されてきた。宮内庁長官を、小沢幹事長がギャフンと言わせたにも新鮮だ。
 しかし、この国が変わったかといえば、根っこの部分は変わらない。対米従属からの決別、中国への接近は内外から猛烈なジャマが入っている。民主党が「輸出依存から内需拡大へ」と叫んでも、経済界の動きは遅い。まだ米国景気の回復や円安ばかりに期待し、経営方針のチェンジを打ち出す大企業は皆無だ。庶民も自分の地域の高速道路、新幹線だけは完成させろと騒いでいる。八ツ場ダムの住民エゴは全国にある。「コンクリートから人へ」の総論に賛成でも各論は拒絶なのである。地方自治も”主権確立”には程遠く、国からの交付金に群がる始末だ。
 この国がチェンジするのは容易な事ではない。
 それだけに先導役の大マスコミの役割がこれまで以上に大事なのだが、「日本の大マスコミは1周遅れ」(亀井大臣)だから処置なしである。
 同志社大教授の浜矩子氏(国際経済学)が言う。「最も変わっていないのがマスコミです。新しい酒には新しい皮袋が必要なように、新しい時代には新しい報道があるはずです。55年体制の感覚で今の政治状況を語るのはおかしい。これでは、変化を熱望した国民も”洗脳”されてしまいます」
 米軍基地を辺野古以外に持っていこうとすれば、「日米同盟の危機」と騒ぎ、国民が快哉(かいさい)を叫んだ事業仕分けには、「1時間の議論で分かるのか」とイチャモンをつける。事務次官の記者会見廃止は「取材の自由が失われる」だし、国債増発は「国が破綻」とわめき散らす大ますこみ。それじゃあ、どうしろっていうのだ。癒着横行の自民党時代がそんなによかったのか。
 新しい試みにすべてケチをつける大マスコミが、国民が望む変化をつぶしている現実。財界人や官僚の頭が進歩しないはずだ。読者・視聴者が賢くなるしか、明るい新年は切り開けないのである。

(転載以上)


(新世紀人コメント)

鳩山首相への検察・官僚・マスコミ・雇われ破壊者の連合軍による攻撃も退陣に至らせるにはとても無理な話なので、またまた小沢幹事長への攻撃を再開したわけである。
狙いは当然ながら、夏の参院選に向けて民主党の作戦司令塔である小沢氏を倒せば連立政権に大きな敗北を迎えさせる事が出来るであろうとの読みであろう。
この作戦を成功させる事は至難の業なのであるが、マスコミが総て参加しているので何とかなりそうだと考えて実弾を補給して大車輪で動き回っている様子である。
本当はこんな事では転覆は難しいので、かつて中南米でやってきたように軍事強権政権やボナパルティズム政権を軍事クーデターによってでっち上げてしまい完全な再占領国家に仕立て上げてしまう事が本当は望ましい筈だ。
しかし、戦後日本の支配は完全なる軍事力の整備を日本から取り上げてしまったので、「日本人自身の手による軍事クーデター」を装って実行させる事は出来なくなった。
それにもう一つ厄介な問題がある。それは天皇の存在である。
天皇の前で軍事クーデターは出来ないのだ。
それはオウム真理教の軍事蜂起の失敗から明らかであろう。
従って、日本国民が打ち立てた民主主義政権への戦後対米追随隠れ利権集団の陰湿な攻撃は半熟して梅雨のように続きそうだ。

さて、それは詰まらないテーマであるからこの程度で置いておこう。

それよりも小沢氏の好きな言葉について考えてみたい。

「変わらずに残るためには、変わらなければならない」

小沢氏自身そのものが時代の変化に合わせて変わってゆける素質を備えた人物ではあると考えられるが、しかし、彼は意図的にも自分をそのように仕向けていると考えられる。
「好きな言葉」として意識しているのだから、そのように務めてもいるのであろう。

ところが変われない人達も多くいるのである。それは庶民ではない。小泉改革で困窮させられた勤労者達や自営業者達ではない。
それは、勤労者達や自営業者達を踏みつけて対米従属の我が世の春を謳歌してきた官僚・マスコミ・犯罪者集団・暴力組織なのである。
彼らは”変わりたくない”から”変われない”のである。

「変わる」と言う事は「川の流れ」に例える事が出来る。

水は流れなければ澱んで腐るか蒸発する。

水は流れているから新鮮でいられるのだ。海も流れている。地下水も流れている。川も流れている。

川は 「変わらずに残るためには、変わらなければならない」 から流れているのである。

川もせき止められて囲まれてしまって外から水が流れ込まなくなれば、淀んでしまい、中にいる生き物は汚れに負けて死滅してしまうかまたは干上がって乾燥して死滅してしまう。

