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【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」の“経済論理”  〈その3〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 9 月 30 日 23:11:31:

(回答先: 【「利潤なき経済社会」を生きる】 「利潤なき経済社会」とは − 「匿名希望」氏の問いに答えて −  〈その2〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 9 月 30 日 23:08:55)

投稿した拙文を継続的にお読みいただいている方であれば、循環的論議状況のなかで“最終投稿宣言”を出された「匿名希望」氏に、微温的なものではなくグランド・デザインを示すように誘い水を向けられたとき、提示する政策が一人歩きすることを危惧しているのでしばらく様子を見ると書いた内容をご記憶かもしれない。

「利潤なき経済社会」という予測を提示してしまったのだから、今さら躊躇う必要もないのだが、現状の経済問題を解消することが第一義だと考えている“微温主義者”としては、なお躊躇いがある。

それは、「利潤なき経済社会」では経済学が通用しないと書いたように、「近代経済システム」と「利潤なき経済社会」では経済論理が根底的に異なるからである。
(現実向けの主張と未来向けの主張が混同されて論議される事態を避けたいという思いがある。「おまえは精神分裂病(統合失調症)か」と思われるほどの落差なのだから...)

これから書く内容は、現実のことではなく、あくまでも将来のしかも“まともな”「利潤なき経済社会」を想定した説明であり、現実の「デフレ不況」をめぐる政策提言とは無関係の内容であると受け止めていただきたい。(内容を読まれれば、なぜ書くのを躊躇っているかもご理解いただけると思っている)


現在はグローバルな経済システムのなかで経済(生存)活動を行っているのだから、そのような現実を無視して、日本のみが「利潤なき経済社会」の経済論理に移行できるとは考えていない。
(そのような“軽挙妄動”は、軍事攻撃さえ覚悟しなければならないとまで考えている)

とりあえずは、「利潤なき経済社会」がどういう社会なのかをイメージする参考になればと考えている。
この段階では抽象にすぎる表現になっているが、能力の限界はご了承いただくとして、徐々に具体的説明を行っていくつもりである。


■ 輸出超過は活動力の壮大な無駄である

 これまでの書き込みでは、貿易収支の黒字こそが“真実の利潤源泉”と主張してきたが、「利潤なき経済社会」では、輸出超過(貿易収支の黒字)をめざすこと自体が愚かな所為となる。
 輸出は、国民経済で供給できない不足を輸入で補うために行う経済活動であって、それを超える輸出を追求することは、国民の活動成果を外部に流出させてしまう愚かで無駄な行為である。
 輸出超過になるのなら、その分生産活動を抑制し、休息するなり遊ぶなりするほうが、国民生活の満足度や資源の消費を抑えるという観点から見て好ましいことである。

 もちろん、“必需財不足”に苦しんでいる外部国民経済があるのなら、そこのために喜捨的ないし慈善的に生産活動を拡大して輸出したほうがいいと合意されることもあるだろう。

 また、エネルギーや鉱物資源を中心に、自前で調達できる資源の利用法開発や消費した資源の再生サイクルを追求することで、輸入の必要度合いを下げるべきである。


■ 市場原理の基礎が「供給=需要」から「需要=供給」に変わる

 これも、「供給が需要を生み出す」というセイの法則まで持ち出し、供給=需要であり、供給の増加こそが需要の拡大であり「デフレ不況」を解消すると主張してきた従来の書き込みとは大きく異なる。

 需要と供給が左右入れ替わっただけではないかと思われるかも知れないが、「供給してから需要を待つ」という構図と「需要があるから供給する」という構図は言葉の違い以上の根底的な変化である。

 需要がなければ、供給(生産)されなくなり、無駄がなくなるとは思わないが、“過剰供給(生産)”はなくなる。


● 具体的な財種別による生産優先度の明確化

貨幣経済の普遍化は、「必需財」・「利便財」・「奢侈財」・「快楽享受財」といった財の需要性格区分を曖昧にし、売れる(利益が得られる)ものと売れない(利益が得られない)ものという二項区分に収斂させてきた。

