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大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室  投稿者 大室寅之祐の弟の玄孫 日時 2002 年 8 月 30 日 19:37:17:

(回答先: Re: 帝国主義に仕組まれた天皇制 投稿者 デスラー総統 日時 2002 年 6 月 20 日 08:03:06)

大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室 

橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)の秘密についてお話します。(こっそり)

◆山口県田布施町の大室さん

そもそも、田布施町のタブー(この事)については、(大室寅之祐について)田布施の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤、岸すら知っていたが、「うち」の爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言っていた。始め意味が分からなかったが本質は 1.寅之祐が本当に南朝光良親王から23代も続いているのか? 2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。その後、大室家(後大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家5代目に当たる。


さて、大室寅之祐が作蔵の息子で行方知らずになる1866年8月頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて1867年10月下旬、田布施に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。寅之祐が芸者の格好して帰ってきた。
(そう書かれた木簡が出てきた。)(「鹿島昇」先生の本より)


大室近祐がワカルといってもせいぜい1866〜1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400〜)から23代500年も継続している。とは嘘である。(500年以上も前の話
等分かる訳無い)


これを踏まえて本当の所は、苗字も無い作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時である。だから
1845年頃迄には興正寺昭(照景?)とスヘが田布施麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(スヘは興正派門徒の娘)作蔵(1824年?〜1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「G」に家を建てる。だから「G」の地名を苗字にした。(「G」とはそもそも村の中心地と言う意味)


http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.55.47.426&el=132.3.10.064&sc=4&la=0&CE.x=128&CE.y=304

1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に三男X平出産。(俺の高祖父)


>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭(照景?)の家か?? 
(京都には帰ってないであろう)


1854年下旬(10月?)独身の大室弥兵衛30とスヘ結婚。大室寅吉、大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃〜1857年6月22日)が
生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説?)その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時
40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから5代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。


そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の真実』に書いてある通りなので省略。1866年6月〜8月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知らずとなったのであろう。(麻郷村の人間が手分けして探した)

◆行方知らずになってから(1866年8月以後の大室寅吉)

情報 1.(大室寅介とは庄吉のことで、寅介の名前で奇兵隊に参加)京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)


この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!

情報 2.(大室虎助とは大室弥兵衛の弟?(松蔭と同じ年?)が萩に在住していてその息子のことで、松蔭ははじめ南朝光親親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。(虎助は京都明治天皇と同じ年で新撰組に殺された)

新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。


下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。


その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になっていと。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは虎助のこと。庄吉も寅吉も田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊をとっくに卒業していたと言う。

 こんなのあったよ!


http://www.linkclub.or.jp/~rkamei/bakumatsu/bakumatsu.html

大室寅之祐の母スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしていたのかも知れないし、麻郷に徳川の柳生の忍
者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったのかも知れない。こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を
調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)

 不動堂

木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。


慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3,700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大
浴場もあったと言う。

 木津屋橋油小路

不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。

伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。


 情報 3.大室寅助とは行方知らずになってからの大室寅之祐のことで、スヘと大室弥兵衛の間の2歳弱で死んだ大室の血統の寅助になりすましたわけ。(庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子で連れ子だったから。)寅吉が注目浴びるのは1863年高杉が奇兵隊を結成。伊藤博文が田布施の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなくて吉田松蔭の死後1863ころから寅吉が玉として浮上してきた。伊藤の玉が寅吉で慶喜の玉が水戸斉昭の子中川宮朝彦。

山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。
>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。

万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。


そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年12月田布施に帰ってくるのである。それが「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて田布施に帰ってきて・・」と書かれた例の木簡が出てきた話に通じる。大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。


通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。田布施町の麻郷の高松八幡宮の話で今でも三条実美の七公卿が滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。午後の小御所会議とはもちろん麻郷の大室館のことで京都の話ではない。


その後、寅之祐は再度上ラク(薩長軍を率いて)。慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで勝利。1月8日慶喜が大阪城を明け渡す。慶応4年1月15日からの明治天皇の伝記に
ついてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。


 

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