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トランスパーソナル理論入門?
投稿者 するめいか 日時 2002 年 11 月 26 日 11:07:18:

★どうも良く理解できないのですが、戦争狂や経済モンスターのような毛唐の魂を救済しうるものではありそうです。★

珍太郎:はじめまして。私はこのほど、まんだら浩へのインタビューをすることになりました「珍太郎」ともうします。今後いろいろなページに登場してくると思いますが、よろしくお引き回しのほどお願いいたします。
まんだら浩:こちらこそ。変わったお名前ですね(人のことは言えませんが)。

珍:で、さっそくですが、今日のテーマは「トランスパーソナルとは、要するに」というものです。前にもそうしたページがあったのですが、あれはちょっと飛躍があって、独断的ではなかろうかという印象もあったので、セッション形式でやり直してみようという企画でして・・・

ま:そうでしたかね?

珍:そうですよ、たとえばこの文章ですが、

トランスパーソナルとは、「霊性」を含めてトータルに人間の意識を捉える立場です。意識の究極には、アジアの宗教で「空」「無」などとも呼ばれている「絶対」があり、それを含めた「多重的意識=存在モデル」を考えます。
これ、最初っからなんだかさっぱりわからないでしょう。
ま:いや、そうでもないと思うんですがね・・ たしかに、こういったものが出てくる背景のようなものを解説しないと納得はしないでしょうね。それには、吉福伸逸さんの『トランスパーソナルとは何か』(春秋社)を読めばいいと思うのですが、それだけでは不親切ですから、ちょっとやりましょうか。

珍:ぜひお願いします。


ヨーロッパ近代の知〜科学主義をめぐって
ま:まず大きな流れとして捉えると、「学問とは何か」というところから始まりますが・・
珍:えっ、そんな大きなところからですか。

ま:そうです、まず私たちが通常「学問」として認識しているもの、そうした「知の枠組み」の起源はどこにあると思いますか?

珍:いきなり大上段に来ましたね。

ま:これは村上陽一郎さんの一連の科学史の本を読んでもわかると思うのですが、いま通用している「学問」とか「科学」というのは、けっして万人に妥当する「普遍的」なものではなく、一つの「パラダイム」を前提とした知の秩序であるということです。このことをまずしっかり理解していただかないと、これからの話がわからなくなります。

珍:パラダイムですか? なんか聞いたことはあるな。

ま:通常、学校で習うような「科学」というのは、データの実証に基づいて「客観的に正しい」理論を解明しようとするもの、と理解されています。しかし現実には、「パラダイム」という、いわば科学の方向を示す「基本的なものの見方」--あるいは、「パースペクティブ」といえばいいですかね--があって、それが科学を創り出しているのです。これは科学史家のトマス・クーンの説ですが、現在は基本的にこれが受け入れられています。

珍:つまりそれは、科学というのは「客観的な」ものではなく、「一つの見方」にすぎない、ということでしょうか?

ま:「すぎない」というのは一つの価値判断なので妥当な言葉ではありませんが、客観性というのは実は、科学者の間の「共同主観性」に他ならないのだ、というのが、現在の科学認識論の基本前提なのです。ですからここでは、生の「データ」というものは存在しないのです。「データ」というのは「パラダイム」があって初めて意味を持つのです。

珍:というと、「データに基づいて仮説を検証する」という考えは誤りなのですか。

ま:そうではありません。どういう「データ」を収集するのか指示するのはパラダイムの役割なのですが、その結果集まったデータがパラダイムと矛盾する場合が出てきます。そういうときは、なんとか既存のパラダイムでそのデータを解釈しようとするのですが、それも限界に来ると、パラダイムそのものの見直しが行われます。

珍:そうやって進歩して行くわけですね。

ま:そういうことですね。ここでのポイントは「すべての科学的認識は一つのパラダイムを前提としており、いかなるパラダイムからも自由な絶対的客観性というものは存在しない」ということになります。ここまではいいですね?

