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Re: 【経済学者のトンデモ理論】 デフレーション・インフレーションそして通貨 《その5》 投稿者 マイケル・ハドソン 日時 2002 年 2 月 26 日 21:44:29:

(回答先: Re: 【経済学者のトンデモ理論】 デフレーション・インフレーションそして通貨 《その5》 投稿者 マイケル・ハドソン 日時 2002 年 2 月 26 日 21:42:24)

日本の経済の衰退の原因は金融制度にある(2)

III. 日本の金融危機の歴史的考察
 歴史には、銀行制度の失敗例、成功例があふれている。しかし、銀行制度といえば1つしかないと考えがちであることから、過去の経験を考察する学問が立ち後れている。その結果、国家にとってイギリス式のマーチャント・バンキングが良いのか、19世紀にヨーロッパ大陸で発展した産業投資型バンキングが良いのかという過去一世紀にわたる議論が見過ごされがちである。
 この産業投資型バンキングの哲学が最も発達したのはドイツの国立銀行と民間銀行においてであった。ナポレオン戦争終了の1815年から第一次世界大戦勃発の1914年までの一世紀の間、ドイツは数多くの公国を中央集権型に作り上げた。そしてビスマルクのもと、ドイツは農業経済から主要工業国へと変貌を遂げた。20世紀までに、ドイツの銀行制度は国際外交や政治戦略に完全に統合された長期的な投資金融に発展した。
 1914年に第一次世界大戦勃発後、ドイツがフランスとベルギーに対しすぐに勝利を収めたことは、ドイツの産業がいかに優れていたかを証明している。この大戦は、それ自体が競合する経済体制の衝突であり、ヨーロッパの統治権だけではなく、自由放任主義か中央集権的な国家統制資本主義か、そして短期的なマーチャント・バンキングか長期的な産業投資型バンキングか、という覇権をかけた戦いであった。
 1915年、ドイツの戦略家、フレデリック・ノーマンが新しい金融哲学を『Mitteleuropa(中央ヨーロッパ)』という本にまとめた。イギリスのH.S.フォックスウェル教授も、1917年に発表した論文の中でノーマンの主張に触れている。そしてこれらが発端となり、産業近代化の資金調達にマーチャント・バンキングがふさわしいかどうかという論議が始まった。
 第一の命題は、イギリスが産業、金融、政府を併せてドイツに対抗できるかということであったが、フォックスウェルはこの3つの中でドイツの成功要因が金融にあったことは間違いないと結論づけている。イギリスの政策策定者は、イギリスの個人主義的なやり方では新時代の産業カルテルや金融と産業の結合にうまく対応できないと懸念した。イギリスのマーチャント・バンカーは短期的な守りの金融を行い、長期的な投資は行わなかった。担保をとって融資を行い、債務不履行時は担保は債権者によって没収された。融資の決定は銀行が融資先から何を現金化できるかで決まり、融資がもたらす生産や収入は考慮されなかった。長期融資の場合、その抵当はほとんどが不動産であった。そして大恐慌前は融資期間が3年に限られ、景気が悪くなれば銀行は融資の更新を行わなくても良かった。借り手は返済のために、資産を常に現金化しやすい状況にしておかねばならなかったため、長期的な戦略を立てることはできなかった。  この短期的な方針を反映して、イギリスの銀行は収益を配当金として支払い、融資先企業へ投資したり、留保することはなかった。イギリスの鉄鋼業や自動車産業が時代遅れになったのも生産拡大のための長期的な融資基盤がなかったためである。
 イギリスの株式ブローカーも同様に短期指向であった。ある1つの株式発行で手数料を稼いでしまうと、ブローカーはその株を買った投資家に何が起ころうと気に止めず次の投資家を求める。「株に額面以上の相場をつけ、引受業者が儲けを含んで売りさばいてしまえば、ブローカーの仕事はそこで終わりになる。株式ブローカーにとっては起債の成功の方が、事業の成功よりも重要なのである」とフォックスウェルは批判的である。
 イギリスの短期指向の株式ブローカーとは対照的に、ドイツでは株式引受業務も大手銀行の長期戦略に基づいて行われた。そしてドイツの大手銀行の配当金はイギリスの銀行の半分に過ぎなかった。ドイツの銀行は収益を資本準備金として蓄え、一般企業の株に投資した。銀行役員は投資先企業の取締役会の一員となり、投資先を提携相手と考えた。ドイツの銀行は投資先企業のビジネス戦略を促進し、自行の顧客をサプライヤーとする条件で、その企業の海外事業や設備投資の資金援助や輸出補助金を与えた。
