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フセイン後を思い描く二つの勢力 [ル・モンド・ディプロマティーク]
投稿者 あっしら 日時 2003 年 1 月 27 日 19:45:06:


イサム・アル・ハファジ(Issam Al-Khafaji)
研究者、アムステルダム大学教員
訳・葉山久美子

 2002年9月と10月、イラク反体制派32人がイギリスのウィルトン・パークに集まった。この会合は「ワークショップの母」という皮肉な名前で呼ばれることになる。参加者は、この城館の歴史を手短に紹介した小冊子を片手に、サダム・フセイン後のイラクの針路を話し合った。会場の選択に象徴的な意味があることは見過ごせない。ここは、かつてナチス後のドイツの民主化に向け、ドイツ人とイギリス人が討議を重ねた場所である。意地の悪い者ならば、ウィルトン・パーク会議に参加した最初のドイツ人が戦争捕虜であったという事実を指摘するに違いない。

 この「ワークショップの母」は正式には「民主主義の原則のワークショップ」と呼ばれ、米国務省の庇護のもと、フセイン後のイラクの青写真を描こうとする18のグループのうちの一つでしかない。これらの政治家・専門家グループの検討分野は多岐にわたる。臨時政府の構成、石油問題および経済問題、メディアや市民団体の役割、といったものだ。

 これらの問題は技術的な側面から検討されており、記者会見での説明によると、出身も信条もまるで異なるイラク人たちが礼儀正しく意見交換しているだけだという。しかし、この種の会合を開催せざるを得ないという端的な事実から、アメリカ政府がイラク問題で陥っているジレンマがよくわかる。一方では国務省とCIA(中央情報局)、もう一方では副大統領、ペンタゴン(国防総省)や議会の新保守主義者、この両者の激しい論争が何よりの証拠である。

 ウィルトン・パークの会合で、ウォルフォウィッツ国防副長官付きの特別補佐官とチェイニー副大統領付きの高官は、後ろに引っ込んで押し黙っていた。彼らの任務が、自分たちのイラクにおける利益代表を見守ることにあったのか、それとも国務省サイドのライバルを監視することにあったのか、それは何とも言いがたい。アメリカ政府内の見解の対立が、フセイン後のイラクに押し立てるべき指導者や政体の方向性、そして秩序を保つためにとるべき手段に尽きることは事実である。しかしそこには、アメリカの将来の中東戦略にとって非常に重要な問題が含まれている。古くからあるこの論争が実際の政治に組み込まれるようになったのは、今の政府になってからだ。国務省はCIAとともに現実路線(ハト派路線)をとり、イラクの体制が変化すれば、フセイン大統領によって攪乱された中東の安定が回復に至ると考えている。一方、ペンタゴンは、議会の有力グループや副大統領、国家安全保障会議の支持を得て、イデオロギー路線(タカ派路線)をとる。彼らはイラクの変化を「民主化の波」の始まりとしてとらえており、イラクを中東地域の民主化の尖兵とし、自由主義と親米主義のオアシスに変えることを目標に置く。

 この論争の起源は1980年代半ばにまで遡る。レーガンやブッシュ・シニアの政権内で影響力を持つ勢力が、多くの「研究者」や扇動家、実業家、政治家の援護のもと、フセインのような民族主義的独裁者をアメリカの緊密な同盟者に仕立てることで原理主義を抑え込み、欧米への安定した石油供給を確保しようとして、多大な努力と多額の資金を注いでいた頃だ(1)。

 1988年にイラク=イラン戦争が終結し、フセインがアメリカの権益を直接脅かし始めた後も、この思考は健在だった。湾岸戦争にも、イラクの敗戦にも、91年春に「自分たちのことは自分たちで」とブッシュ・シニアにそそのかされたイラク民衆の蜂起にも、それは生き残った。イラク政府との同盟を古くから擁護してきた勢力は、その後も重要な役割を演じることになる。彼らに説得されたアメリカ政府は、この民衆蜂起に支援を与えようとしなかった。そのうえ、連合軍が国土の6分の1を占領していたにもかかわらず、フセインの部隊が反乱軍を粉砕し、少なくとも6万人の死者を出すのを座して見ていた。こうした政策を推した者たちによれば、民衆蜂起はよからぬ結果を引き起こす。アメリカにとっては、独裁者とその取り巻きだけを一掃し、体制の根幹は維持する限定的な変化の方が利益になるという。