珍:まあだいたいは。

ま:この「パラダイム論」は、トランスパーソナルを理解するための一つの前提です。このことがわかってないと、トランスパーソナルは「科学的でない」という発想が出てきてしまうのですね。まず、何をもって「科学」とするのかどうか、ということでコンセンサスがないと議論は不毛ですね。今の自然科学者の多くはパラダイム認識論を理解していない人が多く、現在自分たちがやっている科学のパラダイムを「客観的なもの」と考えています。具体的に言えば、「物質至上主義」といいますか・・

珍:そのへんは少し詳しく説明してください。

ま:つまり、自然科学者の多く、そして一般的な学校教育を受けた現代日本人の「科学」の見方はひじょうに限られたものだということを自覚する必要があるということですね。多くの人は「あらゆる現象を物質の次元に還元する」ことが科学的である、という見方に立っています。つまり、意識とか心の現象は、「脳」という物質的な器官の産物だということになります。また、世界のすべての現象は「必ず」物理的法則に従わなければならない、ということになります。「物質の世界」--五官およびその延長として計測機械で知覚しうる範囲の世界が唯一の実在であり、それ以外の、心や意識の世界は、その派生物であるということになります。そういう見方をすることが「科学的」であるという理解が、かなり蔓延しているように思います。

珍:つまり唯物論ということでしょうか?

ま:まあ、「唯物論」という言葉をどのように理解するかにもよりますが、一般的に言う意味での、つまり物質次元を唯一の実在と考える立場、と解すれば、そういうことになるでしょう。この立場から「心」を見るのが、いま大学で一般に教えられている「心理学」ですね。これは「行動心理学」と呼ばれ、人間の心理を「刺激と反応」というパラダイムで捉えようとするものです。しばしばネズミによる実験で人間の行動を研究しようというので、擬人主義 anthropomorphism になぞらえて 擬鼠主義 ratomorphism という悪口を言う人もいますが(たとえば村上陽一郎先生ですが・・)。ま、「心」は物質の派生物という見方に立てばそういう心理学が成立することになりますが、「心」にかんする研究をしたいと思って心理学を専攻した学生は、大いに失望を味わうことになるでしょう。

珍:それでトランスパーソナルというのはそういう見方に反対するわけですね。

ま:まあそうですが、話は順番に。まず、このような物質へ還元する見方は、「物心二元論」というデカルトによって完成した世界観に基づいていること、このことも思想史的な常識として知っておいてください。デカルトは精神を物質に還元しようというつもりはなかったのです。むしろ精神の領域を純粋なまま守ろうとしたのでしたが、あとの科学者たちは物質の名の下に精神を否定するところまで行ってしまいました。近代ヨーロッパの思想史は、こうした激しい科学的唯物論の進展と、それに対抗しようとするさまざまな思想運動、という図式をとります。それは現在も継続しています。ここで押さえておくべきことは、科学的唯物論も一つの「思想」であり、一つの立場であるという点です。もしそれを「客観的」だと考えるならば、それは一つの思想的立場を無批判的に真理として受容しているということに他なりません。

珍:どうも言い方がすこしむずかしいような気がしますが、なんとなくはわかります。それで、唯物論に対抗する思想運動というのは? トランスパーソナルもその流れの中にあると言いたいらしいですが。

ま:さすが珍太郎さんですね。しかしこれを全部語ると「現代思想史講義」になってしまって、いつになったらトランスパーソナルにたどり着くことやら、ですね。まあ、カントにはじまる批判的認識論により、唯物論の根拠は成り立たなくなっています。カントの要点は「物そのものというのは認識の対象とはならない」ということですが、唯物論は物質と言っているが、それはあくまで「こういうのが物質だ」という一つの見方によって成立しているのにすぎない、というわけですね。つまり唯物論者の言う物とは実は観念なのであって、物それ自体をつかまえているわけではないのです。