 皮肉なのは、イギリスがサウスシー社や東インド会社、イギリス国立銀行などの設立で、株式市場の促進に先駆的役割を果たしていたことである。これらの国営企業は、設立後、株式収入を国債に投資するという条件付きで民営化された。1720年に南海泡沫事件があったものの、1715〜1720年のこれら独占事業の株の急騰によってロンドン株式市場が確立され、オランダ人やイギリス人、その他海外の投資家に投資機会を提供した。
 この株式の起債からイギリスの国立銀行が生まれ、これを基盤にマーチャント・バンキングの伝統が築かれていった。しかし、産業革命の発祥地であるにも拘らず、イギリスの銀行が産業革新への資金援助を行うことは全くなく、ワットの蒸気機関発明を支えたのも自己資金と家族や友人からの借金であった。これは米国も同様で、トーマス・エジソンは銀行からの資金援助の条件を満たせなかったために自分で資金を貯めるしかなかった。米国とイギリスの銀行が資金援助したのは、鉄道や鉱山、国債などの安定した収入が保証されているものだけであった。
 例えば、鉄道業界は銀行のロビイストと結託して、半世紀間にわたり蒸気自動車の使用を阻止した。鉄道に資金を投入していた銀行と株式引受業者は、自動車との競争を好まなかったためである。銀行が自動車を支持し始めたのはドイツが内燃機関を開発して自動車のガソリン需要が石油業界の市場拡大につながることが確実になってからであった。
 近代の産業技術には大規模な組織だけでなく、長期的な融資と政府の支援が必要であることに気づいたのはドイツであった。例えば、ドイツの銀行員の中には産業の専門家がいた。彼らと政治との結びつきから、国際外交の形成における銀行の発言権が高まり、顧客に成長と安定性がもたらされた。ドイツの貿易や政治力、さらには産業面のリーダーシップ拡大の中で、銀行が大きな役割を果たすようになった。
 一方イギリスでは、取り引きの障害になるとして慣習法(コモン・ロー)が独占や組合を認めず、大規模融資と重工業と干渉主義的な政策が融合することはよしとされてはいなかった。イギリスで統合されている組織といえば労働組合で、これは中世のギルドから発展した。一方ドイツのギルドは主人側が発展させたため、労働者よりも資本家の利益を重視する形で産業カルテルへと発展していった。
 世界の産業は、もはやアダム・スミスの国富論にあるような個々人で資金調達できる規模から、莫大な財源を必要とする、系統立った大規模な事業に発展していた。第一次世界大戦でのドイツの敗戦はバンキング制度によるものではなかった。なぜならそれ以降、経済史は拡大する産業と金融規模、中央集権的な政治、国家計画、重工業に対する大型融資に比重が置かれるようになったためである。自由放任の時代は永遠に過ぎ去ったかのようであった。フォックスウェルはノーマンの主張に同意し、「いわゆるイギリス式の古い個人主義的な資本主義に変わって、新しい非個人的な集合形態、つまりドイツ式の秩序だった科学的な資本主義が優勢になりつつある」と述べている。
 日本の読者は、この80年以上も前に書かれた論文が現代の日本について語っているのではないかと思うかもしれない。フォックスウェル教授がドイツ式と呼ぶ手法を日本は1930年代に採用し、政府の支援のもと銀行業と製造業を結びつけ、さらに第二次世界大戦後には銀行業と産業を織り混ぜ、1950年代以降の飛躍につなげたのである。興味深いのは、米国がイギリス式の個人主義を採用して日本と逆の道を辿った点である。
 結論として、フォックスウェルの論文が意味したのは、大規模な資本が商業的拡大の駆動力として、政府の協力のもとに国際外交のイニシアチブとうまく連携させるという戦略であった。政府の任務が公共および民間の経済基盤を監視することであれば、国家の銀行制度の正しい役割は当然、直接投資のための資金調達となる。
 この金融秩序をうまく実現するには、実体の富と「架空の富」を明確に区別する必要があった。新しい生産手段を形成するための産業融資は実体の富であり、不在地主や株主が得るキャピタルゲインは「架空の富」なのである。このような区別をしない限り、金融制度は進歩的ではなく浸食的なものになってしまう。そこで日本の金融制度がこの2つの柱の間をどのように進んできたか、以下で考察する。


日米の金融制度の比較

