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ある資源屋の20世紀論 (関岡正弘) 
投稿者 TORA 日時 2002 年 11 月 26 日 16:30:06:

20世紀、さようなら。その光陰は、われわれに、20世紀とは「いったい如何なる世紀だったのか」という課題を残して、永遠の彼方へ消え去ろうとしている。石油を生涯の仕事とし、今、大学で資源論と開発論を講義する筆者としては、たいへん興味深いテーマである。この課題に関連して興味を引かれたのは、文芸春秋誌1999年2月号に掲載された、立花隆さんの「20世紀 知の爆発」と題する文章である。立花さんは、その中で、「20世紀は人間の歴史において特別な時代だったと思っている。

これほど人間のあり方が劇的に変化した時代はいまだかってなかった。この変化の激しさが20世紀の最大の特徴である(一部略)」と書いている。立花さんが、この刺激に富んだ題の文章を執筆した動機は、「20世紀を丸ごととらえるにはどのような考え方をすればよいのか」という問題意識からである。

立花さんは、「部分史を並べても歴史の全体像が見えてくるわけではない。全体像は、時間的にも、空間的にも要素還元法では見えてこない(一部略)」という。確かに、もう10年余り、20世紀に関する数々のクロニクルが発行されてきたが、「20世紀って、一体なんだったのか」という大事なポイントは、いっこうに見えてこない。立花さんは、「20世紀 知の爆発」の中で、「人間のアクティビティ総量」や「一人当たりのエネルギ−奴隷」など興味深い概念を提起している。しかしジャ−ナリストの立花さんの関心は、その後、最新の技術的進歩の紹介へ移ったように見える。

小論では、立花さんが提起した、20世紀を丸ごと、あるいは全体像としてとらえる方向を、もう少し掘り下げて考えてみたい。筆者の立場は、インタ−・ディシプリナリ−的な、石油を中心とした資源論的システム思考である。大学時代の恩師、故脇村義太郎先生は1900年のお生まれだった。そして自らを19世紀生まれとされ、3世紀にわたって生きることを念願とされていた。弟子たちも、心の底から願っていたのだが、先生は97歳で亡くなられ、残念ながら御念願はかなわなかった。本文は、先生に捧げる鎮魂の書でもある。


投網の中身

未だかって人類の歴史で経験したことのないほど、複雑な要素を内包した20世紀を丸ごと理解しようなどといった、途方もない企てを実行するためには、最初に方法論を明確にしておく必要があるだろう。とはいえ、この種の問題に対してはシステム思考以外にありえない。それは、要素還元法では処理しきれなくなった問題に対して、20世紀になって出てきた発想法である。コンピュ−タ−システム開発などに役立った。システムという言葉を辞書で引くと、いろいろ難しい解説が乗っている。しかし筆者は、システムを「自然に存在するもの」と捉えたい。

宇宙も、人間社会も、さらには人間を含む生物もシステムなのだ。システムは多数の構成要素、サブシステムから構成されている。丸ごと理解するために、二〇世紀をシステム概念で捉えてはどうだろうか。自然に存在するもの故当然だが、システム内の「要素」は、相互に関係があるものと、無関係なものが含まれる。システムの特徴はこの点にある。便宜上、前者を統合体、後者を集合体と呼ぼう。システム分析とは、ト−タルシステムの中から、統合体としてのサブシステムを浮き上がらせることにある。投網を例に考えよう。投網は、ある水域の生態系を一つのト−タルシステムとして一網打尽にする。当然、網の中には多種多様な魚が入っている。そのままではカオスである。

投網の中身をシステム分析しよう。ここで、関係・無関係を判断する基準が、主体の主観的判断に基づくことが分かる。投網を打ったのが漁師であれば、魚市場における価値で選り分けることになる。一方、主体が生物学者なら、分類学的希少価値が判断基準となるだろう。システム思考は、19世紀以前的・要素還元法が行き詰まったところから現れた。この世の現象は、要素還元法で説明できるほど単純なものではないことが、ようやく認識されるようになったのだ。とはいえシステム思考もまた科学的思考でなければならない。そして、科学的思考の根本は分析つまり要素還元にある。

結局、システム思考とは、要素還元法を意味あるレベルで止める方法と定義する以外ない。どこで止めるか、主体の個人的な主観が入ることは避けられない。システム思考とは、いわばアバウト思考であり、ある意味では危ない思考といえる。しかし複雑な人間の社会現象を理解するためには、その危険を乗り越えなければならない。さらに20世紀のような歴史的現象を考える場合には、当然ながら時間の要素を入れなければならない。時間とともに変化するシステムをシナリオと呼ぶことにする。ト−タルシナリオとサブシナリオの関係は、ト−タルシステムとサブシステムとの関係に準じて差し支えない。20世紀というト−タルシナリオを、投網法で理解するとどうなるのか。


カオス的二〇世紀

20世紀の現象。まず政治的に最大規模のものから言えば、
1 二度の大戦が起きた。

2 とくに後半について言えるが、アメリカが世界を支配する構図が確立した。

3 共産主義という「妖怪」が現実の政権につき、自由主義と対立した。

を挙げねばならない。次に経済の面では、

4 巨大株式会社が出現して、とくに後半、多国籍化した。

5 1929年の大恐慌

6 マスプロダクションとマスセールスの一般化

などであろう。テクノロジーの分野ではどうか。ここでは正に多様である。

7 ノ−ベル賞がつくられた

8 相対性原理による物理学革命

9 量子力学による物質理解革命

10 空飛ぶマシンの出現

11 戦車や戦闘機による軍事技術革命

12 トラクターによる農業技術革命

13 石油化学による材料革命

14 核エネルギ−の利用・原爆と原子力発電

15 コンピュ−タ−の出現

16 シリコンなどセラミックスによる材料革命

17 望遠鏡と人工衛星による宇宙理解革命

18 プレ−ト・テクトニクスからプル−ム理論に繋がる地球システム理解革命

19 遺伝子の解明ならびにバイオテクトニックスによる生物理解革命
最後に、一見ランダムに見える社会現象として、

20 自動車およびハイウェー、張り巡らされた航空網による交通革命

21 人口の大都市集中とスラム化

22 核家族化

23 世界言語としての英語の確立

24 多様な価値観

などなど。そして今、グロバル化とインフォ−メイション・テクノロジ−の進行が劇的に人間社会を変えようとしている。まだまだあると思うが、挙げればきりがない。要素還元法では問題になるかもしれないが、システム思考では少々の魚が逃げたとて本質理解にはなんの差し支えもない。丸ごと理解の手掛かり以上の如きカオス的20世紀のト−タルシナリオを、いかに読み解けばよいのか。そのための出発点はすでに与えられている。