 この10年間に、アメリカの二つの勢力は、それぞれイラクの国内パートナーを見つけ出した。「現実派」の側は、限定的クーデターを呼びかける元バアス党員たちのイラク国民合意(INA)に期待をかけ、新保守主義の信奉者たちは、自由主義と欧米寄りをぶち上げるイラク国民会議(INC)に目を付けた。これらのグループは、他のそれほど重要でない集団や活動家と同様、アメリカの単なる手先ではもちろんない。それぞれの組織の構成は、バアス党体制による社会の根本的な変化を大きく反映している。

 INCは王制崩壊・共和制発足をみた1958年以前に社会的、経済的、政治的な上昇を果たした人々からなり、INAの幹部は共和制、特にバアス党体制のもとで成長した階層の出身である。前者には現在のイラク政権のエリートと何ら共通点がないのに比べ、後者の方は、すでにバアス党と袂を分かったといえ、自分たちにきっかけを与えたバアス党の心理や手法をいまだにかなり共有する。

バアス党体制の温存か解体か

 イラクの未来は、フセイン大統領がどのように舞台を去るかにかかっている。インフラや民間人に莫大な被害を及ぼす攻撃を重ねれば、バアス党の宣伝工作部門がアメリカはイラクの民衆を標的にしていると言い立て、フセインが自分を国の守護者のように見せかける機会を与えるのではないか。それとも反対に、この独裁者はなにがなんでも権力にしがみつこうとしていると見えるだろうか。あるいは、一人の将校の銃弾が体制にとどめの一撃を与えたり、民衆蜂起によって体制が崩壊するような結末もあるだろうか。答えは、イラクの一般市民にかかっている。高揚するのか落胆するのか。新体制を信頼するのか否か。自ら鉄槌を下そうとするのか、それとも新指導者層に任せようとするのか。
 しかし、フセイン後の臨時政府が、その意向に民衆を従わせることができるかどうかはわからない。現時点で、新体制に対する軍部の忠誠を取り付けられる保証はどこにもない。30年以上にわたる洗脳と対外的な孤立の後では、新政権と軍部との意思疎通は難しいものとなるだろう。恐怖体制の突然の崩壊は、報復をおそれることなく暴走する好機でもある。さらに心配なのは、国中に広がった部族、縁戚、利権のネットワークの存在が、クーデターの危険を恒常化させることだ。

 米国務省のお墨付きのもと「軽いシナリオ」を描く反体制派は、イラクの「文化規範と既存構造」なるものを出発点に据えている。この国の波乱の歴史、中東の地域情勢や、バアス党体制の重いツケを考えると、計画的な民主化などと言っている場合ではなく、国の安定化と最低限の正常化が先決だという。一見すると、外国の干渉を最小限に抑えそうなシナリオだが、他方では、1920年代のイギリスの植民地政策を思い出してしまう。というのも、各部族の指導者に多大な内政権限を与えることになる上に、南部の秩序を維持するためには、ムハンマド・バケル・ハキム師が創設したイラク・イスラム革命最高評議会(ASRII)指揮下にあるシーア派イスラム主義の反体制派民兵に、助力を求めざるを得ないからだ。と同時に、安定性の維持という名目で、バアス党体制の主要機構と幹部多数はそのまま温存されるだろう。

 反対に、INCはバアス党体制をナチスの同類と見なす認識から出発する。そこで、一挙に「脱バアス化」を進め、体制の基盤を解体すべきということになる。となれば、アメリカは大量の物理的支援を与えるとともに、秩序維持と制度再編を目的とし、かなり長期の暫定期間にわたってイラクにとどまらなければならない。将来の軍の中核となるのは、国外亡命者からなる義勇軍である。つまり、第二次世界大戦後の日本とその民主化がモデルとされている。しかしながら、タカ派のこのシナリオでは、目的と方法の間に大きな矛盾がある。

 イラクを平和で民主的な中東の日本とすることの狙いは、この国の産油能力の3倍増、現在の日量300万バレルを1000万バレル前後にまで引き上げる戦略にある。しかしこの壮大な目標が、イラクの平和や民主化と相容れるとは思いにくい。石油収入の増加は、国家統制をさらに強化し、専制政治の肥やしになるだけだろう。

