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現代文明を支える社会システム 東京国際大学教授 関岡正弘
投稿者 TORA 日時 2002 年 12 月 25 日 17:10:50:

現代文明を支える社会システム
国際開発論B(後期) 東京国際大学教授 関岡正弘

この講義で学んで欲しいこと
〇 開発という人間行動の本質はリスク・テイキングにあること。
〇 リスク・テイキングが継続的に行われるためには、さまざまな社会システムが必要なこと。
〇 マネ−というものの歴史的本質。
〇 複式簿記など社会システムから見た資本主義の歴史。
〇 法空間という概念の重要性。

イントロダクション

夲講義は、かって1年単位で行っていたが、セメスター制移行に伴い、国際開発論A、国際開発論Bの二つに分け、それぞれ独立の講義内容とした。

国際開発論 Bでは、まず、開発の主体(経済発展の原動力)が、アントラプルヌ−ル(起業家)にあることを再確認する。その上で、彼らの本質がリスクテイカーにあること、リスクはマネージ(管理)されなければならないこと、を明らかにする。この場合のリスクとはマネ−を失うことである。マネ−については、経済の基盤であるにもかかわらず、スミス経済学はほとんど触れることがない。ガルブレイス教授は、マネ−の問題は歴史に問う以外ないと言っている。

私は、かって「マネ−文明の経済学」を書いた。マネ−という不可思議なものを歴史に問うたのだ。ここでは、その要約をまとめておこう。

リスク・マネジメントの本質は分散である。アントラプルヌ−ルたちの第一の対策は、パ−トナ−シップの結成であった。パ−トナ−シップ関係は、債権債務関係から成り立つ。債権債務関係を記録するためには、複式簿記が必要となる。一方、長距離交易の必要性から、為替手形が誕生した。為替は、約束手形とともに、債権債務関係を記載したペーパーだが、一つの社会システムであり、供給に制限があるマネ−を補完するものとなった。

究極のリスク・マネジメントが、保険である。現代資本主義を支える社会システムとは、以上の、複式簿記、為替、保険などを指す。これらの社会システムを支える基盤には、信用があることも忘れてはならないだろう。最後に、複式簿記を舞台としたペ−パ−・マネ−の誕生について考察する。

1 経済発展の原動力

開発とは、人間が自然に働きかけ、資源を採取して加工、様々な製品をつくって利用することを意味する。典型は石油(油田)開発。開発なくして、経済発展はありえない。開発は変革である。リスクを伴わない開発はありえない。開発を成功させるためには、リスク・マネジメントが不可欠である。具体的な開発はビジネスとして現れる。開発とは、リスクに賭けるアントラプルヌ−ルの行為に他ならない。アントラプルヌ−ルこそ経済発展の原動力である。

2 開発に伴うリスク

開発とは、具体的にはマネ−をマネ−以外のものに変える行為である。そうするのは、もう一度マネ−に戻した時、マネ−が増殖していることを期待しているからである。しかし現実の世界はきびしい。その目的は必ずしも達成できるとは限らない。もし達成できなければ、マネ−は失われアントラプルヌ−ルは破産する。場合によっては、死をも覚悟しなければならないだろう。

「開発=リスク」という基本方程式の基盤にあるのがマネ−である。開発に伴うリスクとは、マネ−を失うリスクである。開発という概念の本質に迫るためには、マネ−を研究しなければならない。マネ−は、かって貴金属であった。今のマネ−は一つの社会システムである。

3 マネ−の歴史

マネ−の起源は、古代メソポタミアの楔形文字文書によればBC2000年頃のことと推理しうる。当時の楔形文字文書に、「銀にしていくら」という表現が出てくる。銀が他の商品の価値の尺度になったわけで、価値の尺度になることは、マネ−の重要な機能である。

マネ−としての銀は、粒や板の形で長らく流通していた。マネ−がコインの形を取ったのは、大分後のことである。ギリシアの歴史家、ヘロドトスは、BC670年頃、アナトリアにあったリュディアの王ギュゲスが、最初のコインをつくったと書き残している。

材質はエレクトロン、自然にできた金と銀の合金である。当時は、金と銀を分離する技術がなかった。なぜギュゲスは、歴史で初めて貴金属をコインとして鋳造したのか。ギュゲスは傭兵をエジプト王へ供給して、当時迫り来るアッシリアの脅威に対抗していた。