「知の爆発」という言葉の吟味から始めよう。「知」とは、ここでは人間社会全体の頭脳活動と捉えて差し支えないだろう。「知の爆発」という言葉の意味を、人間社会全体の頭脳活動が、質的にも量的にも、爆発とでも表現せざるをえないほど増大したことと定義したい。重要なのは「量的」という点である。量的という表現は、人間社会全体の頭脳活動という概念を設定して初めて適用できる。社会全体の頭脳活動が爆発的に増大したとすると、その原因は、それまであまり頭を使っていなかった多数の人々が頭を使うようになり、知的に活動する人間の数が人間社会の中で相対的に増えたこと以外にはありえない。

筆者は、その現象を、大衆の知的革命あるいは「知的大衆」の出現と呼びたい。知的大衆! それこそが20世紀を丸ごと理解するためのキ−ワ−ドなのだ。先に挙げたカオス的現象を、新しく設定したキ−ワ−ドで整理してみよう。20世紀を代表する科学者、アインシュタインも知的大衆の一人である。テクノロジーが爆発的に発展したのは、もちろん知的大衆が科学思想に参加したためである。アメリカは、民主主義の下、知的大衆を政治に参加させるのに、もっとも成功した国である。一方、政治基盤をプロレタリアに求めたソ連では、知的大衆をプチブルとして排除する傾向にあった。多国籍巨大株式会社のオーナーは知的大衆だし、マスプロダクションやマスセールスも、知的大衆をターゲットとした企業戦略である。自動車産業やハイウェー、それに世界中に張り巡らされた航空網も、知的大衆全体の巨大な総合経済力なしには成り立たない。大都市の住人も知的大衆である。

核家族化問題は、大都市の知的大衆の家族の問題だし、世界言語としての英語は、世界の知的大衆の共通言語としての役割を担っている。多様な価値観が知的大衆のものであることはいうまでもない。二〇世紀の戦争が悲惨になったのも、知的大衆が参加し、ヘミングウェイのような知的大衆のジャーナリストがそれを伝え、知的大衆がそれを読んだからである。


知的大衆の起源

知的大衆は、いつ、いかなる経緯で出現したのだろうか。知的」という言葉の定義から始めなければならない。広辞苑によれば、知的とは「知識・知性の豊かな様」とされる。また知性とは、知覚をもととしてそれを認識まで作り上げる精神機能、あるいは課題を解決する精神機能である。筆者は、人間社会全体として考える場合、知的になるということは、文字記号つまり活字を読む人間の数が絶対的にも相対的に増えることと捉えたい。その方が具体的で分かりやすいからだ。この観点から、アメリカの歴史統計にたいへん興味深い統計が掲載されている。一九世紀後半、アメリカの新聞発行部数が急増しているのだ。

新聞の種類も増えたが、一新聞当りの平均発行部数も急増している。この時代、アメリカの人口自体も、1860年の3200万人から1900年の7600万人へと急増したが、人口に占める新聞読者の比率(近似的に新聞の発行部数総数を人口で割った比率)は、なんと2%から43%へ増えているのだ。新聞発行高の増加に少し遅れて、著作権の登録件数や特許の出願件数も増えている。明らかに、それまで新聞を読まなかった大衆が、まず新聞を読み始め、少し遅れて本を読むようになったのだ。そして特許などの分野へ、知的活動の分野をじょじょに広げていったのである。

このような大衆の知的活動拡大の背景には、石油による照明革命の進行があった。石油以前、鯨の油が照明に使われていたが、生産量は年間せいぜい10万バレル程度であった。しかるに1859年8月、エドウィン・ドレ−クという人物がペンシルバニアのオイルクリークという場所で石油掘削に成功するや、石油の生産量は急激に増加した。1859年には2000バレルにすぎなかったが、翌年には50万バレルに達した。10年後の1870年には、アメリカだけで530万バレル、世界全体で580万バレルに達した。1900年には、世界全体の年間石油生産量は1億5000万バレルに達した。このような石油生産の急増ぶりは、19世紀中は掘り出された石油のほとんどが、照明用の灯油として消費されたことを考えると実に重要な意味を持つ。たった40年ほどで、照明の需要が1500倍に増えたのだ。

その背景には、照明用の灯油に関する価格革命があった。1850年頃、鯨油一バレルの価格は約100ドルだったが、石油時代に入るとバレル当たり数ドルに低下した。照明の需要がかくも短期に急増した背景には、それまで照明の恩恵に浴していなかった大衆が、照明価格革命のお蔭で照明を使い始めたという事情があった。問題は、照明革命・知的革命の進行が地球規模で大きな偏りを持っていたことだ。19世紀中はヨ−ロッパとアメリカに限られていた。唯一の例外が、タイミングよく明治維新を遂行した日本だった。20世紀の世界的現象は、この知的レベルまで掘り下げなければ真の理解はえられないというのが筆者の見解である。


大衆とはなにか

知の爆発とは、大衆の知的存在への転化を意味することが分かった。それにしても長い人間の歴史で、それは、如何なる意味を持っていたのだろうか。大衆とはなにか、という基本問題から明らかにする必要がある。人間社会構造形成と変化の問題である。約1万年前、定着農業が出現する前の狩猟採取時代には土地の生産性が低く、1人の人間が生きていくためには、平均して、10平方キロメートルの土地が必要だったと推定されている。一家族当り50ないし100平方キロメートルになる。それでは社会など存在しえない。

