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あっしら様へのレス(長文)
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/424.html
投稿者 ぷち熟女 日時 2003 年 2 月 24 日 18:45:41:

(回答先: 続・女人禁制の不可解 投稿者 ぷち熟女 日時 2003 年 2 月 24 日 18:40:22)

あっしら様、

う〜ん。なるほどねえ。
『そういうものなんだ』とバッサリ斬ってしまわれましたわね。
差し詰め、あっしら様は、女性専用車両容認派、でございますのね。
(並びに、もしかして『男はみんな潜在的痴漢予備軍』派、性悪派、で
いらっしゃいますか・・・別のスレでそうではないとおっしゃってはいるけれど。)
それはよろしいんですけれど、お書きになったいくつかの点について
ちょっと掘り下げてみたくなりました。

*

1) 『女性もいますが、仏教は、生理・妊娠・出産という生物性から“解放”されている男が思念的に自己超越したいと願って走るロマンチックな対象だと思っています。』

あっしら様の考えではおそらく、この記述に関しては、
まずご自身でおっしゃっていたところの下の2)の項が
前提となっているのでございましょう。

男性諸兄は生物性から解放された存在であるのか・・・?

あら、全然そんなことないじゃございません?
だって、通常の健康状態にあられますと、『排泄』なさってもなさっても
精嚢はまたすぐ満タンになっちゃうでしょ?
それは個人の意志や霊性のレベルと無関係に起こりますわよね。
女性のように天体と連動したかのような周期性が認めにくいとは言え、
男性も生物性とは、まことにどっぷりと繋がってます。
当たり前じゃないですか、生物なんだから。

男のロマンねえ・・・。これもまた、女にとっては年が幾つになっても
ミステリアスで不可解なものであり続けるのでございますが
(特に、あれを人・・・女であれ家族であれ・・・をないがしろにする
口実にする男がいると、蹴り倒したくなるものでございますのよ。
はた迷惑なの、現実逃避やネグレクトをロマンとすり替える人間は)、

とにかく、私は純粋培養されたものの耐性に関しては非常に懐疑的でございます。

『自己超越』に関して私の考えるところは、下記2)をご参照下さいませ。

*

2) 『仏教は、生身である自己存在に嫌気がさした人の選ぶ道だと思っています。』

これは一種の自己否定かしら?
あるがままの自己を受け容れないところから出発するのでしょうか?
不健全じゃないかな? 修業がうまくいかないとパキッと折れて
神経衰弱に陥っちゃったりして・・・(だって、無菌状態の環境で修業して、
仏になれたと思って娑婆に出るなり煩悩発作に見舞われちゃったり・・・)

あるいは、あるがままの自己を受け容れるのに苦労しているからこそ
帰依するのでしょうか。
帰依する方々は、そんなにアンハッピーな(・・・大きなお世話か・・・)方々、
あるいはある意味、『敗北者的』な方々ばかりかなあ?

確かに、釈迦ですら、もしかすると自己否定から出発した方かも知れませんわね?
どんなに高貴な出自で、どんなに豊かな生活をしていても、
手放しの幸せが掴めなかった。絶望したかも知れません。
だって、あれ以上、まだ所有していない何が彼にあったでしょう。
どうしていいかわからなくてノイローゼになったかも。
ただ、彼は並外れて賢い方でございました。自分の謙虚にして注意深い思索や
鋭い洞察により、精神の一大危機を乗り越えた方のように、私には思えます。
凡人にはああは行かない、というのが私の印象でございます。

今のこの世の宗教界に、彼に匹敵する賢者がどれほどいるかは存じませんが、
この私共の時代には、幸いにして膨大な哲学関連の著作物があり、
精神医学や心理学の専門家も(保険もききますわよね?)存在いたします。
こんなことを言っちゃうと思いっきり反発を受けそうですが、
『あるがままの自己』という存在を否定するような悩みをかかえた時に、
性急に『宗教にしか救いが見出せない』という結論を導きだすことが、
どれだけ怠慢に私には思えるか、ということを告白いたします。
そして、怠慢ならまだいいんですが、危険かも知れません。
あるいは片手落ちかも知れないし、家を建てるのに屋根から始めるような
ことになってしまうかも知れません。

『帰依しさえすれば、神や仏、教祖、あるいは教義や秘儀が、自分のかわりに
そういった全てを癒してくれる』かのように考えると、全面的な依存に陥り、
洞察力を失い、似かよったつまずきを反復し、悪化させる危険すら
ありそうに思えるのでございます。

エゴを捨てることは帰依の大前提かも知れませんが、
独自の洞察までも捨て去ることは、
非常に危険だと私は思うのでございます。

ある宗教に入信し、修業であれ喜捨であれ、
言われることをして全てを投げ出すだけで
救済されたいという方々に救済がもたらされるとは思えません。

エステのサロンに通い、大金を投じ続けても
ヤセられない女がいるのと同じようなことでございます。
ヘンな療法を鵜呑みにして、たいしてヤセも出来ないで、
あるいは、醜く痩せさらばえて死んじゃった、とかね。
ほほほ・・・気をつけなきゃ。