 冷戦勝利後の民営化の波は、新規の産業投資よりもむしろキャピタルゲインの増加に資金を回すことになった。政府の役割は、金融や不動産投資家の相手をすることに変わった。選挙資金献金者に対する第一の見返りは、税負担を不動産や株式、債券、専売権の所有者から労働者や産業資本へ転嫁することであった。資本や負債市場への融資の流れに焦点を当てていた金融分析は、財やサービスの価格付けだけの分析になり、もはや金融制度の変貌が金融や不動産バブルをいかに加速したかを研究するものは誰もいない。
 金融と不動産の利権の勝利は、80年前には全く考えられないことであった。第一次世界大戦の終結までに自由放任の時代は過ぎ去り、経済力は技術革新と同義になった。ケインズは『自由放任の終焉』という有名な論文を書いている。そしてその後数々の不労所得資本主義の批判を行い、金融投機による不労所得がいかに実質的な投資を阻み、残りの経済の購買力を奪うかを示した。ロシアの10月革命以降、ヨーロッパでは右派までが、政府による中央計画を支持した。イタリアのファシストは「法人型国家」を主張し、ドイツの国家社会主義者は軍を基盤とする重工業と雇用を促進した。
 第二次世界大戦後、状況が一変した。自由貿易の立場をとるエコノミストはドイツの奇跡を自由企業制に起因するとしたが、実際には、1947年に連合国側が、未払いの賃金を除き、ドイツ国内の負債を帳消しにしたことが成功要因となった。また、連合国は賠償金も厳しく取り立てなかったため、ドイツは負債処理費を全く抱えずに戦争を終えたのである。
 さらにドイツは米国の防衛力に頼り、軍事費も負担せずに済んだ。そのため、日本と同様に米国に対して恩義を感じてか、その後、米国のイニシアチブに従った。世界銀行とその関連の地域銀行が日本とドイツの財政を犠牲にして米国の政策と贅沢を支えるために、ドイツマルクと日本円を米ドルに変換する役目を果たし、両国の中央銀行および国際収支を動かしたのである。
 イギリスのエコノミスト、ウィル・ハットンは、彼のベストセラー作品『The State We're In』の中で、英国病の治療法として日本を真似た金融制度への改革を提唱している。基本的な問題はフォックスウェルの時代から全く変わっていない。ハットンは、イギリスの銀行には短期的不労所得の精神構造があるとし、これと対照的に日本は産業の資金調達のために貯蓄を利用してきたと述べている。郵便貯金が長期的な貯蓄を集め、銀行は通産省が定める戦略産業に資金を提供した。それでは日本の銀行が不動産投機の融資を増やし、イギリス化していったのはなぜか。
 ハットンが行った日本の銀行に関する歴史的考察によれば、他の諸国が第一次世界大戦後、政府による経済および政治統制を中央集中化していた1930年代後半に、日本の金融制度は逆にアングロサクソン流に短期指向になったという。その当時、日本の銀行は長期的な融資を提供せず、財閥は製造業・鉱業60社のうち上位10社しかなかった。非財閥の上場企業は、研究開発や投資よりもその場の利益を優先した。景気が悪くなると労働者は解雇され、上級管理職はボーナスやインセンティブとしての株式オプションを要求したという。極めてアングロサクソン的である。しかしその後、第二次世界大戦の準備のために、政府が新しい経済体制を敷き、金融や労働制度をほぼ現代の形に修正した。株主の権利が制限され、配当金が削られ、企業は雇用主と従業員がそれぞれの役割で協力する場となった。生産拡大が目的とされ、金融機関はそれに必要な融資を行うよう仕向けられた。幸いにも戦後になっても、米国の注意が共産主義の労働組合や社会主義の阻止に向けられたため、戦時体制の基本的な組織構造は日本に残った。結果として、日本の金融制度は、イギリスやドイツの資本主義よりも市場への依存度が低く、顧客に最もコミットするものになった。株式の保有は短期的な利益獲得の手段ではなく、長期的なコミットメントを示した。
 日本の銀行は株式の持ち合い制度により他の金融機関ともつながっている。都市銀行が信託銀行、保険会社、商社とともに、株の持ち合い制度の中央に位置する。銀行が各グループで中心的な役割を果たし、長期融資を行い、合弁事業の交渉を手伝ったりする。こうした株式持ち合い企業が東証上場企業の40%を占める。そしてその系列が残りの30%を占める。合計70%の上場企業が他の企業と何らかの関係を持ち、互いに長期的なコミットメントを持つ。こうした株式の持ち合いがあるために、日本では企業グループの会社は乗っ取られることもなく、アングロサクソン式の役員の株式オプションも禁止される。さらに、倒産の場合には、その企業の資産に対して、銀行よりも社員や取引先の方が優先権を持つ。景気が悪くなっても、日本の銀行は融資を避けたり、援助を突然中止したりせず、融資先企業が支払い能力を失わないよう援助する。企業の資産に対する日本の銀行の融資額の割合はイギリスの銀行の4倍であるとハットンは述べている。日本の豊富な資本と所有権の安定がいかに競争上優位であるかは、自動車およびエレクトロニクス業界の例でも明らかである。


