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◆ 第一章   西洋哲学の光と闇   〜西洋思想概説〜 (週刊日本新聞)
http://www.asyura.com/2003/bd24/msg/889.html
投稿者 中央線 日時 2003 年 3 月 08 日 18:53:04:

DMNLOGY.TXT
◆ 第一章
  西洋哲学の光と闇
  〜西洋思想概説〜

▲  一、

 Information Age
 この英語を、「情報時代」と訳して良いのか。
 良くても悪くても、既に、それは日本語の中に入り込んでしまって居るが。
 Informは、知らせる、通知する、通告する、
 の意味だと言う。
 つまり、既に何者かのところに集積された知識の中から、その一部を、必要に応じて、誰かに、知らせること、
 これが、インフォメーションであろう。
 近頃、
 「インフォメーション・コーナー」、
 などの表示が見受けられる。
 ここに、列車の発着時刻や発車の事情をお客に案内する係りが詰めて居る。
 つまり、未知のことを研究し、探求する、
 或いは、発見する、発明する、
 そんな働きは含まれない。
 通告する、とは、同時に、
 その「インフォメーション」によって、誰かを動かすことを意図して居る。
 「唯一の実行可能な解答は、すべての人間の頭脳を、単一の巨大な超頭脳と連結することである。それは、進化途上にあるすべて生物種であり、そしてまたこの超頭脳は、単一の超存在に結び付けられねばならない。一つの世界頭脳の中に、人類の心を吸収するのである」(ニューエイジ派の著作「水瓶座$アクエリアス$の神々」、F・スプリングマイヤー著イルミナティU一八一頁より引用)、
 とは、「西洋」のある部分の本音であろう。
 超頭脳$スーパー・ブレイン$、
 超存在$スーパー・ビーイング$、
 世界頭脳$ワールド・ブレイン$、
 こうした用語が、単なる思い付きの放言でないとすれば、非常に不気味だ。
 一九七〇年に、ハリウッドは、究極のコンピュータが、すべての人間の心を制圧してゆく過程を描いた、「巨人たち$Colossus$〜ザ・フォービン計画」と言う映画を公開し、たのだそうだ。私は見て居ないが。
 ハリウッドが、冗談半分に、こんな作品を制作するとは思えない。
 一九八四年十一月九日から十一日迄、
 「世界頭脳$ワールド・ブレイン$、我々の次の進化の段階に向かって」、
 と言う学術討論会が開かれ、ロバート・マラー【闇の世界権力の頂点に立つ悪魔主義集団、イルミナティの一員、元国連事務次長、コスタリカに建設中の国連平和大学に参画)】が、
 「我々は、人々の心と魂を結び付ける、単一の世界的な心と魂の形成に着手しつつある」、
 と述べたそうだ。
 つまり「世界頭脳」とは、暇人の空想ではなくて、ある種の世界の権威筋によって、れっきとした現実的な行動目標とされて居るらしい。

▲  二、

 「素晴らしき新世界」(オルダス・ハックスレイ、一九三二年、日本語訳、講談社文庫)は、「西洋思潮」の、少なくとも一つの有力な系列を代表する。
 この未来世界では、男女の結婚、家庭、出産、育児などは存在しない。
 新しい子供は工場(人工孵化、条件反射育成所)で製造される(一日八メートル移動し、二百六十七日目に子供が壜から出る。
 そして人間製品は、上中下、下の下$デルタ$、更にその下$エプシロン$と、五つの階級に分けられる。
 女の一部から卵巣が切り取られ、
 男の一部から精子が採取され、
 この「原材料」から、最上層の支配階級たるべき子供たちと、奴隷となるべき子供たちが、加工されるのである。
 もちろんこの人間製造工場を管理する職員は、上$アルファ$階級から選ばれる。
 日本人にはこんな考えは馴染めない。
 けれども、ここには、「西洋哲学」の本音が、かなり明け透けに表現されて居るのではないか。
 上$アルファ$、中$ベータ$、下$ガンマ$、
 この三階級は、「準人間」の中に入るかも知れないが、その下(デルタ、エプシロン)は、「人間外」、と言う印象だ(オルダス・ハックスレイは、ギリシャ語のアルファベットを使うが、ローマ字ではABCDE、である)。
 「世界頭脳」に「進化」してゆくべき、真の意味の統治者(「人間」の名に値する)は、「アルファ」の更に上に君臨して居る。
 一体、どこから、かくの如き不気味な発想が出て来るのであろう。
 日本人は、西洋の文物を夢中になって採り入れて百三、四十年になるが、未だに、その中核に位置すると思われる、
 「一神教」と、
 「西洋哲学」との正体が腑に落ちて居ない。
 一神教の始まりはユダヤ教、
 西洋哲学の代表は、万学の祖、ないし万学の王、と賞賛される、古代ギリシャのアリストテレス、と聞く。
 彼は、形而上学、自然学、倫理学、政治学、美学などの膨大な著作を残して居る。
 しかし彼の理論体系は明快で、次の図で示すことが出来る。

★図DMN_01A.JBW

  Aの「奴隷」は、非人間化された半分人間、ないし家畜人、と見なされる。
 @の「自由人」のみが、「人間理性」を保有して居り、自己の目的を定め得る。
 AからD迄は、その材料である。つまり、固有の目的を持たず、自由意思も有しない。

▲  三、

 しかしそれでは、「神」はどうなるのか。
 アリストテレスの哲学体系に、「神」の居る場所は確保されて居るのであろうか。
 これが実は、「西洋哲学」なるものの最大難問なのだ。
 形而上学【これは、メタフィジクス、直訳すれば、超自然学、となる】は神学の代用品(模造品)として使うことは出来るかも知れないが、ここに、本当のところ、神は存在しないのではなかろうか。
 神とは、天地を、かくの如く創造されたお方のことである。
 前節の図の右側が自然学、左側が超自然学(形而上学)に相当する。
 神は必要ない。
 しかしそれでは無神論か、と言うと、そうでもない。
 唯物論でもない。
 この体系の起動力は、「自由人」である。
 つまり、アリストテレスの徒にとって、解決されて居ない(従って解決されるべき)唯一の問題は、
 「自由人の存在根拠(自由人がいかにして生成して来るか、と言い換えても良い)」である。
 それはまた、自由人の自由なる力、その活動範囲を、いかにして拡大し得るか、そしてそれによって、「自由人」がどの様にして神に近付いてゆくべきか、
 との問題でもある。
 ここに「神」と呼ばれる存在は、
 全知全能にして、
 万物の主、
 と言ったものと定義して置く。
 だが、これは、率直に言って、非常に難しい話ではなかろうか。
 昔風の日本人は、こんな風に考えることも出来ないし、そんな「哲学」を理解することも出来ない。
 精々、「白昼夢」、「妄想」の類としか思えないであろう。
 けれども、西洋人の一部にとっては、これは紛れもない本気だ。
 弱肉強食、優勝劣敗、
 これは単なる空念仏ではない。
 ホッブスの有名な「万人の万人に対する闘争」の命題は、深く、西洋文明の土壌に根を張って居る。
 アリストテレスの哲学に於ける、
 自由人の力の拡大は、
 同時に、それ以外の人間と自然にとっての、自由の喪失、隷従の増強を意味する。
 我々日本人は、かつては、
 このようなものを「自由」とは言わなかったし、「自由人」とも見ない。
 それではかくの如き人間とかくの如き傾向をどう呼んだらよいのであろう。

▲  四、

 「神は機械や化学的薬品や大衆の幸福とは両立しないのだ。人はどちらかを選ばなくてはならぬ。我が文明は機械と薬品と幸福とを選んだのだ」(松村訳「すばらしき新世界」、講談社文庫、二七一頁)、
 と、ムスタファ・モンド【新世界の西洋駐在総統、なお、この「新世界」は、十人の「総統」によって統治されることになって居る】は、野蛮人$サヴェジ$(未来の新世界に迷い込んだ二十世紀風の英国人男性)に言って聞かせる。
 ここには、
 人工とは(そして、人工物の集積としての「文明」も)神から離れる過程である、
 との命題が示されて居る。
 神から離れるのみでない、
 両立しない、と言うのであるから、やがて、人工(文明)は、神を排除しなければならない。
 神を殺害しなければならない。
 これは、戦慄すべき事件である筈だが。
 しかし、神の除去と神の殺害は如何にして可能か。
 アリストテレスの「論理学」がその方法を示した。
 有名な「同一律(在るものは在る)」、「排中律(在るかないかのいずれか)」、「矛盾律(在り、且つ、在らぬことは出来ない)」である。
 米国の学者ウィルソン・ブライアン・キイは、
 アリストテレスは、人間の言語機能を右の三つの基本法則によって記述した。この言語システムは、二千年以上に亘って、西欧世界の殆どすべての言語文化の中に浸透した、
 アルフレッド・コージブスキーは、主著「科学と正気」(一九三三年)の中で、アリストテレス的構造が西洋文明を如何に原始的、拘束的、破壊的な言語論理のシステムの中に閉じ込めて来たかを検討して居る、
 と述べた(リブロポート刊「メディアレイプ」一五八〜九頁)。
 私は、コージブスキーについて、生憎なにも知らないが、彼は、「ソビエト科学百科全書」の中で、手厳しく糾弾されて居るのだそうだ。
 「アリストテレス以降、人間は自分の住む世界全体について言葉による目録を作成し、すべてを説明しきることができるようになった。それは彼が思考した世界だ」(前出、一八五頁)、
 とのキイ教授の言葉は核心を突いて居る。
 デカルトの「我、考える故に、我在り」、
 との、超有名な西洋哲学の命題が、直ちに連想される。
 「神でさえ言葉によって定義された」(前出、一八七頁)。
 これで万事上手くゆく。
 つまり、筆の一走りで、考え、且つ言葉に記録する人間は、神を如何様にも、己れの都合に合わせて料理出来る(神を人工物の一つとして製作する)のである。

▲  五、

 神を殺す必要もない。
 神を、人間の作成する「言葉による目録」の中に位置付ければ良い。
 つまり「神を人間の召使いに飼育する」のである。
 フーム。
 大胆不敵と言うか、
 未曽有の冒涜と言うか、
 一寸、表現のしようがない。
 けれども、どうやら、この辺に「西洋哲学」の本音が潜んで居るようだ。
 アリストテレスは、三人の名前と結び付いて居る。
 即ち、彼の先生としてのプラトン、プラトンの先生としてのソクラテス、
 彼の弟子としてのアレキサンダー大王$ザ・グレート$。
 いずれも、西洋で、知らぬ人も居ない歴史上の人物であるのみならず、
 ソクラテスは毒杯を飲んで獄死、
 プラトンは、師ソクラテスの対話を著作として遺し、アリストテレスを含む多くの弟子を育てた、
 アリストテレスの弟子、アレキサンダー大王$ザ・グレート$は、中近東、エジプト、インド西部一帯を征服し、それらの土地に、ギリシャ風の文明$ヘレニズム$を植え付けた。
 紛れもない、西洋史の主役級の人々なのだ。
 この時代の精神を十分に深く理解出来なければ、
 日本民族には、
 西洋が分からないままであろう。
 これは単なる「哲学」の問題でもない。
 古代ギリシャ民族は、いわゆるゲルマン族、アーリア族の一派であって、西暦前八百年頃、南下して地中海地域に到達した、
 と言われて居る。
 彼らは、神話と叙事詩(ホメロス)を生み出した。
 それから彼らは、いわゆる「ポリス」【貿易通商と加工業を基盤とする、古代ギリシャ人独特の都市共同体】を建設した。
 このポリスの暮らしは、都市市民全員が参加して、神殿と劇場を中心に動いた。
 ここまでが、ギリシャ人の全盛期である。
 その後のギリシャ文明は、急速に神から離れ、人工的なるもの(人工物を作る営み)、そして必然的に、人工物の設計者、建造者としての人間そのものを至上の高みに持ち上げてゆく。
 そしてそれと共に、内部から腐敗が始まり、遂に全き「死」に至る(ギリシャの山野の生態系もまた、ギリシャ人の愚かな振る舞いと残虐な酷使によって死に瀕した)。
 そしてソクラテスの刑死は疑いようもないその前兆ではなかったか。
 古代ギリシャ哲学とは、
 詰まるところ、宇宙の主権者たるべき人間の思い上がった自己賛美と、宇宙万物に対する人間の優越性の、空虚で偽瞞に充ちた自己証明、
 のようなものであろう。

▲  六、

 しかし、西洋人の哲学者、ないし、一般に「知識人」は、そんな具合にギリシャ哲学を批評することは決して許されない。
 西洋人の書く「西洋哲学史」には、
 判を押したように、
 古代ギリシャに於て、人類は、始めて、理性ある存在として登場した、
 人類の真の文明は、ギリシャに始まり、ギリシャ哲学に於て真の意味での人間が誕生した、
 などと、歯の浮くような自己礼賛が書かれて居る。
 多分、西洋史を通じて、
 唯一人の例外は(今のところ)、米国最高の詩人、二十世紀欧米の最大の詩人たちの一人、エズラ・パウンド(一八八五〜一九七二年)であろう。
 彼の主著 "The cantos of Ezra Pound"【キャントーズ、カントー、などと表記され、詩章、詩篇、と翻訳される】は、二万五千行、百十七編から成る。
 ホメロスのオデッセイに発し、
 ダンテの神曲に至り、
 それを越えて(!)、
 孔子に(そして、東洋に)到着する。
 西洋人(その知識人)にとって、ホメロスとダンテを超えて進む、などと言うことは、あってはならないし、また、実際、そんな文人は存在しなかった、
 少なくとも、エズラ・パウンドの出現までは。
 「この時、『詩章』が解こうとしている問題はもはや完全に提出されたと言える。その問いは次のように表現していいであろう〜世界の調和はいかにして破壊されたのか、世界はどうして地獄と化したのか? この地獄から脱出することは可能か、そしてどんな方法で?」(「ユリイカ」一九七二年十一月号、「特集エズラ・パウンド」、ミシェル・ビュトール/高橋康也訳「エズラ・パウンドの詩的実験」、六十頁)。
 私はミシェル・ビュトールと言う人についての予備知識はなにもないが、フランスのパウンド研究家のようである(あまり、いい感じは持てない)。
 右の一文は、「詩章$キャントーズ$」第十七編(第一次世界大戦の現実が踏まえられて居る)について述べられたものだ。
 世界の調和はいかにして破壊されたのか。
 世界はどうして地獄と化したのか。
 この地獄から脱出することは可能か。
 そしてどんな方法で。
 フーム!
 既に、西洋人は、キリスト教(聖書)によって、その解答を得て居た筈ではないのか。
 どうやら、パウンドは、古代ギリシャ文明も、キリスト教会も、
 満足のゆく答えを与える力を有しない、
 と見極めたらしい。

▲  七、

 キリスト教とギリシャ哲学は、最小限、四重構造で寄り合わされて居るように見えて来た。

◎ まず第一。
 ヘレニズム時代、ギリシャ文明とユダヤ教の衝突(当然、相互浸透も)である(キリスト紀元前の数百年)。
 第二、イエス・キリストの教えが、ローマ帝国市民権を持つパウロによって、ギリシャ・ローマに伝えられ、キリスト教の教義の多くがギリシャ語で表記されたのみならず、ギリシャ人がキリスト教の洗礼を受け、ある種の、キリスト教のギリシャ化が進行した。
 第三、プラトン派の哲学が、初期キリスト教会神学に影響を与えた(西暦二、三、四世紀)。
 第四、ヴェネツィアの介入によって、中世ヨーロッパ(十一、二、三世紀)のキリスト教会の中に、アリストテレス哲学が持ち込まれ、次に、キリスト教神学の絶対的主流となった。
 こんなことは、西洋の知識人にとっては、「イロハのイ」、常識中の常識、に過ぎないであろう。
 けれども、日本民族にとってはそうではない。
 従って、今に至るまで、日本人は、西洋が分からない。断片的なゴミ情報は集積されて居るが。
 日本は、この百数十年来、西洋哲学の専門家を、或る程度、育成した。
 キリスト教神学の専門家も、多少は存在する。
 けれども、現実の西洋では、二千数百年の歴史によって、この両者は、ひとつのものに融合してしまって居る。
 しかも、
 ギリシャ哲学では、ソクラテス、プラトン派と、アリストテレス派の間に、非常に大きな思想的対立と闘争があるようだし、
 ユダヤ教とキリスト教の二千年に亘る葛藤と相克も、日本人は何も知らないにひとしい(日本人で「キリスト教徒」を自称して居る人々でさえ)。
 西洋医学にも、ヒポクラテス派と、ガレヌス【この医師は、ギリシャからローマに移住し、五人の皇帝の主治医となった】派に、根本的な相違がある。
 ガレヌスの経歴に見られるように、ギリシャが没落して、ローマに吸収され、
 ローマ人は、色々なギリシャ語文献をラテン語に翻訳し、そのラテン語が、約一千年、キリスト教ヨーロッパの公用語、及び知識層のための学術用語となった。
 この翻訳の際に、ギリシャ文明は低俗化させられ、著しく精彩と生命力を失ったであろう。
 こうしたことも、西洋人には文化と学問の初歩的了解事項であるかも知れないが、日本人は知らない。
 丁度、欧米白人が、中国人と日本人の区別さえ付けられないのと同じく。
 だが、そんなことは大した問題でもない。西洋に潜む暗黒の潮流、悪魔学$デモノロジー$の存在と、悪魔学$デモノロジー$についての日本民族の完璧なまでの無知、に較べれば。

▲  八、

 世界はどうして地獄と化したのか。
 悪魔がイヴとそして次にアダムを誘惑し、アダムとイヴが神によって与えられた「自由意思」によって、神に反逆し、悪魔のあとに従ったからだ、
 と、キリスト教会は教える。
 地獄から脱出することはいかにして可能か。
 神の子、イエス・キリストを唯一の救い主として受け入れ、ひたすらキリストを信じることによって、
 とされたのではなかったか。
 ここに、
 「悪魔」が姿を現す。
 キリスト教の全構造は、悪魔なしに存立し得ない。
 しかし、果たして「西洋哲学」に「悪魔」の座る場所はあるのか。
 アリストテレス風の目録(そして、それをそのまま受け継いで居る、今日の西洋科学と哲学、万学の目録)の中に、「悪魔」の項目は含まれるのか。
 それが、奇妙なことに、見当たらないようなのだ。
 形而下学(自然学)にも、形而上学にも、倫理学にも、論理学にも、
 悪魔は出て来ない。
 悪魔が消えてしまう。
 悪魔はどこへ行ってしまったのか。
 それとも、悪魔など実在しないのか。
 実はここに、後奈良天皇の御代、天文十二年に、ポルトガル船が種子島に来航して以来今日まで、四百五十年間、日本民族が直面させられて居る大難問が潜んで居た。
 「おそらく英語でものを書いた今世紀最大の作家と思われるエズラ・パウンド(マイケル・レック著、高田美一$とみいち$訳「エズラ・パウンド〜二十世紀のオデュッセウス」(角川書店、平成二年五月、第二版、序文、英語原著は、一九六七年)、
 との評は誇大であろうか。
 否、そうではあるまい。
 有馬朗人東京大学前総長(物理学者)は、
 「今世紀最大の詩人の一人、エズラ・パウンド」(前出書の付録「知性の海の漂流者」より)、
 と書かれて居る。
 何故、有馬前東大総長(そして、角川書店の創立者角川源義氏)とエズラ・パウンドが結び付くのか。
 その経緯にも興味があるが。

<以下、フォント・サイズ変更>
◎ 私の恋人よ、恋人よ
   私は何を愛し
    お前はどこにいるのか!
 私は中心を失った
  世界と闘いながら、
 夢がぶつかり合い
  くだけ散った
 私は地上の楽園をつくろうと
  したのだが、
 (詩章$キャントーズ$、最終第百十七篇、「ユリイカ」一九七二年十一月号、一二七頁、出淵博「終わりのないノストス[帰路]より)