その行き着いた先が、もっとも優先度が高い「必需財」であるはずの食糧の自給率が40%という日本の姿である。

「需要=供給」に変わることで、「必需財」→「利便財」→(「奢侈財」・「快楽享受財」)という財供給(生産)活動の優先度が自然と明確になる。


● 生産者(供給者)と消費者(需要者)の一体化

 消費者もしくは生活者重視という言い方もなされているが、生産者と消費者という分断対立的意識情況は近代特有のもので、需要=供給になることで解消されていくだろう。

 家族単位で考えれば、生産者(稼ぐ)と消費者(消費する)が同一であることは自明である。消費者重視というスローガンが持ち出されること自体が、「近代経済システム」が内包している矛盾の現れである。


● 経済活動は財的な欲求実現活動となる

 まともな「利潤なき経済社会」では、GDP的経済指標を気にする人はいなくなるだろう。

経済活動は、通貨を獲得する活動ではなく、財に対する欲求実現活動や必要な用役の提供活動になるからである。

● 義務的労働従事時間は大幅に削減される

 現在の「労働価値」(生産性)レベルでも、現在レベルの財や用役を供給するためであれば、週休4日でさえ可能であろう。

 需要=供給になれば、どういう財が供給可能なのかという情報が必要なだけで、需要を喚起する活動である営業は不要になる。
(これは財や用役の供給活動に従事できる人口が増加することを意味するので、輸出入均衡と相俟って、一人一人に要求される勤労時間は大きく減少する)

 まともな「利潤なき経済社会」では、人々の活動(生活)パターンが大きく変わることになる。


■ “余剰労働”の在り方

“余剰労働”とは、

1)子供・老人・病気・怪我など、労働ができないもしくは免除された人々への財や用役の供給活動

2)道路や公共施設などの社会的インフラやその他の国家的需要を満たす財や用役の供給活動(生産設備など生産財も、社会的インフラと考えられるようになるかもしれない)

である。

非就労状態の人々も当然のように供給を求めて需要を主張できるし、ある種の需要が満たされれば、それでまでできなかった労働(活動)ができるようになる場合も多いだろう。

とりわけ、用役の供給は、身体的条件で就労できない人々に対するものが優先的なものと考えられるはずである。
ここでイメージしている用役は、教育・医療・看護・“日常の世話”などであり、“日常の世話”は家族が第一義的に行うとしても、サブシステムとして、家族が負う期間や量の軽減をはかる用役の提供が必要と了解されるだろう。


社会的インフラの整備は、現在のように経済成長を促進する手段という性格は消え、地域維持にとっての必要性や利便性、さらには「開かれた地域」間の関係をスムーズに維持することを目的として行われることになる。


現在は“余剰労働”を税負担というかたちで提供しているが、まともな「利潤なき経済社会」では、活動力の提供に置き換わることになると考えている。


そして、自己(家族を含む)の必要(欲求)を満たす活動も“余剰労働”も等価の活動として扱われるだろう。(余剰労働に従事すれば、自己が必要とする財や用役の供給を受けられるというイメージで受け止めて欲しい)


■ 通貨の性格変化

資本すなわち保有通貨の極大化を目的として動いている「近代経済システム」から、これまで書いてきたような経済活動を基礎とした「利潤なき経済社会」に移行することで、通貨の役割も、根底から変更されることになる。


● 通貨から蓄蔵手段が消滅する

通貨は、活動力の交換手段として位置づけられ、使われないまま貯め込まれるという“余剰通貨”問題は存在しなくなる。

人の活動力そのものが保存できない性格のものだから、その表象である通貨も蓄蔵できないものとなる。
これは、「近代経済システム」においても同じ論理が通底しているのだが、愚かにも理解されていないだけである。
デフレ不況の根源要因である“余剰通貨”問題の発生は、基本的に、通貨の蓄蔵性に拠るものである。

