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http://www.asyura.com/2003/bd22/msg/280.html
古川了子さん拉致疑惑と76年以前の拉致(『正論』2月号荒木和博記事より)
投稿者 YM 日時 2003 年 1 月 01 日 02:58:15:

『正論』2003/2号で救う会事務局長荒木和博氏が「拉致被害者救出は
砲火を交えぬ戦争だった」という記事を書いていて,そこで古川了子
さんケースについて報告がありました。古川さん家族は横田めぐみさん
事件が報じられた97年からもしやと言うふうに訴えていたそうですが,
当時の救う会では拉致は77年以降(古川さん事件は73年)と認識して
いて,なおかつ日本海側の事件ではなかったので確証はもてなかった
らしいです。ただし,安明進はらしき人に会ったということは98年の
本には書いていた(『北朝鮮拉致工作員』)ようです。

救う会の荒木氏は12月6日に安明進とあって拉致の可能性たかしと
いう感触を得たらしいです。
http://www.asahi.com/national/abductees/K2002120602333.html
「千葉の不明女性に似た人を平壌で見た」 元工作員証言

救う会ではどうやら,この件も含めて76年以前の事件が多数寄せられて
いる事から,拉致ははるかに早い段階からあったという解釈をしつつ
あるようです。

『正論』記事のポイントの抄録です

ソウルの中心部、明洞に位置するロイヤルホテルの部屋に入ってきた安氏は竹下さんを見るなり驚いた顔をした。写真は多数持って行って見せたが、写真より竹下さんの顔に「似ている」という強い印象を受けたようだった。身長については最後の記録が一五七センチであり、安氏は一六〇センチ程度と記憶していたが、二人が立って自分の身長との差で比べるとほぼ一致した。「絶対とは言えないが」と前置きした上で安氏は自分の会った女性が古川さんである可能性が高いと語った。
これまでの安氏の目撃証言の信頼性からして、この認識は極めて確度の高いものと思われる。ちなみに安氏はかつて在学した金正日政治軍事大学(工作員養成施設)で蓮池薫さんを見ていたのだが、拉致以前の写真と顔が変わっていたため、蓮池さんが帰国した十月十七日までは「自分の見た人に似ているが確信は持てない」と言っていた。また、古川さんの事件は前述の条件にも合致するためこの事件を拉致と判断して差し支えないと認識するにいたった。
安氏が語った古川さんと思われる女性に会った状況は次の通りである。

▼一九九一年の九月ごろ、時間は五〜六時頃だったと記憶している。当時自分は九一五病院に入院していた。九一五病院とは朝鮮労働党作戦部に所属する病院で、工作員や被拉致者などの治療をするだけでなく、麻薬や毒薬の製造や改良も行うところである。敷地の中には百〜百五十の施設があった。場所は平壌の北方、順安空港から平壌市内に向かう道から一キロも離れていない。小泉総理が訪朝したとき近くで下りて『ちょっとここに寄ってみましょう』と言ったら大騒ぎになったろう。
▼この日、退屈なので練習用の通信器材を持ってきて練習しようと、約六キロ離れた学校(金正日政治軍事大学)まで歩いて行った。途中病院の道を通っていくと見つかる可能性があると思い、道のないところを通って行った。そこから通常の道を渡って政治軍事大学の方に行こうとしたとき、木の陰にいた古川さんと思われる女性に見られた。あとで通報されるといけないと思い、通報しないように頼もうと思って後をつけて行って声をかけた。向き合っていたのは五分位だったと記憶している。自分の言葉にうなずいたりしていたが、朝鮮語を理解していないようにも見えた。自分が姿を記憶していたのは金正日政治軍事大学にいたのがほとんど男性で、女性に対しては関心が強かったから。
▼その女性は入院患者が着る服を着ていた。病院の夕食時間は7〜8時だから、おそらく中央病棟に治療に来た帰りではないかと思う。食堂は共通だが食べる場所は厳格に区別されており、お互いが顔を合わせることはない。
▼日本人のいた病棟と自分のいた病棟の距離は二〇〇〜三〇〇メートルで、建物は見えたが人は見えなかった。道は大きく迂回して通っていた。
▼後で看護婦に聞いたら、彼女が日本人で、病室の掃除をするとき化粧品をちょっと動かしただけで文句を言うような性格だと言っていた。
▼日本人化のための教員であれば、学生に普段接しているから対応にはなれているはずだが、そうは見えなかった。北朝鮮では六〇年代から七〇年代にかけて、「日本革命」をめざしたことがあり、「日本人村」を作ったことがあった。そこにいたのかも知れない。