珍:物とは観念である? ・・なんだかわからなくなってきたぞ。

ま:このカントの認識批判は後期フッサールにおいて一つの帰結を見たようですね。物は観念と言いましたが、もっと正確に言えば「共同主観」なのだ、ということになりますですね。これは科学者の認識に限りません。あらゆる認識は「共同主観」という枠組みの中で成立する、と喝破されたのです。これが「パラダイム論」の哲学的根拠です。つまり、私たちが「実在」だとしているものが、私たちが実在すると思っているからあるのだ、ということです。言うなれば、「我々思う、故にそれあり」 cogitamus ergo est というわけです。

珍:うーん、ちょっと教養をひけらかしすぎか、という感じもありますが。しかしそれはちょっと、仏教で言う「世界は幻である」ということと似ているような気がしないでもないですね。

ま:まさにそうなのです。そのことは後ほどとりあげましょう。ま、こういう「共同主観的認識論=存在論」が現代の哲学のテーマであり、私はよく読んでいませんが廣松渉などもそういう思想を展開したことはご存じかもしれません。これはまたレヴィ=ストロースや山口昌男、ビクター・ターナーなどの構造主義や文化記号論(まだその先駆としてのフランス社会学派)、シュッツやピーター・バーガーなどの現象学的社会学といった学問を生み出していることも指摘できますね。ですからクーンのパラダイム論も、こうした大きな思想潮流の中で、当然出てきたものだと思うのですよ。一部の自然科学者はいざ知らず、こうした人文諸科学では、すでに主観・客観、精神・物質という二元論で思考してはいません。そういった「何が精神で、何が物質なのか」というカテゴリー化そのものを決定しているのが、共同主観的な認識の枠組みとしてのパラダイムなのだ、と考えられるのです。

珍:しかしそうすると、どういうパラダイムをとるかは、まったく根拠なく、各自(あるいは各社会)の恣意的選択だということになりませんか。

ま:恣意というか、自由だということでしょう。そこに「価値」の問題が出てきます。ある時点、ある場所において、AのパラダイムよりBのパラダイムのほうがよい、という判断は、究極的には価値判断です。もちろん、データとの対応がまったくでたらめであるパラダイムは駄目ですが、どういうデータが重要なのか、説明されねばならないのか、ということもパラダイムが決定します。たとえば「超能力」ということが十分に説明されるべきだ、と考えるパラダイムもあれば、そうではないパラダイムもあるでしょう。そもそもデータとして認めるかどうかさえパラダイムにより異なります。まあ最終的には「神々の闘争」であって、客観的にどれが正しいか決めることはできません。根本的には個々人の価値の問題であり、その価値がどこまで多くの人と共有されるのか、ということになります。価値判断の介在しない認識などありえないのです。もし「価値から自由なのが科学だ」などと言うなら、その人は20世紀の知の流れを全く勉強していないとしか思えません。


ユングの意味
珍:それはわかりましたが、まだトランスパーソナルの話にはならないんでしょうか?
ま:今から始めます(笑)。ただ、あまりにも多くの人が無批判的な科学至上主義に埋没していますので、そこをよく考えてもらわないとトランスパーソナルに対する正しい判断はできないと思ったのです。まあ村上陽一郎の本をよく読んでください。科学至上主義の解毒をしないと、なかなかトランスパーソナルのような根本的に異なるパラダイムを理解するのは難しいでしょうから。・・さて、そこでですが、さきほど、行動心理学のことを話しましたね。

珍:ええ。たしかにああいう心理学はつまらないですねえ。

ま:それが価値判断です。・・まあそう考える人ははなはだ多いですね。そこで、フロイトやユングのことは聞いたことがあると思います。

珍:ええ。「無意識」ってことですね。

ま:行動心理学では刺激・反応だけで考える(外側から観察しうる対象のみを扱う)ということですので、心の中身はブラックボックスなのですね。心の内側に入っていく方向がフロイトによって始まったわけです。無意識の発見ですね。そこで、フロイトは主に無意識を幼児期の性的抑圧によるものと考え、ユングはそれよりも幅広く、「個人的無意識」に加えて「集合的無意識」があると考えた、ということもご存じですね。