この歴史から、マネ−がコインの形を取った経緯は、戦争が終わった後、血の気が多く、危険極まりない傭兵に対して、できるだ効率よく支払いを済ませるためとする説が有力となる。かくて銀は、すでに4000年も昔に、マネ−になっていたが、もう一つの貴金属である金は、なかなかマネ−になることができなかった。

銀がマネ−たりえたのは、希少価値があり誰もが何時でも喜んで受け取ったからだ。ところが金は、あまりにも希少価値がありすぎたため、一度受け取った人は容易に手放そうとはせず手元に留めた。流通しないものはマネ−にはなりようがない。

それではいったい誰が金を保有していたのか。もちろんもっとも力を持っていた人間である。つまり王なのだ。むしろ王権を支える力の根源が金だったとも言える。セデイヨという学者によれば、古代の金の生産はエジプトとヌビア、ナイル川の沿岸に偏っていた。

そこで生産された金は、古代エジプトの王ファラオたちによって独占的に所有されていた。カイロの博物館に豪華絢爛なツタンカ−メンの秘宝が展示されているが、ファラオたちの墓場、王家の谷へ行くとツタンカ−メンの墓の数十倍もの規模の大王たちの墓がある。それらの墓は盗掘されて空っぽである。

死んだ時まだ18歳だったツタンカ−メンの墓は、王家の谷ではもっとも規模の小さな墓だったため、発見されずに盗掘を免れた。そんなツタンカ−メンの秘宝ですら、現代人を驚嘆させるのだ。盗掘される前の大王たちの墓にはどれほどの貴金属が埋蔵されていたか想像を絶する。古代エジプトは黄金の文明であった。それでは、いったい誰が、何時、エジプトから金を持ち出したのだろうか。

3000年に及ぶ長いエジプトの歴史では、ヌビアやリビア人が建てた王朝もあった。しかし彼らは外部からやってきてエジプトに腰を落ち着けたのだ。金を持ち出した筈はない。エジプトから金を持ち出した者としては、エジプト以外に自分の領土を持ち、エジプトを征服した後、金を自分の領土に持ち帰った者しか考えられない。それは王権の規模からして世界帝国時代に入ってからだろう。

歴史上、最初の世界帝国アッシリアも一時エジプトを征服したが、短期に終わった。一部の金は別として、すべての金を持ち出したとは考えられない。結局、エジプトから金を持ち出した人物としては、二番目の世界帝国、アケメネス朝ペルシア帝国第二代の王カンビセスと推理しうる。以後、太宗としての金は、ペルシアに保蔵されたと推理しうる。

アケメネス朝は、BC330年頃アレキサンダ−大王に滅ぼされた。ちなみにアレキサンダ−が征服した地域は、すべて金が保有されていたか、金の生産地である。アレキサンダ−は史上最大の金の保有者だった可能性が高い。しかしアレキサンダ−は若死にしたので、使うひまはなかった。彼の死後、残された領土はセレウコス朝とプトレマイオス朝に分割された。

プトレマイオス朝の領土がエジプトに限定されていたのに対し、セレウコス朝の領土は当初、インド、中央アジアからペルシア、アナトリア(現在のトルコ)におよぶ、広大な地域を占めていた。やがてセレウコス朝は衰え、ペルシア帝国が復活する。パルティア朝からササン朝へと王朝は変わったが、古代ペルシア帝国はその後も約700年間におよんで強大なる政治権力を維持した。ロ−マ帝国が執拗にペルシア帝国を滅ぼそうと試みたが遂に成功しなかった。

イスラム・アラブによる金の解放

622年、アラビア半島からイスラム・アラブが興隆すると、640年頃ササン朝を滅ぼす。この時点で、基本的にエジプトからペルシアへ受け継がれた莫大なる金は、イスラム・アラブのものとなった。ここでたいへん興味深い現象が起きた。先祖代々通商民族だったアラブには王は存在しなかった。イスラムという宗教も神の前の平等を説いた。ペルシア帝国から奪った金は、イスラム・アラブの共同体の構成員の間で分配されたのだ。690年代にはイスラムの金貨と銀貨が鋳造された。ディナール金貨とデルハム銀貨である。