▲  九、

 「ここに至ってもパウンド・オデュッセウスは楽園さがしに行きくれている」、
 と、出淵博は評した。

◎ I have tried to write Paradise
   Do not move
   Let the wind speak
   that is paradise【このパラダイスの「p」は、小文字で記されて居る】
 ("The Cantos" 八一六頁)

 と、続く。
 私はパウンドの「詩」を訳すことなど出来ないが、

◎  私は楽園を描こうと努めた
   動いてはいけない
   風をして語らしめよ
   それが楽園なのだ

 とでもしたらよいか。
 ここには二つの障碍が見える。
 一つは、人間が、風をすら造り替えて居るとしたらどうか、
 二つ目は、そもそも、人間に、風の声を聞く能力が喪われて居るとしたらどうするか。
 パラダイスを、楽園、と翻訳するのも、非常に気が進まない。
 paradise  に、「動物飼育場」の訳語を見出して、私はギョッ、とした。
 確かに、英語のパラダイスには、家畜を飼育する場所(家畜が飼育されて居る場所)、と言った匂いを感じる。
 パラダイスと地獄(屠殺場)は、裏表、隣り合わせて居るのだ。
 これは迷宮だ。
 出口がない。
 パウンドは、「高利貸し$ユージュリー$」が人間を地獄に引きずり込んだ、と見て居る。

◎ The Evil is Usury, nesheck
   the serpent
 (「詩章$キャントーズ$」八一二頁、付録)

 悪とは高利貸しであり、それこそ、悪魔の化身たる、あの蛇である、と言う。
 それはそうかも知れない。
 しかしそれは未だ表面的ではないのか。
 高利貸しの原点は、畜産ではないのか。
 利子を生む資本(利子は仔牛、資本は畜牛)、
  その原型は、動物の生殖行為そのものを利用する畜産業に由来する。
 そこに「悪」の端緒を見るべきではないのか。
 畜産(家畜制度)が、この地上を地獄にしたのではないか。

▲  十、

 私は、西洋の「哲学者」、「思想家」、「作家」、「宗教家」、「詩人」、そして「一般の西洋人」の中に、唯一人でも、このように問うた者のある史実を知らない。
 否、むしろ、「西洋哲学」は、
 畜産(家畜制度)を、問答無用の絶対的前提、自明の原理、公準$axiom$、と認めるところから、思考を始めたのではなかろうか。
 アリストテレスの「目録」は、

★ T 自由人
    ←
  U 奴隷(家畜人)
    ←
  V 家畜
    ←
  W 野生動物
    ←
  X 栽培植物
    ←
  Y 野生植物
    ←
  Z 鉱物

 と整理出来る。
 私の知る限り、二千五百年の「西洋哲学」の歴史の中で、この「階級構造」の全体を、正面から、堂々と批判した思想家は見当たらない。
 Tの自由人は、主人であり、主体である、
 U以下は、ご主人様の欲望を充足させるための材料$マテリアル$である。
 ご主人様の都合によって、UからZまでの各項の順位は変更される場合もあり得る。
 或る種の家畜は、或る種の奴隷の上に位置付けられる(今日、欧米の中流以上の「市民」が飼猫飼犬のために支出する資金は、最貧国の庶民の生活費より多い)。
 水は、どこに入るのであろう。
 空気は?
 否、なによりも、太陽は?
 それを適当に処理することは、別に難しく問題でもない。
 何故なら、ここでは、
 「自由人=理性$Reason$的なる存在」、
 と前提されて居るからである。
 西洋哲学の核は、「理性$リーズン$」、と言う用語である。
 Reason$リーズン$とRationale$ラショナル$=原理、Rationality$ラショナリティ$=合理性、Rationalism$ラショナリズム$=合理主義、とは、よく似て居るが、微妙に違うようだ。
 太陽は光を与える、しかし太陽に理性はない。
 故に、理性を有する自由人にとって、太陽もまた、材料$マテリアル$に過ぎない。
 水はあらゆる生物のいのちの元である、しかし水にもまた、理性はない、
 故に、理性人のための資料$マテリアル$である。
 こんな具合に、忽ち、然るべく、「位置付けられる」。
 唯一の難問は、
 それでは、「自由人」(主人、主体)とは何者か、
 「自由人」の由来は?
 そしてその資格は?
 それを決定することである、「理性的」に、「合理的」に。

◆  第二章

 日本民族が今始めて発見する西洋の悪魔学

▲  一、

 日本民族は、自国の神話を、子供たちに教えることを禁止されて居る。
 安政不平等条約以後、日本を占領し続け、昭和二十年八月十五日以降は、占領体制を完璧なものに仕上げた、悪魔主義世界権力によって。
 日本人は、
 日本民族の神話の代わりに、
 西洋の悪魔学$デモノロジー$を子供の時から注入される。
 悪魔主義世界権力の手先となった売国奴的国家指導層によって。
 その事実に、今、私は気付いた。
 日本人の殆どは、「悪魔学$デモノロジー$」など、名前も聞いたことがない。
 指導者も、一般国民も。
 悪魔学を植え付けられ居る、
 との自覚は全くない。
 西洋に「悪魔学」と言う学問が存在する、
 との認識も皆無である。
 従って、それを研究する学者も居ない。
 確かに、キリスト教の教義には、悪魔が出て来るであろう。
 しかし、我々日本民族は、キリスト教は必要としない。キリスト教抜き、科学技術だけ、輸入したい。
 これが、明治国家の国策である。
 西洋の科学(哲学も含む)には、悪魔を研究する悪魔学など存在しない。
 従って、日本の大学に、「悪魔学$デモノロジー$」の講座も、教授の席も、作られない。
 だが、それで良かったのか。
◎ 「人間至上主義$ヒューマニズム$は、歴史の悪魔学の論理的帰結である」(ユースタス・マリンズ著「カナンの呪い」二頁)、
 とは本当か。
 悪魔主義とは、人間の理性を神の上に置くことである、即ち、ヒューマニズム(人本主義、人間主義、人間至上主義)こそ、悪魔主義である、
 との定義が成り立つとすれば、話は違って来る。
 明治政府は、国家の教育の土台を、悪魔学に置いた、
 と見なければならない。
 アリストテレスの「自由人」とは何者か。
 実は、「自由人」とは、
 悪魔主義者であり、悪魔の化身であった。
 このように見極めれば、日本民族には、全西洋が、非常に良く見えて来る。
 アリストテレスの「目録」では、人類は、三つの部分からなる。
 即ち、

★DMN_02A.JBH

▲  二、

 「文明」の外側に住む野蛮人は、野生動物$ビースト$と同次元に「位置付け」られる。
 従って、野蛮人は、野生動物と同じく、狩猟と捕獲の対象に過ぎない。
 私は、勝手な法螺を吹いて居るわけではない。
 現に、オーストラリアに追放(流刑)された英国人の子孫は、
 タスマニア島の「蛮人」を、狩猟動物を狩り立て、見事、仕留めるような具合に、
 一人残らず、
 なぶり殺しにした、
  ではないか。
 彼らは、悪いことをしたとは、露ほども思って居ない。
 「自由人」とは「文明自由人」である。
 そしてこの「文明化された自由人」は、
 「野蛮人」に対して、

◎ @、奴隷となるか、
 A、「害獣」として皆殺しにされるか、

 どちらかを選べ、
 と、宣告する。
 こんなことは、
 「悪魔」にしか出来ない。
 つまり、人間本位主義$ヒューマニズム$、と言われる場合の「人間」とは、

◎ @自由人↓A奴隷(家畜人)↓B野蛮人、

 の構造の中で、@のみを含み、AとBは排除される如く、理解しなければならない。
 但し、A項の、「奴隷」と「家畜人」の差は、「文明」の「進歩発展」と共に、著しく大きくなる。
 もしも、「文明」と言うものが、人間による自然の征服であるとすれば、
 即ち、自然が、人間の欲望を満足させるための材料、ないし、道具、に転化してゆく過程(自然に対する人間の闘争、そしてこの戦いに於ける人間の勝利の過程)を文明の進歩と定義するとしたら、
 この論理が、人間社会の中に、侵入して来ることは避けられない。
 しかし、西洋流の「文明$シビリゼーション$」は、このようにしか、定義されて居ないのではなかろうか。
 それとも、西洋には、「文明」についての別の定義が行われて居たのだろうか。
 もちろん、我々日本人は、
 「キリスト教文明$クリスチャン・シビリゼーション$」、
 と言う表現があることを知って居る。
 ところが、同時に、
 「ユダヤ・キリスト教文明」、
 との言い方もされる。
 この両者は、同じものなのか(同一物だ、と主張する人も確かに存在する)、
 それとも別のものなのか。
 違って居るとしたら、その違いはどこにあるのか。

▲  三、

 石堂淑朗氏の自宅の近くに、キリスト教(プロテスタント)の牧師が住んで居た(西洋人か、日本人か、どちらなのか?)。
 この牧師は、日本でキリスト教の布教が進まないことに腹を立て、
 ここは悪魔の国だ。
 こんな国には、原爆が、十発も二十発も落ちれば良い(広島、長崎の二発では足りない、と言うのであろう)、
 と、放言した(「日本人の敵は『日本人』だ」、十九頁、講談社、平成七年)、
 のだそうだ。
 キリスト教の神父(カトリック)や牧師(プロテスタント)は、
 日本に悪魔、悪霊が満ちて居る、
 と言い続けて来た(口に出して言わなければ、心の中で)。
 ザビエル以来四百五十年間。
 この場合の「悪魔」とは、なにを意味するのであろう。
 これは、日本人には全く分からない。
 分からないけれども、幕末以来、西洋かぶれの高級インテリは、
 それを真に受けて、日本を嫌い、日本を憎み、日本的なるもののすべてを根こそぎ抹殺しなければならない、
 と、心の底から思い込んで来た。
 「西洋哲学」の専門家は、疑いもなく、ここに含まれる。
 つまり、日本を敵とし、日本を壊滅させるべき思想戦争に於ては、キリスト教と、西洋哲学者とは、問題なく、共闘する。
 キリスト教の側から見れば、
 日本人はイエス・キリストの福音を受け入れない、
 それは日本が悪魔の国だからだ、
 と解釈する。
 しかし、西洋哲学の専門家はどう見るのであろう。
 日本人の精神(その根元は、日本語だが)に、アリストテレス的な階級構造(その中心角は、人間至上主義、ないし、人間理性原理主義、と言ったものであるが)が確立されて居ない、或いは、日本人は、それを頑として受け入れない、
 そのことに、「彼ら」は、苛立って来たのではないか。
 つまり、「理性的」人間、「理性」を有し、十二分に「理性的」に開発された人間(これを「文明化された自由人」と呼称する)が、
 その他のすべて(ここに、野蛮人、奴隷、家畜人、も含まれる)を、「対象」として、また「材料」、「資源」として観察し、認識し、加工し、利用する、
 そのような、「高級な文明人の必須の学問としての哲学」を、
 日本人は理解出来ない、
 否、むしろ、日本人の言語そのものが、そうした「高級」な「文明」的思考の能力に欠けて居る、
 と見下すのである。
 つまるところ、日本人は単なる野蛮人(又は、とっくの昔に死に絶えて然るべき野蛮人の化石)の一種に過ぎない、と結論付けられる。

▲  四、

 「西洋哲学」の目で日本人の心性、心理を観察すると、
 まさに、
 アニミズム(人類の精神史では、数百万年か、数十万年も遡る、最も原始的な時代の水準、と定義される)、
 に相当する。
 animism$アニミズム$は、物活論(自然物にはすべて霊魂が内在すると言う信仰)、
 と、英和辞書に記されて居る。
 哲学上の用語では、物活論(万物有生論$hylozoism$)、物質は無機物でなく、生命を持つという説、
 とある。
 アニミズムの元のことばは、
 Anima$アニマ$であるが、
 これは、生命、意識、霊魂、の意味だと言う。
 右のアニミズムの定義では、

◎ @、自然物に、霊魂が内在する、と言う説(宗教)、と、
 A、物質は、生命を持つ、と言う説(哲学)、と、

 やや異なる、二系統が示されて居る。
 「自然物」と「物質」は同じものか。
 どちらも、明治以前の日本語ではあるまい。
 そもそも、
 「物活論」などと言う、妙チキリンな日本語は頂けないが、仕方がない。
 日本人は、江戸時代迄、
 宗教的には、万物に霊魂が内在する、と信じ、
 哲学的には、物質は生命を持つ、と認識した。
 ところが、西洋の学問によると、
 アニミズムは、狩猟と植物採集時代(考古学者は、旧石器時代と新石器時代に分けるが)の知的段階である、
 と言う。
 日本以外の地域では、
 新石器時代の末期に、狩猟採集民の一部は、畜産の初歩、即ち、羊、山羊、牛、馬、豚などの放牧生活を始めた、
 と記録されて居る。
 明らかに、その結果、アニミズム的精神が衰亡するのである。
 家畜に、霊魂を認めるわけには行かないではないか。
 飼い主たる人間は、家畜に対して絶対的権力者でなければならない。
 既にここに、我々は、アリストテレスの階級構造の萌芽を見出す。
 西洋人はこれを「文明の始まり」、
 などと定義する。
 かくして、自然崇拝宗教$アニミズム$は、時代遅れとなり、
 畜産を土台とした「文明人」は、多神教の時代に突入してゆく。
 多神教の時代はまた、神々の闘争時代(神々の間で、弱肉強食的生存競争、勝ち抜き戦が行われる)の幕開け、でもある。
 そしてその挙げ句の果てに、
 幾つかの「一神教」が出現し、
 更にその先に、人間理性が開花して、今日の如き西洋の哲学と科学技術に進化した。

▲  五、

 こんな風に、日本人は教えられ、なんとなく、そう、思い込んで居る。
 けれども、これは違う。
 この図式は、本物の西洋史と、似ても似つかない。
 「日本が知らないもうひとつのヨーロッパ(上)〜『狂気』が『正気』を生んだ」(栗本慎一郎、河上倫逸、丹生谷貴志、山口昌男、カッパ・サイエンス、光文社、「栗本慎一郎『自由大学』講義録」)と言う著作に、
 「グノーシス〜狂気と正気のはざまで」(丹生谷貴志$にぶやたかし$、神戸市外国語大学助教授)、がある。
 グノーシス$Gnosis$は、もともと、ギリシャ語で、知識を意味する、ごく当たり前のことばであった。
 英語では、「G」を発音せず、「ノーシス」、と表記する。
 英和辞書には「神秘的直観」と訳されて居る。
 西暦元年前後から四〜五世紀頃(つまり、古代ローマ帝国の全盛期から没落、キリスト教が伸張してゆく時期)、ヨーロッパに、グノーシス主義、グノーシス派と呼ばれる運動が出現した。
 グノーシス主義とアリストテレス哲学は、殆ど全く同じものと言って良い。
 グノーシス派は、キリスト教会と激しく葛藤しつつ、その中に入り込み、
 ルネッサンス、啓蒙主義に於て、西洋思潮は決定的にグノーシス的になった、
 グノーシス主義は、純粋の唯物論である、
 現代西洋文明は、著しく、グノーシス的時代である、
 と言った具合に、前出の丹生谷貴志$にぶやたかし$論文は説明してくれる。
 明治以来、「グノーシス主義」は、日本人が、最も苦手とした領域の一つだ。
 日本人キリスト教徒の視野にも入らず、
 西洋哲学専門家も知らない。
 ようやく、敗戦占領下、日本民族が気付かないうちに、真っ黒なグノーシス的悪魔主義の毒が、全身に染みわたるようになってから、
 数人の学者が、西洋の膨大なグノーシス文献の、ほんの一部を研究し、日本人に紹介し始めた(柴田有著「グノーシスと古代宇宙論」、柴田他訳「ヘルメス文書」)。
 前出、丹生谷貴志氏は、東京芸術大学美術学部出身、とあるから、「西洋美術史」研究の視点から、グノーシス問題に近付いたのであろう。
 近年(この二、三十年来)、日本のキリスト教会関係者が、グノーシス派に論究して居るかどうか、私は、未だ、調べて居ないが。

▲  六、

◎ 「科学崇拝は、グノーシス主義的秘密組織によって、ルネッサンス期に推し進められた。この秘密組織の中心思想は、『全能』の人間の知力を介入させることによって、『欠点だらけ』の創造を『完璧』なものにするという、胡散臭いものだった。そして、このようなルネッサンスの魔法じみた伝統が原因となって誕生したのが機械と公害と醜悪に満ちた奇怪な世界(今日の西洋文明にくまなく浸透された地球)なのだ」(マイケル・A・ホフマン二世著、藤岡、村上訳「フリーメーソンの操心術」、六十八、九頁、青弓社、平成八年三月、原著題は、「秘密結社と心理戦争」、一九八九年)、

 との叙述は、きわめて興味深い。
 ここに、
 「グノーシス主義的秘密組織」なるものが登場する。
 日本語で出版されて居る関連学術文献を細大洩らさず読んで見ても、多分、
 「ルネッサンス期のグノーシス的秘密組織」なるものについて、唯の一行の説明も、発見することは出来ないであろう。
 それでは、M・ホフマンは、根拠のない出鱈目を放言して居るのか。
 そうではない。

◎ 「科学主義的[グノーシス的]哲学の下で、神を気取る人間たちが信奉する教義は、堕ちるところまで堕ちた観がある。科学主義的[グノーシス的]哲学は、人間を精神的、肉体的に完全に奴隷状態にしてしまった。人工衛星やコンピュータによる監視システムを構築したテクノロジーも、奴隷化を招く道具なのである」(前出、七十頁)、

 と、M・ホフマンは断言する。
 「神を気取る人間」、
 とのことばが出て来る。
 「全能の人間の知力」、
 これは「全知全能の神」、
 を連想させる。
 これらは、すべて、グノーシス主義の中核的概念である。
 だが、この語は、どこかで聞いたような気がするではないか。
 そうだ、
 これは、かの有名な、
 「失楽園の物語」に出て来るのだ。
 旧約聖書創世記、造物主は、エデンの楽園にアダムとイブを住まわせた。
 そこへ、蛇に化けた悪魔$サタン$(造物主に敵対する者)が、イブを、
 造物主が固く禁止した、知恵の木の実を食べて、造物主と等しいものになるように、
 誘惑した、
 イブはそれを食べ、アダムもイブに唆$そそのか$されてあとに続いた。
 そしてアダムとイブは、エデンの楽園を追い出された。
 つまり、グノーシス主義は、
 二千年前のキリスト紀元と原始キリスト教会時代に遡るのみならず、
 天地創造時に、造物主に反逆した悪魔に由来するもののようである。

▲  七、

 サタンを、日本人は、悪魔、と翻訳した。
 実際、そうする他にないであろう。
 しかし、この訳語は適切でない。
 サタンとは、もともと、神(造物主)に敵対する者、
 の意味だと言う。
 日本民族の神話、宇宙観、哲学には、
 宇宙の万物万象を創造した造物主、全知全能の唯一絶対神、
 などは存在しないし、
 従って、この造物主に反逆し敵対するサタン、
 も、あり得ない。
 しかし、「造物主」なるものが、天地宇宙の万有を創造されるお方であるとしたら、
 サタンもまた、この「造物主」によって造られたもの、となるであろう。
 これは、やや、辻褄の合わない話に聞こえる。
 西洋には、造物主に反逆する二系統の悪の流れが識別される。