供給(活動力)に見合う需要(通貨)がなければ、デフレ不況になるのは自明である。
デフレ不況になるということは、無駄な供給(組織された活動力)が行われていたり、需要を実現する条件である通貨的“富”が歪んだかたちで配分されていることの反映である。(かつてそれが見えなかったのは、赤字財政支出でごまかしていたからである)

前述の“余剰労働”が十全に機能していれば、老後・病気・怪我などに備えた貯蓄も不要であり、将来の生活及び生存を支える手段としての通貨蓄蔵は意味がなくなる。

(住宅など個人ないし家族の活動力を対価としてはなかなか補うことができない大量の活動力を必要とする家族向け財の供給については別の機会に説明したい)

一般的交換手段という通貨機能はそれなりに重宝なものであるから、活動力の交換を行う手段として有効かなと考えている。


● 通貨の貸し出しを通じた利息は公的にはなくなる

一般的交換手段としての通貨が存在する限り、それを貸して利息を得るという行為はなくならないかもしれないが、公的には認められなくなるだろう。
(破滅的な性格で、借りてまで酒を浴びる人もいるだろうからね)


● 銀行は決済システムとしてのみ残る

貸し出しを通じた利息の取得が認められないのだから、銀行は、決済機能のみを担うことになり、現在の銀行とはまったく性格が異なる経済主体となる。


この他、土地や生産手段の所有形態問題などもあるが、所有と排他的占有の違いなどをきちんと区分けして説明したいと思っているので、ここでは、プライベートなものは私的な専有対象として扱われ、パブリックなものは、地域・国家など重層的な共同体組織が用途の違いで管理主体の位置に立つというレベルでとどめておきたい。
(河川・エネルギー・交通体系などで地域を超えて機能する部分のインフラは、地域ではなく、国家が管理主体となるべきである)


まともな「利潤なき経済社会」というものを提示した背景をご理解いただくために、簡単にまとめたものを添付したので参照していただければ幸いである。


【利潤に関する簡単な捕捉説明】

利潤とは、本来、遠隔地交易による商業利潤であり、外部共同体から得る貸し出し利息である。
そのようなかたちで得られた利潤であれば、それを退蔵しようとも、共同体の経済活動が縮小することはない。

商業利潤と貸し出し利息の違いは、利潤を手に入れるための活動力の有無であり、拡大的再生産の可能性の有無である。
貸し出し利息は、自己の活動力ではなく、他者の活動力に依存して得るものであり、商人の活動力に依存する貸し出しも行われる。
(貸し出し利息と投資配当は、返済及び果実支払いの強制力があるかないかという違いがあり、根源的に性格が異なるものである)

商業利潤は、それを元手に組み込んで仕入れを増加させることを通じて拡大的再生産をもたらすこともあるが、貸し出し利息は、貸し出し利息をさらに取得するための追加的貸し出し原資となり、経済主体や国家をより苛酷な状況に追い込む可能性が高いものである。

外部国民経済から利潤(経常収支黒字)を獲得するか、貸し出し利息が追加的な貸し出しとして使われない限り、貸し出し利息分が、国民経済の“縮小再生産圧力”として積もっていくことになる。
利息が及ぼす“縮小再生産圧力”は、国家財政が危機にある日本の現状を見ればわかる。
近代の通貨制は、貸し出し利息をより多く稼ぐための“詐欺師”の仕組みである。(日本はそのような意図で通貨制度が運用されているわけではないが...)
そして、“詐欺手法”の究極が現在の管理通貨制である。この“詐欺手法”は、高経済成長の源泉でもあるが、経済破綻の要因でもある。

共同体内商業活動で退蔵してしまう利潤を得たり、共同体内貸し出しで利息を得れば、共同体の生産・再生産活動は危殆に瀕することになる。
(利潤や利息が消費や投資に使われれば再生産活動に支障は生じないが、“高利貸し”(=銀行家)は、守銭奴的に保有通貨の増大を志向しがちである)