幻の広域国際商業ネット・ワ−ク

最近、中東関係の学者の研究でイスラム・アラブ時代、東は中央アジア、インド、東南アジア、中国南部、西はアフリカの北部は無論のこと、タンザニアやニジェ−ルの辺りまで包含した広域国際商業ネット・ワ−クが存在したことが分かってきた。そのネット・ワ−クこそは、人間の歴史の上で初めて金がマネ−として流通の場に投じられた効果であったろう。そのインパクトが、古代を終了させ中世という新しい時代をスタ−トさせたのだ。

ヨ−ロッパへの貴金属の流入

イスラム・アラブの広域国際商業ネット・ワ−クの全盛時代、ヨ−ロッパは圏外におかれていた。しかし徐々に貴金属が流入していったらしい。バルト海に浮かぶゴットランド島を中心とした地域から大量の銀貨が発掘されている。その中に、中央アジアのイスラム国家サ−マン朝が900年頃鋳造した銀貨が大量に含まれている。その頃、ボルガ川を利用した中央アジアとバルト海沿岸を結ぶ通商ル−トが存在したことは確かである。

第四次十字軍

以上がヨ−ロッパへの貴金属流入の第一段階とすれば、第二段階は1202年から4年にかけて行われた第四次十字軍である。第四次十字軍はエルサレムではなく、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノプールへ攻め込み、ラテン帝国をつくり半世紀ばかり保持した。その間、ビザンチン帝国に保有されていた貴金属がヨ−ロッパに持ち去られたと推理しうる。

とくに第四次十字軍の黒幕ともいうべきヴェネチアへは、かなり貴金属が運ばれた蓋然性が高い。ヨーロッパが本格的に興隆し始めるのは13世紀の半ば、ヴェネチアを初めとしたイタリア北部の都市からである。その後繁栄は北イタリア全体、ロンバルディアに広がった。現在でもロンドンの金融街シティ−にはロンバ−ド街がある。当時のロンバルディア商人たちは、ヨーロッパのみならずアフリカや中東にも支店を構えた。その中から現代企業に至るビジネスの基本システムが生まれた。為替手形と複式簿記である。

4 為替手形と為替銀行

為替手形と約束手形は、いずれもビジネスには付きものの債権債務関係を表わす紙つまり証券だが、約束手形が債務者が発行する返済を約束する約定書であるのに対し、為替手形は債権者が発行する請求書(Bill)である。請求書は法的には債務者が引き受け、つまり裏書して正式にその権威を認めた時にのみ効力を発揮する。

実際のビジネスの世界では、とくに遠隔地貿易の場合など、商品の受取人から約束手形を受け取ることは不可能だった。また、自分が発行した為替手形に債務者の裏書を取ることも不可能であった。そこで誕生したのが為替銀行システムである。

為替銀行は、地元の債権者が発行した為替手形(請求書)を割り引いて、それを債務者が住む土地の支店あるいは取引銀行へ送って取り立てる。この段階では、銀行は単に取り立て業務を行なうだけだが、やがて為替手形は玄妙なる効果を発揮するようになった。為替交換所をつくり、たがいに反対方向の為替を相殺するのだ。この段階で為替手形はBill of Exchange になった。

信用度の高い、つまり経験のある銀行が喜んで割り引くような為替手形は、為替交換所で相殺されて消滅するまではマネーと等しいものとして通用するようになった。為替手形は、ロンバルディア商人たちが銀行に成長する過程でマネーの代替物となった。

A国のA銀行とB国のB銀行の間で取引きネット・ワ−クが存在するとする。
A国のA商人がB国のB商人にある商品を輸出する場合を考えよう。
B商人はB銀行から信用状を発行してもらう。
それをA商人に送る。
A商人がB商人宛の請求書とB銀行発行の信用状をA銀行に持参すると、
A銀行はその請求書をA国のマネ−で割引いて買い取る。