珍:私は知ってますが、読者みんなが知っているとは限らないと思いますが。

ま:そういう人はここまで読み進む前に投げ出しているに違いない(笑)と思うんですが・・ まあ、フロイト・ユングはこうした学問を「科学」として認めてもらいたいという指向が強かったのですね。ユングなぞは完全に霊媒的資質を持っていて、いろいろ霊的体験をしているのですが、それを表に出さず科学のかっこうを作ろうと苦労したようです。それでもユングの心理学はそれまでの「科学」(これは括弧つき、つまり「体制科学」を言います)をずいぶんハデにはみ出しているようですが。

珍:そういう話は聞きますが、たとえばどんな点が?

ま:要するに、ユングの理論をつきつめていくと、「心というのは個人の枠を超えて拡がっている」ということになります。集合的無意識とはそういうことですよね。

珍:ということは、「個人のレベルを超えた普遍的な心」が存在する、ということに・・

ま:当然、それを前提としてるわけですよね。まあ、心というか、「意識」と言ってもいいかもしれません。あるいは、意識という言葉が「人間の覚醒時の意識状態」を指すのならば、「超意識」と言ってもいいかもしれませんが。そして個人個人の心は、この超意識から派生してきているという見方もできます。

珍:それはすごいですね。

ま:確かに近代的な学問からすればすごい発想なのですが、実は科学以前の思想にはかなり普遍的にこういう考えはあります。ユングは直接的には、錬金術やグノーシスの研究を通して新プラトン主義の思想の影響を受けたと思うんです。元型という概念も新プラトン主義から来ているように思います。

珍:そういうところが、ユングがトランスパーソナル運動の母胎だとも言われる点なのですね。

ま:その通りです。ユングには、トランスパーソナルの主要なポイントの多くが萌芽として含まれていますね。まず、「個人レベルを超えた意識の層」が存在するという仮説--これが trans-personal という言葉そのものが意味するところですよね。もう一つは、その層というのが「霊性」(これは spirituality という言葉の訳語として使います)の次元であるということ。ユングは人間の「霊的次元を含めた自己変容」を中心テーマとして設定した、ということです。これもフロイトにはなく、ユングで確立した視点です。三番目は、それに関連して「過去の霊的伝統の再評価」というテーマが浮上してきた、ということですね。これについては、湯浅泰雄先生の『ユングとキリスト教』(講談社学術文庫)および『ユングとヨーロッパ精神』『ユングと東洋』(ともに人文書院)という名著がありますので参照していただくとしまして・・(この視点は臨床をやる人にはあまり受け継がれていないようなので、ユングの今日的意味を考えるために湯浅さんの仕事を十分参照したいと思いますね)。

珍:それをひっくるめて私は「スピリチュアル・ルネッサンス」と名づけたいのですが、どうでしょうか。

ま:おっ、いいですねえ(笑)。それと私はもう一つポイントを指摘しておきたいと思います。それは、ユングは「魂の次元」に固有な認識というものを打ち出していくという意味も持っていたと思うんです。つまり、魂の次元は、物質の次元と研究するのとは全く違った方法論と、パラダイム、認識枠組みが必要である、ということがユングにおいて明確になったと思います。

珍:魂の次元と物質の次元が違うのは、当たり前じゃありませんか。

ま:それが当たり前と思わない人がいるのですよ。物質次元の認識方法でわからないものは駄目だし、科学的じゃないというのですからね。まあ別に「科学」という呼称にこだわる必要はありません。問題は内実ですから。事実、ユング派の分析は一つの「アート」であって、同じものを分析しても、人によってぜんぜん違ったものになるのは当たり前とされます。物質科学の方法は「反復可能性」と「数量化」なのですが、魂の次元の学問はそうした基準にこだわる必要はない、ということです。