利潤や利息を得ても問題にならないのは、外部共同体からそれに見合う通貨的富の流入がある場合のみである。(通貨的富の流入は、掠奪でも、返済しないのなら対外債務でもかまわない)

商業は、輸送業を兼ねていない限り、自己の活動力で「交換価値」(=「労働価値」)を生産するわけではなく、商品販売活動の一部を代行することで生産者が生産した「交換価値」の一部を譲り受けるだけである。
(このような論理が現実として貫徹するのは、社会的分業を基礎とした貨幣経済である「近代経済システム」のみである)

前近代の商業活動であれば、商才で利潤を得たとしても、多数の人の生存活動を引きずり込むレベルのものではなく限定的な経済活動であったから、それが社会的な問題を引き起こすことは少なかった。(生存活動そのものが市場原理に規定されていたわけではない)

売値>仕入れ値+輸送費+手間賃(生活費)+店舗償却費であれば、商人に利潤が生じる。(商人の生活費の多寡は問わない。派手に使えばそれに向けた供給活動が発生するので問題にならない)

「手間賃(生活費)+店舗償却費」は生産経済主体の商業活動の延長代行部分であり、それらに仕入れ値を加えたものが、商品として生産された財の「交換価値」(=「労働価値」)である。


宗教に関心がある人であれば、商人の宗教とも言えるイスラムが、利息取得を禁じたり、税や喜捨で商業利潤の吐き出しを求めた意味がわかるはずである。
(ユダヤ教(「旧約聖書」)も、同胞からの利息取得を禁じている)

共同体内から得る利息や利潤(使わず退蔵する利潤)は、共同体を疲弊させ沈滞させるものである。

米英が中心となって仕掛けている「対イスラム戦争」の根っこには共同体価値観や経済価値観をめぐる対立があり、米英支配層は、共同体(国家)統治や経済活動からイスラム価値観を排除し、イスラムを“心の問題”に閉じ込めようとしているのである。
(イスラムを、“近代化”したキリスト教やユダヤ教のようにしたいと思っていると考えてもらえばよい)

イスラム法国家が壊滅したとき、世界は、初めて近代価値観(法)をベースにした国家で覆い尽くされることになる。(ちなみに、米英政権による攻撃が取り沙汰されているイラクは近代法国家でありイスラム法国家ではない)

セム系宗教として同根である変容したユダヤ・カソリック源流キリスト教とイスラムの対決が、「対イスラム戦争」の本質である。
(アジア的価値観はその柔軟性から“近代価値観”をなんとかうまく呑み込んだ。ギリシア・ロシアなど正教会的価値観国家は、ロシアに代表されるように、近代的価値観に引き寄せられつつある)


原油を中心とした資源問題だけではなく、このような価値観の対立を踏まえなければ、“代理人”である米国政権の対イスラム政策も見えない。
私は、“生産者主義”なので、イスラムを信仰しているわけでもないし、啓示宗教全般を受け入れてもいない。

【これから起きる「世界同時デフレ不況」は近代的手法では解消できない】

これから本格化すると予測している「世界同時デフレ不況」は、前回の「大恐慌」とは異なり、“余剰通貨”問題の源泉である利潤獲得目的の経済活動すなわち近代経済価値観を超克しない限り、乗り切ることができないだろうと考えている。

「近代経済システム」がその旺盛な増殖力によりグローバルな社会的分業を推し進めてきたことで、“余剰通貨”(使われない利潤)の増大が、「世界同時デフレ不況」を現出させることになった。(それをなんとか防止してきたのがケインズ主義政策であるが、貧乏人にまで過大な負担を強いてもなお膨らんでいくという公的債務状況では、そのような防止能力はほとんどなくなったと言える)

それぞれの国民経済にとって外部国民経済(外国経済)が外部共同体とは言えないほど緊密なる世界経済構造になっており、政府部門の支出によって補うことができないほどの“余剰通貨”の増大は、世界同時的なデフレ不況を誘発せざるを得ない。