請求書に記載される金額と割引価格の差がA銀行とB銀行の手数料となる。
A銀行はA商人発行の請求書をB銀行に送る。
B銀行はB商人からB国のマネ−で額面通りの金額を受け取る。
 この段階でA商人とB商人の間の取引きは終了する。
しかしまだA国とB国の間の決済が済んでいない。
本来であれば、B銀行はA銀行宛てに、
インタ−ナショナル・マネ−たる貴金属貨幣を送らなければならない。
 ここで為替手形が効果を発揮するのだ。
貴金属マネ−を送る代りに、B国の別の商人がA国の商人に宛てた請求書を送る。
そして方向が互いに逆の二つの請求書が、中間設置された手形交換所で相殺されるのである。
もし双方向の請求書の金額が一致すれば完全に相殺されることになり、
貴金属マネ−を送る必要はなくなる。
しかし仮に、そうでなかった場合も、
実際の貿易総額に対し送らなければならない貴金属マネ−は、
大幅に節約されているだろう。

為替手形システムはヨ−ロッパに流れこんできた貴金属マネ−を効率良く利用する制度だった。経済発展が加速されたのは当然である。

5 複式簿記

為替手形がロンバルディア商人の国際ネット・ワ−クの中から誕生したのと同じ頃、近代資本主義のもう一つの基礎、複式簿記が誕生した。現存する最古の複式簿記は1340年頃のものと言われるが、ほとんど完成しているので、起源は13世紀後半にあると考えられる。複式簿記はDouble Entory を訳した言葉である。一枚の紙の真ん中に一本の線を書く。左側を借方(Debit)、右側を貸方(Credit)と呼ぶ。特徴は、左右の合計が一致しなければならないこと。そのため誤りが常にチェックされる。ビジネスに伴うマネ−の出し入れが正確に記帳されるようになり、安心してビジネスを拡大することができた。

6 ペ−パ−・マネ−誕生

1680年代、ロンドンの商人たちは、手持ちの金をゴ−ルド・スミス(金匠=金細工師)の金庫に預けるようになった。その際ゴ−ルド・スミスは預り証を発行した。その預り証が金貨に代って支払手段をして流通するようになった。銀行券の誕生である。やがてゴ−ルド・スミスは、商人たちに貸出しを行なうようになり、預金貸付銀行へと変身する。預金貸付銀行の複式簿記では、借方の貸付と貸方の預金がバランスしている。預金がマネーである。

銀行券は預金証券を定額化、少額化したものである。預金貸付銀行が貸出しをすればするほどマネーが増える。これが信用創造である。預金貸付銀行はマネーを必要に応じて創出する社会的システムである。初期の預金貸付銀行は、しばしば利益を追及する余り貸出しを膨張させすぎて破産した。しかし1694年にイングランド銀行が設立されると、次第に中央銀行として機能するようになり、銀行のなかの銀行として破綻しやすいぺーパー・マネー・システムを安定化するのに貢献した。

以上の経緯でイギリスだけが、いち早く中世末期のマネー不足状態から脱出できた。お蔭でイギリスは諸国に先んじて産業革命時代に入る。しかし1790年代に入りナポレオン戦争が起きると、イギリスから大量の金が流出し1797年にはイングランド銀行券の兌換(金本位制)を一時停止せざるをえなくなった。ぺーパー・マネー・システムに訪れた最初の危機である。

ナポレオン戦争が終わると、イギリスは金本位制を復活させるべくあらゆる努力をしたが、結局それが最終的に確立するのは1844年のピール条例によってである。ピール条例はイングランド銀行券の発行を厳しく制限した。イングランド銀行券の発行額は常にアンダーサプライの状態に置かれ、金との兌換は常に保証されていた。

イングランド銀行券の価値は金と等しくなり、ここが重要なポイントだが、同時にイギリス銀行のポンド建て預金の信用も金と等しくなった。そのためイギリス以外の諸国は、安心してイギリスの銀行に預金口座を開いて貿易の決済に利用するようになった。その状態が、イギリスは19世紀後半世界の銀行になったと言われたのである。19世紀後半のことである。

イギリスは、まず産業革命で世界の工場になり、そして少し遅れて、世界の銀行になった。インターナショナル・ペ−パ−・マネ−の誕生1870年頃から、日本やドイツなど、次々と近代国家の形を取り始めた。具体的には、中央銀行制度や金本位制を取り入れたのだ。しかし実態は伴っていなかった。