規制緩和の影響

 米国で結合された3本柱は、銀行と政府と不動産であった。連邦準備委員会によると70%以上のビジネス向け融資が不動産融資の分類になっている。したがって信用創造制度は、新規の直接投資に対する融資よりも、むしろ不動産バブルのインフレや不動産金融を基盤としている。就労所得よりもキャピタルゲインの方が税率が低いことから、米国の資本市場では産業収益よりもキャピタルゲインの獲得が促進される。
 米国の金融制度では、商業バンキングと住居・事業向け不動産所有者用の長期不動産金融が区別されており、第二次世界大戦までに、不動産金融は2つの金融機関が専門に行うようになった。相互貯蓄銀行と貯蓄貸付組合(S&L)である。貯蓄銀行は表面的には地元の預金者の利益のために経営される相互機関であったのに対し、S&Lは営利目的の民間企業で、カリフォルニアの約12の大手S&LがNYSEや他の証券取引所に上場されていた。
 1980年代まで、S&Lは銀行ではなく株式会社として組織され、貯蓄を預金ではなく株式として扱っていた。S&Lは商業銀行や貯蓄銀行とは異なり、保証は連邦貸付保険会社(FDIC)ではなく、連邦貯蓄貸付保険会社(FSLIC)によってなされていた。日本の読者は、米国の貯蓄銀行は信用組合、S&Lは住専に相当すると考えるかもしれないが、S&Lは住専のように都市銀行がその株式を所有することはない。
 S&Lの金利は他と比べて幾分高いが、その分のコストはより高いリスクを負うことでカバーされ、戦後の地価の高騰がそれを助けた。不動産ロビーが議会から勝ち取った優遇税制のお陰で、地価の高騰は、たとえ評価を誤ったプロジェクトであっても最終的には投資に見合う利益がもたらされた。しかし、S&Lは預金を固定金利の長期融資に環流させていたため、1970年代末に困難に陥った。というのも、カーター政権下、1977〜1980年のベトナム後の金利上昇の中で、預金者がS&Lから預金を引き出し始めたためである。その一方で、金利上昇によりS&Lの抵当ローンの価値が相対的に低下していった。
 米国が1970年代後半に陥った不動産融資の問題は、日本が現在、直面している問題とは異なる。米国では地価そのものの低下によって担保価値が下がったのではない。金利の上昇によって、S&Lや貯蓄銀行、商業銀行の長期抵当ローンの時価が、不動産に対して相対的に低下したのである。低金利の古い不動産抵当ローンを受けた資産保持者は、新しい借り手に比べて有利な立場に置かれ、低金利の不動産抵当ローンの貸し手の方は、資産価値が預金債務額以下に低下し、正味資産が脅かされた。つまり米国の問題は不動産の過大評価ではなく、金融制度にあった。
 S&Lは政府に救済を求めた。FSLICはこのような状況に備えて緊急時の財源を用意していたが、1960年代半ばまでにカリフォルニアのS&Lはすでに債務額の25%という限度額までFSLICから借り入れていた。S&Lは緊急時貸出分を単に低コストの資本源として使い切っていたのである。S&Lでこのようなことができたのは自己規制が前提となっていたからである。さらに言えば、不動産開発、すなわち不動産ローンの貸付でかなり稼いでいたからこそ、1980年代初期に規制緩和を支持するよう議員を買収することができたのであった。これこそ、毎年ノーベル賞が授与される自由放任主義の「均衡経済学」の本質なのである。レーガンのイデオロギーのもとでは、すべての経済問題が自然治癒すると考えられ、政府の施し、議員だけを利する事業、税控除などすべてが選挙資金と引き替えに売りに出された。金融規制の緩和と同時に、環境規制の緩和、反トラスト法の解体、年金資金の横領の非犯罪化、租税回避地の確立など、かつては犯罪行為であった行為が近代的経営手法に様変わりした。日本では現在、ビッグバンの名のもとに規制緩和が声高に唱えられているようだが、その行く末がどうなるかは米国の経験から明らかである。
 米国では、金融の規制緩和の一環として貯蓄銀行とS&Lの機能が統合された。レーガン政権の政策策定者は、S&Lに独力で負債から抜け出させるためだとして規制緩和を正当化した。高いリスクを負えば、S&Lが預金者に高金利を提供し、S&Lに預金を引き留めることができると考えられた。そうなれば、預金者の引き出しに見合うよう、S&Lは不動産融資のポートフォリオを安く売却せずに済む。事実、S&Lは株式やジャンクボンドを購入したり、不動産開発を行うことを許可された。S&Lは莫大な預金を新たに得るために新しいルールを適用した。大手のS&Lはリスクを十分に理解すると同時に、政府がかつては「株式」であったものを銀行「預金」に分類し直したことで、政府の完全な保証があることも理解していた。政府が最終的な保証人となって、最も危険な機関がもっとも高い金利を支払うことになったのである。
