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【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」における市場と競争 − 「近代的市場」とは何か − 〈その4〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 9 月 30 日 17:29:40:

『【「近代」から一歩先を見据えて】 「利潤なき経済社会」に生きる 〈その1〉』
http://asyura.com/2002/hasan13/msg/386.html

『【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」の“経済論理” 〈その3〉』
http://asyura.com/2002/hasan13/msg/948.html

に続くものです。

〈その1〉の補足的な書き込みとして次のものがあります。

『【「利潤なき経済社会」を生きる】 「利潤なき経済社会」とは − 「匿名希望」氏の問いに答える −  〈その2〉』
http://asyura.com/2002/hasan13/msg/652.html

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「近代経済システム」を支えている基礎は、私的所有権・市場原理・競争原理であろう。

所有形態は“資本及び利潤に対する支配力”だと考えているので別の機会にふれることとし、経済(資本)活動の動態的規定性である“市場原理”と“競争原理”が、近代ではどういうものであり、「利潤なき経済社会」ではどうなっていくかを考えてみたい。

三つほどの小論に分けて説明させていただく。


■ 「近代経済システム」における市場

「近代経済システム」は、競争関係(社会的分業)にある諸経済主体が市場原理に規定されながら動くものである。

個々の経済主体は、“正しい”資本活動を行ったのか、他との競争で優位に立っているのかについて、活動成果である財や活動内容である用役を市場に供給し、そこの需要フィルタを通すことで初めてわかる。
“誤った”資本活動を行っていれば、売上(利益)を逸したり、利潤が獲得できないだけではなく、原価を回収できなかったり、資本全体を失うことにもなりかねない。
他より“劣った”競争力であれば、原価を回収できなかったり、破綻を迎えることにもなる。

「近代経済システム」における市場は、競争の強弱や有無は認められる社会的分業をつなぐ唯一の結節点であり、経済活動の成果を交換する仕組みである市場なくして社会的分業そのものが成立しない。
市場とは、社会的分業そのものである。

近代の経済活動主体である資本は、自己(家族を含意)の必要を満たした後に残った財や用役を市場に供給しているのではなく、そもそも、他者が保有している通貨を得る手段として財や用役を市場に供給する活動を行っている。
「近代経済システム」は、このような意味で、財と通貨の交換をはじめとする諸取引の場である市場が存在しなければ一時としても存続できない性格を持っている。

また、「近代経済システム」における唯一の主体である資本を保有せず自己の活動力のみ保有している人々は、活動力を市場を通じて資本が保有する通貨と交換しなければ、「近代経済システム」における生存活動である資本活動に加わることができず、家族を含めて現代的生活の維持がおぼつかなくなる。(公務活動も活動力を販売することでは同じ)
このような意味で、労働力市場は近代的市場のサブシステムであり、その広がりが、「近代経済システム」の支えでもある。
(家族や共同体の活動で生存が維持できる状況が残っていればいるほど、資本が存続や拡大のために必要とする市場に参加する数と量が減少する)

生産活動が自己(家族・共同体)の必要を満たすためのものであれば、備蓄や税負担を含めた必要量を得る以上の活動を行って無駄骨を折るというようなことはしないだろう。
また、余剰の生産物があり、それを市場に供給するとしても、余剰生産物であれば、それが思ったほど売れなかったり価格が安くとも、自己の生存や再生産活動が不可能になるわけではなく、過去の活動の一部が無駄骨になるだけである。

しかし、近代の資本(経済主体)は活動成果の全量を販売することを目的としているから、供給する財や用役が思うように販売できなければ、再生産が維持できなくなったり、破綻に陥ることになる。
資本の増殖は、偏に販売市場(需要)の拡大に負う。
だからこそ、西欧諸国や日本は、軍事力を行使してまで販売市場を確保しようとしてきた。