トランスパーソナルの登場
珍:トランスパーソナルというのは、だいたいそういう流れの延長線上にあるということでしょうか。
ま:だいたいはそういうことです。これはいわば文明論的な「霊性復興運動」の一環であると私は理解しているわけです。ごく簡単に言えば近代ヨーロッパの著しく唯物的な知の体系への挑戦であるということです。その意味で言えばロマン主義的な衝動を受け継いでいます。そこで先にちょっと触れたように、仏教と似たようなところが出てくるのは当然なのですね。なぜかといえば、伝統的な世界観に含まれていた「意識は存在に先行する」という発想が、そこには組み込まれているのですから。

珍:「意識」というのは、普通言う意味とはちょっと違って、「超意識」のようなものだとさっき言ったと思いますが、それはもしかして「霊的」なものと関係しませんか。

ま:そこがトランスパーソナルの最大のポイントということになります。ユングにおいては「おそるおそる」カモフラージュされた形で出ていたものが前面に出てきた、と言いますかね。これはやはり、60年代のアメリカという環境が無視できない影響をもっているんでしょうね。いわゆる「ヒッピー文化」における、異質な意識経験への関心というものです。もっと言えばドラッグによる精神変容の経験ですが。この辺については初めにあげた吉福伸逸さんの本を一読することをおすすめいたします。

珍:ドラッグによる「サイケデリック」な経験というのは、過去の霊的伝統からすれば邪道なのでしょう。

ま:それはもちろんです。邪道であることは事実ですが、シャーマニズム、とくに中南米では、幻覚性植物をとるということが、一つの意識変成のきっかけとして用いられてきました。カスタネダのドン・ファンものにも出てきますし、まだLSDを使った変成意識研究で業績をあげたスタニスラフ・グロフの例もあります。いずれにせよ、60年代は、既成の文化価値に対する真正面からの挑戦がありました。トランスパーソナル運動も、そういうカウンター・カルチャー的な側面があります。しかし、トランスパーソナル運動は、少なくともその本質的な部分においては、ドラッグでラリっているようなものではなくて、近代西洋の「知」の秩序に対する挑戦、そして過去の霊的伝統の再評価というテーマを持っていました。これはカウンター・カルチャーの代表的思想家セオドア・ローザクも指摘することですが、こうした運動はすでに19世紀のヨーロッパのロマン主義運動に始まっています。ウィリアム・ブレイクなどが、霊性の立場から近代文明の「霊性の忘却」を批判したものとして代表的ですね。60年代は、こうしたロマン主義的霊性復古がいわば大衆的規模で(当然、大衆化に伴う質の悪化をも含みますが)展開した物だと捉えることができるでしょう。ユングも大きく見ればロマン主義の一環として出てきたもので、ユング再評価が問題になるのも当然と言えましょう。

珍:「霊性復古」といいますが、さっきから話に出ている「過去の霊的伝統」について少し説明が必要なのでは?

ま:そうですね、近代以前に花開いた霊的伝統というのは、具体的には東洋の宗教的伝統、ヒンドゥー教、仏教、道教、あるいは神道など。これはヨーガ、仙道、禅、チベット密教、修験道なども含んでますし、イスラム神秘主義であるスーフィズムもここに入ります。西洋では新プラトン主義やグノーシス、ユダヤ神秘主義(カバラ)、それに錬金術などです。これらはいずれも、ユングのところで触れた、「霊的次元における人間の変容」をテーマとしています。まず人間は「霊的な次元」を内在させているものと見ます。人間の個の意識は、絶対的な「宇宙意識」に起源をもっているが、人間はそうした「霊的な起源」を忘却しているもの、という人間観に立ちます。人間の目的は、そうした霊的な自己本来の姿を想起し、神=絶対と究極的には合一することである、とされます。つまり神秘主義といわれるものですね。これを、「永遠の哲学」と呼ぶことがあります。