これまで、私たちは横田さんや久米さんが拉致された一九七七年から有本さんが拉致された一九八三年頃までに焦点をあてて、拉致事件をそのころ金正日の指示によって行われた特殊な事件だと考えていた。しかし、古川さんのケースを含めて百人を超える申し出を見渡してはじめて気がついた。拉致は北朝鮮にとって特殊なことではなく「通常」であったのだ。金正日指示によって行われた集中的な拉致は工作員日本人化という特定目的の拉致だったということである(確かに問い合せのある失踪事件もこの時期が最も多い)。すなわち拉致はこの半世紀間続けられており場合によっては現在ですら行われているかもしれないということだ。
こう考えてみるといくつかのことが納得できる。例えば昭和三十八(一九六三)年の寺越事件、あれも遭遇による拉致として片づけられているが、そもそも能登半島の沿岸で出会った日本人を何百キロも離れた清津にまで連れて行く必要はないのだ。邪魔なら殺害してしまえばそれまでだし、実際一番上の叔父である寺越昭二さんについてはその場で抵抗し、殺害されて海に沈められたとの話もある。少なくとももう一人の叔父の寺越外雄さんと武志さんの二人を北朝鮮に連れて行ってそこで生活させるというのは、通常的に拉致を行っていたことの証拠なのではないか。
また、よど号の妻たちにしても、小西隆裕の妻となった福井タカ子以外は拉致とも言える状況で北朝鮮に行っている。福留貴美子さんは完全な拉致だが、他の妻たちの場合北朝鮮シンパではあっても、よど号犯と結婚することはまったく考えずに北朝鮮に渡っている。彼女たちが洗脳され、北朝鮮の手先となってしまったから拉致という側面が見過こされているが、これも有本さんや松木さん、石岡さんたちの拉致に準ずるやりかたである。
しかも、韓国では朝鮮戦争休戦後だけで五百人近い人々が拉致されている。この中で四百人以上は漁船のだ捕だが、だ捕された韓国人漁船員はこれまで二千人を超えており、その中で返されなかった人が四百人以上ということである。また、北朝鮮には朝鮮戦争の捕虜、ベトナム戦争当時の韓国軍捕虜(ベトナムで捕虜になった韓国兵は韓国に返されず北朝鮮に送られた)が今も生存している。また朝鮮戦争中に抑留された韓国人は八万三千人にのぼる。これらのことから考えて、外の人間を拉致したり抑留したりというのは北朝鮮にとって特殊なことではなかったということである。


『正論』記事のポイントを抄録しときます。

ソウルの中心部、明洞に位置するロイヤルホテルの部屋に入ってきた安氏は竹下さんを見るなり驚いた顔をした。写真は多数持って行って見せたが、写真より竹下さんの顔に「似ている」という強い印象を受けたようだった。身長については最後の記録が一五七センチであり、安氏は一六〇センチ程度と記憶していたが、二人が立って自分の身長との差で比べるとほぼ一致した。「絶対とは言えないが」と前置きした上で安氏は自分の会った女性が古川さんである可能性が高いと語った。
これまでの安氏の目撃証言の信頼性からして、この認識は極めて確度の高いものと思われる。ちなみに安氏はかつて在学した金正日政治軍事大学(工作員養成施設)で蓮池薫さんを見ていたのだが、拉致以前の写真と顔が変わっていたため、蓮池さんが帰国した十月十七日までは「自分の見た人に似ているが確信は持てない」と言っていた。また、古川さんの事件は前述の条件にも合致するためこの事件を拉致と判断して差し支えないと認識するにいたった。
安氏が語った古川さんと思われる女性に会った状況は次の通りである。