農業の出現は、生産性を一挙に50倍引き上げたとされる。狭い土地に多数の人間が住める、否、住まなくてはならなくなったのだ。人間社会の誕生である。それまで存在しなかった人間社会が出現すると、当然ながら、それをいかに維持するかが問題となる。人間社会維持のための最大の要件は秩序の維持にある。秩序が失われれば、人間社会は崩壊する以外ない。人間社会の秩序維持のために必要な論理的要件は三つ。集団としての意思決定システムを確立すること、外敵に対する防衛および内部のルール違反に対する制裁、そして食料の確保である。歴史的に考えて、王制の誕生は第一の要件実現のための、もっともコストが安い自然発生的な手段だった。

第二の要件を満たすため、戦士階級が生まれたのも必然の成り行きである。文明が爛熟してくると、この階級は貴族と呼ばれるようになった。王と戦士が、それまで対等だった人々の中から抜け出すと、残りの人々は農民となって第三の要件確保を担った。この、いわば必然的に現れてきた人間社会構造を図示すると、第一図の通りとなる。定着農業出現とともに確立された、この人間社会構造は、西欧では、中世末期、第三の農民階級から巨大な経済力を持つ商人階級が現れることによって崩壊し始めていた。商人たちは、初期の頃には、メディチ家のように自ら王族に参入したが、後には、市民革命を起こして身分はそのまま政治に参加することを選んだ。20世紀における知的大衆の出現、換言すれば大衆の知的革命という現象は、この図式の上で考えなければならない。

最初に知的革命が進行した西欧では、産業革命の結果、図式はかなりぼやけていた。しかし基本的には、この図式が生きていた。つまり大衆とは、カテゴリーとしては農民なのだ。すでに述べたとおり、照明革命の結果、大衆は知的存在へと変質する可能性を手にした。しかし図式で明らかなとおり、その大衆は食糧生産の役割を担わされていたのだ。カテゴリーとしての大衆が実際に知的存在になるためには、活字を読むだけでは十分ではなかった。彼らは農業労働から解放される必要があったのだ。


農業技術革命

人間社会の大部分を構成する大衆が、約1万年にわたって担わされてきた農業労働から開放されたのは、ようやく20世紀に入ってからであり、アメリカにおいてである。第一次大戦中、ヨ−ロッパが戦場になると、その農業生産は大きな打撃を受けた。そのためアメリカの農業が、ヨ−ロッパに対する食糧倉庫の役割を引き受けた。アメリカ農業は、もともと19世紀末から有卦に入っていた。絶えず大量の移民が流入し、人口が急速に増加していたからである。そこに、第一次大戦によるウィンドフォール(棚ぼた)が付け加わったのである。アメリカ農業は未曾有の好景気に見舞われたが、まだ機械化が進んでいなかったため、深刻な労働者不足に陥った。

第一次大戦末期アメリカが参戦すると、多くの若者が兵士としてヨ−ロッパへ送られたので、労働者不足は深刻化した。
そのような背景から、農業用トラクターがアメリカの農村に流れ込み始めたのだ。トラクターの生産に当っては、すでに確立していたT型フォードの大量生産方式が応用された。1910年には、アメリカでも農業用トラクターはほとんど存在しなかったが、1920年には、25万台のトラクタ−がアメリカの農場で働いていた。第一次大戦が終わりヨ−ロッパの農業が復活すると、アメリカ農業は、一転、過剰生産に陥った。その一方では、多数の若者が戦場から帰ってきた。アメリカ農業は未曾有の過剰生産に陥った。

農産物の価格は他の諸物価に先立って下がった。アメリカの農業労働者にとって悲劇的だったことは、農産物価格の低下が農業用トラクターの導入をむしろ促進したことである。個々の農場経営者にとっては、価格の下落に対処するための唯一の方法が、機械化による生産物の増加とコスト低減だったからである。1930年には、アメリカの農業用トラクターの総数は92万台に、また40年には160万台に達している。1920年代半ば、アメリカ農業は、それまでにない規模の不況に陥っていた。1929年の大恐慌の原因を探る議論では、先行した農業大不況がその遠因とする見解が有力である。

稀に見る大不況の最中、機械化が進行したのだ。アメリカの農業労働者は職場を失った。第一次大戦前、アメリカ南部の農場で働いていたのは、ほとんど黒人労働者だった。彼らは、奴隷解放によって身分的には自由になったが、農村以外で働く場所を見つけられなかったため、農村を離れることができなかったのだ。彼らの生活は、奴隷時代に比べて悪化した場合も多かった。奴隷時代、彼らを食べさせるのは主人の責任だったが、解放後は自身で食物を確保しなければならなかったからだ。しかし農業用トラクターが入ってくるまでは、曲がりなりにも生活していた彼らにとって、アメリカ農業の機械化は悲惨な結果をもたらした。

もはやアメリカの農村は、彼らにとって住むことすら不可能な場所になってしまったのだ。彼らは大都市に流れ込む以外なかった。しかしそこでも職業を見つけられなかった彼らは、都市をスラム化して、その住人になる以外術を持たなかった。


人間社会構造革命

カオスの如き二〇世紀において、発生した事件ないし現象の主要なものはすでに列挙した。しかし筆者としては、その際には触れなかったが、長期的な観点からいって最大の事件は、農業用トラクターによる人間の農業労働からの開放と捉えたい。なにしろ定着農業の始まりによって誕生した人間社会構造を根本的に崩壊せしめた事件だからだ。この大事件に比べれば、20世紀に二度起きた大戦や大恐慌など、小川に浮かぶ泡沫のようなものである。この問題はたいへん難しい。
王、戦士階級そして農民から構成される人間社会構造は、社会を構成する大部分の人間を農業労働に縛りつける必要から生じたのである。