珍:それはいわゆる「宗教」とは違うのですね。

ま:宗教のうちに含まれていますが、いわばこれは「密教」ですね。宗教には「顕教」と「密教」がある、という視点はご存じでしょうか。いわゆる普通の宗教、何かの教団に入り、その教えを守って信仰生活をする、というのが顕教です。密教とは、それにとどまらず、「行」をし、自ら神と合一することを目的とします。密教は仏教の専売特許ではありません。キリスト教は密教を切り捨てた宗教ですが、キリスト教以外のメジャーな宗教にはほとんど密教的な伝統が存在しています。そこでは神意識に達するための具体的な修行体系も存在していたのです。近代ヨーロッパ文明が密教的な部分を切り捨てたのは、もともとヨーロッパの母胎となっているキリスト教が密教を敵視する宗教だった、という特異性の問題もあります。科学主義(「科学」そのものではありません)はキリスト教を倒して文明の首座に立ったわけですが、密教的な部分を欠落させるという点では同じだったのです。これはヨーロッパ文明に内在する問題点でした。つまりヨーロッパは「知」を「体験」(広い意味でこれを「行」と言います)を分離させるという体質を持っており、これが科学主義的な近代的学問体系にも受け継がれています。

珍:東洋は「知行合一」だったと言うわけですか。

ま:理想としては、ですけどね。

珍:そうすると、霊性復古運動というのは近代にとどまらず、西洋文明そのものへの批判ということになりますか。

ま:その通りですね。つまりここではっきり意識してもらいたいことは、トランスパーソナル運動は文明批判である、ということです。近代的な科学主義世界観は受け入れませんよ、という前提に立っているんですから、科学主義をなんら疑わないという場所からいくら何を言っても始まらないんですよ。まず価値観の変革からスタートしているわけなんですから。

珍:トランスパーソナルは、そうした霊的伝統を初めから「正しい」とする前提からスタートしている、と批判する人もありますが。

ま:それはまったくその通りです。そういう前提をあえてとっているわけです。「だから駄目だ」というのは一つの価値判断にすぎません。私たちは「だからいいのだ」と言うわけです。よってそういう人たちと議論しても無駄です。問題はそういう人たちが「霊的な諸伝統の正しさを仮定するのは科学的ではない」と考えていることですが、それは自分たちの科学観を受け入れないから怒っているということであって、そもそもその点において反逆することから始まっているんですから、「全員が自分と同じ考えをしないと気に入らない」という幼児的な困った人たちだと言うしかないですねえ。

珍:そこまで言っていいんでしょうか・・

ま:まあ、ユングのところで出た、物の次元と魂の次元、ということを思い出してください。魂の次元には独自の探求方法が必要だ、ということでしたね。トランスパーソナルはさらに、これに「霊の次元」を自覚的につけ加えます。伝統的な霊的探求の見方と、ユング以来の心理学の流れをまとめて一つの「意識の地図」を作ったのが、ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』(邦訳・春秋社)でした。この作品をもってトランスパーソナルの始まりと見なしてよいと思います。いろいろ批判はありますが、基本的にはこのウィルバーの枠組みを中心に動いてきましたし、今後もそうだと思います。ですからトランスパーソナルの研究も、まずもってこの本を読むことから始まるのです(ただ、ウィルバーのそのあとの著作には、やや図式的すぎるという批判が当てはまる部分もあるかもしれないですがね)。

珍:それでは、ウィルバーの意識のスペクトル論をちょっと解説してみてください。

ま:そうですねえ、ウィルバーとパラレルな知的現象として、故井筒俊彦氏による「東洋思想の共時的構造化」の試みがあります。岩波から出た『意識と本質』(今は岩波文庫に入っている)ですが・・ 井筒によれば、東洋思想は共通して、階層的存在=意識論を持っているんですね。ウィルバーもそれを基本として押さえ、それと西洋の心理学を比較照合していったということでしょう。

珍:階層的意識=存在論?

ま:ええ。意識=存在論と等号でつなげているのは、意識のレベルが存在のあり方を決める、という基本的発想によります。まあこれは、さっき話した共同主観の問題と多少関係はありますが、それよりはもっと間口の広いものです。この背景には、involution と evolution というテーマがあります。

珍:何ですかそれは?