たとえば日本の場合、制度としての金本位制採用は早かったが、実際に金貨が発行されたのはかなり遅れた。実態が伴っていなかったにもかかわらず、形だけ中央銀行制度や金本位制を採用した目的の一つは、イギリスの銀行に預金口座を開く際、信用を高めることにあったと考えられる。

それはともかく、19世紀後半、それまでイギリスの国内マネーにすぎなかったポンドが、インターナショナル・マネーとして通用するようになった。このことは、世界経済あるいは国際経済を論ずる場合、イスラム・アラブの金の解放と同程度の、最大級の重要性を持っている。

それまで、イギリス国内だけで利用されてきた「いくらでも必要に応じて創出できる」ぺーパー・マネーの効用が、初めて、イギリス以外の諸国にも恩恵を与えることになったのだ。当然のことながら国際間の貿易はやりやすくなった。1870年以降世界経済は急速に発展し始める。

7 インターナショナル・ペ−パ−・マネ−の消滅

1914年に第一次大戦が始まると、イギリスは金本位制の停止に追い込まれる。この時点で、インターナショナル・マネーが消滅した。世界経済は唯一の流通手段を失った。第一次大戦後、一日も早いイギリスの金本位制の復活が世界的に期待された、もはやイギリスは、もはや昔の圧倒的な強さを持っていなかった。

1925年にイギリスは、一応金本位制を復活させる。しかしそれを維持する力がなかった。イギリスは1930年金本位制を最終的に放棄した。アメリカだけは、1934年以降、「外交政府にだけはドルと金の兌換に応ずる」という縮退した形で金本位制を維持した。

インターナショナル・マネーが不在となった1930年代、世界はいくつかの通貨ブロックに分かれた。ポンド、ドル、フラン、マルク、円、貿易はブロック内部に限定された。世界貿易は大打撃を受け、それによって生じた1930年代の大不況が第二次大戦の遠因となった。

8 第二次大戦後

第二次大戦がまだ完全に終わる前、アメリカとイギリスを中心とした連合国は、アメリカのブレトンウッズに集まり戦後の世界体制を論議した。その結果設立されたのがIMF世界銀行である。しかしである。IMFは限定的なマネー制度で、それ自体がインターナショナル・マネーを供給するわけではなかった。

ドル体制いくつかの出来事が、ドルをインターナショナル・マネーに仕立てた。第一は、1934年から1941年までの8年間にアメリカに1万5000トン、金額にすれば170億ドルの金が輸入されたこと。脱線だが、このことを指摘した経済学の書物がない(知るかぎり)のは驚かざるをえない。1990年に「マネ−文明の経済学」を書いた時、確認したのだが、このような重要なこと抜きでは、20世紀後半の世界経済は理解できない。

第二に、アメリカ以外の地域が第二次大戦によって荒廃したのに、アメリカだけは破壊を免れ、そればかりでなく、近代的な経営管理技術により生産性において圧倒的な優位を保っていたこと。マ−シャル・プランアメリカは、マーシャル計画の下、1948年から51年にかけてヨーロッパに125億ドルという未曾有の巨額の資金を援助した。また1950年の朝鮮動乱は多額の軍需を日本に与えた。いわばアメリカは世界にドルをばらまいたのだ。

以後もアメリカは、共産主義封じ込めを政策とし世界中に軍事基地を張り巡らせた。それは多額の経費を必要としたから、アメリカがドルを世界中にばらまき続ける体制が維持されたことになる。とはいえ、マネ−はサイクルが必要である。

最初アメリカは巨額の貿易黒字でドルを回収していたが、日本やヨーロッパが経済復興し新たなる成長を始めると、次第にアメリカの製品が売れなくなった。一方では、東西対決の下冷戦は益々激化していたから、アメリカの軍事支出は増大し続けた。このような構図の下、アメリカの金保有量が減り続ける一方、海外に流出したドルの残高は膨らんだ。

チューリッヒの小鬼1960年代に入ると、アメリカがいずれドルのデバリュエーション(減価)に追い込まれると読んだ投機家たちが金の投機を始めた。アメリカやヨーロッパ諸国の中央銀行は金プールをつくってそれに対抗したが、1968年には崩壊した。以後金の価格は1オンス35ドルの公定価格と市場価格の二重価格となった。