その必要が消滅した場合、それはどのように変質していくのか。まだまだ予想もつかない。そこで、ここでは農業労働から開放された元農業労働者の、その後の運命について考えたい。アメリカの場合はすでに触れた。20世紀初頭、アメリカの黒人の大部分は南部の農村地帯で働いていた。しかし1915年以降農業技術革命が始まると、彼らは農村で住む場所を失い、大都市の懐の広さに逃げ込んでスラム街の住人となった。第二次大戦後、この、20世紀前半アメリカで発生した図式が世界的に伝播した。1930年代、アメリカは未曾有の大不況に苦しんでいた。ニューディール政策を掲げたルーズベルト大統領は、38年農業調整法を公布して、過剰農産物を政府が買い上げることにした。

農業部門の購買力を回復させれば、工業部門に対する購買力も回復すると期待されたのだ。このルーズベルトの政策は、不況の一層の深化を防ぐのに役立ったが、半面、連邦政府は膨大なる農産物の在庫を抱えることになった。第二次大戦後アメリカは、食料難に喘ぐ世界の各国に対して食糧援助を行ったが、そのような気前の良い行為が可能だったのは、農産物の過剰在庫のお蔭だった。あくまでも緊急援助だったはずのアメリカの食糧援助が、思わぬ波及効果をもたらした。アメリカの小麦でつくった白いパンは、援助受領国の、それまでの伝統的な食生活を変えてしまったのである。

変化は、とくに途上国の都市で起き、それまで雑穀を作っていた途上国の農村は市場を失った。そうなると農民たちは、かってのアメリカの黒人農業労働者と同様、都市に逃げ込む以外生きる術を失った。20世紀後半の代表的世界的現象の一つに、大都市の人口増大そしてスラム化がある。

希有の僥倖

20世紀を振り返って、人間社会構造レベルで考えた場合、最の特徴は大衆の変質にある。第一に知的存在となったこと。第二に農業労働から開放されたこと。いずれも大変革中の大変革である。それぞれに問題を含んでいたことは当然である。第一に知的存在となった大衆が、どのようにその知を活用するかという問題。知的という言葉の意味は、世の中の現象を理性的に捉えることと定義できるだろう。

理性的精神は多くの場合批判的である。この点、マルクスの著作の翻訳ないし拡散が、照明革命が進行した時期と場所と、おおむね軌を一にしていたことが興味深い。第二の、大衆の農業労働からの開放も、それが無計画、自然発生的に進行したことで多くの問題をもたらした。多くの場合、農業労働から開放された元農民に新しい職業を用意することができなかった。そのため、大都市の途方もない人口増大、スラム化という二〇世紀の典型的な現象が進行したのである。しかしこの過程で唯一の例外があった。

日本である。第二次大戦後の日本の農業機械化ほど理想的に事態が進行した例も珍しい。昭和30年代の前半まで、日本でも人口の大半は農村で働いていた。土地が細分化されている日本では、農業用機械の導入は緩やかのものだった。一方では、昭和35年以降所得倍増計画の旗印の下、重工業化政策が遂行された。工業部門では雇用機会が急速に増大したが、新しい労働力はすべて農村から供給された。あくまでもマクロ的認識だが、日本の場合、農村部門の労働力不足が農業の機械化を促進したという傾向すらある。20世紀における知的大衆創出では理想的な進行だったといえる。

共産主義と石油

20世紀における諸現象の中で、共産主義とはなんだったのかという問題はたいへん興味深い問題である。20世紀が終る今、なんらかの結論を出しておきたいい。開発論を大学で講義するに当り、開発という概念をあらためて考究してみた。
それは、現状に満足せず、新しいチャンスに賭ける人間行動である。当然、リスクを伴う。しかし誰かがそのリスクを、敢えて冒さなければ、なんの変化も生じない。経済は発展せず、文明も停滞したままなのだ。リスクと向き合い、それをマネジメントするためには、大胆さと冷静なる計算が必要である。未知のリスクを冒すなどといったことは誰にでもできることではない。

それを遂行するのは、アントラプルヌ−ル(起業家)と呼ばれる特殊な人々である。マルクスは資本家の存在を否定し、私有財産を否定した。しかし資本家は成功したアントラプルヌ−ルである。つまりマルクスは、資本家という名の下にアントラプルヌ−ルという経済の原動力を否定したことになる。そこで問題は、経済の原動力を否定した経済体制が、なぜ70年間も生き延びえたのかということになるこの種の問題を解くためには要素還元法は無力である。現実の世界は複雑多岐な要素が絡み合っている。大事なことは、現実の世界では要素そのものよりもその絡み合いが重要だという点にある。

現実の世界と分解した要素の関係は、生きた人間と死後解剖で取り出した内蔵に例えられる。内蔵を個々に取り出したとしても、生身の人間を知らない者にはまったく理解できないだろう。現実の世界を丸ごと理解しようとすると、どうしてもシステム思考が必要となる。現実の世界がシステムで構成されているからだ。しかも現実の世界は時間に支配されているから、システム思考に時間の要素を加味したシナリオ思考でなければならない。

シナリオ思考には、できるだけ客観的な判断基準が必要である。筆者は資源屋、石油屋である。そして20世紀のことはすべて石油がらみなのだ。旧ソ連で、なぜ、経済の原動力を排除した非合理な経済システムが70年間という長きにわたって存続しえたのかという問題解明のためには、石油を判断基準にする必要がある。

ソ連の石油産業は、1870年頃からカスピ海西岸のバクー油田からスタートした。19世紀末期、僅か3年間だったが、アメリカを抜いて世界一の生産量を誇ったこともあった。レーニンのボルシェビキ政権が誕生すると、国内の石油産業をすべて国有化した。それまでロシアの石油産業は、ノーベル兄弟やロスチャイルドなどヨ−ロッパ系の企業によって開発されてきた。それを、レーニンはあっさり国有化してしまったのだ。ここに、世界石油産業としては、唯一の例外が生じたことに注目する必要がある。世界石油産業の産業としての特徴は、19世紀の半ば過ぎに近代石油産業が誕生して以来、アメリカとイギリスの石油会社の圧倒的な支配下に置かれているという点にある。1970年代以来、表面的には多少その構図がぼやけたとはいえ、基本的にはその事情は変わっていない。
共産主義体制下の旧ソ連のみが唯一の例外だったのだ。