ま:ウィルバーのベースの一つになっている、近代インドの生んだ偉大な思想家、オーロビンドの思想に出てくるものです。しかしこれは一般に東洋思想的発想を代表する基本テーマということもできましょう。簡単に言えば、 involution とは、「絶対」の宇宙意識が自らの波動レベルを落として、さまざまなレベルの存在物を生成するプロセスのことです。人間の意識もこのプロセスにおいて発生します。evolution というのは、そうして発生した個的な意識が、次第に成長して意識の次元を高くし、ついには再び「絶対」に帰るというプロセスです。これが宇宙の存在する目的である、というのが東洋の霊的伝統の基本的な見解なのですね。

珍:何とも壮大ですねえ。

ま:これと似た発想はヘーゲルの精神の現象学にもあるでしょう? これはヘーゲルがドイツ神秘主義を読んでいたことに基づくという見方もありますがね。まあオーロビンドの言うような「宇宙目的論」は伝統的インドの思想にはあまり出てこないという指摘もありますが、こうした見方は「永遠の哲学」とよばれる、人類の普遍的な霊的伝統の中には確固として存在しているものでしょう。

珍:ウィルバーは自覚的に、過去の密教的伝統の枠組みを採用した、と言っていいのですか。

ま:ええ、そう思います。これは一つの価値観に基づくパラダイム形成の作業ということになります。さてそこで、involution - evolution という見方に立てば、存在は一つの意識の波動に対応する、という理解がそこから導かれます。

珍:え、何ですって?

ま:宇宙はすべて「絶対意識」の様々な波動の顕現である、という宇宙観がそこから出てくるのじゃありませんか? その宇宙には、人間と絶対との二つしか存在しない、というわけではないでしょう。その中間の段階が想定されるわけです。そして、東洋の密教的伝統は、そうした段階のこともいろいろと述べているんですね。そしてその段階というのも、いろいろ比較してみるとある程度一致するもののようです。その辺をウィルバーはまとめているわけです。ここで以前に私が書いたものをまとめとして引用しますと・・


[トランスパーソナルとは] 伝統的な宗教で言われている「階層的意識存在論」を復権させる、という風にも言えましょう。
まず前提として、「意識が存在を創り出す」という基本的な考え方があります。正確に言えば、ある次元の世界は、一つの意識状態に対応している、ということです。つまり、私たちがふつう生きている物質世界にあっては、物質界に対応した意識が作用している、ということになります。したがって、別の意識状態(意識変容状態)では、別の世界が見えてくる、ということになります。

私たちは、物質世界以外には世界は存在しないと考えてきました。それらは「幻想」である、というのが、近代社会の見方です。

しかし、トランスパーソナルの立場は、世界は多重構造をなしている、と考えます。実はこれは、仏教・ヒンドゥー教をはじめとする、伝統的な神秘主義的宗教の基本前提だったのです。

・・・ここまではだいたい理解できたと思うのですが。

珍:これは「パラダイム」として提示されているのですね。

ま:そうです。しかもこれは、「物・魂・霊」の三つの次元にわたるものですね。これが「科学」かどうか、という問いは、科学ということの定義の問題ですからどうでもいいんですが、少なくとも「学問」は志向しています。つまり「知のパラダイム」としてですね。学問は「霊的次元」を扱ってはならない、というのも一つの価値判断でありまして、究極的根拠はありません。しかし、ここがもっとも大きな抵抗を受ける部分なんです。