ニクソン・ショック

そして遂に、1971年8月ニクソン・ショックが起きる。アメリカは以後、金の兌換を一切行なわないと宣言した。長いぺーパー・マネーの歴史で初めて金との関係が完全に切れた瞬間だった。ドルの信用は失われても不思議はなかった。

9 ユーロ・ダラー

しかるに、ユーロ・ダラーと呼ばれる奇妙なインターナショナル・マネーが自然発生した。ユーロ・ダラーの起源は1949年に中国人民共和国がソ連の外国銀行のパリ支店にドル預金をしたことに遡る。その後、1957年にはイギリスのポンド危機が発生し、イギリス政府はイギリスの銀行にドル預金を預ることを認める。以後、ユーロ・ダラーの規模が急速に膨れ上がった。

ユーロダラーは奇妙な存在である。ドルはアメリカの通貨として、アメリカの国内法規の規制を受けねばならない。しかし海外へ出たドルはその規制を受けなくて済む。ここに無国籍のぺーパー・マネーが出現したのだ。最大の問題は、連邦準備制度の無限の信用創造を禁ずるレギュレーションDが課されないという点にあった。

ユーロ・ダラーは無限の信用創造によって膨張する可能性を最初から持っていた。ユーロ・ダラーが膨張し始めるきっかけをつくったのは1973年のオイル危機である。原油価格が一挙に4倍になり購入資金に不足した各国政府はユーロ・ダラーでドルを調達して急場をしのいだ。

1970年代半ば頃より、最初から国内規制を受けないオフショアー・バンキング制度が成長し始めた。1974年には3900億ドルだったユーロ・ダラーは1981年には1兆8000億ドルに達したといわれた。1990年頃、それは5兆ドルにも達したといわれていた。

10 企業の形式

企業の起源はパ−トナ−シップにある。パ−トナ−シップの起源は古い。ヨ−ロッパ人は、かって地中海交易を支配していたアラブ人商人から学んだ。アラブ人商人たちは、ビザンチン系のギリシア人から学んだ。しかし、パ−トナ−シップの起源は、さらに古く、フェニキア人、さらにさらに古く、メソポタミア時代に遡ると考えられる。なぜなら、古くから遠距離交易は行われていたし、遠距離交易の巨大なリスクをマネージするためには、パ−トナ−シップ以外考えられないからだ。

パ−トナ−シップのメンバ−は、無限責任を負う。パ−トナ−シップが個人企業の延長線上にある以上、当然のことである。この場合の責任とは、第三者賠償責任をいう。パ−トナ−シップがビジネスを追及していく上で、他人に損害を与えることがあるが、当然のことながら、損害を賠償しなければならない。その責任の範囲が、パ−トナ−シップの資産のみならず、パ−トナ−の個人資産にまで及ぶのが無限責任である。

しかし、いつしか、有限責任なる概念が生まれた。有限責任とは、責任を、パ−トナ−シップに対する出資分に限定することを意味する。とはいえ、パ−トナ−シップの段階では、有限責任は、あくまでも、パ−トナ−シップ内部の取り決めにすぎなかった。そのパ−トナ−シップには、他に無限責任を負うメンバ−がいなければならないのである。無限責任を負うメンバ−をジェネラルパ−トナ−、有限責任しか負わないメンバ−をリミッテッド・パ−トナ−という。日本では、商法上の匿名組合がそれに当る。

1600年頃、株式会社が誕生した。株式会社は、構成メンバ−のすべてが、有限責任しか負わない企業体である。有限責任は無責任に繋がりやすい。にもかかわらず、このような社会システムをつくらざるをえなかったのは、リスクが高い大量の資金を調達しなければならない状況が生じたからである。株式会社の起源は、1602年のオランダの東インド会社とされている。少し遅れて、イギリスも東インド会社をつくった。

今から400年も前、インドは途方もない遠距離だったろう。当然、所要資金の額は巨額に達し、リスクは大きくなる。そのような資金を集めるためには、株式会社方式以外なかった。当初、株式会社は勅許制度の下に置かれた。悪用の危険があったからである。しかし19世紀になり、産業革命後の必要性から、運河や鉄道など、巨額の資金を集めなければならなくなると、準則主義が採用されるようになった。一定に基準を満していれば、設立が可能になった。このような制度が可能になったのは、商法(ビジネス・ロー)が整備され、有限責任制度の悪用を厳しく取り締まることができるになったからである。

