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詩人の目で見る/エッセイ [斉藤啓一の独想録]より
http://www.asyura.com/2003/bd24/msg/375.html
投稿者 美しいから 日時 2003 年 2 月 15 日 01:53:39:

詩人の目で見る

 1年ほど前、いわゆる「引きこもり」をあずかっている千葉の施設を訪れて、そこで講演をしたことがある。講演といっても、引きこもっている若者を中心に15名くらいであったが。
 
 そのときに集まったのは、だいたい20歳代のはじめから、半ばくらいの男女であった。ただ、引きこもる人の中には、30代後半の人も珍しくないそうである。外見だけでは、引きこもっているとは思えない。どの若者も明朗で素直なよい性格なのだ。もっとも、部屋の隅の方でひとり暗い顔をしてポツンと座っている人も何人かいた。「俺は間違っているのだろうか?」と独り言をつぶやいていた。
 
 また、聞くところによると、10年以上も自宅の風呂場に閉じこもっている20代の女性もいるという。食事をするのも、すべて風呂場の中だという。彼女の場合、単純な引きこもりというだけでなく、いわゆる「不潔恐怖症」を伴っていて、外に出ると汚れてしまうといって、不安を抱えているらしい。こうなると深刻である。
 
 ところで、そもそもなぜ私がここで講演することになったのか、それを話しておかなければならない。それは私がこの世界の専門家だとか、偉い先生だとか、そういう理由ではないのだ。むしろ、まったく逆の理由から、私が講演者として招かれたのである。
 
 ある場所で、この施設の代表者とお会いする機会を得た。すると、この施設では、定期的に外部の人を呼んで講演をしてもらうのだという。理由は、引きこもっている人たちが外の人と接触する機会をもつため、それと、世間から少しはずれたような人を招いてくることで、「こんな、しようもない人でも何とか世の中で生きられるんだ」という自信をつけてもらうためであるという。それで、私がその代表者と話をしているうちに、妙に嬉しそうな顔になってきて、「斉藤さん、今度、うちで話をしてくれませんか」ということになったのである。要するに、私は「自信をつけてもらうため」に、講演に招かれたというしだいなのである。「しようもない」生き様を披露することによって・・・。
 
 それはともかく、そこでいろいろな話をしたのだが、その中で「詩人の目で世の中を見よう」ということを述べた。実は、これからが今回の独想録の本題なのだ。
 
 引きこもりというと、社会的には、いわゆるドロップアウト(落伍)したような印象を受けてしまう。そして親は、そんな子供をダメな子供だと決めつけてしまうかもしれない。それに対して、私は、皆さんは「引きこもり」という「詩」を表現しているだけなのだ、と話したのである。
 
 誰だって、ときには引きこもりたくなる。なぜなら、この世の中は、決してよいとは思えないからだ。人間らしい気持ちをまだもっているならば、引きこもりたくなって当然だと私は思っている。このおかしな世界で平気で生きていける人というのは、ロボットのように人間らしい気持ちを失ってしまった人ではないかとさえ思う。
 
 そして、「詩」というものは、そういう世の中や人生の、微妙な色合いをうまく表現する文学である。しかし、必ずしも言葉で表現されるとも限らない。身体で表現すれば舞踊であり、音で表現すれば音楽ということになる。この独想録でもしばしば名前を出すチャイコフスキーだとか、マーラーといった作曲家などは、必ずしも健康的な気持ちを表現しているわけではない。このことは、音楽ファンならうなずいてもらえるであろう。人間の弱さ、寂しさといったものも、そこには表現されている。にもかかわらず、芸術的に高い評価を受けているのだ。なぜなら、それは美しく表現されているということもあるが、私たちは、それを「芸術」として鑑賞するからである。
 
 では、「引きこもり」も、彼らの「芸術」として見ることはできないだろうか。
 
 引きこもる人は、決して好きで引きこもっているのではない。人と隔絶して、さぞかし孤独に苦悩しているのではないかと思う。彼らのその存在からは、人間としての根源的な孤独感さえ覚えなくもない。すでに述べたように、この社会は、平気で人の心を傷つけたり、存在を否定するといった非情なことがまかり通っているからである。その意味では、引きこもりは、人間らしさを失った社会に対する「プロテスト・ソング」のように感じることもある。
 
 利己的な欲望だけで何かをしているのであれば、それは醜いだけで「詩」になる余地はない。しかし、「引きこもり」は、それが彼ら自身も犠牲者であり、その行為が(必ずそうだとはいえないにしても)、本来の人間らしさと照らし合わせた結果としての「ズレ」から生じている点において、十分に詩や芸術となり得ると思うのだ。
 
 私にいわせれば、私たちは世の中のあらゆることを、あまりにも「商人」のように、あるいは「学者」のように見過ぎている。少しは「詩人」のように見なければダメだと思う。詩人の目で世の中を見れば、いろいろと見えないものも見えてくるようになるし、価値がないと思われていたようなことにも、今まで気づかなかった価値が見えてくるものなのに。
 
 私は、あまりにも引きこもりを美化しすぎているだろうか?
 
 もちろん、私は引きこもりを正当化し、このままでいいのだ、というつもりはない。ただ、引きこもり=落伍者という単純な図式だけで見るのではなく、別の視点からも見るという、心のゆとりがあってもいいのではないか、ということがいいたい。
 
 もしも、親が、自分の子供の引きこもりを「詩」や「芸術」といった、ひとつの「自己表現」であると見るゆとりがあるならば、子供たちはまだ救われるのではないかと思う。世間体が悪いだとか、学校にも行かないで将来の出世に響くとか、社会から馬鹿にされるとか、そういったレベルのこだわりを、親がまだ頭にもっているようでは、子供とのコミュニケーションが取れることはない。
 
 少しくらい引きこもったって、人生がそれでおしまいなどということはないのだ。余計な道草を食ったって、それなりに生きていけるのだ(という点については、まともに就職もせず、いろいろと妙なことをしている私は説得力をもって話ができたのであった)。一流企業への就職だとか高級官僚といった道は閉ざされるかもしれないが、そんなものと人生の幸せとは何の関係もない。
 
 詩人や芸術家の自己表現は、それがうまく表現できて、それを人々が理解してくれるまで止むことはない。大切なのは、引きこもっているからといってそれを責めるのではなく、理解してあげること、もっと本質的な表現をするならば、共感的に「鑑賞」してあげることなのだ。
 引きこもりは詩なのである。芸術なのである。私たちはそれを鑑賞しなければならない。なぜなら、そこには人間らしさという点において、重要なメッセージを投げかけてくれているからだ。
「ですから皆さん、詩人の目で世の中を見てみるようにしましょう」といった話を終えたとき、一番前に座っていた若い女の子が、涙をポロポロと流していた。
 
 その涙もまた、この世の中でもっとも美しい詩のひとつなのだ。

参考:http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/Z-0.htm

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