ロシアでは、20世紀前半になってもバクーが石油産業の中心であった。しかし第二次大戦中、ボルガ・ウラル地方で大規模油田地帯が発見された。中心となったロマシキノ油田は埋蔵量100億バレルを超える世界的な巨大油田である。ボルガ・ウラル油田地帯は第二バクーと呼ばれ、1950年代と60年代、
ソ連の石油生産の中心的役割を果たした。ソ連は、1960年代西シベリアでも世界的な油田地帯を発見した。中心のサマトロール油田はロマシキノ油田を上回る巨大油田だった。西シベリア油田地帯は第三バクーと呼ばれ、70年代、衰えを見せ始めたボルガ・ウラル油田地帯に代ってソ連の石油生産を支えた。以上のソ連石油産業の歴史を念頭に置いて、経済合理主義に反した共産主義体制が、なぜ70年間も維持しえたのかという問題を考察しよう。

共産主義革命以前、ロシアはヨ−ロッパでもっとも遅れた資本主義国家であった。一方、先進的な西ヨ−ロッパでは、19世紀半ば頃までイギリスとフランスの覇権争いが続いてい。
しかしフランスが新たに興隆してきたプロシアに戦争で敗れると、ほぼ決着が着いた。以後、フランスはイギリスと利害関係を共にする。

イギリスとフランスが、共通の新たな敵となったドイツを、ロシアと組んでたたいたのが第一次大戦である。ロシアの遅れた資本主義は、それまでとは飛躍的にコストがかかるようになった戦争に耐えきれず崩壊、資本主義体制を否定するボルシェビキ政権という妖怪を生み出した。

なにしろ共産主義は、資本主義体制の基盤、アントラプルヌ−ルの存在そのものを否定しているのである。その脅威は、ソ連に近いドイツとイタリアでより強く意識された。決して、その傾向を積極的に肯定するわけではないが、歴史的・客観的にみて、相対的に遅れた資本主義国家だったドイツとイタリアにとって、ボルシェビキズムに備え、かつより先進的なイギリスやフランスに対抗して独立を維持するための唯一の選択肢が、ファシズムという国家的独裁体制だったことは大いにありうる。

それはともかく、幼児期のソ連共産主義体制にとって、資本主義体制内部に新しく出現した対立の構図は、願ってもない防衛ラインとなったことは確かである。ドイツとイタリアのファシズム体制は、日本を巻き込んで(というより中国との戦争の泥沼にはまりこんだ日本にとっては唯一の選択肢だった)、イギリスとフランス、そしてアメリカと対抗しようとしたが、致命的な弱点を抱えていた。それは石油資源へのアプロ−チをアメリカとイギリスに完全に抑えられていたという点である。第一次大戦は軍事技術を革命的に飛躍させた。

それまで大人の玩具だった飛行機が戦争の行方を左右する決定的な武器となった。地上では戦車が出現し、海中では潜水艦が猛威を振った。これらの新兵器はいずれも内燃機関で動く自動車の一族だった。石油がなければ戦争に勝てないという図式が確立したのだ。その石油は、アメリカとイギリスに完全に抑えられていた。化学技術に強いドイツは、石炭からフィッシャー・トロピッシュ法によってガソリンを生産する技術を確立していたが、一時しのぎにすぎず、究極的には、長路、コーカサスを経て中東の油田地帯を抑える計画であった。日本に至っては、アメリカから石油を輸入して備蓄し、
その備蓄が枯渇する前に、南洋の油田地帯を占領する計画だったのである。

第二次大戦は、石油の観点に立てば、石油資源から締め出された日本とドイツが、石油がなければ戦争に勝てない図式が確立した後、なんとかアングロ・アメリカン体制に屈服したくなくて選択した、絶望的な試みだったのだ。第二次大戦の敗戦国、日本とドイツは、戦後顕在化した資本主義と共産主義の対立構造のお蔭で、戦争に敗けた国としては例外的な好意的扱いでアングロ・アメリカン体制に迎え入れられた。一方、アングロ・アメリカン体制と対立する形となったソ連は十分な石油を持っていた。

とくに1950年代のフルシチョフ時代は、ボルガ・ウラル油田地帯の開発段階に当り、ソ連は豊富な石油資源に恵まれていた。フルシチョフは、石油を、東欧諸国やキューバなどいわゆる衛星国家に破格な条件で供給して体制固めを狙う一方、資本主義体制を切り崩すため、石油を武器として使った。狙ったのはイタリア市場である。イタリアの石油市場も、もちろんアメリカ・イギリス系のメジャ−ズ(国際石油会社)に支配されていた。しかし一方では、第二次大戦中のバルチザンの勇士、エンリコ・マッティが率いる国営石油会社ENIが、ポー川流域の天然ガス開発で成功し、石油分野への進出を狙っていた。

なんとかメジャ−ズの自国内の石油市場を切り崩そうとするマッティの意図と、フルシチョフの意図が一致し、ソ連はENIに国際価格の70%の低価格で石油を供給した。たまらず、メジャ−ズも値下げした。それが産油国を怒らせ、1960年のOPECの結成へと繋がったのだ。

その後OPECは、少しずつメジャ−ズの支配体制を切り崩していく。しかしそれは、フルシチョフが失脚した後だった。フルシチョフの失脚後、石油を資本主義攻撃の武器として使うソ連の戦略は後退した。そして1970年代に入ると、事情は大きく変化する。ソ連は、西側からドルを稼ぐため、石油を西側へ売らざるをえなくなったのだ。その第一のきっかけは、1970年代初頭相次いだ異常気象だった。冷温で穀物の収穫が大きく減ったソ連は、西側から大量の穀物を輸入せざるをえなかった。そのため大量のドルが必要となった。1970年代半ば、ソ連にとってドルを必要とする第二の事情が明らかになった。ソ連は、1960年代中、エレクトロニクスやコンピュ−タ−などハイテクの分野で西側に決定的な遅れを取った。ソ連の西側からのハイテク機器輸入は次第に増えていった。

