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北朝鮮「亡命者は追い出せ」と阿南駐中国大使が指示したそうな…… 投稿者 佐藤雅彦 日時 2002 年 5 月 15 日 06:04:21:

●「大東亜」/「太平洋」戦争の最末期に継戦を主張し、結局は割腹自殺を
遂げた“最後の陸軍大臣”阿南惟幾の息子で、目下の中国大使である阿南
惟茂が、トンデモない指示を出していたことが、発覚すべくして発覚しました。

●阿南大使は共同通信の取材に対し――
 「(館内に)入ってしまったら人道的観点からもきちっと対応しなさいと
  言った」と述べ、「追い出せ」と指示したかどうかは直接答えなかった

とのことですが、一方、“複数の同大使館関係者”は――

 「大使館内に入ってくれば、不審者とみなして追い出せ。人道的な面で
  問題になれば、わたしが責任を取る。入ってきて、面倒なことになる
  くらいなら追い出した方がよい」と指示した

とのこと。どちらかがウソをついている。真紀子vsムネヲのときと、また
同じかよ。(苦笑


●二言目には「ニッポンのシンドラー杉原千畝」を持ち出したがる最近の
外務省ですが、阿南陸送の息子である中国大使や、その元締めの外務省が
面倒くさがりやの人種差別主義者だという評判が世界に知れたら、いまや
ハリウッド映画化の話さえ出ている杉原千畝氏の名前を繰り返せば繰り返す
ほど、現代の日本外務省の惨状が逆に強調されることになるでしょうな。


●今回の一件で、陸軍大臣・阿南惟幾と外務高官・阿南惟茂との関係なども
広く知れ渡るかもしれません。阿南惟茂が政府高官に職に就けたのは、家庭
環境の影響が大きかったでありましょう。「親の七光り」がどこかで働いて
きたことは否定できないでしょう。 ……しかし、今となっては「親の因果
のこの子に報い」という評価が出てきても仕方がないのかもしれません。


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http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MNP&PG=STORY&NGID=AMAN&NWID=A0181410

北朝鮮「亡命者は追い出せ」 阿南駐中国大使が指示

 【北京14日共同】 阿南惟茂・駐中国大使が8日午前10時(日本時間
同11時)から開かれた北京・日本大使館の定例全体会議で職員全員に対し、
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から脱出した住民が日本大使館に入って
来た場合は「不審者とみなして追い出せ」と指示をしていたことが14日、
明らかになった。複数の同大使館関係者が明らかにした。この指示の約4時間
後に瀋陽の亡命者連行事件が発生した。事件では、中国の武装警察官に北朝鮮
住民5人を連行されてしまった日本総領事館の対応が問題となっているが、
阿南大使の指示は人道問題として日本だけでなく国際社会でも大きな波紋を
広げるのは必至だ。また、事件前に北京の大使館から瀋陽総領事館に「駆け
込みに気を付けるよう」指示したことが明らかになっているが、この際「追い
出せ」との内容が含まれていたかどうかが今後、焦点になりそうだ。
 日本政府は原則として政治亡命を受け入れない立場だが、阿南大使の発言が
個人的な判断からなのか、外務省の指示に基づくのかが重要なポイントだ。
阿南大使は共同通信の取材に対し「(館内に)入ってしまったら人道的観点
からもきちっと対応しなさいと言った」と述べ、「追い出せ」と指示したか
どうかは直接答えなかった。阿南大使は会議の席上、北京で外国大使館など
への北朝鮮住民の駆け込み事件が頻発していることに関連し「大使館内に入って
くれば、不審者とみなして追い出せ。人道的な面で問題になれば、わたしが責任
を取る。入ってきて、面倒なことになるくらいなら追い出した方がよい」と指示
したという。日本大使館では毎週水曜日に全体会議を開いている。阿南大使は別
に行われた幹部会議でも同様の指示をしたという。
 北京の各国大使館では北朝鮮住民駆け込みへの警備を強化する一方、大使館内
に入った場合は中国側に引き渡したり、追い出したりせず、第三国へ移送するなど
人道的な措置をとっている。これが定着してきただけに、阿南大使の発言が問題化
するのは必至だ。(了)