前近代においても、職人や商人など自己のためではなく他者のために財や用役を供給する活動はあったが、それらが社会全体に占める割合は低く、供給対象(需要)との関係性も具体的なものであった。
(農耕機具は、農業共同体の需要状況との見合いで生産され、過剰生産という問題は生じなかった。武器製造は、現在と同じように、政治的支配者との関係で行われ、生産者を再生産ができない状況に追い込めば、政治的支配者の存続が危ぶまれることになる。奢侈品も、顔が見える一部限定層相手のものであり、彼らの庇護のもとで生産されていた。用役のほとんどは支配層や金持ちの“お抱え”であり、芸能の一部などが大衆を支えにしていた)

前近代と近代の市場の差異を要約すれば、「限定性と普遍性」・「具体性と抽象性」・「部分性と全体性」・「機能性と規定性」と列挙することができる。


● 「限定性と普遍性」

これは、社会(共同体)の生産活動循環を維持する上で市場が果たす大きさの違いである。
人々の生存と再生産過程の維持にとって、市場がどれほど関わりを持っているかということの比較である。

前近代は、市場(交換)がなければ、不便であったり余禄を得られないということはあっても、多くの人の生存が脅かされるというものではなかったが、近代においては、市場がほとんどの人の死活に関わる不可欠の存在となっている。

これを、異なるニュアンスとして「利便性と不可欠性」と言い換えることができる。


● 「具体性と抽象性」

これは、市場を媒介とした経済主体(人々)の関係性の違いである。

前近代であれば、供給者と需要者は基本的に顔見知りで、相互が欲しいものを持っているのであれば、通貨を媒介としない交換(市場取引)も行われていた。
近代では、生産財や原材料といった経済主体間の取引では顔見知りという関係性も維持されているが、最終供給者とその需要者は、宣伝や調査などを通じて出来あがったイメージとしてお互いが知っている気分になっているだけで、通貨を媒介とした非人格的交換が原則である。

具体的有用性を欠落させた“財”である通貨があらゆる財や用役の交換手段になっている現実が、近代における人的関係性の抽象性(よそよそしさ)を再生産している。


● 「部分性と全体性」

これは、生産される財(活動成果)のどれほどが市場を通じて取り引きされるのかという比較である。

前近代は、生産者にとって余剰とみなされる生産物が支配者によって徴収され、政治的支配層においても生じる余剰が他の財との交換のために市場に供給されるというものだった。(支配層が求める軍備や奢侈的な財とそれらを生産する人々が必要とする必需財を交換する機能として市場(商人)が存在したと言える)

現在においては、農家が自家消費する程度で、生産されるほとんどの財が市場を通じて他者に販売されている。
近代的生産活動は、生産する全量が他者に販売されることを前提に行われている。

(オーナー企業の経営者であれば対価なしで生産した財を手に入れることはあるが、そのような行為は“近代人”とは言えないものである。ちゃんと買って、報酬や配当として支払った通貨を回収しなければならない)

● 「機能性と規定性」

これは、市場が生産活動(生存維持活動)にどういう影響を与えるかという判断である。

前近代の市場は、余剰生産物を保有している人が他の財と交換したり、基礎的生存必需財を生産していない人の不足を補う機能として存在したが、近代の市場は、生産活動そのものを規定する“厳然たる力”として存在している。
(この規定性をもって、「近代経済システム」は市場原理と言える)

“市場原理”を尊ぶ人たちが、市場が内包するこのような歴史性を了解しているとはとうてい思えない。
「近代経済システム」における“市場原理”とは、商業原理(金融原理)の横溢であり、生産活動の論理が抑え込まれた特殊な近代限定の市場原理でしかないのである。