ソ連の西側への石油輸出は、70年代半ばころから増え始める。もはや攻撃的性格は帯びていなかった。ドルが欲しいというのがその動機だった。しかし皮肉なことに、その頃から、それまで無限ともいうべき明るさが感じられたソ連の石油産業の未来に暗雲がたなびくようになった。アメリカのCIAは、数度にわたって、近い将来ソ連の石油生産がピークを打つとする予測を発表した。すべては、東シベリアに期待されていた第四バクーが幻と消えたことに起因する。ボルガ・ウラル油田地帯の生産は減退期に入り、比較的若い西シベリアの油田が酷使されることになった。70年代半ば頃から、ソ連石油産業に関する情報が少しずつ西側へ洩れ始めたが、西側の石油専門家は驚いた。西シベリア最大のサマトロール油田で、操業開始直後から水攻法が使われていたからだ。普通、西側では、サマトロールのような巨大油田に対しては、水攻法は、生産段階の末期になって、自然の圧力が低下してから初めて使われる最後の手段である。なのに、西シベリアでは、せっかくの巨大油田をわざわざ細かく分割して、その断片に水攻法を最初の段階から適用したのである。

ソ連内部の情報が知れ渡るにつれ、それまで信じられていた、自由主義経済では私欲にかられて資源が浪費されるが、
経済計画では合理的・科学的な生産が行われるという神話が嘘であることが明らかになってきた。その頃、ハ−ヴァ−ド大学のマーシャル・ゴールドマン教授が「ソ連石油の謎」という本を書いたが、その中に信じがたい事実が指摘されていた。価格を否定した共産主義経済体制でも、各人の作業評価は必要となる。石油掘削エンジニアーの場合、石油をどれだけ発見したかは関係なく、各人が一年間に掘削した井戸の深さを集計した「長さ」に報酬が払われたというのだ。石油の場合、井戸の深さが深くなるにつれ、3乗で時間がかかるようになる。そこでソ連の石油掘削エンジニアーは、やたらと浅い井戸をせっせと掘っているというのである。

ソ連経済がうまくいっていないらしいという情報が西側へ伝わってきたのは、1980年頃からである。典型的な情報は、石鹸など日用品が、工場には山と積み上げられているのに、都市のスーパーマーケットの棚は空っぽだというのである。ソ連経済の破綻は輸送部門から起きたと考えられる。この点は、エネルギ−の分野からみればよく理解できる。ソ連は、石油のみならず石炭や天然ガスも豊富である。発電用燃料としては石炭や天然ガスを使えばよい。石油はもっぱら輸送部門で使われていたと推定しうる。1980年頃までソ連は、生産した石油のうち、国内消費分と、いわゆる衛星国への供給を優先させてきた。150万b/d程度の西側への石油輸出は、当時のソ連の大きな余力からすればささやかな負担であったろう。しかしソ連の石油生産は、70年代末以降増加率が低下し始める。

そして遂に、1983年をピークに下がり始める。次第にやり繰りが困難になる状況の中で、まず犠牲になったのが衛星国への供給である。85年3月にゴルバチョフ政権が成立すると、
ゴルバチョフは就任直後西シベリアの油田地帯へ飛ぶ。ソ連の書記長が現場に赴くのは異例中の異例である。ゴルバチョフは石油産業省の幹部の首がすげ替えた。その効果があったのだろうか。ソ連の石油生産は85年を底に再び増大し始める。83年のピークを超え、88年には世界的レコード、1260万b/dに達した。その一方では、ソ連の産業予算の大半が石油産業に投じられたと伝えられた。ソ連の石油生産は89年がピークだった。それ以後、つるべ落としに低下し始める。

就任直後は、西側に対するそれまでの東西対抗路線を堅持していたゴルバチョフが、急激に西側に対して軟化し始めるのは、89年頃からである。前述のゴールドマン教授によると、ソ連の中央計画委員会の幹部の中には、地下の石油の回収率を90%と信じていた者がいたという。一方、西側では70年代には25%の回収率が常識とされてきた。その後、技術進歩もあり、今では40%程度が平均的に妥当な回収率と考えられる。あえて推測すれば、ゴルバチョフは当初、回収率を90%と信じていたのではなかったか。だとすると現場の責任者は怠慢ということになる。それで責任者を入れ替え、やたらと井戸を掘らしたのかもしれない。

もちろん、その方法は短期的には増産に効果がアルにしろ、長期的には油層を痛めつける最悪の手段である。ゴルバチョフは89年までに、ソ連の石油資源は大勢的に枯渇しつつあるという現実を理解したのではないか。そして、最終的に非合理な共産主義体制に見切りをつけたのではないかというのが、石油屋の筆者の推理である。それはともかく歴史的、現象的には、ソ連の共産主義体制はみごとにその石油生産の推移と一致しているのである。


文明発展とエネルギ−

「知の爆発」の中で立花隆さんは、エネルギ−奴隷という概念を紹介している。一人当たりのエネルギ−消費を人間パワーに換算し、それが何人分の奴隷になるのかというのである。ジョン・マックヘールという人によると、20世紀初めの1人のイギリス人が20人のエネルギ−奴隷を使っていたが、1960年には81人になったという。文明発展をエネルギ−の面から見た、たいへん興味深い分析だが、さらに突っ込む必要がある。20世紀に起きた変化は、たんにエネルギ−奴隷が4倍になったという程度の数量的変化に止まらない。質的変化の方がより本質的なのだ。先に検討したように、全体のエネルギ−消費の中ではそれほど高い比率とは思えない。農業用トラクタ−に使われたガソリンが、約1万年ぶりに人間社会構造を崩壊させてしまったのだ。