◎ 一つは、ルシファーであり、
 二つ目は、サタンである。
 ヨハネの黙示録では、イエス・キリストに敵対するものとして、淫婦$スカーレット$と獣$ビースト$、と、二つ、挙げられて居る。
 ルシファーは「堕天使(文字通り、天上界から堕落し、または追放された天使)」と翻訳される。
 造物主と天使$エンジェル$はどんな関係にあるのか。
 これは、日本人にはまるで分からない。
 造物主が天地を創造された。
 天上界に、いわば造物主の助手として、天使$エンジェル$が造られて居た。
 ところが、天使長ルシファー(ルシフェル)は、天使の軍団の三分の一を率いて、造物主に反乱を起こし、戦いに敗れて天界を追放された、
 と伝えられる。
 この話しは、いわゆる聖書には書かれて居ないが、欧米では、広く流布されて居るようだ。
 ルシファーは光の天使、
 サタンは闇黒の大王、
 と言うことかも知れない。
 つまり、光と闇の二本立てである。
 造物主に対する反逆が、光と闇の二つの顔を以てなされる、
 と言うのであろう。

◎ 「グノーシス主義的思考は、高度に、二元論的である。一方に光(霊魂)があり、それは、不可視の世界、純粋な善であり、他方に、闇黒(肉体と物質)、可視の領域、純粋な悪がある、と見なす」(「天上界に於ける戦い〜 Making War in the Heavenlies」、ビル・ランドルズ著、一七五頁)、
 と説明される。

▲  八、

 善悪二元論、魂と肉体の二元論、光と闇の二元論、
 と言うのだが、これは非常に胡散臭い。
 むしろ、ここにこそ、西洋悪魔学$デモノロジー$の「極意」が潜んで居るのではなかろうか。
 悪魔、または、悪魔主義者は、
 少なくとも、二つの仮面を使い分ける。
 善と悪、光と闇の、二つの仮面を。
 ここのところが、日本人には、見えなかった。
 しかし、要するに、サタン、またはルシファーは、二つ、またはそれ以上の仮面を付けて、何をしようと言うのであろう。
 「彼」の主要目的は何なのか。
 それをしっかりとつかむことが、日本民族の生死存亡に関わる大事である。
 ルシファー、サタンの目的は、

◎ @、造物主を模倣すること、
 A、造物主によって創造されたものを偽造すること、
 B、世界を再建すること、
 C、宇宙を完成させること、
 である、

 などと、ものの本に記されて居る。
 @↓A↓B↓C、と、
 「初級」から「上級」へ、
 古代から現代へ、
 「彼」の目的は「進化」して居る。
 それを、読み取らなければならない。
 まず、模倣から始まる。
 次に、偽造する。
 更にその先、「彼」は、造物主の創造の仕事(結果)が不完全であり、欠陥だらけである、との判断に達し、従って、それを「彼」の、より高度の「知」に基づいて、「再建」しなければならない、と考えるに至る。
 そして最後に、「彼」は、己れの計画の下に、宇宙を完成させる(不完全なものから完全なものに進化させる)べき事を決定する。
 まあ、ざっと、
 こんな具合であろう。
 しかし、少し、立ち入って、考察すれば、
 まさにこれは、明治初年、大久保利通ら、日本の国家最高指導者たちが、総力を挙げて輸入することにした、「啓蒙主義的近代西洋文明」そのものではないのか。
 と言うことは、
 明治初年以来(少なくとも、西南戦争で、大久保が西郷隆盛を排除してよりのち)、
 日本の国家は、
 そして、当然、日本の学術もまた、
 ルシファーとサタンの思想計画に基づいて構築され、運営されて来た、
 となるのではないか。

▲  九、

 西郷には、なんとなく、直感的に、そのことが見えて居たのかも知れない。
 サトウルヌス、
 これは、日本人には殆ど全く知られて居ない。一握りの古代西洋史専門家以外には。
 しかし、マイケル・A・ホフマン二世によれば、旧ソ連の国旗(鎌とハンマーを描いた赤旗)は、ローマ神話の農耕の神、サトウルヌスに由来する、と言う。
 サトウルヌスは、クロノス・サトウルヌスとも呼ばれる。
 ギリシャ人はこの神をデミウルゴスと呼び、宇宙の創造者に対抗して、宇宙の運行を操作する神と見なした。
 サトウルヌスは、人知を越えた創造と造型の活動を司る。
 フリーメーソンが、「神」を、「偉大なる建設者」もしくは「建築家」に譬えて居るのは、このサトウルヌスの神話に影響を受けてのことだ(「フリーメーソンの操心術」十六頁)、
 そして、鎌は、サトウルヌス神の象徴であり、この鎌によって、天と地の一体性が切断されたのだ、(この「鎌」は、人間の自然からの分離、人間の自然からの疎外、の象徴である)、
 とも言われる。
 もちろん、幕末明治初年の(そして今に至る迄)日本人は、そんな内幕は知らない。
 ソ連の国旗の「鎌」は「農民」を、ハンマーは「労働者」を象徴する。
 つまり、全世界の労働者と農民の祖国であることをそれは示すのだ、
 などと説明され、お人好しで底抜けに無知な日本人は、そのまま、素直に、それを受け入れた。
 デミウルゴス。
 これは一体何者か。

 Demiurge$デミウルグ$、

◎ プラトン哲学では、造物主としての神、
 グノーシス教では、造物主の介助者、

 などと英和辞書に記されて居る。
 しかし、こんな説明では、日本人を迷路に入り込ませることにしかならない。

◎ 「サトウルヌス=グノーシスは、暗黒は光を含む、と教える。これは、光が存在するためには、暗黒が必須である、との意味である。そして光は、デミウルゴス=サトウルヌス、即ち、ロゴス(論理)によってのみ、暗黒のマトリックスの中に現れる[この場合、光は、暗黒を母体$マトリックス$として、暗黒の行列式$マトリックス$の中から、デミウルゴス=サトウルヌスを媒介として、出現する、の意味]」(F・スプリングマイヤー、C・ウィーラー著「イルミナティU」一六一頁)、

 との一文は非常に重要な示唆を日本人に与えてくれる。
 或いは、長い間、日本人にとって「死角」ないし「盲点」となって居た部分を、気付かせてくれる。

▲  十、

 サトウルヌスは、サターン$Suturn$とも表記される。
 サターンは、古代ローマの農耕神、天文学では土星(↓土曜日$Saturday$)、錬金術では鉛、
 と記される。
 バビロニア人は、
 サターンを「太陽の星$スター・オブ・ザ・サン$」、と呼び、
 ミトラ教の秘儀では、
 サターンは、太陽の神$the Sun of God$である【フリーメーソン第三十三階級、メーソンの最大の著述家の一人、として高名な、マンリー・P・ホールの「ザ・ロスト・ティーチングス・オブ・オール・エイジズ」】、
 とされた。
 更に、悪魔主義的秘密結社の頂点に立つイルミナティでは、
 サターンはサタンである$Saturn is Satan$、
 と定義される(スプリングマイヤー「イルミナティU」の一六〇頁)。
 とすると、
 太陽神=サタン(悪魔の大王)、
 となってしまう。
 日本人には、何とも言い様のない奇怪な話の展開だ。
 何故なら、
 この論法を、「彼ら」の立場から、日本の神話に当てはめると、
 天照大神⇔太陽神⇔サタン⇔悪魔、
 と解釈されるではないか。
 皇室が天照大神の子孫であるとすれば、
 天皇は悪魔の血筋(!)、
 とされてしまう。
 こんな見方を、日本民族は受け入れることは出来ない。
 しかし、ここには、きわめて、重大な問題が潜んで居るようだ。

◎ 文明がますます精巧になり、大地に対して、ますます多くのことを要求するようになる。
 即ち、農耕から、より多くの収穫を得ようと言う欲望が増殖する。
 この時、理性と知性のシンボル、中央集権のシンボルとしての太陽神が登場する。
 太陽神にまつわる伝説では、常に龍(即ち自然)に対する勝利が語られている(マイケル・A・ホフマン二世著「フリーメーソンの操心術」二十三頁)、
 と、我々は読む。
 なるほど、農耕の神サトウルヌス↓サターン↓悪魔$サタン$↓太陽神、
 と言う筋道らしい。
 つまり、ここに出て来る「太陽神」とは、
 或る種の人間が太陽を己れ(のみ)の欲望充足の道具として利用(征服)したい、
 との願望(疑いもなくこれは悪魔的である)を表現して居るのかも知れない。
 私は、二、三十年前(正確な日付は記憶して居ない)、
 この辺のことを、何かに書いた。
 西洋文明は、太陽の独占を思考して居るのではないか、
 との批判である。
 更に私は、西洋のキリスト教世界では、
 龍が悪魔の化身とされ、
 騎士が槍で龍を刺し殺して居る場面を描いた絵や、その彫刻が、ヨーロッパに、やたらと多い、
 それに反して、東洋では、龍はむしろ、何かしら高貴な、偉大な存在として位置付けられて居る、
 ことにも、気付いて居た(二、三十年前に)。
 龍を槍で串刺しにすることは、悪魔に唆された人間が自然を征服し、自然を破壊して、この世を地獄と化してゆく歴史過程の象徴である、
 と、前出の著作で、ホフマンは述べて居る。
 この人は興味深い。
 西洋白人で、ここまで言い切れる人は珍しい。

◆ 第三章
  西洋の神話と悪魔学

▲  一、

 昭和二十年の敗戦以前、日本人は、ごく僅かの専門家を除き、西洋の神話と無縁であった。
  日本の子供達は、日本民族の神話と昔話、民話、伝説によって育てられた。
 しかし、敗戦と亡国、占領下の五十年、
 日本人は、西洋風の神話に激しく侵襲されて居る。
 米軍は、最新式の兵器に、ギリシャ・ローマ神話の神々の名を付けて居る。

◎ アポロ(ギリシャ神話の主神の一つ、宇宙衛星)、
 タイタン(テイタンとも表記する。ギリシャ神話に最初に登場するテイタン族の名、核ミサイル)、
 ポセイドン(ギリシャ神話の海の神。原子力潜水艦から発射される核ミサイル)、

 これらの名前は、由来は抜きにすれば、日本語の中に定着してしまった。
 映画、テレビ、劇画、ゲームなどによって、日本の子供達は、西洋の神話を熟知させられ、しかも、日本の神話、伝説、昔話については何も教えられない。
 と言う、精神と魂の亡国滅亡状態に誘導されて居る(日本を占領し続けて居る闇の中の世界権力によって)。
 神話とは、神々の話、神々自身が物語り、行動する話、神々と人間の関係についての話、
 を意味する。
 従って、必然的に、その中に、
 神々の系譜(神統図)が記述され、
 人間の家系、部族や民族の系統に結び付けられる。
 神話を持たない民族は存在せず、
 自分の神話を喪った(または、奪われた)民族は、独立した民族としては滅亡する。
 日本は、今、自己の神話を奪われかけて居り、民族としての精神的根を断ち切られ、間もなく、苦悶のうちに死を迎えようとして居る。
 自分達の神話(数万年の民族共同体の暮らしの中で育まれて来た)を、まるでゴミのように廃棄し、
 そのあとに、
 西洋風の神話の中の、入念に選抜された、最も醜悪で悪魔的、破壊的で危険な断片、
 そして、ゾンビ的・ロボット的心象とが残される。
 グノーシス的、薔薇十字団的、フリーメーソン的、錬金術的なエリートが構成する「世界システム」の指導者達は、
 すべてを腐敗させ、すべてを瓦解させようとして居る。
 そのために、「彼ら」は、何千年も前から追求して来た、三つの目標を達成しなければならない。

◎ 第一、根本的事象の創造と破壊(人類最初の原子爆弾の爆発と共に、その儀式が行われた)
 第二、神聖なる王の殺害(ケネディ大統領の暗殺)
 第三、物質第一主義$プリマ・マテリア$から地球第一主義$プリマ・テラ$への転換(一九六九年、アポロ人工衛星が月に着陸し、月の石を持ち帰った)

 との、M・ホフマンの叙述は注目に値する。
 すべてを瓦解させて、
 それから何をしようとするのであろう。
 日本人の常識では、理解出来ないが。

▲  二、

 混沌を通じての秩序$Order through choos$、
 と言われる。
 つまり、すべてを崩壊させ、秩序を解体したのちに、
 新しい秩序を再建する、
 との構想であろう。
 否、
 構想と言うよりも、「神話」、とした方が良い。
 「神話」に基づいて、「脚本」が書かれ、
 しかもこの「台本」は、全人類を観客(及び、この劇の登場人物)とする舞台で上演されなければならない。
 アダム・ヴァイスハウプト(一七七六年に、イルミナティを創設した)は、
 人間を奴隷蜂と化する「蜂の秩序$ビーナン・オルデン$」、と言う概念を唱えた、
 のだそうだ(「フリーメーソンの操心術」、一六八頁)。
 これが、混沌$カオス$を通じて出現する「秩序」の正体である、と言う。
 ケネディの暗殺は、「神聖なる王の殺害」の最初のものではないだろう。
 この数千年、それは積み重ねられて来た。
 十七世紀、クロンウェルによる英国チャールズ一世の公開処刑、
 十八世紀末、イルミナティ、フリーメーソンが演出したフランス革命による、ルイ十六世の公開処刑、
 十九世紀末から二十世紀前半にかけての、幾人かの米国大統領及び米国政治家の暗殺、
 一九一八年、ソ連共産政権(その指導者の約九十五パーセントはユダヤ系)による、ロシア皇帝一家の殺害、
 などのあとに、
 一九六三年十一月、超大国と、自他共に認める米国の大統領が、全世界の公衆の面前で、闇の中の世界権力によって公開銃殺された、
 のである。
 この場面がテレビで放映された晩、アメリカ人は本当に落ち込んでしまった、
 そしてそのあと、急激な、そして非常に深刻な、米国人の士気の崩壊が生じた、
 と、ホフマンは述べて居る。
 新しい、不気味な「神話」が、今、人類の目の前で、全人類を巻き込みながら、創作されて居る、
 と言うことらしい。
 しかしこれを、「新しい神話」、と呼んでしまって良いのか。
◎ 「悪魔主義はきわめて古い、そしてそれは、歴史【これは、人類がこの世に出現して以来の歴史、のことか?】の始まりから現在に至る迄、ずっと、歴史の中に充満して居る」(F・スプリングマイヤー著「Be Wise as Serpents」第一部十七章、一九九一年)、
 とも言われる。
 日本の神話には、こんなことはない。
 しかし、西洋の殆どすべての(否、もしかすると、すべての)神話は、
 悪魔で充ち満ちて居る。

▲  三、

 ギリシャ神話によれば、人間の住むようになった世界は、

◎ @、黄金時代^:^無邪気と幸福の時代、真理と正義が行き渡る時代、人々は自然の恵みによって生きる、
 A、銀の時代^:^四季が生じ、家屋が必要となり、農耕と牧畜が始まる、
 B、真鍮(青銅とも言う)の時代^:^
 C、鉄の時代^:^悪がこの世に満ち、地上は殺戮の血で浸され、神々は地上を見捨てた。ゼウスは怒り、洪水によって全住民を滅ぼし、もっと厚く神々を崇拝する、新たな種族を地上に置く、との計画を実行する。

 と言う、四つの段階を推移した(岩波文庫、ブルフィンチ作、野上弥生子訳「ギリシャ・ローマ神話」三十四〜七頁)。
 ギリシャ神話は、西暦紀元前五世紀頃までには完成され、保存されて居た(或いは、人々の中で生きて居た)と、学者は考証して居る。
 疑いもなく、
 治金(金属精錬)の技術を人類の一部が開発した(真鍮または青銅時代)、
 それから、この地上は地獄と化してゆく、
 との歴史認識、ないし、人間の自己診断がなされて居る。
 近代西洋の、いわゆる科学的実証主義的歴史学は、人類史の変遷を、二つの型で分類する。
 即ち、
◎ 第一類^:^人間と自然の関係がどのように変化するか。人間の自然に対する支配がどのように発展するのか、の視点による分類
◎◎ @、狩猟採集時代→「黄金時代」に相当する
 A、遊牧牧畜と初歩的農耕の時代→「銀の時代」に相当する
 B、農耕(牧畜を含む)が高度に発展する時代→真鍮、鉄の時代に相当する
 C、工業時代
 D、脱工業化・情報時代

◎ 第二類^:^主要な道具の材料による分類
◎◎@、旧石器時代→黄金時代
 A、新石器時代→銀の時代
 B、金属精錬による金属器時代
 (甲)青銅器時代→真鍮(青銅)時代
 (乙)鉄器時代→鉄の時代
 C、エレクトロニクス及び生命工学などによる次の時代が云々される

 黄金時代から鉄の時代に至る人類文明の発展ないし堕落についての歴史観が、ギリシャ人によって形成されたのは、いつ頃のことなのか。
 「ゼウスが青銅時代の人間を滅ぼそうとした時……」(岩波文庫、アポロドールス著、高津春繁訳「ギリシャ神話」、四十一頁)、
 とあるのは何のことか。
 神々が、人間の堕落を憤怒して、大洪水で滅亡させたのは、青銅器時代の人間のことで、
 そのあとに出て来た人間は、鉄器を造り、そのことによって、更にこの地上は悪一色に塗り潰された、
 と言うことになる。

▲  四、

 何か、この「神話」は、救いのない印象だ。
 つまり、
 「文明(人工)の進歩」は、
 この世を地獄に導き、
 その結果、
 人類は滅亡する。
 その筋書きである。
 文明(人工)が「進歩」すればするほど、
 この世は悪で満たされ、
 遂に、人類は滅亡する。
 三十年以上前に、「ギリシャ神話」を解説した串田孫一さんは、

◎ ギリシャ神話の神々や登場人物に共鳴できない、
 彼らは、たいがいは、非道徳的な行動ばかりしている、これほど悪いことを堂々と語った物語はない、
 これは理屈にあっている物語ではない。(筑摩文庫「ギリシャ神話」十四、五頁)

 と書いて居られる。
 串田さんは大正四年生まれ、
 この世代の日本人ならそうであろう。
 デイヴィッド・デイの「トールキン指輪物語伝説」(塩崎麻彩子訳、原書房、平成八年六月、原著は一九九四年)、
 これは、注意深く検討すべき、読み応えのある著作だ。
 著者のデイヴィッド・デイは、トールキンの神話学、遺稿の出版に尽力して来た。「トールキン指輪物語辞典」も出して居る(日本語版、原書房)、
 とある。
 古代西洋(北欧、英国、ゲルマン、ギリシャ・ローマ、旧約聖書・ソロモンの伝説)の神話は、権力と富の象徴としての指輪の争奪を中心に組み立てられて居る、
 との見方が示される。

◎ 「トールキンは、指輪探索に見られる鉄器時代のメンタリティが世界中に引き起こした荒廃を目にして、指輪探索を二十世紀のために根本的に作り直すことにしたのだ。彼は探索を逆転させることによって、これをなしとげた。魔法を逆さにすることによって、力の指輪は『消滅』させられる。探索にあたる英雄は、指輪をわがものにすることなく、それが作られた奈落に投げ捨てることによって、指輪を破壊するのだ」(前出、二四〇頁)、