要は、『悟り』に到達した完璧な存在になることを一足飛びに目指さずに
上記やそれ以外の手段も同等の重みをもって扱いつつ、まずは
『自分とは一体何なのか』を、思索するという自発的な努力を通して
知ることから始めても良さそうなものだ、と思うのでございます。

ある人が生まれて、例えば30年後に自己の存在の危機に見舞われるといたしますと、
その背景には、生まれて以来30年間蓄積されてきた自己の歪み、もつれ、
バリアなどのストレスが混在しますでしょ。
それを矯正し、ほぐすには、例えば心理学の専門家のアドバイスを受けても
何年もかかるのが普通です。
病理的な原因のない、内外のストレスによる精神的危機の場合、
クスリは思索に伴う苦痛が大きすぎて危険なセラピーの段階の補助としてしか
使わないのが本当。
つまり、相当の苦行に匹敵する経験を、しかも自分の知力を通してする手段が
宗教に帰依する以外にも存在するわけです。

そうした努力を通して、自分が、マザーネイチャーから
その一部として限りある命を与えられて生まれた存在であることを
あるがままに認識して生活できるところまで回復した上で、
それでもなお宗教に帰依して自己を超越したいと真剣に思えるなら、
それから出家しても遅くないはずです。

そもそも、『自己』の本来の姿に到達したためしのない方々が、
一体どうやってそれを超越できるというのでございましょうか?

超越が『否定』を通してもたらされるとは、個人的には考えておりません。
逆に、『受容』に次ぐ『調和』のプロセスを経てこそ可能だと思っておりますの。

人間(人間だけではありませんが)が精神と肉体の両方を具有するのは
自然の摂理なのです。
自然の摂理を拒否することは、ある面では驕りとも取れませんかしら?
それだけではありません。私共は、想像の中では万能であることも可能ですが
物質(肉体)はそれに制限を加え、我々に現実と闘うことを余儀なくさせます。
つまり、一方では、物質的制約があるからこそ、最小限の謙虚さを保つ
チャンスがあるわけです。
口では何でも言えますが、実現するのは何でも大変なんですから。

それに、自分の個に発する歪みを自分で発見することに努め、矯正する責任が
人間にはないでしょうかしら?
それは、まず自分独自の思索のメソッドを通して試みられるべきでは
ありませんでしょうか。
皆、ちゃんと頭蓋骨の中身を与えられて生まれてきているのでございます。
出来るだけそれを使ってみる責任が、我々にはございませんでしょうか。
それでだめなら健全な自己批判を繰り返し、他者のメソッドも受け容れて
思索を継続するべきではないでしょうか。
凡人が持つような悩みの多くは、何千年来の先達によって
連綿と対処されてきております。

また、『悩みを克服するためには完璧な人間にならねばならない』、
ということはないと思いますわ。
究極の高みへ到達することを望むのも貪欲の一種かも知れませんわよ。

私個人的には、それぞれが自分の日々の活動を健やかに行って
僅かずつ前進していくのに必要かつ充分な精神的成長を
人生の経過につれて遂げられれば、それだけでも大したものだと思います。

あっしら様は、きっと大変理想の高い方でおられるのでしょうねえ。

*

3) 『仏になることは究極の自己満足であり、国家護持や娑婆で生活する人々の救済をうたう仏教には苦笑せざるを得ません。』

いえ、いえ。
私の申し上げる『人の世での使命を果たすこと』は
『国家護持』することや『民衆の救済』をすることとは
何の関係もないんですのよ。

私のイメージの中にある宗教家の使命のひとつとは、
目覚めて霊性を高めたまま存続するために世を捨てっぱなしにするのではなく、
目覚めた者として人の世のカオスの中に身を置いて、
ある不動の価値観との対照(コンフロント)を必要とする
迷える方々のためのひとつの座標になること、といった感じでございましょうか。
宗教家でありたいのなら、混沌の世を直視し(どんなにくだらない
愚衆の問題も、です)、それと対峙し、問題の根源を看破しつつ
生きていただきたいんですの。

人々を救済する、などという大それたことをして下さいというんではないんです。
自分を救済したいという切望と秤にかけても決して不足のない
思索の努力をしようという心構えのある方々に感知できる『示唆』
あるいは『ヒント』を与えるくらいが、どんな高僧にとっても
精々ではないでしょうか(人々のうち極めて怠け者な方々は
永遠に三途の川で石を積み続けているしかないかもねえ)。
それでも、法律家にも思想家にも心理学者にもカバーできない領域を
フォローすることが宗教家には出来ると思うのでございます。

繰り返し申し上げますように、私自身は無宗教でございますが、
そんな宗教家がいらっしゃれば、対話して愉しめると思いますよ。
ただ『私よりもずっと賢く霊性の高いお方との対話』として。

*

長文になりましたが、以上のようなことです。

ではまた、ごきげんよう。

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