20世紀に起きた、エネルギ−消費と人間生活との関係変化を理解するためには、文明史的に考える必要がある。われわれのエネルギ−消費は、約1万年の文明史の上で如何なる意味をもつのだろうか。普通、文明は石器時代から青銅器時代へ、そして鉄器時代へと移り変わってきたとされる(石器時代と青銅器時代の間に金石併用時代または銅器時代を入れることが多い)。しかし資源・エネルギ−論的観点からは、真の時代のエポックはBC6000年頃と推理しうる「高温の技術」の出現にある。その出現を立証するのは、出土する火で焼いた土器の破片である。壊れた土器にはなんの価値もない。それ故、それが存在した場所にうち捨てられ、古代情報の良きメッセンジャーとなる。

高温の技術とは、なんらかの炉によって約800℃の温度を実現する技術である。800℃位の温度になると、金属の銅も溶かすことができる。高温の技術に先駆けて、自然銅が利用され始めていた。場所はアナトリア高原である。一つの傾向として、中東の多くの遺跡の最下層から土器が発見されている。
そのことは、人間は、高温の技術を発明するや、その直後に動き出したことを示唆する。高温の技術と、人間が各地に拡散し始めた事実とは関係があるのだろうか。シナリオ思考(推論的論理思考)によれば、以下の通りのシナリオが考えられる。すでに述べた通り高温の技術は土器と銅の精練に結びつく。しかし土器の面からは人間が動き出す必然性はない。一方、銅の方はあるのだ。

BC6000年頃、高温の技術を修得した人々は、アナトリアですでに自然銅を知っていた。また彼らは、自然銅以外銅を得る方法を知らなかった。この二つのことから、彼らが自然銅を集め始めた蓋然性が高くなる。周辺の自然銅を拾い尽くすと、だんだんと遠方まで出掛けて行かざるをえなかったろう
(ここで19世紀のアメリカの捕鯨船の例が参考になる)。
彼らは、どこまで出掛けていったのだろうか。残念ながら想像するしかない。

しかし歴史的状況証拠からいうと、彼らが、たとえば北ヨ−ロッパや中央アジアなど、想像を絶する遠方まで出掛けていった可能性が高いのだ。しかし彼らは、やがて、自然銅同様川原に落ちていたマラカイト(孔雀石)を火で焼けば銅が得られることに気づく(BC5000年より少し前)。それ以後は、自然銅とともにマラカイトが捜索の対象となった。そして、その美しいグリーンの色が上流の銅の鉱脈の発見に導いたと考えられる。考古学的には、銅鉱山の開発はBC4000年以前に始まっていた。

資源論の立場から以上のシナリオが考えられる。人間がなぜ銅を執拗に追い求めたという点については後ほど考えよう。
このシナリオから興味深い蓋然性が浮かび上がる。人間がもっぱら自然銅を探していたBC6000年頃からBC5000年より少し前までが、人間の行動半径がもっとも広かったという蓋然性である。マラカイト時代を経て、BC4000年以降、銅鉱山開発時代に入ると銅取得の効率が革命的に上がったと考えられるから、人間の行動範囲はむしろ劇的に縮小したであろう。
世界中からせっせと銅を集め始めたのは、BC6000年頃、アナトリアにいた文明の主流を担う人々である。彼らは、ハスナ期、サマラ期そしてハラフ期を経て北メソポタミアへと次第に移動していった。そしてウバイド期を経てウルク期に入ると、南メソポタミアが主たる舞台となる。その南メソポタミアは、BC3400年から原文字期と呼ばれる時代に入り、BC2900年まで続く。

原文字期には、たった500年間という短い期間に、大規模灌漑施設城壁を持った都市国家、大神殿、王権の誕生を示唆する遺物そして、文字記号いずれも文明が誕生したことを証明する事象がワンセットとして突如出現する。以上は、文明発祥以前の歴史に関する資源論的分析である。しかし、それは表面に現れた歴史を追ったにすぎずない。いろいろ分からないことが残っている。

その中でも、普通、文明の起源とされる定着農業の始まりから、本格的な文明誕生まで6000年近い年月が流れているのは何故か、という疑問はぜひとも解かねばならない。いったい人類は、これほど長い期間なにをしていたのだろうか。結論からいえば、文明が誕生するためには必要条件と十分条件が必要ということなのだ。土地の生産性を50倍に上げた定着農業の出現はその必要条件だった。しかし一方では、農民社会は、黒澤明監督の「七人の侍」を引きあいに出すまでもなく防衛力を持つ必要がある。定着農業の始まりから本格的な文明誕生まで流れた6000年近い年月は、そのために必要だった歳月だったと考えられる。具体的にそのシナリオを追ってみよう。

この点で世界最古の町といわれるジェリコは世界でもっとも興味深い場所である。ジェリコはヨルダン川が死海に注ぐ少し手前にあるオアシスである。人間や動物たちの水飲み場だったが、定着農業が始まった以後人々が住み着くようになった。そのジェリコでBC8000年頃、城壁がつくられるようになる。ジェリコの城壁は、最初の小規模で簡単なものからじょじょに補強され、最後は、幅、高さとも数メートルの規模に達した。見張り塔らしきものも備えていた。当時のジェリコには、少なくとも3000人規模の人口が住んでいたと推定されている。

ジェリコの城壁が強化された過程は、襲ってくる外敵の力が、だんだんと強大化していったことを示唆している。しかしBC7000年頃、ジェリコの町は滅び去る。ついに外敵の力がジェリコの農民社会の防衛力を上回ったのだろう。
興味深いのは、ジェリコが滅び去った後、数千年間、中東では(もちろん世界的に見ても)城壁らしい城壁を持った町が現れていないことだ。この歴史的経緯からしてのみ、原文字期に出現した城壁が持つ歴史的意味を理解しうる。いうまでもなく、城壁は外敵に対する防衛手段である。その城壁がジェリコが崩壊したBC7000年以降つくられなくなったのは、その有効性が失われたからとしか考えられない。ジェリコ時代、武器としては基本的に石製や草木製のものしかなかった。それをオブシディアン製の刃で補っていたのだ。