 と、デイ氏は解釈する。
 英国「オックスフォード大学教授」による、意味深長な御託宣ではないか。

▲  五、

 「悪魔学$デモノロジー$」には、五冊の「古典」がある、と言われる(「魔術$ウィッチクラフト$とイルミナティ」、一九八一年、米国、著者の表記なし)。
 即ち、

★ DMN_03A.JBH

 JRRトールキンの「指輪物語」は、トールキン自身の著述ではなくて、「影の書$ザ・ブック・オブ・シャドーズ$」の「創造」の部分を書き写した$コピー$ものである(前出、二十八頁)、
 と書かれて居ることを、私は発見した。
 英国オックスフォード大学アングルサクソン語教授、トールキンとは、何者か。
 彼は単なる「学究の徒」ではあり得ない。
 オカルト(悪魔学)の五冊の古典のうち、「カバラ」を除く、他の四冊は、その名前さえ、世間には知られて居ない。
 私自身も、目にしたことはない。
 トールキンが、「指輪物語」を書き始めたのは、一九三七年、
 そして、出版されたのは、一九五四年、
 と記録される。
 とすると、彼は、
 オックスフォード大学に入学したときから、一九三七年に至るまでのどこかの時点で、
 或る種の悪魔学$デモノロジー$的秘密結社に加盟して居る、
 との推測が成り立つ。
 イルミナティのそれぞれのcoven$カヴン$【「魔女の集会」と訳されて居るが、これは、イルミナティの秘密の館、を示すのであろう】は、何冊かの極秘の文献を収納して居り、その館$カヴン$の指導者と、文書管理者だけがその存在を知って居る、
 それらの秘密文書の一冊が、
 手書きの「影の書$ザ・ブック・オブ・シャドーズ$」、
 とも記述される(F・スプリングマイヤー「イルミナティ」Uの二〇四頁)。
◎ 「幾つもの時代の書$ザ・ブック・オブ・エイジズ$」(上等な皮革に書かれた、イルミナティの人名録)、
 「幾つもの世代の書$ザ・ブック・オブ・ジェネレーションズ$」(イルミナティの十三家族の系図を示したもの)
 も、そこに含まれる(前出)、
 と、スプリングマイヤーは教えてくれる。
 この記述を信用するならば、
 トールキン教授は、明らかに、「イルミナティ」の内側の人物であり、
 しかも、「極秘文書」の一冊、「影の書」を、一般大衆向けに(と言うよりも、大衆への心理操作のために)書き直す、非常に重要な任務を与えられた、高級幹部の一人、
 と見ることが出来る。

▲  六、

 西洋(ここには、ウラル山脈以東のヨーロッパ全域、地中海一帯、北アフリカ、いわゆる中近東、と呼ばれる、西南アジア・アラビア半島などが含まれる)の神話は、
 西洋文明の原核である。
 但し、ヨーロッパ人は、西洋をヨーロッパに厳密に限定する。中近東(小アジア、西南アジア)は、彼らにとっては、「東方$オリエント$」であり、「アジア」である。
 この見方を一応、採るとすれば、
 西洋神話とは、
 ギリシャ神話(ローマ神話は、ずっと後代になって、ギリシャ神話を材料として適当の創作翻案された)、
 北欧神話、
 ケルト神話、
 ゲルマン神話、
 その分派としての英国(アングロサクソン)神話、
 などを意味する。
 これらの神話は、
 青銅と鉄で作られた武器による、
 赤裸々な弱肉強食、
 の物語である。
 善も悪もない。
 強い者が勝ち、敗者を血の海に沈め、また奴隷とし、財宝を収奪する、
 それだけのことだ、
 とも言い切れない。
 勝者もまたある日権勢の絶頂に達し、それから、自滅の坂道を転げ落ち、
 終末の時がやって来るのである。
 彼らは、狩猟を主たる生業$なりわい$として来た、
 野生鳥獣を殺す技術体系は恐らく「世界最高水準」を究めたであろう。
 そのような彼らが、金属器を武器とすることを知った。
 それを以て彼らは畜産業に乗り出し、
 それから忽ち、互いに殺し合いを始めた。
 その有様は、彼らの「神話」の中に、目を蔽うばかりの徹底的な残忍残虐さで、十二分に詳述されて居る。
 しかし、彼らの神話は、それを、残虐とも、悪とも見ることはない。
 強者こそ英雄であり、
 強者の中の強者が、神々である。
 そこに「道徳」など存在する余地はない。
 勝者の栄誉と繁栄、そして傲慢と自己顕示、敗者弱者に対する軽侮の感情、
 敗者の屈従と滅亡、及びそこから生まれる妬み、怨念(ルサンチマン、と言う、有名なことばがある)と復讐の念、
 それ以外に何もない。
 そしてそれこそ、疑いもなく、西洋文明の原核なのである。
 この動かし難い歴史的真実を、
 日本民族は理解出来なかった。

▲  七、

 だが、この「原型」は、時々刻々、その形を変える。
 その推移を認識することが重要だ。
 アルビン・トフラー(米国ユダヤ人)は、この数千年来、

◎ @、暴力ないし筋力、武力を基盤とした権力^:^農業牧畜経済に照応する
     ↓
  A、金$かね$(貨幣、黄金、金銭、金融、貿易・通商……)を中心とした権力^:^商工業経済に照応する
     ↓
  B、情報を中核とした権力^:^二十世紀後半に始まり、進行中

 と言う順序で、権力$パワー$が移行$シフト$した、ないし、しつつある、
 と宣告する(「パワー・シフト」)。
 こんな具合に、「理路整然」と説明されて、
 なんとなく、ひどく嫌な気分になる。
 情報権力時代に移行するのは人類史の必然的法則である、
 つまり、何人もこの流れに逆らうことは出来ない、
 と言われて居るようのだ。
 少し前までは、
 原始共産制→奴隷制→封建制→資本制、
 そしてそれからより高次の共産主義社会へ、
 これが、人類史の必然的発展段階である、
 従って、資本主義から共産主義への移行は社会科学的必然であり、人類の進歩の大道である、
 などと言う、マルクス主義のイデオロギーが流行して居た。
 この宣伝$プロパガンダ$文句が信用を失墜して、今度は、情報化社会と情報権力時代への移行こそ歴史の法則である、
 と言われる。
 上手く表現出来ないが、
 空々しい、或いは空しい、のである。
 ここには、
 神々が、
 神が、
 仏様が、
 出て来ない。
 もしかすると、この種の「人類史」の主役は、
 「悪魔」ではないのか。
 悪魔学$デモノロジー$こそ、マルクスの唯物史観、トフラーの新型史観、等々の、影の起動力なのでかも知れない。
 ここでは、既に、悪魔が、神を追放して、自ら、全知全能、絶対的主人の座について居るのかも知れない。
 今、闇の中で全人類を支配して居る世界権力は、
 「オリンポスの神々」、
 「オリンピアン」、
 と自称して居ると聞く。
 これはきわめて興味深い。

▲  八、

 F・スプリングマイヤーは、悪魔主義秘密組織の頂点$イルミナティ$から脱会した人々との対談と、彼自身の調査に基づき、一九九二年から一九九九年までの、艱難$Tribulation$の七年間に関する「イルミナティ」の作戦計画を、次のように掲示して居る。

◎^(1)^彼ら$イルミナティ$がプログラムした人々(イルミナティの心理操作工作によって、指令通りに行動すべく訓練飼育された人々)全員を召集する。
 ^(2)^同性愛現象が目に見えるかたちで顕著に増えて来る。
 ^(3)^社会主義が強化される。
 ^(4)^黒い寡婦=悪魔主義作戦、と呼ばれるものが最終段階に推し進められ、すべての秘密を手に入れ、そして、すべての権力にある人々を殺害し、もしくは彼ら自身の陣営の人物をその地位に着けさせる如く、行動する。彼らの陣営に属さないすべての国の政府指導者が攻撃の標的とされる。すべての国の政府が、潜入的浸透の標的となる。
 ^(5)^原子力発電所は彼らの統制下に置かれる。
 ^(6)^核兵器は国連に類する機関を通じて、彼らの支配下に置かれる。
 ^(7)^既に倉庫に貯蔵されて居る毒入りのヴァン・ダイン【これは、米国の著名な菓子製造会社のことか?】キャンディーが、子供たちを殺害するために放出される。
 ^(8)^(米国の)連邦政府建築物と(米)連邦の文書記録が破壊の標的とされる。
 ^(9)^人間のあらゆる種類の行動に対する統制が増強される。
 ^(10)^悪魔主義者が人民の忠誠度を測定するために実施する訊問を促進すべく、特殊な、無味の自白剤が公共水道水の中に投入される。悪魔主義的秘密陰謀集団の者たちのための解毒剤が既に用意されて居る(この項も、きわめて重大だ)。
 ^(11)^無政府状態が全般化する、周章狼狽の時代。
 ^(12)^異星人の来襲(これは「イルミナティ」に演出されたものであろう)。
 ^(13)^第三次世界大戦。
 ^(14)^もう一つの中東紛争。
 ^(15)^南米で、麻薬戦争が実弾を発射する戦争に転化する。それは、未だ紙の上では維持されて居るごく僅かの市民権をも取り上げるために利用される。
 ^(16)^ジュピター【これは、ローマの雷神のことだが、米国製の核ミサイルの名前でもある】が、それを運搬する人工衛星によって爆破される、その有様はまるで太陽のようだ。そしてそれは、ルシファーが権力を掌握することを示す天空に煌$きら$めく兆しとなる。
 ^(17)^経済は破壊される。
 ^(18)^現金なしの、完璧に管理された社会が造出される。
 ^(19)^ ヨーロッパの権力が復活させられる。エルサレムは、悪魔$サタン$が君臨する場所として準備される。
 ^(20)^単一の世界国家への道を整えるために、十の地域国家が作られる。
 ^(21)^疫病。
 ^(22)^世界人口の削減。
 ^(23)^本物のキリスト教徒の根絶。
¥(「ヘビの如く聡$さと$くなれ$ビー・ワイズ・アズ・サーパント$」、第二章十二節)

 以上、二十三項目、
 これは容易ならぬ内容だ。
 これが一九九九年迄に実現される、とも、今のところ、思えないが。

▲  九、

 けれども、確かに、この筋書きには、或る種の「神話」の匂いがある。
 そしてそれは、
 「本物のキリスト教徒の根絶」、
 によって、完結することになって居る。
 して見ると、
 「イルミナティ」と称される悪魔主義$サタニズム$的、悪魔学$デモノロジー$的集団の神話と、
 イエス・キリストの「神話」(と敢えて表現する)とは、
 著しく葛藤し続けて居るもののようだ。
 つまり、西洋の神話(に基づく筋の展開)は、現に進行中、
 と見ることが出来る。
 この辺に、「西洋」の「急所」が潜んで居るのではなかろうか。
 「神話」と言う日本語は、myth$ミス$、mythos$ミュトス$と言う、英語、ギリシャ語に対する明治人の翻訳であるが、未だに日本人の言霊意識に定着せず、フワフワと漂って居る。
 ミュトス$mythos$は、古代ギリシャ語に由来し、或る人間集団、社会の意識、行動の基準となる信条、制度の複合体の意、
 と英和辞書に出て居る。
 この定義は、西洋に於ける厳密な学術的文章から取られたものであろう。
 しかし、今(敗戦占領下、の意味だが)、日本人の殆ど全員、
 「神話」の語を、
 右のように理解しては居ない。
 むしろ、「神話」とは、

◎ @、昔々大昔の人達の、無知迷信のかたまり、
 A、荒唐無稽、架空の作り話、
 B、科学と合理性の発達した現代では、一文の値打ちもないバカ話、

 と言った具合に、きわめて否定的な(及び、軽蔑的愚弄的な)意味で受け取られて居るのではなかろうか。
 だが、西洋陣営は、決して、そうではない。
 「エルサレムが悪魔$サタン$の君臨する場所として準備される」、
 とは何のことか。
 エルサレムは、いわゆるヨーロッパ大陸ではない。
 エルサレムは、まず、ユダヤ教、次にキリスト教、そして最後にイスラムの「聖地」となった。
 この三つの宗教は、八百万の神々を崇敬する日本人の立場から見れば、理解し難い、
 「排他独善的一神教」、
 と批評されることも多い。
 それ故、この三者は、幾多の共通点を持ちながら、絶対に相容れない間柄であるらしく、イエス・キリストが十字架に磔$はりつけ$られてから二千年近く、三者の宗教戦争によって、膨大な血が流されて来た。
 しかし、
 それにしても、
 全人類を大量に虐殺して、世界人間牧場に人類大衆を狩り立てることを意図する、「イルミナティ」と称される「悪魔主義的秘密結社」は、
 前述の三つの一神教と、いかなる関係に位置するのであろう。

▲  十、

 「イルミナティ」は、日本人が常識として教えられて居るような、ユダヤ教(旧約聖書、「トーラー」を信奉する)とも、キリスト教徒も、イスラムとも、全く違う。
 しかし、それでは、
 日本人は、「イルミナティ」について何も知らないか、と言うと、それも違う。
 一五一七年、ヨハネス・ロイヒリン【ドイツの古典学者、人文学者、カバラ学者、一四五五〜一五二七年】の「カバラ的技法」が出版された。
 同時期の錬金術師、カバラ学者、ピコ・デラ・ミランドラ、
 近代フリーメーソンの創始者で、英国$イングランド$エリザベス朝の宮廷占星術師ジョン・ディー、
 こうした人々(「イルミナティ」と深く関わって居る)が基礎を作った「近代西洋科学」を、明治以降の日本は、諸手を挙げ、大いなる感度と感謝、感激を以て、受け入れ、そのことによって、無意識のうちに、近現代日本は、カバラ主義の影響(呪縛)の下に置かれて居る。
 カバラ主義とは最も高度な科学である(十六世紀北イタリーの医者、カバラ学者、アブラハム・カゲル)、
 そしてゴーレム【人造人間を意味するヘブライ語、タルムードに出て来る】の創造は、カバラ主義科学の目標の一つであり、
 「人間は神と同等である、いやむしろ、神よりも優れて居る」、
 とのカバラの主張の実証でもある(M・ホフマン「フリーメーソンの操心術」一七五頁)。
 ユースタス・マリンズは、このあたりの事情について、

◎ @、十五世紀後半、イタリーの黒い貴族ゲルフ家の有力金融財閥コジモ・デ・メディチが、フィレンツェ市に、新プラトン学派の学院を設立した。
 A、一四八六年、カバラ学者のピコ・デラ・ミランドラがこの学院に招かれ、人間こそこの宇宙の中心である、との新プラトン主義「哲学」を説いた。
 B、ミランドラのあとを、ヨハネス・ロイヒリンが継ぎ、「キリスト教カバラ主義」、即ち、カバラのキリスト教版を普及させた。
 C、「イルミナティ」は、この十五、六世紀のカバラ主義→新プラトン主義→ルネッサンス世俗的ヒューマニズム→近代科学の流れの、最終局面である。
 D、この「イルミナティ」秘密結社が、密かに、フリーメーソンを指揮して居る。

 と説明する(「カナンの呪い」七十一〜三頁)。
 人間は神よりも優れて居る!
 この命題は、日本人の知らされて居るようなものとしてのいわゆる「ユダヤ教」ではない。
 旧約聖書(ユダヤ教では「トーラー」と言う)のどこに、そんなことばがあるだろうか。
 よく考えて見ると、
 確かに、それらしき流れが旧約聖書に存在した。
 それは、
 なんと、
 エホバの神に反逆する、
 「悪魔」の系譜であった!
 つまり、ここには、
 「神話」ならぬ、「悪魔の神話(?)」、「悪魔を主人公、主役、とする神話(?)」、
 と言う、奇怪なものが潜んで居る。

◎ 「古代のmagi【古代ペルシャのマギ僧族】の秘密$オカルト$科学は、古代の秘儀$ミステリー$の影によって隠蔽された。それは、グノーシス派によって、不完全なかたちで開示された、或いはむしろ無様なかたちにされた。……そしてそれは、フリーメーソン最高階級の儀式の中に、浸透し難く見える謎に包まれて、発見される」
◎ 「モーゼは、それを純化し、それに再び覆いをかけた。……彼はそれを新しい覆いをかけ、それを、神聖なるカバラ$the Holy Kabalah$と言う、イスラエルの民のみが所有する遺産たらしめ、その祭司階級の神聖不可侵の秘密ともした」
¥(アルバート・パイク著「道徳$モラル$と教義$ドグマ$」、八三九〜四〇頁、フリーメーソン第三十二階級のための教課)、

 とは何のことか、
 分かったような、分からないような言い方だ。
 しかしともかく、
 カバラ(Kabalah, Cabala)が、モーゼに由来する、門外不出、イスラエルの民と、特にその祭司階級のみに秘伝とされる秘教である、
 との趣旨はパイクによって明言されて居る。
 トーラー(モーゼ五書)の他に、秘学秘教秘儀が存在する。
 悪魔学$デモノロジー$の一大源流がこれであったのだ。
 因みに、日本人は、米国史上の重要人物としてのアルバート・パイクの名前を全く教えられて居ないが、彼は、現代米国史上、れっきとした「公人」である。
 彼の堂々たる巨大な立像が、米国の首都ワシントンDCの都心にそびえ、
 更に最近、
 米国連邦準備銀行$FRB$は、新しい百ドル紙幣の透かし絵部分に、アルバート・パイクを登場させた、
 のであるから。

◆ 第四章
  西洋神話と西洋哲学の連続と非連続

▲  一、

 「西洋哲学史」なるものに、私は、この五十年来、触れて来た。
 最初に読んだ本格的な著述は、ヘーゲルの「哲学史」である。昭和二十五年頃のことだ。
 最近は、「ゾフィーの世界」(NHK)が日本では評判だ。
 しかし、少なくとも私には、まるで面白くない。最初の一頁から最後の一行まで、ただただ、空虚で空しい。
 一体これは何故であろう。
 翻訳物も、日本人の哲学者によるものでも、大前提は、
 西洋の神話(後世のキリスト教ヨーロッパでのキリスト教「神学」ではない、念のため)と、
 西洋哲学とを、
 明確に切断して、全く無関係、別のものとして処理すること、であるようだ。
 ここに、日本人にとっての「西洋哲学史」なるもののつまらなさ(時間の浪費、としか思えない)の原因があるのではなかろうか。
 ヨーロッパの大学は、最古のもので一千年の歴史を誇って居る。
 そこでは、ラテン語が国際公用語であり、従って、必然的に、学生は、古代ローマの古典を、ラテン語で読む。
 十二、三世紀頃からは、ギリシャ語の古典を読むようになった。
 大学への予備校としての中学校では、古代ギリシャ語が必修とされる。
 学生と知識人にとって、ギリシャ語の古典と神話は共通の常識であり、文化と文明の土台なのである。
 この事情は、多分、今日でも変わらない。
 つまり、西洋の知識人の精神に於ては、西洋哲学は西洋神話と切れて居ない、
 両者は、一体となって西洋文化を育てる。
 西洋哲学がどんな代物であったとしても、
 西洋人の間では、意味は明確であり、それと自分の位置関係もはっきりして居るであろう。
 しかし、日本人はそうは行かない。
 ソクラテスは神を信じて居ない、
 と、アテネの法廷に告発され、引き出された。
 だがソクラテスは、
◎ 自分は、退廃しつつあるアテネを覚醒させるために、神から市[アテネ]に#くっつけられた#者[と、この日本語訳者は訳した]である。
 だからこそ[神が自分に使命を課したので]、自分は終日、到る所で、諸君に付き纏って諸君を説得し非難することをやめないのである(岩波文庫「ソクラテスの弁明」四十頁)、
 と「弁明」した。
◎ 「諸君、この種の人間は容易にまたと諸君の前に現れないであろう」(同上)。
 多少とも教養のある西洋人なら、この場面を決して忘れない。
 それほど、有名であり、有名であるのみならず、きわめて深刻で、根本的な精神的問題を提起して居る部分である。

▲  二、

 フィロソフィー$Philosophy$、と言う言葉に、明治の日本人は、お目にかかった。
 古代ギリシャ語で、知を愛する、愛知、の意味だと言う。
 しかしこれは日本語にしっくりと来ない。
 Philo$フィロ$(愛する)、
 Sophy【Sophist$ソフィスト$は、古代ギリシャ語の詭弁家、詭弁学派、修辞家だが、Sophyは、単なる知、なのか】(知)、
 この二つを結び付けて、
 フィロソフィー、の語が出来上がる。
 ソフィー(知)と、グノーシス(知)は、どう違うのか。
 ソクラテスの生きて居たアテネに、ソフィスト(弁論術を教える修辞学の教師)が隆盛であった。
 ソクラテスは、ソフィストの一員、とも言われたようだ。
 しかしそれは違う。