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●阿南惟茂は、最後の陸軍大臣・阿南惟幾の息子であるが……


平成10年1月1日発行 機関誌「まほろば」第134号
http://ww3.tiki.ne.jp/~mahoroba/html/134.html

◇(東京都)『私が見た東京裁判』著者 冨士信夫   
【前略】
三日昼頃靖国神社社務所から、北朝鮮に拉致されてゐる人々救出の署名紙二〇枚が
届き、貴台からお送り頂いたものを含め約一〇〇枚の署名紙を第六回目として救出
する会事務所に届けましたが、事務を担当してをられる方の言によりますと、既に
四万枚を超す署名紙が届いてゐる由でございまして、前便で申し上げました中村功
会長が党首を務めてをられます青年自由党からも、更に沢山の署名紙が届けられた
由でございます。   
 拉致問題で国賊とも云ふべき発言をした人物が外務省アジア局長阿南惟茂氏である
ことが判りました時、同氏の御尊父であり、終戦時陸軍大臣としての責任をとって
自決されました阿南惟幾陸軍大将は、泉下に在ってさぞ慨嘆されたことでございませう。   
【以下略】


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●阿南惟幾に対する評価

http://www.znet.or.jp/~tenden/2a.html

高森明勅(国学院大学講師)講演録(於 「昭和の日」を願う母親の集い)
「『昭和の日』への思い」

【前略】
 あの昭和二十年八月の段階で、整然として戦争をとどめることが出来た、
粛然と戦争をとどめることが出来た。これはいかなる力によるものであらうか。
若い世代には、あの戦争は、日本がもう戦ひ疲れてヘトヘトになつて、どう
しようもなくなつて連合国に手を挙げて降伏をしたんだと、無条件降伏をした
んだと、かういつた事が、漠然と信じられてゐますけれども、しかし、それは
違ひます。終戦の詔をあらためて拝読いたしましたときに、このなかで昭和陛下
がおつしやつてゐる一つは、内戦を避けなさいといふことをお諭しになつてをら
れる。内戦を避けなさいと。

 具体的に読ませていただきますと、「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ、忠良ナル
爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ。」この次です。「若シ夫レ情ノ
激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ、或ヒハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ、為ニ大道ヲ誤リ
信義ヲ世界ニ失フカ如キハ、朕最モ之ヲ戒ム。宜シク挙国一家、云々」かういふ
ふうにおつしゃつてをられる。これは、国民同士がお互ひに銃を向け合つて、
内戦内乱に陥るやうなことはくれぐれも避けなさい、かういふお諭しです。
 この内戦内乱をなぜ避けなければならないかといふと、徹底抗戦派の、日本は
まだまだ戦へるんだ、もう一戦して連合国に一泡吹かせて、その後に和平を迎へる
のならばいいけれどもと、さういふ声が当時まだ国内に残存してをつた。例へば、
この隣にございます遊就館にも、ご遺品が展示してありますけれども、最後の陸軍
大臣阿南惟幾大将などは、さういふことを最後まで主張してをられた。ただ、その
徹底抗戦派は我執で唱へてゐる議論ではございません。かういふ、日本の国柄を
護るために無私の、まさに命懸けの思ひで唱えてゐる国民の声を、心の底から納得
せしめることができなければ、あの時点で戦争を止めることは不可能であつた。
 何人がこれをよく為し得たのか、何人が昭和二十年八月段階での戦闘行為の停止を
粛然整然と実現せしめることができたのか。当時、指導者の意見はポツダム宣言を
受諾して講和し、平和を選択しようといふものと、「もつと戦争をつづけよう」と
いふですね、徹底抗戦派の大きな声が残つてをつた。そのために、皆さん知らない
方はをられないと思ひますけれども、その国内世論が、和平を選ぶといふことで一致
してをるならば、昭和陛下が自ら終戦をご決断なさることは全く無用であつたわけです。
明治憲法の建て前では、天皇陛下をお手伝ひ申し上げる輔弼者が、国民としての一致
した提案を天皇陛下に奏上して、その御裁可をただ仰ぐといふのが、原則でございま
した。しかし、それができなかつた。明治憲法が予想してゐない事態を、ここで惹起
せしめたわけです。そこで、天皇陛下御自身のご判断を仰ぐといふ異例のことが行はれ
たのであります。