ジェリコの住人は、そのような武器の技術的制約の下、次第に強くなる外敵に城壁を強化して対抗していたと考えられる。この文脈で考えると、BC7000年頃ジェリコは滅び去った理由が浮かび上がる。その方法で、ジェリコは約1000年間町を維持するのに成功した。しかし。ジェリコ滅亡の原因については異説もある。たとえば気候の変動などである。しかし筆者は、外敵の攻撃力がジェリコの農民社会の防衛力を上回ったためと推定している。この考えは、ジェリコ崩壊後、数千年間、城壁らしい城壁が現れない歴史的事実をも同時に説明できる。城壁の有効性はジェリコ周辺のみならず、中東一般で失われたことを示唆している。この観点から考えれば、原文字期にメソポタミアで城壁が再出現したのは、画期的な新しい武器が出現して、城壁の有効性が復活したことを示唆している。

その武器としては青銅製の武器以外考えられない。青銅という人類史上最初の合金はBC3700年頃発明されたと推定されている。原文字期の少し前である。それにしても、この時の青銅の出現が人間社会構造に決定的な変化をもたらしたのである。量的にかなりの青銅が蓄積される必要があったと思われるが、メソポタミアでは、青銅の原料、銅とスズは産出しない。それらは、どこか遠方から運んでこなければならなかったのだ。

高温の技術出現後、原文字期までの三〇〇〇年弱の時間は、人間が、文明誕生の地、メソポタミアに十分なる青銅の原料を世界各地から集めるために必要だった時間なのだ。その過程は、最初は自然銅のみが対象だったため極めて非効率だったが、マラカイトが原料に加わりすこし効率が上がった。そしてBC4000年より少し前、中東周辺の銅鉱山が開発されて一挙に能率が上がったのだ。

以上は、筆者のシナリオ思考的資源論が推理する文明の起源である。文明成立の条件となった青銅を作るためには大量のエネルギ−が必要である。文明は当初からエネルギ−消費的だったのだ。ここでエネルギ−の供給サイドの事情を考える必要がある。といっても人間は火の技術を発明した後、エネルギ−源をただひたすらに木に頼ってきたのである。人間が金属を利用するようになる以前、食物の煮炊きや寒い時期の暖を取るための消費しかエネルギ−を必要としなかった。しかし金属の利用のためには、比較にならないほどの森林資源が必要となった。

この文明が森林を枯渇させる傾向は、C1200年頃鉄器が出現すると一層拍車がかかった。興味深いことは、鉄器の出現は人間社会のあり方をも変えてしまったことだ。青銅器時代には都市国家がせいぜいだった。しかし鉄器時代に入ると世界帝国の時代に入った。アッシリア帝国や、少し後のペルシア帝国である。とはいえ文明の歴史を考察すると、鉄器時代に入った以後の歩みはむしろ遅々としていた。その理由はもちろんエネルギ−源の制約にあった。

文明誕生の地、中東から東地中海にかけての地域は現在禿げ山ばかりである。人間がこのようなエネルギ−の制約から解放されたのは、ようやく1600年頃である。当時イギリスでは、広壮なマンションの建設が流行し、ガラスの需要が急増していた。イギリスの森林資源は枯渇しかけた。そのような背景で石炭が利用されるようになった。実に石炭の利用は、文明発展に対するブレーキを外したのである。石炭採掘は思わぬ副産物をもたらした。地下の石炭を採取することは水との戦いであった。そこからピストンとシリンダーから構成されるポンプが生まれた。そしてポンプの同じ構造を持つエンジンが生まれたのだ。


ある資源屋の20世紀論東京国際大学教授 関岡正弘
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/titekiseiki.html

(TORAの意見)
ソ連の72年にわたる共産主義体制の興亡は、その石油生産量の推移と一致している。ソ連の崩壊の原因は経済体制そのものよりも、石油の生産確保に失敗したからである。工場や農場には生産された製品や農産物がうず高く積まれていた。しかしモスクワのマーケットでは商品棚は空っぽだった。ソ連の輸送はトラックによるものであり鉄道は発達していなかった。輸送用燃料の確保が出来ず流通輸送が停滞してしまったのだ。

現在のアメリカも鉄道は発達しておらず、人の移動や物資の移動はトラックや飛行機によるものである。もしソ連のように輸送用燃料の確保が困難になれば、アメリカの経済体制もソ連のようにあっという間に崩壊してしまう。世界最大の軍事力もガス欠状態ではただの鉄くずである。世界最大のアメリカ海軍も燃料がなくては意味がなくなる。

アメリカもソ連と同じく石油の生産量の推移と国力とは一致している。そしてそのピークは過ぎようとしている。アメリカの繁栄は今がピークであり、石油生産の減少に伴いアメリカの軍事力も経済力も衰退していくのは間違いない。9,11はその象徴的事件として後世の歴史家から指摘されるようになる。石油成金のロックフェラーも衰退するアメリカと共に運命を共にするのだろうか。

天才的戦略家のブレジンスキーもついに焼きが回ったようだ。中央アジアの石油埋蔵量を読み間違えた。そもそもソ連が崩壊した原因が石油の枯渇が原因なのだから、空っぽの油田地帯を確保したところでなんになるのだろう。水没してしまった油田から石油を汲み上げるのは不可能だ。アメリカはアラブ諸国にけんかを売ってしまったから、いまさら頭を下げて石油を分けてくださいなどと頼めないだろう。

ジョージ・W・ブッシュという人物はアメリカにとって貧乏神だ。何をやっても失敗して飲んだくれの落ちこぼれだ。NATOやロシアに行っては恫喝的な演説をして世界の顰蹙を買っている。世界の首脳はアメリカの繁栄が今がピークであることを知っている。ロシアのプーチンもアメリカがソ連のように石油と共に滅び行くのを知っている。知らないのは小泉首相だけだ。だからアメリカべったりでいられるのだ。少しは田中角栄を見習うべきだ。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu41.htm

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