▼一九九一年の九月ごろ、時間は五〜六時頃だったと記憶している。当時自分は九一五病院に入院していた。九一五病院とは朝鮮労働党作戦部に所属する病院で、工作員や被拉致者などの治療をするだけでなく、麻薬や毒薬の製造や改良も行うところである。敷地の中には百〜百五十の施設があった。場所は平壌の北方、順安空港から平壌市内に向かう道から一キロも離れていない。小泉総理が訪朝したとき近くで下りて『ちょっとここに寄ってみましょう』と言ったら大騒ぎになったろう。
▼この日、退屈なので練習用の通信器材を持ってきて練習しようと、約六キロ離れた学校(金正日政治軍事大学)まで歩いて行った。途中病院の道を通っていくと見つかる可能性があると思い、道のないところを通って行った。そこから通常の道を渡って政治軍事大学の方に行こうとしたとき、木の陰にいた古川さんと思われる女性に見られた。あとで通報されるといけないと思い、通報しないように頼もうと思って後をつけて行って声をかけた。向き合っていたのは五分位だったと記憶している。自分の言葉にうなずいたりしていたが、朝鮮語を理解していないようにも見えた。自分が姿を記憶していたのは金正日政治軍事大学にいたのがほとんど男性で、女性に対しては関心が強かったから。
▼その女性は入院患者が着る服を着ていた。病院の夕食時間は7〜8時だから、おそらく中央病棟に治療に来た帰りではないかと思う。食堂は共通だが食べる場所は厳格に区別されており、お互いが顔を合わせることはない。
▼日本人のいた病棟と自分のいた病棟の距離は二〇〇〜三〇〇メートルで、建物は見えたが人は見えなかった。道は大きく迂回して通っていた。
▼後で看護婦に聞いたら、彼女が日本人で、病室の掃除をするとき化粧品をちょっと動かしただけで文句を言うような性格だと言っていた。
▼日本人化のための教員であれば、学生に普段接しているから対応にはなれているはずだが、そうは見えなかった。北朝鮮では六〇年代から七〇年代にかけて、「日本革命」をめざしたことがあり、「日本人村」を作ったことがあった。そこにいたのかも知れない。

これまで、私たちは横田さんや久米さんが拉致された一九七七年から有本さんが拉致された一九八三年頃までに焦点をあてて、拉致事件をそのころ金正日の指示によって行われた特殊な事件だと考えていた。しかし、古川さんのケースを含めて百人を超える申し出を見渡してはじめて気がついた。拉致は北朝鮮にとって特殊なことではなく「通常」であったのだ。金正日指示によって行われた集中的な拉致は工作員日本人化という特定目的の拉致だったということである(確かに問い合せのある失踪事件もこの時期が最も多い)。すなわち拉致はこの半世紀間続けられており場合によっては現在ですら行われているかもしれないということだ。
こう考えてみるといくつかのことが納得できる。例えば昭和三十八(一九六三)年の寺越事件、あれも遭遇による拉致として片づけられているが、そもそも能登半島の沿岸で出会った日本人を何百キロも離れた清津にまで連れて行く必要はないのだ。邪魔なら殺害してしまえばそれまでだし、実際一番上の叔父である寺越昭二さんについてはその場で抵抗し、殺害されて海に沈められたとの話もある。少なくとももう一人の叔父の寺越外雄さんと武志さんの二人を北朝鮮に連れて行ってそこで生活させるというのは、通常的に拉致を行っていたことの証拠なのではないか。
また、よど号の妻たちにしても、小西隆裕の妻となった福井タカ子以外は拉致とも言える状況で北朝鮮に行っている。福留貴美子さんは完全な拉致だが、他の妻たちの場合北朝鮮シンパではあっても、よど号犯と結婚することはまったく考えずに北朝鮮に渡っている。彼女たちが洗脳され、北朝鮮の手先となってしまったから拉致という側面が見過こされているが、これも有本さんや松木さん、石岡さんたちの拉致に準ずるやりかたである。
しかも、韓国では朝鮮戦争休戦後だけで五百人近い人々が拉致されている。この中で四百人以上は漁船のだ捕だが、だ捕された韓国人漁船員はこれまで二千人を超えており、その中で返されなかった人が四百人以上ということである。また、北朝鮮には朝鮮戦争の捕虜、ベトナム戦争当時の韓国軍捕虜(ベトナムで捕虜になった韓国兵は韓国に返されず北朝鮮に送られた)が今も生存している。また朝鮮戦争中に抑留された韓国人は八万三千人にのぼる。これらのことから考えて、外の人間を拉致したり抑留したりというのは北朝鮮にとって特殊なことではなかったということである。


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