 この国の産油量が3倍になれば、他方では価格暴落を引き起こし、他の石油輸出国の利権を危うくする。イラクは石油輸出国機構(OPEC)の中で唯一、海への自由な出口を持っていない(ペルシャ湾岸の港もイランの射程範囲にある)が、暴落で危地に立たされるイランやサウジアラビアのような国が、それを平然と見守ることなどあり得ない。結果として、このシナリオはイラクの軍事化と米軍の大規模駐留を促す。石油輸出が3倍に増えたとして(価格暴落の可能性を考えればあくまでも仮定にすぎないが)、その利益はどのみち軍事支出と輸入に消えることになる。

正統性の確立

 歴史的にみると、さまざまな社会構造は、それぞれ固有のシナリオに従って変化するものである。近代化や伝統文化の尊重の名のもと、社会の内部もしくは外部の権力がいくら政治的計画を押し付けようとしたところで、最終的に決め手となるのは内部の論理であり、それを踏みにじろうとした勢力はしっぺ返しをくらうだけだ。多数の住民の中から生まれたものではなく、正当な役割と見なされたものでもない武装民兵組織は、将来の軍の中核となる代わりに、権力の奪取や恐怖政治の樹立、資金提供者の利権強化へと傾きやすい。法的な機構や代表制の伝統がない国では、こういった民兵組織は待ち望まれる選挙の実施日程を狂わせるだけであり、国の政治機構への統合も難しい。
 国家の権威と公の秩序を強制するためには、軍と警察の再編が欠かせないが、独裁制崩壊後に短期間でそこまで達するのは困難だろう。荒廃し崩壊した軍を立て直し、政治と抑圧の道具であった機構から、国の秩序と安全の正当な守護者として国民に認められるような国家機構へと、生まれ変わらせるのは一筋縄ではいかない。

 軍と警察は、バアス党体制のもとで彼らがいかに軽視され屈辱を受けていたかを訴えることにより、ある程度の社会的認知は得られるかもしれない。対イラン戦争が終わると、職業軍人に与えられていた大量の特権は剥奪され、経歴に非の打ち所のない将軍たちが降格処分や処罰を食らうようになった。ともかくも、正規軍が義務を果たすためには、正統な国家の一部をなす組織と見なされる必要がある。

 しかしイラクの現代史上、国家の正統性が民主的憲法から生じたことはほとんどない。国家の正統性は縁故主義により、また多くの国民に庇護者と思わせる力量によって導き出されてきた。

 フセイン後の新体制が正統性を確立するためには、まずはイラクが対外的に承認され、国際社会に受け入れらてもらわなければならない。しかし、それだけではイラク社会が体制を承認するのに十分ではない。一方には道徳性や政治力によって尊敬と信頼を勝ち得ている国民の代表、もう一方には軍や警察の忠誠を得るだけの力量を持った指導者、その両者の微妙なバランスを打ち立てることが必要となる。これは簡単なことではない。というのも、革命的な動乱期には民衆は多大な期待をするものだからである。旧体制と距離を置いた個人や組織ほど、信頼がおけると見なされるだろう。しかし同時に、「距離」を置くような幹部というのは、理屈から言って、国家の歯車に最も通じた者たちではない。彼らの大半は、何が権力装置のスイッチを構成しているのかを全く知らないはずだ。

 独自の制度と指導者を生み出すような全面的な革命なしの体制崩壊は、紛争に満ちた空白期間を生み出すことになる。イラクに対する軍事攻撃の直後、あるいはことによると直前に、自発的な革命の勃発があり得るとしても、分裂し貧弱となった政治文化のもとでは、真の革命にまで至ることはほぼ不可能だろう。10年以上にわたる破滅的な制裁と30年以上にわたる専制政治のもとで、見識の高い新指導者層を生み出せるはずの教養ある、いわゆる中流階級は大きな損失を被った。何百万人ものイラク人にとって言語を絶する長い受難のあげく、かつての虐殺者の一部が自由主義や自由貿易、親米主義といった流行思想に堂々とくら替えしたとしても、とりたてて驚くには当たらない。

(1) アラン・グレシュ「標的はバグダッド」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年9月号)参照。

(2003年1月号)
All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Hayama Kumiko + Saito Kagumi

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