◎ 「プラトンの数ある対話篇は、ただ一つを除けば、すべてソクラテスをその中の人物の一人、しかもたいてい主人公としているが、それらの中においても、本巻に収められた『ソクラテスの弁明』とその続篇とも称すべき『クリトン』とは、『ファイドン』と共に、この古典史上類なき人格の、人類の永遠の教師の生涯における最も意義深き、最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも称すべき不朽の名篇である。思うにプラトンはソクラテスの生と死において真の哲人の何たるかを体得したのである。」
◎ 「ソクラテスの教説はプラトンにとってはソクラテスの行為によって始めてフィロソフィヤとなった。」(岩波文庫、久保勉訳「ソクラテスの弁明、クリトン」、解説、一〇一頁)、
 と書かれて居る。
 西暦前五世紀、都市国家アテネは、ペルシャの大軍を破って、繁栄と栄光の絶頂に達すると同時に、間もなく、衰退と没落の道を転げ落ちてゆく。
 ソクラテスはアテネの衰亡期の人であり、毒薬を飲んで獄死した。
 前四世紀、プラトンがそのあとを継ぎ、アリストテレスと、マケドニアのアレキサンダー大王による大帝国が出現する。
◎ 「アテネの思想家達は全く、最初の現代人と言ってよい。彼等の考えた疑問は今尚我々の考える疑問である。」(北川三郎訳「世界文化史大系」第四編第二十二章「人間社会に於けるギリシャ思想の意義」)、
 と、H・G・ウェルズは批評した。
◎ 「彼等は疑問を起こした、そして何等の解決にも達しなかった。」
◎ 「而して今日の我々もギリシャ人のこの疑問の大部分に対して未だに其解決を獲得し得たとは称せられない。」(同上)、
 とのH・G・ウェルズの言は、西洋人の常識であろう。
 前出、岩波文庫の久保勉氏の解説は、この「西洋人」の常識の、要領の良いまとめである。
 しかし、それは、我々日本人にとっての「常識」であろうか。

▲  三、

 現代は、西暦前五、四世紀のアテネから始まる。
 これが、いわゆる西洋文明圏では、問答無用で通用する。
 この命題は、確かに、西洋では、史実によって証明されるように、見えないこともない。
 この時期のアテネ【ギリシャ語では、アテーナイ、と表記される】で、
 何が生じたのであろうか。
 神話(ミュトス、ミス)からの、人間理性の独立である、
 と、「西洋哲学史」(そして同時に、西洋の文明史、西洋の科学史と技術史、西洋の……)は言う。
 日本の専門学者は、それを読んで、そっくりそのまま、日本語に書き写し、教室で学生に講義して来た。
 しかし、それで良いのか。
 人間理性、
 こう、翻訳してしまうと、一向に分からない。
 むしろ、
 人間の意思、とした方がましであろう。
 人間の意思が、神話から独立するのである。
 H・G・ウェルズが、
 かの「アテネ」から現代が始まる、
 としたとき、
 その核心は、
 己の「意思」を全宇宙に押し付ける(強制する、貫徹する、……)如き、
 そのようなものとしての現代人の原型が、
 アテネに誕生した、
 と言うところに存在する。
 このようにはっきりした形で表現されると、日本民族は、西洋文明(西洋哲学)に、ついて行けない。
 ついて行く日本人も、少々は居るかも知れないが。
 ウェルズの、
◎ 「彼等[アテネの思想家達]は疑問を起こした、そして何等の解決にも達しなかった」、
 との一句は非常に意味深長だ。
 我々現代人「ウェルズはこの「世界文明史」を、第一次世界大戦後、一九二〇年代に出版して居る]は、丁度、今やまさに、アテネ人が提出した疑問を解き、問題の全面的解決の端緒をつかもうとして居る、
 と言う趣旨のことを、彼は記述した。
 これは単なる一作家、一著述家の放言ではなさそうだ。
 ものの本によれば、
 H・G・ウェルズは、一八九〇年代に設立された「オリンパスの神々$オリンピアン$」と自称する、闇の中の世界権力(「三百人委員会」)の、正式会員の一人、
 とされるのであるから(J・コールマン博士「三百人委員会」)。

▲  四、

 東洋では、西洋で言われるような、人間理性と神話の分裂、人間精神の神話からの独立、は、実現しなかったのであろうか。
 西洋人には、何としても、そこの所が分からない。
 書道家の石川九揚氏は、
 秦の始皇帝の時代に、

★ ^<^一^>^<ここのところ大文字で>

 の字が成立した、
 そしてそこに於て、象形表意文字としての漢字が、神話世界から独立し、
 合理的に、^<^一^>^を土台とした、漢字体系が構築され始めた、
 との説である(日本経済新聞、平成八年七月三十一日夕刊)。
 西洋(エジプトとメソポタミヤを含む)では、象形表意文字が、この一線を越えることに失敗して消滅し、アルファベット音写文字・表音文字の次元に転落して行った、
 と、石川氏は言われる。
 これは非常に深い洞察だ。
 中国の歴史書は「史記」から始まるが、ここには、天地生成と中国人の始原を描く神話が記録されて居り、三皇五帝に続き、更に歴代王朝へとつないでゆく。
 人間は神話と切断されては居ない。
 人間は宇宙と切れて居ない。
 そしてそのことは、「文字」それ自身によって裏付けられ、位置付けられて居る。
 中国の文字は、神話の中から生まれたが、人間精神と人間の作る文明は、宇宙の道理と秩序の中に、然るべく位置付けられて居る。
 実際、漢字の起源は、宇宙の理法を専断する易卦に因る、とされる。
 漢字は、めくら滅法、出鱈目、思い付きで造られては居ない。
 六義、または六書、と言って、
 第一に指事、第二に象形、第三に形声、第四に会意、第五に転注、第六に仮借、
 六つの造字法で組み立てられ、
 篆書、隷書、草書、行書、楷書、
 と、五体の字類あり、
 書の数によって、一畫から二畫、三畫と順次、進展する。
 一畫は、一$いち$部(ー、丁、七、……)、^ー^$たてぼう$部(中、串、……)、ゝ$てん$部(丸、丹……)、ノ$の$部(及、久、……)、乙$おつにょう$部(九、乞、……)、*$はねぼう$部(了、予、……)、【**はねぼうはワープロ文字の中にありません、もし必要ならば作りますけど、あまりきれいではありません。畑田**】
 二畫は、二部(二、干、云、五、……)、*$なべぶた$【同上】(亡、亢、……)、*【同上】$にんべん$(仁、今、介、……この部首に属する字は非常に多い)、*【同上】$にんにょう$(元、允、兄、……)、入$いりがしら$部(内、全、両、……)、八部(公、六、共、……)、*【同上】$うかんむり$(冗、冠、……)、ン$にすい$部(冬、冲、……)、
 と言う風に、理路整然と組み立てられる。
 最盛期、明清期(日本では、室町期、戦国期、織豊、江戸期に当たる)には、漢字の字数は十万を超え、
 かつての日本では、ある程度の文人、知識人は、一万字前後は読解出来た(今、小学生は約一千字、高校を出ると、平均、二、三千字は読み書き出来る)。

▲  五、

◎ 「エジプト象形文字は、この均一な太さの『字画文字』段階に転ずることができず、音写文字、アルファベットに敗北して、西欧は無文字的、音声言語中心型文化圏として、東アジアとは異なった歴史を形成してきた」、
 と、石川九揚氏は言われる。
 西暦紀元前二千年、エジプトの前に、既に、シュメールの楔$くさび$形表意文字を持つ文明が、好戦的軍国主義的な、遊牧牧畜軍事侵略集団によって滅ぼされて居る。
 アルファベット、
 と言うことばは、シュメール文明を滅亡させた、セム族系アッカド人が、シュメール文字を断片化して作った二十四の省略記号文字(アッカド文字)の呼称に由来する。
 エジプトの象形文字文明は、シュメール人より、約一千年、生き延びることが出来たようだ。
 アッカド文字からフェニキア文字へと、
 著しい退廃と劣化、精神の愚鈍化が進んだ、
 と、今や、日本民族は、認識出来る。
 フェニキア文字からギリシャ文字、そして、ローマ字(これを、ヨーロッパ人は共用した)へと、西洋の文字は地獄に向かって転落した。
 と言うよりも、
 この表音アルファベット文字によって、
 西洋文明は悪魔主義の暗黒界に突進してゆくのである。
 それは言い過ぎではないか。
 それは誇大な言いようではないのか。
 と、見えるかも知れないが、そうではない。
 アルファベット文字(二十余)は、文字の記号化である(記号化とは、文字としての劣化への傾向である、つまり、文字として、生成発展の逆、衰亡と崩壊、死滅への過程である)。
 表音文字、音声文字、
 と言われるように、アルファベット文字は、
 言葉の意味と切断されて居る。
 これはひどく不吉だ。
 これは紛れもない、凶兆である。
 そのことに気が付くのに、
 日本民族は、
 四百五十年を必要とした。
 ^<^工^>^の字は、仮借(仮**外字:籍から竹冠を取る**(no114))法に因る。
 上の^<^一^>^は天の意、下の^<^一^>^は地の意、縦の^<^^│^^>^は人の義。即ち、万物の霊長たる人間が天地間に介在中立して居るの意であって、工字の義は至って深長である。故に王、巫、の如き人にして重大なる任務を有する義にこれを用うる。規矩の矩は元、**外字作成**に作り、又工に従う。天地人の三徳を以て中正を得るの意である。「五體字類」巻末「六義解」十五、六頁)、
 と、大槻文彦先生は説明される。
 英語(ないしは、アルファベット文字を使用する任意の言語)はこれをどう表現し得るか。

▲  六、

 西洋では、文字は、

◎ @絵文字↓A象形文字↓死滅、

 との道を進んだ。
 この崩壊の跡に、

★ ↓

 ↓^(イ)^象形文字の断片から、表音文字が作られた。しかし、必然的に、この表音文字で表記されたことばは、多義的であり、混乱を極め、人間社会の秩序を破壊してゆく。

 ↓^(ロ)^絵文字の断片から、各種の象徴が作られ、それは、魔術、魔法、悪魔学のための道具となった。

 と見ることが出来る。
 日本民族は、悪魔主義者ザビエルの侵入以来、
 表音文字による言語(ポルトガル語、ラテン語、オランダ語、そして英語、……)を、あれこれと弄くり回して来た。
 しかし、今の今まで、
 西洋人の言語表記の、きわめて重要な役割を果たして居る、もう一つの系統、
 即ち、象徴文字(象徴学)、とも言うべきものが、殆ど、視野に入って居ない。
 西洋では、シュメール文明とエジプト文明が、周辺の野蛮な遊牧牧畜民の暴力によって死滅したあと、
 表音文字は秩序を崩壊させるが、
 象徴文字は、秩序(この秩序に、神の秩序と、悪魔の秩序? とがある)を形成するのである。

 これに反し、
 東アジアでは、

◎ @、易卦文字
    ↓
 A、象形文字
    ↓
 B、六義(指事、象形、形声、会意、転注、仮借)の造字法によって組み立てられ、生成発展する漢字体系

 と、完成の道を進んだのである。
 つまり、漢字は、

◎ @、神聖性(万物万象を、より高次元の宇宙生命、神々の秩序の中に位置付ける)と、
 A公共性(秘密結社の中に隠された密教でなく、公共に公開されて居る)と、
 B、大宇宙の道理に即応して文字体系が成長してゆく性格と、

 この三つの性格を兼ね備えて居る。
 表音文字は、事物を分解し、解体する傾向を内在して居る。
 つまりこれは、狩猟牧畜民が、獲物$ゲーム$を殺して解体する心性に密着した文字だ。
 表音文字と対応する象徴文字の一端は、ユークリッド幾何学に表現される。
 つまり、人間と自然の事象を、分解し切った上で、私利私欲貪欲強欲を充たすのに都合の良いかたちに、再構築するのである。

▲  七、

 この西洋式「象徴文字体系」を研究する必要を、日本民族は、殆ど、認めて来なかった。
 「象徴」は、シンボル$symbol$の訳語であるが、この辺は、明治以来、日本人が、最も苦手とし、また、弱点として居るところである。
 symbol$シンボル$には、象徴、の他に、記号、符号、の訳も付されて居る。
 いずれの訳語も適切でない。
 それは単なる絵文字でもなく、記号でもない。
 それは、
 根こそぎにされ、根無し草にされ、それ自体としては無意味な断片に還元されてしまった部分品を、
 恣意的人工的に、
 再構築する、
 その設計図、の如きものと解し得る。
 それを「象徴」と訳すべきではない。
 今日、西洋で、最も有名な「シンボル」の一つは、一九三三年一月、F・D・ルーズベルトが米国大統領に就任してから、
 米国一ドル紙幣の裏面に印刷された、
 米国の「国璽」(ピラミッドが描かれて居るが、その頂上部分に、不気味な目が一つ、光って居る。この「国璽」は、米国建国後、色々の経緯の後に制定されたが、一九三三年までは、公衆の目に触れるようなかたちで登場しては居ない)、
 であろう。

◎ 「ピラミッドは、少数が多数を専制的に支配することを意味する世界共通の記号である。……この国璽は、人類の奴隷化と自由の根絶を目指す、と言うオカルト・プロジェクトのシジル[印章]【これはシール$seal$の誤植か】である」(青弓社刊、ホフマン「フリーメーソンの操心術」、六十二頁)、

 などと言われても、これ迄、日本人は、まともに相手にしない。
 東アジアと、そもそも文字体系(従ってまた、言語体系)が異質なのである。
 「国璽」は、
 The Great Seal$ザ・グレート・シール$、の訳語である。
 米国では、国務長官が保管して居るのだそうだ。
 表音文字の一つ、ローマ字アルファベットで表記された、英語による「米国憲法」の、とろけるような美辞麗句と、
 「米国国璽」の示す、全人類家畜人化の設計図と、
 この両系統の言語表現、
 それを統一的に理解出来ないようでは、
 日本民族は、遂に、西洋について無知のまま、西洋文明の実権を掌握して居る悪魔主義的勢力に飼育され、使役され、殺戮される家畜人に転落するしかないのではなかろうか。
 私の見るところでは、西洋文明の歴史の中で、この「文字問題」に気付いた唯一の学者はフェノロサであり、唯一の作家は、フェノロサの弟子、エズラ・パウンドなのだが。

▲  八、

 西洋文明$ウェスターン・シビリゼーション$、
 と称されて居るものは、
 シュメール文字文明と、
 エジプト象形文字文明との、
 遺産纂奪の上に成立した、
 その遺産も喰い潰されて、
 今日、西洋人の正体が、モロに表面に出て来た、そして、仮面の下から現れた彼等の素顔は、大悪魔、悪魔大王であった、
 と、私には見える。
 西洋文明は、シュメールとエジプトの、正統な遺産相続人ではない。
 ここに、「西洋」の恥部がある。
 世界は、地球規模の暗黒時代に突入する(「人類の運命」、二九四〜五頁、思索社、昭和五十八年、原著は一九四二年、)、
 との、H・G・ウェルズの御託宣である。
 来るべき野蛮の時代に、

◎ 「洞穴のなかで、風をよけて、林の陰で始まった人類は、病気に侵されたスラムの廃墟の中で死に絶えるであろう」
◎ 「今や宇宙は人間にあきあきし、しだいに彼に厳しい表情を向けつつある」
◎「私は、人間がしだいに理性的でなくなり、しだいに急速に、適応できないすべての生物が全体的にも個体的にも苦しまなければならないように苦悶しながら、堕落、苦痛、死へと運命の流れに運び去られていく姿を見る」(前出、三〇〇〜一頁)。

 人類が再教育されて、一つの世界頭脳に動かされる世界国家を実現するか、
 さもなければ、暗黒時代、野蛮への逆戻り、そして人類そのものの死か、
 と、一九四二年、第二次世界大戦初期のロンドンで、ウェルズは書いた。
 と言うより予言した。
 予言と言うより、ある種の「神話」の脚本を公衆に示した。
 ここでは、「神話」の方向が、見事に逆転させられて居る。
 西洋白人文明は、自然を分解し、自然を解体し、自然と衝突し、自然を造り替え、
 そしてその結果、
 人類とその生活基盤そのものの壊滅に突進する。

◎ 「人間は海底から成層圏にいたるまでなにものをも破壊せずにはおかない。そしてその破壊過程において、人間自身をも絶滅してしまう可能性がある」(「人間の運命」、二十八頁、思索社)、

 とは、ウェルズの言である。
 もちろん、ここまで事態を進めた(「進歩させた」)主犯は、白人西洋文明以外にない。
 となってしまいそうだ。
 マイケル・A・ホフマン二世は、近年(この数年か)、米国ハリウッドによって作られ、公開された、
 「白人を憎め(白人憎悪)」を扇動する映画とテレビ、ビデオ作品の名簿を編集公表した。
 ここには、約三百〜四百本が収録されて居り、
 この他に、
 「ドイツ人を憎め」映画テレビが約三百本、
 「ジェンタイル【ユダヤ教の用語では、ユダヤ人以外のすべての民族、国民、人種】を憎め」、及び
 「キリスト教徒を憎め」、作品が約五十本、
 「パリサイ派を崇拝せよ」作品が、約百五十本(スピルバーグの「シンドラーのリスト」はこの中に含まれる)、
 の表題も紹介されて居る。
 ここで「パリサイ派」とは、福音書の中で、イエス・キリストが悪魔のすゑとして、激しく弾劾し、告発した「パリサイ派ユダヤ人(タルムードを信奉するユダヤ人)」、を意味する。

▲  九、

 漸くのことで、日本民族は、ことの真相に肉迫出来そうだ。
 ここで、
 フェニキア文字を作ったと言われる、
 「フェニキア人」を思い出した。
 この名前は、教科書的「西洋史」に、何行(または何頁)か記述されて居るので、
 日本人も、満更、知らないわけではない。
 E・マリンズの「カナンの呪い」(一九八七年)によれば、
 ノアに呪われたカナンの一族こそ、「聖書」に出現する悪魔主義の正統な(?)継承者であるが、
 彼等カナン族は、西暦紀元前一千二百年頃、フェニキア人、と、名前を変えた、
 つまり、カナン族は、フェニキア族に変身した(二十頁)、
 のだそうだ。
 H・G・ウェルズは、
 フェニキア文字は、彼等の商業簿記の必要に応じたものに他ならない(「世界文明史大系、第三篇第十五章、第四節「初期の商業民族」)、
 との説を立てて居るが、これは納得出来る。
 但し、ウェルズは、
 セム族を全般的に商業民族と定義し、
 ユダヤ人をこのセム族の中に入れ、
 人類史上初めて、大商業都市(殆ど商業貿易のみで成り立つ都市)を建設したフェニキア人も、セム族である、
 と解するが、これは通俗に過ぎるであろう。
 ユダヤ教徒は、
 「神を理想の商人として心に描き出した」(前出)、
 セム系諸民族は、「等価(A=A)」、「等償(A=B)」の概念の強力な民族である、
 等価、等償の概念こそ、論理学の三根本公理の核心をなすものである、
 論理学は、あらゆる精密化学の母胎である、
 ユダヤ人は、論理的数学的民族である、
 とのウェルズの説はどうか。
 「論理学の三根本公理」とは、
 アリストテレスの三法則(同一律、排中律、矛盾律)のことであろう。
 して見ると、アリストテレスの哲学は、ギリシャ的(ヘレニズム的)、と言うよりも、
 フェニキア的、ユダヤ的、ないしは、商業貿易主義的、
 と言うべきなのか。
 これは非常に意外な結末だ。
 しかし我々は、古代インド人による「ゼロの発見」なしでは、今日の如き「数学」は成り立たなかった、
 と言うことを知って居る。

▲  十、

◎ 「セリーヌは、二十世紀の近代主義$モダニズム$を地獄と定義した」
◎ 「それは、人間を盲目にし、人間を物質に従属させ、人間を消耗させ、利益がすべてたらしめた」(マイケル・ホフマン二世「セリーヌ、この不可能なるもの〜アーリア族共産主義の反人間主義的預言者」、『インディペンデント・ヒストリー・アンド・リサーチ』、一九九六年夏季号、二頁)、