11 保険

開発という人間行動には、リスクが避けられない。リスクを排除することは人間には不可能である。リスクは必然的に起きるという前提で、リスクをマネージしなければならない。リスクをマネージする唯一の方法は確率である。あるいは分散である。パ−トナ−シップは、もっとも基本的なリスク・マネジメントの手段である。

しかし、さらに、保険という制度が出現した。保険とは、ビジネスの利益期待とリスクをパッケージにして、商品化したものである。15世紀のイタリアで、すでに行われていた。保険、あるいは損害保険を語る時、ロイズに触れないわけにはいかない。

世界の損害保険の元締め、ロイズは、17世紀後半、ロンドンのロイズ・コーヒー店から誕生した。ロイズの特徴は、メンバ−が個人の資格で、無限責任を負っている点にある。長らく、損害保険の中核的役割を果たしてきたロイズは、過去10年ほど前から、危機に曝されている。産業の基盤を為す装置の規模が巨大化したため、一朝事故が起きると損害額が巨大化して、保険提供者がその責任を果たせなくなるのだ。ロイズの危機が言われて、すでに久しい。損害保険制度は資本主義経済、あるいは世界経済を支える基盤である。なんらかの新しい制度をつくらなければならない時期に来ているのだろう。

12 法空間

開発という人間行動を支える社会的制度について、考察してきた。最後に、法空間という概念に触れておこう。

開発に限らず人間行動は、ル−ルによって規制されていないと秩序の維持が困難となる。秩序の存在しない社会に開発はありえない。なぜなら、開発にはリスクが付き物だが、秩序の存在しない社会では、そのリスクが途方もなく大きくなるからだ。世界には大きく分けて三つの法空間が存在する。アングロ・サクソン系のコモン・ロ−とヨ−ロッパ大陸系のシビル・ロ−、それにしっかりとした法によって支配されていない空間である。

法空間に関して、ここでは深くはつっこまない。要するに、問題の焦点さえ掴んでおけば、開発論としては、ことが足りる。ただ一つの例だけを挙げておこう。

コモン・ロ−とシビル・ロ−とでは、地下の資源に関する考えが異なる。シビル・ロ−では、地下の資源はすべて国家に属する。コモン・ロ−では、地表権者のものである。石油の母国、アメリカでは石油開発を行おうとすると、土地の所有者と契約を結ぶ必要がある。それはリ−スと呼ばれている。通常、リ−ス契約における地主の取り分は12.5%である。

20世紀になって中東で石油開発が行われるようになると、アメリカの石油慣習が持ち込まれた。コモン・ロ−の精神に基づき、産油国の王様を地主と看做したのだ。しかしコストの高いアメリカと異なり、中東の生産コストはきわめて安かった。そうなると、産油国側はロイヤルティ−を受け取るだけでは満足しなかった。

1950年頃、利益折半方式が持ち込まれた。ロイヤルティ−を含めて利益を産油国石油会社で半分づつにしようというのだ。次は、その利益とはなにかという点が問題になった。中東の石油開発をやっていたのは、メジャ−ズあるいはセブン・シスタ−ズと呼ばれる国際的な大石油会社だったが、原油生産部門から輸送、精製、販売まで一貫創業をやっていたので、原油価格を企業内部で自由に操作できたからである。

1950年代における利益分配方式を巡る交渉の過程で次第に高まった産油国側のメジャ−ズに対する不信感が、1960年のOPEC設立の遠因となった。それはさておき、共産主義諸国では私有財産を認めていなかったため、私法の物件法や商法など財産に関する法が未発達であった。地下の鉱物についても誰のものか法的に曖昧であり、それが石油開発を妨げている場合が多い。

そればかりか、法空間に関しては、今、たいへん重要な問題に直面しているように思われる。中国に進出する日本企業にとっての悩みの一つに、規則が簡単に変わってしまうという点があるようだ。これらの現実に直面した時、法空間という概念について、もう一度、真剣に考えてみる必要があるのではないか。

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