「近代経済システム」は、経済論理的に言えば、あらゆる生産活動を商業活動の内包物に変容させた。

商人が商品を造る生産部門を持つようになり、生産活動が目的である商業活動の手段となったと考えればわかりやすいだろう。
現実としては生産者が商業活動も行っているように認識されているが、歴史的には国際商人が近代産業の成立条件をつくりだした。
産業家とは商人の特性を持った生産者であり、商人の特性を持たない生産者はいかに物づくりに長けていようとも産業家にはなり得ない。
一方で、生産者の特性を持たない人であっても、商人の特性を持っていれば産業家になり得る。

これは、生産するものが他者が保有する通貨に変えるための商品である限り、“良い物”であることより“売れる物”であることが重要視され、“悪い物”であっても“売れる物”であるならば問題がないと思料される基礎でもある。

生産活動の商業化という商業論理の横溢こそが、「近代経済システム」の特質であり、市場原理と認識される所以である。
生産活動のこのような性格変化により、市場が生産活動を規定し、ときには、市場という機能が生産活動=生存活動を破壊するまでになった。

(物納から貨幣納への転換が農民に与えた打撃は、2・26事件を引き起こしたことでわかるように計り知れないものがある。米価がどんなに安くなっても売ってお金に換えなければ、税を支払うこともできず、残りの家族の生存のために娘を身売りすることにもなる)

市場原理とやらが、経済学者や政治家が語っているように、経済資源の最適配分や経済主体に利潤をもたらすものだろうか?
最適配分は、別に“最大多数の最大幸福”という価値観的基準ではなく、純粋“資本の論理”を基準にした評価である。

市場原理は、商才に長けた経済主体が“利潤”を手に入れ、それが再投資されるのであれば、それらの経済主体の意向に従って資源の再配分が行われるようというものであって、資源が“資本の論理”(個別経済主体ではなく国民経済)に適うかたちで最適に配分されるわけでも、利潤を創出することもない。

なぜなら、経済資源が市場原理で最適に配分されていないからこそ、何度なく恐慌や不況が起きてきたのであり、利潤が、市場原理で生み出されるものではなく他者からの移転でしかないからこそ、その抱え込み(“余剰通貨”)は経済活動を縮小させてしまう。
(恐慌や不況が資本制のリストラクチャーの役割を果たしてきたことを無視しているのではなく、そのような過程を通じてでしかリストラクチャーできないことを問題にしている)

再投資もしくは資本化につながらない利潤(“余剰通貨”)に相当する通貨的富が、貿易黒字や投資ないし金融果実として外部国民経済から流入してきたり、政府部門が赤字財政支出で補われれば、経済活動は縮小しないで進んでいくことができる。

市場原理がどんなに立派なものでも、その仕組みによって利潤を発生させることはできないのである。
ある経済主体が利潤という名の超過利得を得れば、別のある(残りの)経済主体は単純な再生産さえ不可能になる。
ある経済主体が利潤を獲得し続け、それを再投資に向けない事態が発生すれば、経済活動は縮小し、残りの経済主体は徐々に破綻していくことになる。
(これは同時に、貸し出し利息についても言えることである。金融家が貸し出しを通じて生産者から利息を取れば、経済主体は単純な再生産さえ不可能になる。借り入れをしているからといって、生産した財が必ずしもその分高く売れるわけではない)

利潤を得ることが善とされる経済価値観を基礎に、市場が利潤を獲得するための仕組みとして存在する限り、利潤が退蔵されることにより、利益の獲得できないどころか国民経済が縮小していく。

市場原理の礼賛は、「近代経済システム」ではそのような方法以外に資源を配分するしかないという現実の追認でしかない。

市場原理重視者が「そのようなことはない。市場原理に従えば、皆とは言わないが、多くの人は経済的利益を上げられるはずだ」と言うのなら、その論理を示して欲しい。

日本が既に陥り、これから世界(先進諸国)が陥ろうとしている「デフレ不況」及び過剰不良債権=過剰債務(銀行の預金を含む)の根源は、“余剰通貨”の放置が国民経済活動を縮小させるという当たり前の論理が深刻なレベルで顕在化していることにある。


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