 との、M・ホフマンの現は注目を引く。
 L・F・セリーヌは、今日の如き有様が、アーリア族白人種の真の姿とは認識しない。

◎ 「ロボット主義[人間のロボット化を推進する主義、のこと]に反対し、戦争に反対する、白人にとっての唯一つの防衛策、唯一つの資源は、自分自身の感情のリズムに復帰することである」、

 と、セリーヌは書いたのだそうだ。
 白人(アーリア族、ゲルマン族、チュートン族、ケルト族、北方ノルディック族、などと呼ばれるが)は、いかなる経路を辿って、現在の如き「地獄」に誘導されたのであろう。
 「白人」は、未だ、その解答を得ては居ないようだ。
 「白人」は、自分自身が地獄に落ち込むだけでなくて、いわゆる「西洋哲学」に由来する「西洋」の科学技術文明によって、すべての有色人種を含む全人類をも、地獄に導いて居る。
 これは、まったくのところ、
 日本民族にとって、迷宮でしかない。
 「西洋」が分からず、
 「白人」が分からず、
 従って、いわゆる「近代」が分からない。
 どこから、この縺$もつ$れを解$と$き解$ほぐ$していけば良いのであろう。
 糸口は、
 カナン族↓フェニキア人、
 この辺にありそうだ。
 カナン族(フェニキア人)は、
 いかなる「神話」を有して居たのであろう。
 そしてその「神話」は、三千年(ないし四千年)を経て、今日、なお生き続けて居るのであろうか。
 もし存続して居るとすれば、どこに、どのようなかたちで我々はそれを見ることが出来るのであろう。
 西暦紀元前一千五百年頃、アリアン族は、北方からバルカン半島に南下を開始し、西暦前八百年頃までに、多島海、ギリシャ地方に到達した、
 と、言われて居る。
 今、我々は、
 後に、ギリシャ人、と呼ばれるようになったこのアリアン族が、実は多島海と地中海一帯で、フェニキア人に変身したカナン族に遭遇して居た筈だ、
 との結論を得る。
 そしてそれからどうなるか。
 これはきわめて興味深い問題だ。
 南下アリアン人が、「ギリシャ民族」を形成してゆく数百年の過程で、フェニキア的(カナン的)なるものが、密かに、また公々然と浸透して来ることは避けられない。
 かの有名なプラトンの「国家」は、国家の四つの種類(勝利と名誉が国家の原理とされるクレタ及びスパルタ式、寡頭制、民主制、潜主独裁制)を挙げてそれらを批判し、
 理想的な在るべき形態を、
 哲人を主権者(元首、君主)とする国家である、
 とした。
 プラトンによれば、寡頭制$オリガルキー$とは、富への飽くことなき欲求と、金儲けのために他のすべてをなおざりにするような国家である(岩波文庫版「国家」下の二一七頁、第八巻)、
 と言う。
 全く、これは、フェニキアの臭いがするではないか。
 プラトンは、スパルタ式の国家(これは、ある種の軍国主義、即ち、武力によって周辺を征服してゆく国家、従って、武力に優れた者が支配者となる国家、と理解し得る)が、
 内在的に変化して、
 金持ちと財産家が支配する寡頭制$オリガルキー$(金権制$プルトゥラシー$)に移行する必然性、
 を論証して居る。
 かくしてこの寡頭制の下では、
 支配者たちを除いた殆どすべての者が乞食である(岩波文庫「国家論」下の一九二頁)。
 そして、「ソロンの改革」以前、アテナイは、実際にこのような状況にあった(前出、三八九頁、訳注)、
 のだそうだ。
 だが、このような国家体制の推移が、アリアン族の内部要因から生まれて来るであろうか。
 むしろこれは、アリアン人がフェニキア化した結果、と見るのが適切ではないのか。
 ローマもまた、フェニキア化されて、没落したのではなかろうか。
 それではソクラテスはどこに位置するのか。
 少々、日本人にも、モノが見えるようになって来た、
 と言えるかも知れない。

◆  第五章

 アリストテレス
 〜悪魔学としての「西洋哲学」の登場〜

▲(一)

 Deduction$ディダクション$、と言う英語は、

◎ 差引高、控除額、
 論理学では、演繹法、演繹による結論、

 と、辞書に示されて居る。
 deduct$ディダクト$は、ある金額を差し引く、控除する。
 とあるから、
 もともとは、計算上、簿記上の、ごく在り来たりの用語、であったらしい。
 しかしこれが、論理学(こんなものは、日本の学術の伝統に存在しないが)上の、
 「演繹法」、
 となって、この百数十年、日本人の頭を悩ませて来た。
 そもそも、
 「演繹$えんえき$」、とはいかにも苦しい日本語だ(演、は、演出、演技、演ずる、演算、などと使われる。繹、は、日本人は殆ど使わない漢字だが)。
 この言葉を考え出した明治の先人は、自分で納得して居たのであろうか。
 演繹$ディダクション$は、
 Induction$インダクション$と、対をなす英語である。
 論理学用語で、帰納法、と訳される。

◎ 帰納、

 と言う日本語も奇妙ではないか。
 帰り、納める(納まる)?
 これは、さっぱり分からない。
 誘導、誘発、の意味も示される。
 こちらは一目瞭然だ。
 しかし、日本人が明治以降西洋人から教わったところでは、
 科学の研究法には、

◎^(イ)^演繹法、
 ^(ロ)^帰納法と、

 二種類しかないのだそうだ。
 それほど重要な概念なのだが、
 日本人には、まるで呑み込めない。
 良く説明を聞くと、
 「帰納法」とは、実例研究を、一,二,三,……、N、と積み重ねて、そこから、共通する一つの「科学的法則」を発見する。
 その方法だと言う。
 かくして求められた法則を起点(原点)として、現実に当てはめる、
 これが演繹法だと言う。
 少なくとも、そんな風に受け取れる。
 つまり、科学的調査研究には、

◎^(1)^まず帰納法で多くの現象を調べる。
^(2)^次にそこから、一つの法則を見出す。
^(3)^かくして得られた法則を、演繹的に適用する。

 と、要約出来る。
 ところがこの「演繹法$ディダクション$」は、寡頭権力$オリガルキー$に特徴的な論理であって、
 アリストテレス(BC三八四〜三二二)、デカルト(一五九六〜一六五〇)、カント、デーヴィッド・ヒューム(一七一一〜一七七六)、ニーチェ(一八四四〜一九〇〇)、
 これらの人々に共通である(リンドン・H・ラルーシュ著「キリスト教経済の科学」九十八頁、一九九一年、米国)、
 と、言われる。

▲ (二)

 「廣辞林」には、

◎ 演繹^:^一般的な命題や法則から、個々の事例の法則や判断を見いだすこと。一般から特殊を導き出すこと。
 帰納^:^個々の具体的な事実から、その共通点を求め、一般的法則を見いだすこと。特殊から普遍を導き出すこと。

 と記述されて居る。
 これは、英英辞典の中の、英語による説明を、そのまま、日本語に移したのであろう。
 大方の日本人は、こんなことを聞かされると、何故かは分からないが、強い違和感、嫌悪感を覚える。
 少なくとも、私は不快だ。
 西洋の科学には、前出、「演繹」「帰納」の形式論理学の他に、
 「仮設」、と言う研究法が出て来る。
 Hypothesis$ハイポシーシス$(仮設、前提、仮定、と辞書に訳されて居る)、
 これはギリシャ語に由来するのだが、その起源は誰なのか。
 プラトンの対話篇「国家」第六巻に、
 「ロゴス(理)はさまざまの仮設(ヒュポテシス)を絶対的始原とすることなく、文字どおり^<^下に(ヒュポ)置かれたもの(テシュ)^>^となし、いわば踏み台として、また躍動のための拠り所として取り扱いつつ、それによってついに、もはや仮設でないものにまで至り、万有の始原に到達することになる」(岩波文庫版、下の九十頁、なお、ここでは、訳者は、仮#説#、としてある。仮の説、でなく、仮に設置されたもの、との意味が強調される、
 多分、このプラトン(ソクラテスの口を借りた)のヒュポテシス(英語では、ハイポシーシス、と訛る)の説が、今日、欧米の科学界に伝わって居るのであろう。
 万有の始原に到達したのち、
 その始原から、逆に、最後の結末に至るまで下降してゆく。
 これはどうか。
 プラトンは、人間の精神が、四つの段階からなる、
 即ち、

◎ 最高段階が、知性的思惟(直接知)、
  次に、悟性的思考(間接知)、
 更に、確信(直接的知覚)、
 最低段階が、影像知覚(間接的知覚)、

 仮設を立て、次々により高い仮設へと至り、遂に、仮説でないもの、万有の始原に達する精神作用を、知性的思惟、とするのである。
 第七巻は、有名な「洞窟の中で、影像のみを見せられている囚人」の譬えである。
 この「囚人」は、人間の最低の精神段階(間接的知覚)を意味する。
 テレビ、コンピュータ、仮想現実$ヴァーチャル・リアリティ$の幻想世界を漂う現代人がここに位置付けられることは疑いない。

▲(三)

 万有の絶対的始原、
 それを古代人は「神話」の中で見た。
 哲学的方法で(つまり、人間理性の最高段階にまで成長する、知を愛するものの、ディアレクティケー、哲学的問答法によって)、
 それに達しようとする。
 だが、プラトン(ソクラテス)のこの企図は、達成されたであろうか。
 プラトン(ソクラテス)の説は、
 二つの絶対的前提(それは仮説、仮定ではなくて、絶対不可欠の前提でなければならない)の上に立てられて居る。
 それは、

◎ ^(イ)^万有の絶対的始原は、善なるものであり、
 ^(ロ)^そして、人間には、この万有の始原にまで向上(上昇、ないし帰還)し得る、理性$ロゴス$が備わって居る、

 との前提である。
 この場合の「ロゴス」というギリシャ語は、日本語に訳すことが非常に難しい。
 「理性」と訳されることもあるが、
 これは明らかに日本人を迷路に導く。
 英和辞典をあらためて引くと、
◎ 哲学用語では、宇宙の支配原理としての
 理法、理性、
 キリスト教神学では、三位一体の第二位、キリスト。
 神の言葉、
 と示されて居る。
 しかし、ここに述べられて居るような意味では、「ロゴス」は、日本人の言語意識の中には、全く定着して居ない。
◎ 魂は不死なるものであり、われわれはつねに向上の道をはずれることなく、あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむ(「国家」下の三七三頁)、
 と、プラトンは「国家」篇を結んだ。
 常に善を採り、悪を斥けすすむ、自己の内に紳的な支配者を持って居るような人間を元首とし、統治者とする国家、
 そのような国家は、地上に存在しないが、
 それこそ、人間にとっての理想の国家である(「国家」下の三百頁)、
 と言うのである。
 アリストテレスがプラトンの弟子である、
 などと言う命題は、悪い冗談としか思えない。

◎ アリストテレスは、
 知ることは人間の条件であり、
 すべてを知ることが人間的知性の条件である。
 と言い、
 知識の募集整頓の仕事に集中した、
 この意味で、ベーコン並びに、現代自然科学精神の先駆者である(H・G・ウェルズ「世界文化史大系」第四篇第二十二章第四節)、

 とされる。
 多数の分立した都市国家の時代が行き詰まり、世界帝国の建設が必要とされる、
 そんな時代の空気が、アリストテレスを生み出したのだ、
 と、ウェルズは説明する。

▲(四)

◎「多数の異教$ペイガン$の神々が、^”^オリンピアン^”^のエシックスのパンテオン【古代ローマ、あらゆる神々を祭る寺院のこと】に習合され、そしてそこでは、真実と誤謬、正義と不正義の違いを識別することが禁止された。道徳$モラリティ$性そのものが禁止とされた。アリストテレスの「倫理$エシックス$学」と「政治学」が示して居るように、その場所は、単なるエシックスで完全に占領されて居た」(「キリスト教経済の科学」二八〇頁)、

 とのラルーシュの言をどう受け止めるべきか。
 日本人は、英語のモラルとエシックスの違いを区別出来ない。
 両方とも「倫理」「道徳」と訳されたり、
 モラルは道徳、エシックスは倫理、と分けたりすることもある。
 多分、前出の文章では、
 モラルは、人間として、なすべきこと、なすべきでないことを示す人道の基準のようなもの、
 エシックスは、習俗、風俗習慣、と言った意味で使われて居る(つまり、風習は千差万別であって、どれが良いとか、悪いとか言えない。相対的なものである)のであろう。
 この定義を採るとすれば、ソクラテス=プラトンと、アリストテレスの間には、深淵が横たわって居ることになる。
 一方(プラトンとソクラテス)は、善と悪、正義と不正義のケジメを付け、正義をどこ迄も求めて行くべきことを教える、
 他方(アリストテレス)は、前者を否定するのみならず、冷笑し、嘲笑する。
 こんな風になるのであろうか。
 私の知る限り、日本人は、プラトン(ソクラテス)とアリストテレスの、この様な異質性、ないし対立、敵対関係を、殆ど、教えられて居ない。
 これはどうしたことか。
 アリストテレスはまた、
 ノミナリズム【哲学用語で名目論、唯名論、と訳される】の源流、
 とも記されて居る。
 Nominal$ノミナル$は、名目上の、名ばかりの、有名無実の、などと訳される。
 この「唯名論$ノミナリズム$」と言う西洋哲学の用語も、日本人には頭痛のタネの一つであった。
 つまり、日本人の伝統的なものの考え方、日本の言語意識と、懸け離れて居るのであろう。
 この唯名論$ノミナリズム$は、今日流行の記号言語論【言語は記号、符号である、つまり、モノの実体、中身、本質などとは無縁である】に直結して居る、
 との印象を受けるのだが、どんなものか。

▲(五)

 アリストテレスは、「オルガノン」も書いた。
 「オルガノン」は、論理学、学術研究の原則、研究法、思考法、などと訳される。
 ベーコンの「ノーヴァム・オルガヌム$Novum Organum$」は、もちろん、アリストテレスの古典をもじって居る。

◎ 「厳密な意味での形式論理学的演繹法は、十九世紀の末に、様々な数学者と哲学者によって初めて展開され、二十世紀の最初の三十年間に、確定的な形態を取るに至った。しかしながら、この演繹法の本質的特徴は、演繹的なユークリッド幾何学によって説明され得る」(リンドン・ラルーシュ「キリスト教経済の科学」三七一頁)、

 「ユークリッド幾何学」は、西暦前三百年に出版されて居るが、それは、アリストテレスの「論理学$オルガノン$」の延長線上に位置付けられる、
  と、我々は、今、聞かされる。
 アリストテレスには、少なくとも、

◎^(1)^奴隷制度を当然のこととして容認し、高く評価した
^(2)^論理学、学問研究の原則として、演繹、帰納の方法論
^(3)^同一律、排中律、矛盾律の三大法則
^(4)^そして唯名論、を立てて
^(5)^善悪、真偽の区別を排除した

 以上、五点について、この二千三百年来、人類を惑わし、神に反逆する重大な罪を犯し続けて居る、
 との容疑が認められる。

 にも拘わらず、日本民族の中から、
 今の今まで、
 アリストテレスの犯罪を弾劾する、
 ただの一行の文章も現れなかったのは何故か。
 私に関する限り、明治以来、日本の学者作家著述家文人知識人が、西洋哲学の元祖として、西洋の学術全般の源泉、と称揚されるアリストテレスを告発した、唯の一篇の論文も、読んだ記憶がない。

 明らかに、幕末から、西洋の学問を受け入れることによって立身出世し、日本の各界指導者になった人々のすべてが、アリストテレス主義者として洗脳されたのである。つまり、近現代日本の国家指導層は、いはゆる左翼反体制も含めて、アリストテレス主義は空気のようなものではなかったか。
 私は、
 アリストテレス哲学の本体は、悪魔学$デモノロジー$である、
 との仮説を立てて居るのだが。
 それでは、ソクラテス、プラトンと、悪魔学$デモノロジー$は、どんな風に関係付けられるのであろうか。
 これは、問題の核心に、端的に迫るような種類の設問である。

▲(六)

 ソクラテス、プラトンは、凡人には近寄りがたい聖人君子、
 アリストテレスは、俗人に役に立つ科学知識収集の元祖、

 こんな風に、現代の日本人は、何となく、見て居るのではなかろうか。
 ソクラテス、プラトンは敬して遠ざける、棚上げして置く、
 アリストテレスは「実学」の起点として尊重し、高く評価する。
 この処遇は、当たらずと雖も遠からず、
 ごく大ざっぱに、そんな風に言えないこともない。
 しかし、リンドン・ラルーシュによれば、
 アリストテレスの背後に、古代地中海と中近東一帯に根を張る悪魔主義的秘密結社が潜んで居る、
 のだそうだ。
 この説には、生憎、出典と典拠が示されて居ない。
 この国際的秘密結社が、古代ギリシャの寡頭権力$オリガルキー$の実体である、
 のみならず、
 古代地中海・中近東文明に寄生した、殆どすべての寡頭権力$オリガルキー$を作り出した、
 とも言われる。
 しかし、プラトンの「国家」によれば、
 寡頭権力$オリガルキー$とは、
 殖財の道をひたすら前進して、金を作ることを至上の目的とするような人々が作る国家(下の一八六頁)、
 である。
 とすれば、これは、どう控えめに見ても、あの「フェニキア人」を連想するしかないではないか。
 古代ギリシャで、「金を作る」とは何のことか。
 農業、牧畜、手工業などで、地道に、実直に暮らして居ても、「金持ち」、にはなれそうもない。
 それに、ここで、「金$カネ$」とは、「貨幣」のことであろう。
 黄金$ゴールド$貨、銀貨、銅貨などが、商品交換の手段として使われるとしても、普通に商売をやって居たのでは、桁外れの莫大な財産は得られない。
 二つの抜け道ないしペテンが考えられる。
◎ 一つは、ある特定の戦略物質(染料、鉛、穀物など)に狙いを付けて、これを買い占める、独占する、そしてそれによって値段を不当につり上げて暴利を得るのである。
 第二は、銀行業(神殿寺院の信者、などから、金銀を預かり、それを元手として、その十倍くらいを、利子を付けて貸す商売)と、その系列の金融業である。
 のちにフェニキア人と名を変えた、カナン族が、この種の職業に特化(専門家)した(E・マリンズ「カナンの呪い」)。

▲(七)

 リンドン・ラルーシュも、
 ヨーロッパとアメリカの文明は、ただ一つの原理的対立〜即ち、共和制と寡頭権力制の対立〜を軸として動いて来た、
 共和制は、古代ギリシャのソロン(BC六三八〜五五八)、ソクラテス(BC四六九〜四〇一)、キリストに代表され、
 そしてそれに対立する陣営は、高利貸的寡頭権力制の、バビロン、カナン、そして異教的ローマである(「キリスト教経済の科学」九十四頁)、
 と述べて、「カナン族」の名を挙げて居る。
 アリストテレスは後者(高利貸的寡頭権力)に属する、
 とされる。
 日本民族は、今日まで、この様な西洋史の見方を聞かされたことはない。
 従って、うまく、要領をつかむことが出来ない。

◎「自然破壊が急速に進み、自然に接する人間の能力自体が衰えている」
 「現代人はもはや神の声を聞くことが全く出来ない」(M・ホフマンU「フリーメーソンの操心術」、一六八頁)、