従って困窮へと追い込められた勤労者達や自営業者達は、川の流れのように流れて変わらなければならず、利権者達は変化を受け入れる事が出来ない。

勤労者達や自営業者達の心理を見事に表わしたヒットソングがある。

http://www.youtube.com/watch?v=rc9ynQKkPqs&feature=related
川の流れのように / 美空ひばり

この歌が大ヒットしたのは、庶民すなわち勤労者達や自営業者達の心理を表現して代弁しているからである。

しかし、勤労者達や自営業者達は今のところ歴史的に自分自身から政治的表現を発して実績を積み重ねる力を蓄えているとは言いがたい段階にいるので、
「川の流れる方向を」、「示してくれる、「指導者と指導勢力」 を待ち望んで来ているのである。

鴨長明の方丈記の語り始めも、「川の流れ」と「水の流れ」について真理を語っている。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

長明の時代は平安秩序の崩壊過程であった。
しかし、現在はその真逆の時代である。

崩壊ではなく再建の時代である。
従って、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」と言ってもその変化は崩壊ではなく、再建である。

変化は、流れは、創造と再生の母である。

水は地球の血液とも言える。旧約聖書においては血液を命と看做す記述すら見られる。血液は命そのものではないが、命の源を運んで浄化作用も行うのであるから命と例える事も出来る訳である。
これも血液が流れるからできる事である。流れなくなった血液にはそれだけでは何も出来ない。

水も川も同様である。流れなければならない。変わらなければならない。
変わらないものは淀み、乾燥し、死滅し、命を失う。

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98/

方丈記(ほうじょうき) [ 日本大百科全書(小学館) ] 鎌倉初期の随筆。一巻。鴨長明(かものちょうめい)作。1212年(建暦2)3月成立。書名は長明が晩年に居住した日野の方丈(一丈四方、すなわち約3.3メートル四方)の草庵(そうあん)にちなんだもの。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という無常観を表白する流麗な文章に始まり、五つの大きな災厄がまず記述される。京都の3分の1を焼き尽くした安元(あんげん)3年(1177)の大火、治承(じしょう)4年(1180)の旋風、同年、平清盛(きよもり)によって突如強行された福原(現在の神戸市付近)への遷都、養和(ようわ)年間(1181〜82)の大飢饉(ききん)、元暦(げんりゃく)2年(1185)の大地震と打ち続く大きな災厄の前にあえなく崩壊していく平安京の光景が迫力ある筆致で描かれる。そして「すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)とのはかなくあだなるさま、またかくのごとし」と、この世の無常と、人の命のはかなさが強い語調で結論づけられる。続いて長明に訪れた「折り折りのたがひめ(不遇)」のため、50歳ころ出家、60歳に及び日野に方丈の庵(いおり)を構えるに至った経過が述べられる。庵の周辺は仏道の修養、管絃(かんげん)の修練には好適の地で、そこは長明に世俗の煩わしさから解放された安息を初めて与えた地であり、「仮の庵(いほり)のみのどけくしておそれなし」と賞揚される。しかし、末尾に至り、閑寂な草庵に執着する自らを突然否定し、「不請(ふしやう)の阿弥陀仏(あみだぶつ)(人に請(こ)われなくとも救済の手を差し伸べてくれる阿弥陀仏の御名の意か)」を唱えて終わる。

前半でこの世の無常を認識し、後半において草庵の閑居を賞美、かつ末尾ではそれらを否定するという一編の構成はきわめて緊密である。漢文訓読調を混ぜた和漢混交文は力強く、論旨を明快なものとしている。とりわけ五大災厄の描写は緊張した文体で、的確、リアルできわめて印象的である。慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』(982成立)などを倣ったものと考えられるが、『平家物語』(13世紀後半成立か)をはじめ、後の中世文学に大きな影響を与えており、『徒然草(つれづれぐさ)』(1331ころ成立か)と並んで、中世の隠者文学の代表である。大福光寺本は鴨長明の自筆かといわれる写本で、その価値は高い。五大災厄の部分を欠く「略本方丈記」といわれるものもあり、長明の自作とも後人の偽作ともいわれ、定説をみない。

[ 執筆者:浅見和彦 ]

カテゴリ一覧:文学 > 日文古典作品 > 中世


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コメント
 
01. 2010年1月03日 06:47:33
「変わらずに残るためには、変わらなければならない」という小沢氏の言葉は、知りませんでした。まさに、優良企業の経営者の発想で、さすがだと思います。

歴史がこれほど激変している中、これまでのような政治を続けていたら、この国の衰退以外には、道がないでしょう。

但し、「チェンジ」を掲げて登場したオバマ大統領の「チェンジ」が、必ずしもそうでないような現在、日本の現政権には、本当の「革命」をやってもらいたいものです。



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