 S&Lの規制緩和によって、不動産開発業者は独自の金融機関の設立やその買収が可能になった。新しい機関は、FSLICの保証とともに、広範な貸付および投資の特権を与えられた。S&Lの監査人はS&Lの自己取引を抑制できずに、その後いくつもの重罪が発生している。"キーティング・ファイブ"と呼ばれる、カリフォルニアのリンカーンS&Lのチャールズ・キーティングに買収された上院の銀行委員会は、キーティングを政府の規制と闘った英雄と称えた。そしてその後、わずかな買収が莫大な被害につながった。キーティングの不正行為の後始末に政府は30億ドルを投じ、さらに有罪判決後にはキーティングの被害者の初期投資の約4分の3を補填するために、民事裁判により16億ドルの賠償金が支払われることになった。キーティングにその支払い能力がないと分かると、彼の会計事務所であるErnst& YoungとArthur Andersenも有罪となり、その責任を分担するよう命じられた。
 この事例は、米国における金融と政府のつながりが、知識と分別のある政治家の指導力によるものではなく、金融や不動産事業者に買収された政治家によってもたらされていることを示している。議員へのロビイ活動を通じて、かつては不正であった行為が合法となり、現在の大半の政治取引は合法的なものとなったのである。
 1980年代初期にレーガン政権が規制緩和を押し進めた結果、米国のS&Lは多くの点で日本企業が1991年以来苦しんでいるのと同様の状況に陥った。高金利によってS&Lの預金の投資対象である抵当の時価が下がり、抵当ポートフォリオの価値が急落した。ベトナム後のインフレで金利が2桁台になると、S&Lの預金者は預金を他へ移動することで、より高収益を上げられることに気づいたのである。S&Lはその預金の引き出しを可能にするために、損失を出しながらも抵当ポートフォリオを売却しなければならなかった。
 S&L業界はほぼすべての融資の門戸を解放させるために、規制反対者、ダニー・ウォールを規制当局の長に任命した。S&Lの中には大半の準備金を企業の乗っ取り屋達が発行するジャンク・ボンドに投資したところもあれば、1980年代に米国で流行った不動産投機を行ったところもある。
 一方で、直接投資の資金が不足した。企業の乗っ取りのための融資は増えたが、産業革新の資金は減少したのである。企業は乗っ取りを避けるためにより多くの収益を配当金として支払ったり、自社株を買い取ったり、あるいはわざと負債を増加させる手段をとった。結局、すべての産業部門が、長期的なプロジェクトに投資するのではなく、その瞬間の利益を上げることに終始しなければならなかったのである。
 日本企業は、社外の株主や企業の乗っ取り屋、投資家といった不労所得階級のために会社を経営していたわけではなかったので、1980年代にはこうした乗っ取りを避けることができた。日本企業の目的は、事業を最適化し、労働者や顧客に利益をもたらすことであった。そのために、T.ブーン・ピケンズの買収も失敗に終わったのである。
 米国では、不動産開発や企業の乗っ取りなどに提供されるキャピタルゲインや税控除に匹敵するだけの高い営業利益を上げられないことから、製造業が資金不足に陥った。資金は見返りが高いところに流れていったのである。S&Lや銀行は金融業から乗っ取り屋になった。こうした米国の金融制度は規制緩和促進の経済哲学を基本的な考え方としており、日本の伝統的な戦後のビジネスの哲学とは対照的である。
 預金者に対する米国の態度は、キーティングの営業マン用の教育マニュアルに端的に表れている。「弱者やいくじなし、無知な者が常に良い標的になることを忘れてはならない」。略奪的なインサイダーに利益をもたらす金融の規制緩和は、一般市民の犠牲の上に行われたのである。
 製造業の衰退、労働者の首切り、年金削減、固定資産税や有取税の引き下げ、消費税増税による財政赤字の補填など、日本が新しく取り入れようとしている新しい経済の構成要素は、すべてこの一部である。今、米国のアドバイザーが日本に採用を勧めている金融制度はまさにこのシステムなのである。

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