(“余剰通貨”が大きく動き始めるような新しい製品や用役が供給されるようになれば、一時しのぎにはなるが、現在の経済価値観が生きている限り、その供給を通じて再び“余剰通貨”が積み上がることになるから、近代の先延ばしだけで根源的な解決にはならない)

1929年に始まった「大恐慌」(「世界同時デフレ不況」)は、余剰通貨を減少させることになる戦争体制と第二次世界大戦を通じて生じた世界経済構造の変化によって乗り切ることができた。(世界経済構造の変化とは、端的には通貨的富と供給力の米国一極集中)

しかし、世界経済構造が大局において変動する余地がないところまでグローバルな「近代経済システム」ができ上がった現在においては、先進国数ヶ国の供給力を破壊するような戦争が起きない限り、短期的にも乗り切ることができない。(だから、日本は気をつけなければならない!)
失礼ながら、イラクをはじめとする中東地域に破壊的な軍事行動を仕掛けても、「デフレ不況」を解消することはできない。

戦後世界で達成された高経済成長は、第二次世界大戦で米国以外の多くの先進国が陥った壊滅的な経済状況の復興過程が経済指標として現れたものでしかなかったのである。

復興過程の軸となったのが米国経済である。
通貨的富の国際移動をベースに、物的供給力(生産財や原材料)を米国経済主体が輸出し、供給力を輸入した諸国の経済主体がそれによって生産した財の一部を米国に輸出することで、借りた通貨を米国に返済していくという国際的循環構造である。
米国に一極集中した通貨的富と財供給力を他の先進国に再分配し、輸入を媒介として再度通貨的富を米国が回収していくという過程が70年頃までの高度成長時代である。
高度成長後も米国の輸入に依存するという循環構造は残り、日本などの輸出国家は、通貨的富を米国に再配分する役回りに変わった。(米国に通貨を貸して財を輸入してもらうという倒錯的な経済成長の追求である)

「近代経済システム」は、“新世界”と呼ばれたアメリカ大陸の通貨的富の略奪を資本の本源的蓄積として国際交易にいそしみ、それが西欧の通貨的富を減少させてしまうという状況を克服するために形成されたものである。
(“新世界”からの通貨的富の流入が欧州の商品生産を活気づけたが、その主力を担ったスペインとポルトガルは、近代に至る前に国際交易の覇権争いの戦いで敗れ去った)

産業革命以前は英国を中心とする西欧の輸入超過であるから、国際商人自体は通貨的富を増加させるとしても、欧州全域での通貨的富は減少し、最終的には輸入財も売れなくなってしまう。
これを解消する手法が、輸出商品を生産するための“産業革命”であり、インドや中国における強圧的な販売市場の確保である。
英国は、近代産業と軍事力を国際商人(金融家)の利益拡大のために一体化させ、インドや中国に流出した通貨的富の回収をはかり、新たな販売市場や植民地も拡大していった。

そして、その過程で増加していった通貨的富は、第一次・第二次世界大戦という大災厄を挟む歴史過程を通じて、周り回って米国にほとんどが“戻った”。

“新世界”から略奪されて流出した通貨的富が、“新世界”で覇権を打ち立てた米国に戻る過程で、世界全体が「近代経済システム」に組み込まれていったとも言える歴史である。

「近代経済システム」は、“新世界”で強盗的に国家を樹立しついには世界の経済覇権を握るまでに至った米国が、通貨的富の追加的流入が実現できずに対外債務を返済できない事態に陥ることで、終焉の兆しをあらわにすることになると考えている。

近代は、“新世界”からの略奪を端緒とした歴史段階であり、“新世界”に生まれた覇権国家が経済的に破綻することで幕を閉じなければならないことになる。
まさに、世界の通貨的富がゼロサムであることを如実に示す歴史過程である。

しかし、自然現象ではない経済システムは、自動的法則的に終焉を迎えるわけではない。
人々が知恵を絞って新たなシステムを創り上げない限り、世界中が、“近代の断末魔”がもたらす災厄にもがき続けることになる。

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