【以下略】

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●阿南惟幾に対する評価

http://www.jca.ax.apc.org/iken30/News2/N52/N52-18.htm

12・5集会報告
戦争死者と「玉砕」のこと
戦争死に美しさなどない
福富節男

【前略】
 戦場では、普通の暮らしでは想像もつかぬ緊張と弛緩の大きい落差を絶えず味わう
ことになる。それがある種のなつかしさを生むのか、戦争を語るとなると生き生きと
なる人もある。おまけに、かつてたどった戦地を訪れる人もでる。戦死の地に碑を立
てようとする人さえ現われる。そこには「彼我の死」ではなく、「我の死」はあっても
「彼の死」は出てこない。他方若い人が戦争を語るときは、抽象的になるのは当然だ
としても、私からすると理論めかしたり、「理論」構成に腐心しているとしか感じられ
ないことが多い。

 まず二つの死について書く。

 一九○五年日露戦争の最後は樺太(サハリン)占領戦で、七月末サハリンのロシア軍
が降伏して終わった。八月中旬、早くも日本は第一回の移民船を樺太の後に大泊といわ
れることになるに入港させた。私の父も乗船者の一人であった。しかしなお山中にたて
こもって抵抗する二百余名のロシア兵がいた。これを日本軍は八月下旬西海岸から攻撃
した。「進退きわまりて百八十名が白旗を掲げ降参せり。また翌日捕虜残らず銃殺せり」。
この文面はこの戦闘に加わった日本軍兵士が自宅に送った郵便にあったもので、歴史学
者の大江志乃夫さんが見つけたものである。二百名の部隊では護送できないという理由
のようだが、「殺すな」どころか、この乱暴さに驚かないわけにはゆかない。

 第二の例は一九四五年八月十五日の、阿南惟幾陸軍大臣の割腹自殺である。この事件
は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という遺言が有名となり、感動をさそうように物語が書
かれている。膨大な軍隊をかかえて、敗戦処理をせねばならぬ責務をこの陸相は放棄し
たことにはならないのか。陸軍大臣というものの職責は、そんなにも軽く、いくらでも
代わりがきくものなのか。阿南大将の義弟竹下正彦中佐以下数名の将校は、近衛師団を
動かしてクーデタを起こし、天皇を擁して戦争継続にもってゆこうと考えた。阿南は
「西郷南州の心境がよく分る」などと言い、若い将校たちに共感を示していた。阿南の
自殺に至る彼の周辺の将校の行動や阿南の動きは参謀本部所蔵『敗戦の記録』(原書房)
に詳しく記されている。

 このクーデタ計画は画餅に帰し、クーデタに暗黙の同意を与えていた阿南は全く立場
を失った。簡単に言って、天皇に対しても、周辺の皇族や軍人たちにも会わせる顔がない
ところに追い詰められたのである。彼は日本軍のなかで政治的遊泳術を弄することに巧み
な軍人ではなく、軍政の舞台は得手ではなかったようである。側近の若い将校らの未熟な
言い分を拒むことができぬ小心さがあり、私の知る限りでは一種の臆病さがあったよう
に感じられる。さきに書いた「大罪を謝す」というのも、昭和天皇へのお詫びであり、
もちろん兵士にも、塗炭の苦しみを嘗めた国民にたいするものではない。この死を美談
とする意識が変らぬ限り日本は変らないだろう。