 このホフマンの言葉はどうか。
 多分、この現象は、
 西洋の金融寡頭権力が三千年乃至四千年かかって作り出したのであろう。
 現代人は神の声を聞くことが出来ない、
 そのかわりに現代の人間(大衆)は、
 幻想$ファンタジー$を与えられる。
 この幻想は、プラトンの洞窟の譬えの、有名な、影像知覚(それは、プラトンの定義による人間精神の四つの精神作用の最低第四段階だが)よりも、
 更にずっと、劣化させられた局面である。
 W・B・キイ教授は、
 マスコミによって痴呆化されられつつある現代米国人は、アリストテレスの論理学(同一律)のペテンによって、ニセの現実を、本物の現実と同一視するように誘導されて居る(「メディア・レイプ」、一六四頁)、
 と見抜いた。
 これは良く分かる。
 しかし、ラルーシュのように、西洋の良き(今日も、これからも維持継承すべき)伝統を、
 「共和制」、
 と言う用語でくくるのはどうか。
 ここには、人類が一丸となって(寡頭権力による絶対的支配抜きで、万人が平等に)自然征服のために行進する、
 との匂いがある。
 ソクラテスを、この分類に入れることは適切であろうか。
 これはきわめて微妙な問題だ。

◎「しかしもう去るべき時が来た〜私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれかが一層良き運命に出逢うか、それは神よりも外に誰も知る者がない」(岩波文庫「ソクラテスの弁明」、五十九頁)、
 と、結ばれて居る。
 ソクラテスは、神の声をいつも聴いた。
 いや、ソクラテスには、神の声が聞こえるのである。

◎「私が何か曲がったことをしようとする時には、それがきわめて瑣細な事柄であっても、(神の声が)いつも私を諫止するのだった」(前出、五十六頁)、

 とあるのを読むと、はたしてソクラテスを「共和主義者」「共和派」として良いのか、どうも私には、少年時代からソクラテス(対話篇)に親しんで居る、と言う、ラルーシュのソクラテス理解は、失礼ながら、
 少々、見当が狂って居る、としか思えないのだが。
 ホフマンは、
 現代人がもはや神の声を聞くことが出来ない、
 と言う。
 ソクラテスはいつも神の声を聴いた。
 これは何を意味するのか。
 アリストテレスは神の声を聞いたのであろうか。

**ここのあたり「聴く」と「聞く」の使い分けはどうなっているのでしょうか?畑田**

▲(八)

◎「広い意味でアリストテレス主義はグノーシス主義的なものによって動く哲学的意志であったと言えそうです」(光文社、カッパサイエンス^<^「狂気」が「正気」を生んだ^>^一〇七頁、丹生谷貴志「グノーシス〜狂気と正気のはざまで」)、

 とは、注目すべき見識だ。
 この三十年ほど、日本の学界の一部は、グノーシス問題に本格的に取り組み始めた。
 と言うことは、通り一遍の、上っ面をなぞっただけの、最低水準の西洋史理解から、もう少しましな西洋研究に目と足が向きだした、
 となるのか。

◎「ヨーロッパ哲学の基本が、中世以来決定的にアリストテレス主義の影響下に形成されていたとすれば、その意味でヨーロッパ哲学はグノーシス主義的なものを内包するということになるわけです」(同上)、

 と言われる。
 その通り。丹生谷氏は本筋を突いて来る。
 明治大正昭和初期まで、日本の関係学界の視野に、グノーシスは入らない。
 三,四十年前、
 東大の荒井献教授が、グノーシスの基本文献の一つ、「ヘルメス文書」をゼミナールで講義された。
 荒井教授は、「キリスト教異端派」としてのグノーシスに興味を持たれたようだ(これが第一段階)。
 荒井門下から、柴田*(no158)氏が出て、「グノーシスと古代宇宙論」(**(no158)書房)を刊行された。
 柴田氏はのちに、荒井教授と学問的に衝突された(これは今から二十年ほど前のことである)。
 同氏は、グノーシス派を、古代ローマ世界への抵抗者、敵対者と認識する(これが第二段階)。しかし、柴田明治学院大学教授は、グノーシスとアリストテレスの関連を視野に入れて居られない。
 そして今、丹生谷氏は、
 グノーシス派は、宇宙そのものを破壊する意志である、
 しかも、西洋によって支配された現代世界は、グノーシス主義が、地球の隅々まで貫徹してしまった時代である、
 との説を立てる(第三段階)。
 つまり、日本は、この三十年ほどの間に、
 一,二,三,と、
 グノーシスの本体に向かって、ある程度、迫って居るのである。
 しかも、前記の如き、哲学の領域とまるで異質な、経済学畑から、
 入江隆則明治大学教授が出現して、

◎「近代の西欧人を駆り立てて[アジア太平洋世界の侵略へと]きた衝動の少なくとも一つは、紀元一世紀から五世紀ころにかけて古代ローマ帝国で猖獗$しょうけつ$をきわめたが、その後異端の烙印を押されて消滅したに見えたグノースティシズムが、ほぼ十世紀に及んだ潜伏期間を経たのちに世俗的形態をまとって復活してきたものではないか」(「Voice」平成八年九月号、二五五頁、「太平洋文明のはじまり」、なお、この論文は、入江教授による連載「太平洋世界の復活」の最終第十九回である)、
 と言う、見事な仮説を提起された。

▲(九)

 入江隆則教授は、三十年近く前、一九六〇年代に、ロンドン大学アジア・アフリカ学部の客員研究員として留学経験がお有りだそうだ(「Voice」平成八年八月号、二五〇頁)。
 同教授について、私は殆ど無知に近いが。

◎「グノーシス派というのは、その最盛期には十数派に分かれていた」(「Voice」平成八年九月号、二六三頁)、

 と聞く。
 入江教授は、グノーシス派を、

◎「魔法使いと悪魔の弟子」、

 とも呼んで居る。
 例の「ファウスト博士【十六世紀末にマーロウが、十八,九世紀にゲーテが、芝居に書いて居る】」である。
 社会経済史とその周辺を専門とされる入江教授には、グノーシスとアリストテレスの関係は見えて居られないようだが。
 ローマ帝国時代のグノーシスが、どこから流れて来たのか、
 それが問題だ。
 十数派に分立したグノーシスのその背後に何が潜んで居たのか、
 それこそ、解くべき問題だ。
 千年潜伏して近代西洋にグノーシスが復活した、
 と言うのだが、
 この説では足りないのではないか。
 地中海文明とのその継承者たる近代西洋が、この五百年来、世界を支配して来た、
 しかし、その局面は終焉した。
 今、「太平洋文明」の幕が開いた。
 そして類推すれば、
 太平洋は現代の地中海であり、
 日本は来るべき(今、形成され始めた)太平洋文明に於て、古代地中海でローマが果たしたのと、同じ位置を占めることになろう、
 つまり、太平洋は現代の地中海であり、日本はローマである、
 との説に同教授は到達された。
 この仮説は相当に刺激的だ。
 地中海文明に於ける北アフリカ(カルタゴをもちろん含む)の役割は米国に割り当てられるのだそうだ。
 こんなことを言ってしまって良いのであろうか。
 地中海では、カルタゴは、ローマによって、完全に殱滅させられたのだが、
 入江教授は、「すべての型の国家が機能不全に陥って、短期的に痙攣を起こし、狂的な状態になったものとしての怪獣国家」(「Voice」平成八年九月号、二六〇頁)、
 をホッブスの「万人が万人と戦う自然状態」の対極に、想定される。
 ちょっと、これはかなり危なっかしい、
 との印象を受けざるを得ない。
 西洋の知識学説に、英語の原著で、広く通じて居られる様子だが、
 そのまとめ方は、これで良いのか。
 あのホッブスの手の内から出て居ないのではないか。
 原始の自然状態が、万人の万人に対する戦争(殺し合い)である、
 と前提すれば、
 その対極は、狂気としての怪獣国家、
 しかし、日本民族は、そのホッブスの前提を、軽々に受け入れてしまって良いのであろうか。

▲(十)

◎「ニコマコス倫理学」(岩波文庫、上下、高田三郎訳)、

◎「古代ギリシャにおいて初めて倫理学を確立した名著。万人が人生の究極の目的として求めるものは『幸福』即ち『よく生きること』であると規定し、このあいまいな概念を精緻な分析で開明する。これは当時の都市国家市民を対象に述べられたものであるが、ルネサンス【日本人は、ルネサンス、では発音しにくい。ルネッサンス、と表記すべきではないのか】以後、西洋の思想、学問、人間形成に重大な影響を及ぼした」、

 と、その宣伝文句に書いてあった。
 それは、西洋の関係文献に書かれて居ることを要約したのであろう。
 しかしこの数行の叙述の中に、幾つもの重大問題(そしてこれまで日本人が全く教えられて居ない)が潜んで居る。
 入江教授が、
 ローマ帝国時代に大流行したグノーシス主義が、キリスト教会によって抑圧され、一千年の後、復活した、
 と言われる、
 まずそれに関係する、
 なるほど、確かに、ローマの国教に昇格したキリスト教会は、グノーシス的なるもののすべてを、邪教として厳しく禁圧した、
 これは一応、事実であろう。
 けれども、
◎ 第一に、キリスト教会がローマ帝国内に根を張って行くにつれて、ローマで行われて居たギリシャ哲学が、キリスト教神学を構築するために使用された、
 ギリシャ哲学に於て、
 ソクラテス、プラトンの系統と、
 アリストテレスの系統が、
 対峙拮抗して居る。
 必然的に、ギリシャ語古典に通じたキリスト教神学者の中に、この両系統の葛藤が持ち込まれる筈だ。
 中世キリスト教会では、グノーシスは禁制であったが、アリストテレス哲学は、堂々と、正当な、祝福された学術として、通用し続けた。
 のみならず、ヴェネツィアが西洋地中海世界の強者として登場した十一,二世紀から、ヴェネツィアは、意図的に、アリストテレスを全西洋キリスト教世界に定着させるべく行動した(と、リンドン・ラルーシュは指摘する)。
 つまり、グノーシスがヨーロッパの表面から姿を消して居た一千年の間、グノーシス主義は、アリストテレス哲学と言うかたちで、キリスト教ヨーロッパの精神界を征服してしまったのである。
◎ 第二に、グノーシス派は、仮面を着け、偽装して、キリスト教会の内部に潜入浸透したもののようである。
 この領域については日本人はお手上げだ。
 完全な無知である。
 岩波文庫版「ニコマコス倫理学【ニコマコスとは、アリストテレスの息子である。父の死後、息子が遺稿を編集して出版したので、この名で呼ばれる】」の訳者は、巻末解説で、

◎ アリストテレスは、プラトンの「善のイデア論」(「国家」)に対して、異常な熱気をこめて反駁した、
 アリストテレスにとって、善【ギリシャ語は、アガトン】とは、人間の幸福【ギリシャ語で、エウダイモニア、守護神ダイモンによって良く見守られて居ること、の意味、従って、日本語の「幸福」、と言うよりは、幸運、世俗的繁栄、に近い、とされる】である。

 と述べて居る(下の二四〇〜二四四頁)。
 人は、ただちに、ここから、
 マンデビル(十七世紀末〜十八世紀初頭)、ベンタム【功利主義、最大多数の最大幸福、は、ベンタムの有名な言葉である】(十八世紀末〜十九世紀初頭)を連想しないであろうか。
 この直感は間違って居ない。
 「人間の幸福」が「最高善」なのか。
 こう言ってしまっては身も蓋もない、
 と、私には思える。
 プラトン哲学にとって、「善のイデア論」は、核心の中の核心の部分であろう。
 それを、アリストテレスは、
 異常な熱気を以て否定し、反論し、反駁した、
 と言う。
 つまり、アリストテレスは、
 プラトン(そして当然ソクラテス)を、
 根本的原理的に否定した、
 と見なければならない。
 これは、西洋文明をそっくりそのまま、丸ごと有り難く押し頂くことを以て「主義」として居る、明治以降の日本の知識人にとって、
 重大な問題、
 ではないのだろうか。
 ところがそうではなかったのだ。
 私はこの手品に、今、気付いた。

◆  第六章

 イエス・キリスト

▲(一)

 ごく最近の調査によれば、
 日本人でキリスト教の洗礼を正式に受けた信者は約一パーセント、
 信者ではないけれども、キリストに何らかの親しみ、共感を抱いて居るものが約五十パーセント、
 だそうである。
 つまり、四百五十年、西洋がキリスト教布教のために莫大な戦力を投入したにも拘わらず、
 キリスト教信者は一パーセント、
 イエス・キリストを唯一の神(神の子)として信じる日本人はきわめて少ない。
 しかし、イエス・キリストを、
 八百万の神々の中の一神(一柱)として加えるか、
 または、一人の聖人として、人生の教師たるべき一人格者として、
 まあ、多少とも肯定的に評価することに吝$やぶさ$かではない、
 と言う日本人は、かなり多い(約半分)。
 残りの半分は、キリスト教にも、イエスにも、

◎^(1)^無関心であるか
^(2)^何らかの意味で批判的であるか
^(3)^ないしは、積極的に、否定的である(例えば、聖母マリアが処女でイエスを身ごもり、出産した、など、単なる迷信に過ぎない、と多くの日本人は心の中で思って居る)。

 これが、日本人のイエス観であろう。
 西洋のキリスト教徒は、こんな「ふざけた」態度は容認出来ない。
 本来、一神教のひとつとしてのキリスト教は、
 排他的であって、
 イエス・キリスト(三位一体)以外の神仏を、邪教として排斥する。
 日本人キリスト教徒も、本当なら、
 日本の神仏はすべて邪神邪教だ、
 日本の神社仏教寺院は悪魔のすみかだ、
 と公言すべきだが、
 今のところ、不利なので、黙って居るのか、それとも、別の考えがあるのか。
 キリスト教は「宗教」であって、「哲学(そして科学)」とは関係ないだろう、
 と、何となく日本人は思い込んで居る。
 しかしそれは全くの間違いだ。
 西洋は、イエスの生まれた年を元年とし、それ以前をBC$ビフォア・クライスト$(イエス・キリスト生誕以前)何年、それ以後をAD(イエス・キリストが君臨してから)何年、
 と表記し、遂にこの百年くらいの間に、
 この年号は全世界(キリスト教を信じないすべての人々を含む)にあまねく用いられるようになる。

▲(二)

 キリスト教に縁のない大方の日本人も、今では、「便宜」のために、キリスト紀元を常用する。
 この意味では、日本人は、百パーセント、キリスト教文明の支配下に置かれて居る、との見方も成立する。
 日本が千五百年間、「文明」の模範として来たお隣の中国は、前漢以来、歴代王朝が年号を制定し、これによって正史が記録された。
 清朝が滅亡すると、中華民国が建国された年を元年とし、民国何年、と称して居る。
 しかし、中国共産党が中華人民共和国を建てたあとは、中国は、西暦を公式にも使用して居る。
 仏教徒は、釈尊誕生、または釈尊入滅を起点とする暦を使うが、その勢いは、甚だ弱い。
 イスラム教徒は、マホメットの立教(西暦六一〇年)を起点とする年号を持って居る。
 イスラム国では、このマホメット暦を基準とし、キリスト歴も兼用されて居るのであろうが、しかしイスラム圏外ではその暦は通じない。
 日本は、孝徳天皇の御代に「大化」の年号を立て、明治以降は一世一元の制とし、今日に至って居る。
 今日の日本人の常識は、こんなところであろう。
 しかしこれも、事実と著しく異なる。
 イスラムは、イエス・キリストを預言者【神の言葉を預かって人々に知らせる者、の意】の一人として尊敬し、マホメットを、アブラハム以来の一連の預言者の最後に出現した預言者、と位置付ける。
 つまり、イスラムとキリスト教には、疑いようのない連続性がある。
 そしてこの連続性は、旧約聖書に由来する。
 キリスト教徒にとっては旧約だが、ユダヤ教徒にとっては、「トーラー」、または単に「聖書」である。
 この事実も、日本人にとっては、必ずしも常識ではない。

◎「キリストの土地で、キリスト教が死んで行く$In The Land Of christ Christianity Is Dying$(グレース・ハルセル、「ミッドナイト・メッセンジャー」一九九六年九,十月号)、
 とは何のことか。
 殆どすべての日本人(キリスト教徒を含め)は、そんな言葉は耳に入らない。
 キリストの土地、とは、イスラエル国のこと、
 そのイスラエル国で、今、キリスト教が死につつある、
 と言う。
 なんとなく、自然に死んで行くのであろうか。
 もちろんそうではない。

▲(三)

◎「一九八〇年三月二十三日、エルサレムに於て、イスラエル政府宗教者によって援助資金を与えられている、^”^ヤド・レアキム^”^というユダヤ教の宗教組織が、数百冊の新約聖書を燃やす、公開の儀式を挙行した」(イスラエル・シャハク著「ユダヤの歴史と宗教、三千年の重み」二十一頁、一九九四年)、

 とは本当か。
 「タルムード」は、ユダヤ教徒に対して、新約聖書が手に入った場合、出来れば公開で、それを燃やすことを義務付けて居る、
 前記の一件はこのタルムードの規定に基づく、
 とも言われる(同上)。
 この著作の著者、イスラエル・シャハクは、一九三三年、ポーランド・ワルシャワ生まれのユダヤ人、少年時代にナチスの収容所、一九四五年イスラエル移住、同国の軍務にも服し、ヘブライ大学教授(化学)を経て、現在もイスラエルに住む、
 との経歴を持つ、反シオニスト・ユダヤ教徒、
 と紹介されて居る。
 つまり、現在のイスラエルの国家権力は、キリスト教を単に敵視するのみならず、キリスト教を禁止し、根絶する国是を立てて居るらしい。
 しかし、私は、イスラエルに於ける新約聖書焼却に、ローマ法王庁など、キリスト教各派が何らかの抗議、対抗措置を取ったとは聞いて居ない。
 ここから、次の二つの結論を導き出すことが可能だ。
◎ 第一、ユダヤ教は、キリスト教の成立直後、否、イエス・キリストの出現と同時に、その根絶のために総力を傾けて来たこと。
 第二、今日のキリスト教は、ユダヤ陣営によって、「新約聖書公開焚書の刑」を受けても、一言の抗議を発することも出来ないほど落ちぶれて居ること。つまり、ユダヤ教の勢力がそれだけ大きくなって居ること。
 しかし、この現実をそのまま報道することは、欧米に於てのみならず、日本に於いてさえ、禁制$タブー$である。
 日本のマスコミは、それを知らないか、または、知って居ても報道しない。
 クリントン米大統領は、昨一九九五年十月、イスラエルを公式訪問した。
 しかし、米国では「キリスト教徒」と称されるクリントンは、イスラエルで、ただ一人のキリスト教徒とも会見せず、ただ一つのキリスト教会をも訪れず、キリスト教の聖地をも訪問しなかった。
 クリントンはその行動によって、彼が、キリスト教徒でなく、シオニストであることを実証した(「ミッドナイト・メッセンジャー」一九九六年九,十月号)、
 との批評がある。

▲(四)

 日本が幕末以降、今日に至るまで、学術の模範として来た西洋の大学には、二つの異質な系列が含まれて居る。
 一つは、キリスト教神学(神学部)であり、
 二つ目は、ローマ法(法学部)である。
 ヨーロッパ最古の大学群(イタリーに幾つか、フランスに若干、ドイツ、オーストリア、スペインその他)は、

◎^(イ)^ローマカトリック教会の修道院から生長した、総合大学の原核としての神学部、
^(ロ)^ローマ法を教授する目的で、全キリスト教ヨーロッパから学生を集めた法学部(その卒業生が、各国の官僚大臣などに出世した)、
^(ハ)^そしてこの二者から派生したその他の学部、

