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己の非力を自覚したからです
投稿者 あっしら 日時 2002 年 11 月 09 日 21:26:41:

(回答先: Re: 認識と真理 投稿者 ちょっと 日時 2002 年 11 月 09 日 03:46:37)

ちょっとさん、こんにちわ。


>あっしらさんには、あなたほどの方がなぜ「真理性を問う必要はない」として自らの
>内にフラストレーションを抱えずやり過ごせる境地に至られたのか、ご説明を戴ける
>と有り難いです。

思考力や活動力の絶対的な“貧弱”を自覚しているからだと思っています。

すべての人を知っているわけでもないので不遜な言い方になりますが、自分自身のみならず、人類が総力を挙げて考えたり行動しても、たいした成果が上げられるわけではないと考えています。

対象を直接認識することもできず、無から何かを生み出せるわけではない人ができることはたかが知れています。

せいぜいが手探りの対象認識であり、せいぜいが物の性質や形を変容させたり構築的に仕上げることはできるだけです、
(手探りという意味は、視覚は光(電磁波)という媒介をもって対象を見ることだし、聴覚も空気などの媒介を持って聞くことという認識の媒介性です。これは、認識の普遍的同時性が原理的に不能であることを意味します)
また、感覚→悟性→理性という単方向の認識ではなく、感覚そのものが理性(価値観=世界観)の影響を強く受けたものです。(価値観によって事象の見え方が変わるということです)

このような意味で、近代合理主義や近代人間主義に較べれば、イスラムやユダヤ教のように、神の絶対性にひれふす価値観のほうに“健全性”を感じます。(日本的価値観のほうがより健全で好きですが)

“近代人”は、自己及び人類の“本質的非力さ”に無自覚すぎると思っています。
その行き着き先が、ニーチェのような「神の死」であり、英米支配層のような世界を牛耳られるという傲慢な態度だと思っています。

己の非力を自覚しながら自己実現を追求する者のほうが、己の力を過信する傲慢な者よりも、現実をより深く認識できると考えています。

近代人として生を受けて、同じく近代人である家族や学校教育・各種メディアを通じて価値観を醸成され知識を蓄積した己ですから、“真理の探求”に価値性を抱いていた時期もありました。
学校の勉強にはそれほど興味はありませんでしたが、知識の量を増やしたいとか真理を掴みたいという欲求はあり、教科書以外の書籍は数多く読みました。
また、議論に負けることは知性の敗北という意識もあり、必死になって議論に取り組んだ経験もあります。(今でも議論は好きですが、気負いはなくなりました)

真理はないということでも、真理は人には認識できないでもいいのですが、世界(現実)を認識する意義が、真理の把握ではなく、目的(欲求)を実現するための一つの手段としての有用性にあると思うようになったことですっきりしたと思っています。

目的は、真理の把握ではなく、心地よさを得ることだと思い至ることで、知識量や議論に勝ち負けを気にかけることの愚を悟りました。

学者・政治家・知識人・アナリストといった職業がエリートのものであり高給を得る手段でもあることから、思考力や知識が少々他者よりも優れていると判断している人が近代合理主義の桎梏を超えるのは現状困難だと思っています(笑)

>同時に宗教も、「認識対象の説明体系」であり、「物語」か「方便」だと思っていま
>す。

「物語」や「方便」は、他者関係的でしか生存できないものである人にとってきわめて重要なものだと思っています。

宗教(価値観体系)は、他者関係的な在り方(共同体や国家)を律する基礎だと考えています。
宗教内容が、私は私であると考えると同じほどの確からしさ(真理性)で受け入れられていれば、社会の安定がよりスムーズに維持できるはずです。

日本人が無宗教と思われがちなのは、共同体的規範が、ことさらロジカルに叫ばればなくとも、無自覚で済むほど血肉化している状況の反映だと思っています。(それも、崩れつつありますが...)

歴史認識も、壮大な共同体的「物語」だと思っています。
しっかり者とけちん坊が同じであるように、悪逆非道な人物と豪胆な英雄は同じです。それを識別するものは、認識する者の価値観でしかありません。


>「真理性を問う必要はない」などと断言されても、なぜ宇宙は生まれたのか、なぜ秩
>序だった(ように見える)進化を生物は遂げ、人類が誕生したのか、という疑問は否応
>なく湧き上がってしまうのです。

それぞれが好きに物語ればいいことだと思っています。

宇宙論や生物学も、個々の有用な知識や考え方は別として、説明体系としては「物語」です。
気に入った「物語」に遭遇したらそれを受けいれてもいいのですが、ある「物語」を真理として受け入れさせるのは意味がないことです。

疑問があるうちは受け入れられる「物語」がないということですから、自分で「物語」を仕上げるか、悶々としながら死んでいくしかありません。

死後に「物語」が完成するのか、死後はそのようなことを考える必要もない無=有の世界なのかはわかりません。

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