【以下略】

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●阿南家のルーツ

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/anan_kz.html

阿南氏
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三本杉*
(出雲族大神氏流)
*大神氏の代表紋として掲載。
 阿南氏は、豊後大神氏の一族である。すなわち、大神惟基の次男惟季が豊後国大分郡
阿南郷に住して、阿南氏を名乗ったことに始まる。
 大神氏は、出雲族の大三輪氏から起こるとされる。「大野系図」によれば、その流れ
を汲む大神良臣が、仁和のころ豊後介となり、大野郡の大領となった。これが九州の
大神氏の祖であるとされるが、実在の人物としては大神惟基から発すると考えられている。
惟基は豊後大野郡領として入部し、周辺各郡の郷司職を獲得して在地領主として発展し、
緒方、阿南、臼杵、高千穂、大野、佐伯の諸氏となった。
 大神一族の系図は、家系によってそれぞれ異なり、その根拠地も一定していない。これ
は、大神一族を称する日向国臼杵郡の高知尾(三田井)、豊後国大分郡の阿南・植田・
戸次・、大野郡の大野・緒方・直入など、それぞれの家が自己を一族の中心におくほどの
独立の自覚をもって分立していたことを物語っている。
 この大神=緒方一族がはなばなしい活躍を示すのは、源平争乱期である。豊後国内に
分散し、在地領主化しつつあった大神一族---阿南・佐伯・大野・緒方の諸氏は源氏に
与して、平氏方として行動した宇佐宮と公然と戦いを交えた。なかでも宇佐宮領緒方庄
の庄官であった緒方惟義は、平家の都落ちに際し、一族を率いて、この平家を大宰府から
海上に追い落した。さらに源範頼の渡海を助けて九州統治の道を開いた。
 しかし、平氏の没落後、惟義の子惟栄を中心とする大神一族が圧倒的な勢力を確立した
ことは、この間、宇佐氏による緒方氏らに対する策謀もあり、文治元年(1185)、源義経
の叛に従った惟栄はついに失脚し、流罪となった。ところが、このとき惟栄と運命をとも
にしたのは、直接の親子兄弟だけであって、三田井・阿南・植田・戸次などの大神系や、
大野郡に蟠踞した緒方一族は、惟栄と行を共にせず、その後も勢力を維持した。
 ところが、阿南氏の当主惟家は建久年中(1190〜99)大友能直を中心とする鎌倉武士団
の来攻にあい、高崎山城攻城戦に敗れて戦死した。嫡男基家は波来合郷に逃れ、以後、
秀時の代まで波来合氏を称した。しかし、秀時の末子基定が大友貞宗に随従し、再び阿南
を名乗っている。
 以後、阿南氏は大友氏に従い、寛正六年(1465)大友親繁が筑前に軍を進めたとき、
南部の軍奉行として、馬ケ嶽城で戦死。戦国期の惟包は武勇に勝れて、弓の上手とされ、
大友氏に従って数々の合戦において軍功を顕わし、感状を数通受けている。また弟の
遠江守惟行は、永正六年(1509)大友義鑑の命によって志賀氏の与力となり活躍している。
 惟包の子惟盈は、天文十九年(1550)入田親誠が豊後を退国するとき、これに従い討死
した。惟盈には四人の男子があり、嫡男の惟英は父と行を共にして、小松城に立て篭って
討死している。末子の惟勝は大友氏に従って数々の戦に功を挙げたが、主家である大友氏
が没落したことから、中川家に仕え、文禄二年には百石の知行を賜わったことが系図に
記されている。
 阿南一族は代々武門の誉れが高い豊後の名家として続き、太平洋戦争終結の御前会議で
降伏に反対を唱えたが容れられず、終戦当日、死を潔しとして割腹自殺を図った陸軍大臣
阿南惟幾は、大神系阿南氏の末裔である。


【資料・日本史小百科「家系」・緒方氏の一族ほか】


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