珍:「検証」の問題はどうなるんでしょうか。パラダイムというからには、そう思う、というだけでは駄目なわけでしょう。

ま:ここで重要になってくるのが「認識カテゴリー」の問題です。批判者は、魂・霊の次元の事象においても、物質科学的な意味での検証を求めますが、これは「カテゴリー・エラー」なんですね。たとえば魂の次元の問題は、精神分析を実際にやるなど、ある程度の経験をもち、それを他の人の経験と比較検証することで、妥当性を判断することができます。あくまで「心的現実」のレベルに固有の認識方法があるわけです。それと同様、霊的なレベルについては、実際にそうした経験をもたらすとされる「修行」をやってみるしかありません。そこで得たものを、他の人の経験と比較検証することは可能なのです。霊的レベルにおける検証は、あくまで霊的体験以外にはありえません。しかし、そうした探求を促すということにおいて、トランスパーソナル理論はパラダイムとして役割を果たしているわけです。トランスパーソナル理論はあくまで体験によって検証されるべき仮説であり、信仰する必要はありません。また別の仮説に立ってそれを検証しようとすることも完全に自由です。(なお、認識カテゴリーの問題については、「トランスパーソナル的対話編 第三セッション」もお読みください)しかし、「変容意識」と呼ばれる、通常の意識状態とは異なる意識を人間経験の一部として認めること、そして、過去の伝統をも、文献学的にではなく、その中核となる「経験」に着目して再認識していこうという方向付けは、そこで明確に示されていますね。

珍:どうも、聞いていますと、伝統的な宗教とはちょっとアプローチが違いますね。何か、「純粋抽出」してるっていう印象を受けますが。

ま:トランスパーソナルとは、まさにそういうものであろうとしているのですね。それはまた、そうした霊的伝統へのアプローチに仕方としても、新しいものを提示しているわけです。たとえば、そうした思想に対する、体験のない文献学的研究などは根本的に批判されるわけですし。また各地の密教的伝統を比較して、本質的部分とそうでない部分を腑分けするということも出てきますね。

珍:最後に、トランスパーソナル運動の現状はどういうものでしょうか。

ま:アメリカでは、ユング心理学者などがトランスパーソナル心理学に移行する例も多く、トランスパーソナルは一つの流れとして定着していますね。博士や修士の学位が取得できる大学院レベルの教育機関も、既にかなりあります。メジャーではないが、一角に地歩を占めた、って感じでしょうか?

珍:日本では?

ま:日本は、アメリカと知的バックグラウンドが違いますので、またいろいろ説明しないといけないんですが・・ 私は日本におけるトランスパーソナル運動は、アメリカと同じやり方で展開することはあり得ない、と思っているんですね。まず、アメリカにとって「永遠の哲学」は異文化であったが、日本では伝統の一部であること。そして、日本の学問の中で展開されてきたユング研究の基礎、また筑波における「気のシンポジウム」やその流れを汲む「人体科学会」の活動、「気功」の定着と「気の科学」の研究、などといった状況がいろいろあります。もちろんアメリカのトランスパーソナル心理学の導入は進んでいるのですが、それだけを見て「日本のトランスパーソナル運動」を論じるのは早計であろうと考えます。でも長くなるので今日はあまり深く触れるつもりはありません。日本における今後の展開の見通しについてはいずれ専門のページを用意したいと思います。

珍:さてそれでは、まんだら浩さん、いよいよそうした霊的認識の本質について、ご自身の体験を踏まえて「本当のところ」を話してもらえるのでしょうか?

ま:おっと。私はそこまでは至っていません。

珍:ですが、さっき言った「中間的レベル」というのは、天使やら、守護霊やら、死者の霊魂なんて世界と違うんですか? その辺はどうなってるんでしょうか。

ま:うーむ、急に生々しくなりましたね、話が。その辺はどういう風に出していったらいいかいろいろ考えているところなんですが。いずれ近いうちに、「霊界入門」「輪廻転生とカルマ」とか「気のトレーニング」といったページを書くことを考えてはいますが。これは、ちょっとまだ学問に統合することは難しいところもあり、もしかすると「まんだら浩のページ・別館」でも建てようかと思ってますがね。

珍:それは楽しみで・・ しかし今日はこれで逃げですか?

ま:いやまあそういうことで、今後の展開をお楽しみに。

http://www.nct9.ne.jp/mandala/index.html

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