 から構成される。
「哲学はキリスト教神学の侍女」と言われた。
 つまり、キリスト教神学の助手、神学を支える部分品の一つ、
 との位置付けである。
 だが、果たして、イエス・キリストへの帰依を実践する筈のキリスト教は、「権利」概念を中核とするローマ法体系と両立し得るものであろうか。
 ザビエルの襲来からこの方、唯の一人の日本の知識人学者作家も、この疑問を発しなかった。
 ローマ法は、キリスト教本来の精神と無縁であるのみならず、国家論に於て、相容れない。
 キリスト教は、神の国を建てようとする。
 天上で行われる至善なる掟を、悪魔の支配する、悪に充ちたこの地上にも行われるようにしたい。
 これがキリスト教の根本原理であろう。
 従って、地上に於けるイエス・キリストの代理人としてのローマ法王と、その教会は、道徳的精神的に、遙かに高い次元から、俗世の悪に汚れた国家を指導監督しなければならない、
 となるのではないか。
 つまり、「法」は神に由来する。
 神の法は、キリスト教会によって解釈されなければならない。
 或る種の神権国家、教権国家、と見ることも出来る。
 この様な、いわばキリスト教的法体系が、神なきローマ法の制度と両立する筈がない。
 本来のイスラムの国家構造は、キリスト教ヨーロッパのそれとは異質だ。
 イスラム国家はローマ法を入れて居ない。
 法はコーランであり、
 コーラン法の日常的解釈と適用は、イスラム法学者が行う。
 この制度は、ずいぶんと弱体化させられて居るけれども、なお、なんらかの程度で、イスラム圏の諸国に残存して居る(最も濃厚にイスラム法の伝統を保持して居るイランから、最も遠くそれから離れたトルコまで)。
 日本人は、このあたりのことを何一つ、教えられて居ないが。

▲(五)

「キリスト教国」の正当な国家体系は、

★DMN_6A.JBH

 と表記出来る。
 しかし、この種の理想型キリスト教国家が、この世に姿を現した実例を、キリスト教徒は、示すことが出来るであろうか。
 ジョン・コールマン博士は、

◎^(イ)^キリスト教の精神を本当に体現した国家樹立の計画は、ことごとく失敗した。
^(ロ)^十三世紀末から十四世紀初めにかけて、ダンテの一党がそれを試みたが敗北した。これは、史上、最も高く評価される、キリスト教国家建設の動きであった。

 と言う風に述べて居る(同博士のモノグラフ)。
 この指摘は、西洋史の急所に触れる、きわめて重要なものである。
 しかし、日本民族は、今日まで、一度も、この問題を深く思索したことがない。
 ダンテは政治闘争に敗れて亡命し、
 西洋文学最高の古典と表されるあの「神曲」を彫刻**でよろしいですか?畑田**した。
 日本にも、何人かの「ダンテ学者」が生まれ、「神曲」は、ともかくも、邦訳されては居る。
 そこでは、何人もの当時のローマ法王が地獄に堕されて苦しんで居る。
 これは、ダンテの誹謗なのか。
 否、そうではない。
 ダンテによって筆誅を加えられたローマ方法の悪徳ぶりは、天下に明らかであった。
 これは奇妙なこと、有り得べからざることだ。
 これでは、

★DMN_6B.JBH

 と言う構造が成り立たない。

▲(六)

 西ローマ帝国滅亡(西暦四七六年)後、数百年の間に、ほぼ全ヨーロッパの「蛮族」の長がキリスト教(東西の正教)に改宗し、それらの国の一般国民も続いた。
 ロシアの東方ギリシャ正教改宗一千年が、つい最近、祝われて居る。
 フランスは、カトリック改宗千五百年を迎える(これは最も早い)。
 東ローマ帝国は、それから一千年以上生き延びた、
 と言われて居るが、これは正確ではない。
 北アフリカ、中近東、メソポタミヤ一帯の帝国領土が、殆ど一瞬の間に、イスラム化した、
 と言うかたちで、東ローマ帝国は滅亡したのである。
 そのあと、確かに、ビザンチンは約一千年続いたが、それは「ギリシャ正教」と言われるように、多分に、古代ギリシャ文明の遺産の恩恵を受けて居る。
 没落寸前のローマ帝国がキリスト教を受け入れたとき、キリスト教会の中で、幾つもの深刻な教義論争が行われた。
 その一つは、イエス・キリストの神性にかかわる。
 イエスに神性を認めるか、認めないか。
 イエスは人の子であると同時に神の子であるかどうか。
 イエスは人の子であるとともに、天に在$ましま$す唯一の、全知全能の造物主と同格なのか、そうでないのか。
 キリスト教徒でない普通の日本人は、こうした教義論争に、全く関心を持てない。
 けれども、西洋(そしてイスラム)にとっては、これはきわめて重大なことなのだ。
 キリスト教会は、「公会議【と訳されるが、百年に一度、数百年に一度、と言った感覚で開かれ、キリスト教の教義上の決定を行う。その権威はローマ法王の上にある。】」によって、
 イエスの神性を認めた。
 つまり、イエスは全知全能の神と同格であり、従ってイエスも、父なる神と同じく全宇宙の(全地球と、そこに住む人類すべての)「主」とされる。

 主なるイエスは、@神の子として生まれ、A人の子として現れ、B人類の現在をつぐなって十字架上で殺され、C復活し、のち、D天に上がり、やがて、E何時の日か地上に再臨し、最後の審判を行い、F至福千年王国を実現する、

 これが、キリスト教公式教義の要点である。
 どの一項目も欠くことは出来ない。
 キリスト信徒とは、そのすべてを一括して信ずる者(心の底からその通りに信じるか、生半可に信じるか、信ずるフリをして居るか、程度は色々であろう)のことである。

▲(七)

 しかしこの「教義」には、無数の問題が孕$はら$まされて居る(その故に、「神学」が必須となるのだが)。
 まず、「神の子」、と言うのだが、この「神」は、旧約聖書(またはユダヤ教)の「神」と同じ「神」なのか。
 周知の通り、モーゼ五書(「トーラー」)には、

◎^(イ)^エホバ、
^(ロ)^エロヒム、

 と言う、二通りの神(造物主、天地創造の神、全知全能の神)の名が出て来る。
 しかし、誰が読んでも明らかなように、モーゼ五書の中の神(天地創造の造物主)は、ユダヤ人(ユダヤ教徒)のみに恩寵を与える。
 ユダヤ人のみを選んだ。
 ユダヤ人を神(造物主)の民とし、
 その他の非ユダヤ人$ジェンタイル$を、神の選民$ゴッド・チューズン・ピープル$ユダヤ人に奉仕する奴隷、ないし家畜人と定めた。
 このことは、旧約聖書にも、或る程度表現されて居る。
 しかし、それは、タルムードとカバラに於て、詳細に展開されると言う。
 しかも、ユダヤ教徒(パリサイ派)は、イエス・キリストを、彼等(パリサイ派ユダヤ)の「神」を冒涜した重罪人として殺害することを決定し、ローマの権力をしてそれを実行せしめた。
 イエス御自身も、福音書によれば、繰り返し、パリサイ派ユダヤを、悪魔の子、として弾劾された。
 して見ると、イエス・キリストにとっての「天に在す父なる神」と、
 パリサイ派ユダヤにとっての「神」とは、
 同一の神、
 とは、とても思えない。
 ユダヤ教徒は、キリスト歴とは、別の暦を今でも維持して居る。
 キリスト歴一九四八年に、イスラエルが建国された(あるいは、ユダヤ式に言えば、イスラエルに帰還した、となるのか)。
 この年は、ヘブライ歴【正式には、ユダヤ歴、ではなく、ヘブライ歴、と呼称するようだ】五七〇八年に当たる、と言う。
 一九九六年の今年は、五七五六年と数えられる。
 キリスト歴元年は、ヘブライ歴三七六〇年か。
 これはどこに根拠があるのであろう。
 日本人は、この種のことについては、何も教えられて居ない。
 ユダヤ教は、キリスト教の三位一体の神【神、聖霊、神の子イエス・キリスト】を否認し、ユダヤの唯一の神のみが、普遍的(宇宙的)に受け入れられるであろうとする(ベン・ワイントラウブ著「ユダヤ主義のホロコーストの教義$ドグマ$〜新世界権力の要石」一六九頁)。
 して見れば、どうも、キリスト教の神と、ユダヤ教の神は、別のものであり、そしてそれぞれに、この宇宙の唯一の神、と主張するのであるから、必然的に、激しく葛藤し、衝突する筈である。

◎「我々ユダヤ人[ユダヤ教徒?]は、我々が、普遍的(宇宙的)宗教を所有して居ると主張する。我々が信じる信仰の根本は、ある日、全人類によって受け入れられるであろう。フリーメーソンと言う手段によって、出生と人種によってユダヤである我々ユダヤ人[ユダヤ教徒?]は、頭上の冠と、足下に踏む世界王国を以て、宇宙を支配するであろう」(「ユダヤのクロニクル」一九三七年三月二十六日号より。「ユダヤ主義のホロコーストの教義$ドグマ$」九十六頁)、
 とは、何のことか。
 かくの如き主張を公然と行うユダヤ教徒、イエス・キリストの教会とは、
 一体、如何なる関係を持ち得るのであろうか。

▲(八)

◎「出生と人種によってユダヤである我々ユダヤ人」、

 と言うけれども、これを正確に観察すると、

◎「ユダヤは一般的には、彼等自身を、宗教的共同体、または、もっと厳密に言えば、宗教的民族$ネイション$として規定する」(イスラエル・シャハク著「ユダヤの宗教と歴史、三千年の重み」、一〇四頁)、
 とされる。
 この「宗教」とは何か。
 シャハク教授の著作によれば、ユダヤの支配権力(シオニスト・ユダヤ、シオニスト・ラビ)は、「ユダヤ人」を四つの階級に分ける。
 即ち、

◎@,最低階級^:^無知無学なるもの
A,聖書(キリスト教で言えば旧約聖書)だけを知る者
B,ミシュナ(タルムードの初歩)を知る者
C,最高階級^:^ゲマラ(タルムードの上級)を良く知る者

 と言う風に。
 つまり、彼等の「宗教」の本義は、タルムードであることが分かる。
 中世後期の、高名なユダヤ教学者マイモニデスによると、
 すべての非ユダヤ人$ジェンタイル$の女は次の四つの特徴を持って居る。

◎@,月経(の汚れ)から清められて居ない(niddah)
A,奴隷である(shifhah)
B,非ユダヤ人$ジェンタイル$である(goyah)
C,売春婦である(Zonah)

 非ユダヤ人の女が、ユダヤ教に改宗したらどうなるのか。
 彼女から、@ABの三つの特性は消える。
 しかし、彼女には死ぬまで、「売春婦」としての特性が残る。何故なら、彼女は、非ユダヤ人の母親から生まれたからである、
 となるのだそうだ(前出、一一六頁)。
 ユダヤ教の社会には、ユダヤ人そのものについての、二つの評価軸がある、と受け取れる。
 一つは、その人間が、ユダヤ教徒の母親から生まれたかどうか、そして、その系譜をどこまで遡$さかのぼ$れるか(遠いほど価値が高い)。
 二つは、その人間のユダヤ教「研修(?)」の程度はどうか(前出のように、まず、四つの階級が設定されるが、更にその奥がある筈だ)。
 日本人が、いくらこの種の問題について鈍感であっても、
 かくの如き様相を呈するユダヤ教徒、
 福音書に見るイエス・キリストの教えの間に、
 深淵が横たわって居る、
 との印象は抱くのではないか。

▲(九)

 ルフェーブル大司教が、一九八九年、現代化されない伝統的カトリックキリスト教$ノン・モダナイズド・カトリシズム$を非妥協的に死守して居る、との理由で、ローマ法王から破門されたとき、同大司教は、カトリック教会が、フリーメーソンとシオニストに乗っ取られてしまった、と明言した(レイ・ジョルジェビッチ著「長い間引き延ばされて居るキリスト教徒の反乱」、一三七頁)、
 と聞く。
 これは本当か。
 日本人には、これは、非常に遠い国の話のように聞こえる。
 しかしそうではない。
 ユダヤ教によれば、人類には二種ある。

◎ 第一種は、神の選民たるユダヤ人であり、このユダヤ人のみが人間である。
 第二種は、猿の子孫、猿から進化した(ダーウィン説)ユダヤ人以外の人間$ジェンタイル$であり、これは動物$ゴイム$である(ベン・ワイントラウブ著「ユダヤ主義のホロコーストの教義$ドグマ$」一〇六頁)、

 この説は果たして本当か。
 ユダヤ人は、何のために、何をなすべく、神によって選ばれたのか。
 全世界に、動物に過ぎない非ユダヤ系のすべての人間の支配者となるために。
 と言うことは、我々日本人も、必然的に、または自然必然的に、神の選民たるユダヤによって支配されるべき動物(動物人間)である、
 と解釈され得る。
 そう言えば、旧約聖書創世記に、
 人は神の姿$イメージ$に似せて神によって作られた、
 と記してある。
 ユダヤ教(タルムード)によれば、
 神の姿によって作られた人間とは、ユダヤ人のことであり、ユダヤ人のみである。
 ユダヤ人以外の人間は動物である(動物として、神によって作られた)、
 と、この部分を解釈するようだ。
 イエス・キリストはどう言われたか。
 日本は、いわゆる「キリスト教国」ではないから、日本人は、この手の神学論争には全く興味が持てない。
 けれども、漠然と、
 イエスの人間解釈は、ユダヤ教の人間解釈と氷炭相容れない、
 イエスは、ユダヤ人のみ神に似せて作られ、非ユダヤ人は動物である、とは説かれなかったのではないか、
 ぐらいは感じて居るであろう。
 シャハク教授によれば(「ユダヤの歴史と宗教〜三千年の重み」五十頁以降)、ユダヤの歴史は、四つの局面に大別される。

◎ 第一、キリスト歴前五八七年、バビロニアによるエルサレム神殿の破壊と、バビロン捕囚期までの、古代イスラエル・ユダヤ王朝期。
 第二、パレスチナとメソポタミヤに、二つのユダヤの中心が存在した時代。概ね、キリスト歴前五三七年のバビロンからの帰還から、キリスト歴五世紀頃まで(この時代に「バビロニア・タルムード」が編集された)。
 第三、古典的ユダヤ主義(「正統派ユダヤ教」も、古典的ユダヤ主義と関連する)、と呼ばれる時代。キリスト歴五世紀から十八世紀末まで。
 第四、現代(十八世紀末からの二百年)。この時代に、シオニズムが登場する。

 このシャハク教授の要約を受け入れるとすれば、日本人が最も注目し、注意しなければならない、そして今日まで、最も知識と思索が不足して居る時代は、第二期の一千年、であろう。
 言うまでもなく、イエス・キリストの出現は、この時代の事件である。
 そこに於て、ユダヤの二つの中心があった、
 との、シャハク教授の言を、日本人は、肝に銘じて置かなければならない。
 パレスチナで、幾度も、ユダヤは、ローマ帝国との軍事衝突を起こし、遂に、ローマ軍によって、ユダヤのエルサレムは完全に破壊された、
 そのことが、強く、印象付けられて居る。
 しかし、メソポタミヤのもう一つの中心は維持されたのだ。
 私は、日本人の殆ど全員が、この史実を教えられて居らず、従って無知である、
 と見て居る。
 この時期、特にその後半(それは、イエス・キリストの布教、その刑死、復活、キリスト教会の伸張の時代と、ピッタリ、重なる)に、問題の「バビロニア・タルムード」が完成されたのだが。

▲(十)

◎「一九八六年にこの法王[ヨハネ・パウロ二世]は、ローマのユダヤ教会堂に於て、ユダヤ教はキリスト教の^”^兄^”^である、と言明した。しかし、イエス・キリストは決して、そのような見解を示しはしなかった。むしろイエスは、^”^アブラハムの前に、私は在った^”^と言い、また、パリサイ派を公然と弾劾し、パリサイ派がイエスの伝道への怒りを増大させつつあることを察して、彼等パリサイ派から身を隠された」(「ユダヤ主義のホロコーストの教義$ドグマ$」六十六頁)、
 との指摘は、今日の日本人には非常に貴重だ。
 イエスが、
 私はアブラハムの前に在った、
 と言われたとはなんの意味か。
 ノアの子、セムの子孫、アブラハムは、旧約聖書に、かなり詳しく描写される遊牧民の族長であり、エホバ神を信奉する(エホバに守護される)ユダヤ(イスラエル)の民の父祖、とされる。
 但し、アブラハムに二人の息子あり、
 一人がユダヤ(イスラエル)の祖、
 もう一人がアラブ人に繋がる、
 との説である。
 つまり、キリスト教の由来は、アブラハムより、従って、いわゆるユダヤ教より古い、
 と言われて居るのである。
 日本人は、そんな系譜物語は、何度聞かされても頭に入らないし、我々日本人には無縁だ、と、内心、思って居るに違いない。
 けれども、これは、どうでも良い枝葉末節、ゴミのような「情報」の一片、ではない。
 日本人が直面する「西洋文明」の本体と命運にかかわる重大問題だ。
 近年、欧米人は、
 反セム主義$アンチ・セミティズム$、
 と言う、レッテルを貼られる(シオニスト・ユダヤ勢力によって)ことを、異常なまでに恐怖するようだ。
 日本人にはその感覚(空気)が全く分からない。
 それで、「反セム主義」を、「反ユダヤ」、と日本語に意訳する。
 しかし、これは、原語(アンチ・セミティズム)の意味とは違う。
 ノアは、エホバ神によって認められた正義の人である。
 ノアの三人の息子の一人、セムは、ノアの正統を継ぎ、そしてセムの子孫に、アブラハムが出て、このアブラハムが今日のユダヤとアラブの祖である、
 となって居る。
 ユダヤを批判することが、セムに反対することになる、ひいては、ノアに、そしてエホバ神に反逆することになる、
 とは、何とも、無理な理屈の付け方だが。
 ユダヤ人(ユダヤ教)は、アブラハムを経由して、セムの正当な継承者である、
 セムを媒介としてノア、
 ノアを通じて、天地を創造したエホバ神に直通する選民である、
 従って、ユダヤに逆らうことは許されない、
 ユダヤに反抗することは、神への反抗に繋がる、
 「反セミティズム」の語は、この様な含意を以て、十九世紀の末から、シオニスト・ユダヤ陣営によって多用されることになった。
 だが、この枠組は、イエス・キリストの殺害を計画したパリサイ派ユダヤの論理そのものである。
 それ故、この論法で行けば、
 イエス・キリストこそ、「反セミティズム」の元凶(^↓^エホバ神に反逆する邪悪なる者)、とされねばならず、
 福音書を中心とする新約聖書は、反ユダヤ(^↓^反セミティズム)の極悪の書、として断罪されるであろう。
 当然、真の意味のキリスト教会は地上から一掃されねばならず、イエス・キリストをまともに信じ、本心から従う者たちは、
 「ノアの七つの法」によって、打ち首にされなければならない、
 とは、現在の日本人にとっては、奇想天外、予想を絶する展開だ。
「ノアの子供たち$B'Nai Noah$」が、今、北米のキリスト教徒の中に広まって居る。
「ノアの子供たち$ブナイ・ノア$」とは、イスラエルのエルサレムに本拠を置く、非ユダヤ人$ジェンタイル$のためのユダヤ布教運動であって、
 ノアの洪水のあと、神がノアに与えた七つの法に、すべての非ユダヤ人$ジェンタイル$は服従しなければならない。
 父なる神、神の息子、聖霊、と言うキリスト教の三位一体は、神(ユダヤの神、エホバのことであろう)、イスラエル、トーラー【ユダヤ教では、キリスト教の旧約聖書を、この様に呼ぶ】、によって置き換えられねばならない、
 などと言われる(M・A・ホフマン二世「リサーチャー」第四巻第一号、一頁)。
 ここに出て来る「ノアの七つの法」は、タルムードに示されて居る。
 ユダヤ教によれば、キリスト教は偶像崇拝であり、偶像崇拝は、ノアの七つの法では重罪の一つである。
 故に、今や、キリスト教を廃棄して、ノアの子供たち$ブナイ・ノア$教会に導き入れねばならず、
 あくまでも、イエス・キリストを信じる者たちは死刑にしなければならない、
 との枠立てが準備されて居るもののごとくである。
 「ノアの子供たち」運動の創始者は、タルムードの権威、ラビ、P・ヘイマン$Hayman$、だと言う。
 もしこうした叙述が正しいとすれば、
 日本人のイエス・キリストと、キリストの教会についての知識のすべてが覆される。我々は一から、やり直さなければならないのか。

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