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ジャーナリズム論の紹介です 投稿者 MASA 日時 2002 年 8 月 01 日 15:12:32:

ほうとう先生の自省式社会学感覚

 「空っぽの洞窟」とか「9割がゴミ、それも大部分が有害ゴミ」と揶揄される
インターネットで目が覚める文章があったので紹介します。
 著者の方、無断での引用・紹介で申し訳ありません。
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 ■マスコミとジャーナリズム
 一般には「マスコミ」と「ジャーナリズム」は同じものをさすことばとして使われて
いる。しかし、それらはいずれも「マス・メディア」というべきであって、これらの基
本用語が正確に区別されていないために、なかなか有効な議論が成立しにくい
状況にある。とくに最近はもっぱら「情報」という用語で議論されることが多く、そ
の分「ジャーナリズム」という用語そのものが使われなくなる傾向がある。

 まず、「マス・コミュニケーション」は〈現実〉をさすことばである。それに対して
「ジャーナリズム」は原則として〈理念〉をさすことばと思ってもらいたい。〈理念〉
とは「こうあるべきだ」という思想のことだ。

 現代社会には、利害ではなく特定の理念によって構成される社会領域がある。
たとえば、法律・教育・医療・福祉・アカデミズムなどの社会領域は、それぞれ独
自の理念をもち、それを中心に制度化されている。そこで働く人びとは、そうした
理念にもとづいて活動する。むろん現実はさまざまな利害によって侵食され、理
念が形骸化していることもあろう。しかし、それでもいくばくかの理念が生きてい
なければ、その社会領域はまとまりをもちえないのである。ジャーナリズムもその
ような理念によって統合された社会領域なのである

●2 したがって、法律・教育・医療・福祉・アカデミズムに関わる人にとって、ジャ
ーナリズムの理念と現実を学ぶことは、みずからの明識を高めることに通じると思う。

〈理念〉をあらわす「ジャーナリズム」と〈現実〉をあらわす「マス・コミュニケーション」が
しばしば混同されるのは、マス・コミュニケーションがジャーナリズム活動として始まり、
それを柱として発展してきたという歴史的事情が一方にあり、またその発達過程のな
かでジャーナリズムの理念がしだいにその比重をうすめて、ジャーナリズムがマス・
コミュニケーションのひとつの機能にすぎないと考えられるようになったという逆説的
な変化が他方にあるからだ。ちょうど「プロテスタンティズムの倫理」と「鋼鉄のような
資本主義」の関係に似ている。

 したがって、「ジャーナリズムとはなにか」に答えることは、ジャーナリズムの〈理念〉
について考えることにほかならない。

●3 物理的世界をあつかう科学では、「こうあるべきだ」「こうしなければならない」と
いう議論は価値判断をふくんでいるために徹底的に排除されるが、社会的世界をあ
つかう科学では、このような理念をはじめとして価値判断・価値観・主観性・政治的態
度などと徹底的につきあっていかなければならない。なぜなら、それらも社会という研
究対象の構成要素だからである。なお、ジャーナリズム論や平和研究のように一定の
〈理念〉に立つ科学のことを「規範科学」ということがある。

■ジャーナリズムとはなにか
 では、ジャーナリズムがジャーナリズムである本質はなんだろう。

 新井直之によると、それは「いま言うべきことを、いま、言う」ことだという。「いま伝
えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、
言う。『伝える』とは、いわば報道の活動であり、『言う』とは、論評の活動である。そ
れだけが、おそらくジャーナリズムのほとんど唯一の責務である。」●4 したがって、
娯楽や広告媒体としての活動は付随的なものにすぎず、継続性や定期性も重要で
はない。一回かぎりの行為であってもジャーナリズムたりえるし、組織である必要も
ない。「ジャーナリズムの活動は、あらゆる人がなし得る。ただ、その活動を、日々
行ない続けるものが、専門的ジャーナリストといわれるだけなのである。」●5 組織
ジャーナリストやフリー・ジャーナリストはもちろん、公害企業の内部告発者も、地域
の問題にとりくむ市民運動家も、ジャーナリズムの主体たりえるということだ。

●6 内部告発のことをアメリカでは「ティップ・オフ」(tip off) という。アメリカでは所属
組織(政府機関や企業)に不正や不正義があったとき、内部事実を外部にもらして世
論による軌道修正をはかろうとすることが多いという。これは「職域に対する忠誠より
も、社会に対する誠実を優位に置く思想」にもとづく行為である。ウォーターゲート事
件の取材における重要なニュース・ソースにもティップ・オフがあった。新井直之『ジャ
ーナリズム--いま何が問われているか』(東洋経済新報社一九七九年)二一−二二
ページ。

 この根本規定に、記録性や世論形成や定期性などの諸要素が加わった、その結果
として、ジャーナリズムは「ニュースを収集し、選択・分析・解説し、それを継続的かつ
定期的に流布する過程」と一般的に定義される現象として現れると理解できる。

■民主主義と権力のはざまで
 では、なぜこのような理念にもとづくジャーナリズムが必要とされるのか。それに答
えるには〈民主主義〉と〈権力〉の二概念が欠かせない。

 民主主義とは国民が直接・間接に政治に参加することだ。民主主義国家における
権力の源泉は国民に由来する。自分たちのことは自分たちで決めるという原則であ
る。そのさい問題となるのは、自己決定するさいの知的条件である。つまり、国民は
自分たちの現状[いま、ここ]について、できるだけ正確でくわしい知識をもっていな
ければならない。一口で国民といっても、そのおかれている立場はさまざまである。
しかし、そのひとりひとりが平等に〈いま、ここ〉の知識をわかちあっていることが民主
主義の根本条件である。

 ところが、民主主義的手続きによってひとたび権力が成立すると、意思決定に必要
な〈いま、ここ〉の知識が権力の極の方に集中し、平等に配分されなくなってくる。この
傾向が放置されるならば、権力は国民による正当なコントロールからはずれ、逆に権
力が国民をコントロールする事態をまねく。そうなると、もはや民主主義とはいえない
から、なんらかの制度的対策が必要となる。「いま伝えなければならないことを、いま、
伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う」ジャーナリズムが要請されるの
は、このためである。

 このようにジャーナリズムは民主主義と権力との相関物であることを確認しておきたい。

■知る権利
 ジャーナリズム活動の正当性は、したがって、国民がもともともっている「知る権利」の
代行[具体化]にある。
                            以下略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  阿修羅掲示板参加者全員が「ジャーナリスト」なる自覚と誇りを持ちましょう。
「いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、い
ま、言う」 ということです。
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