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バブル時代の営業局長は福井で、20 年前の局長は三重野だった (古谷公彦)
投稿者 リチャード・TORA・ヴェルナー 日時 2002 年 12 月 28 日 14:03:56:

ヴェルナー『円の支配者』の衝撃 
社会調査研究室主任研究員  古谷公彦

誰が銀行をそうさせたか

 かのバブル経済が全盛だった頃、銀行はとにかく金の借り手を探していた。少しでも土地などを持っていればそれを担保に好条件をちらつかせて何とか金を貸し付けようとしていた、と言われる。普通、エコノミスト達はこの原因を、低金利による「金あまり」の状況にあったとしている。しかし、バブル崩壊後の不況下においては、当時以上の史上最低金利にまで引き下げられ、それが現在も続いているにもかかわらず、銀行の行動は当時とは似ても似つかない。勿論、現在の銀行に関しては不良債権の問題や、BIS規制の自己資本比率のことは考慮に入れる必要があるかもしれないが、低金利の状態がバブル経済当時の銀行の行動を説明することができるようにはとても思えない。

ヴェルナーの『円の支配者』には、その行動の理由が実に明確に示されているばかりでなく、銀行にそういう行動を取らせることによって、狂熱的ブームの中での急激な資産インフレを生み出し、そしてその後、バブルを頂点ではじけさせ、バブル崩壊に続く、いつまでたってもはっきりとした回復の兆しを示さない長期不況を続けさせたその張本人が誰であるかが明かにされている。彼らがまさに「円の支配者」であるが、彼らが何の目的でそのような事態を引き起こしたのか、そしてその目的が達成されたのかどうかまで、明らかにされているのである。これほど衝撃的な本を私は読んだことがない。

キーワードは信用創造と窓口指導

 キーワードは 2 つ、信用創造と窓口指導である。信用創造の秘密を握り、窓口指導によって信用創造を自在にコントロールし、信用を各産業に思い通りに割り当てる。このことが即ち、日本を支配することであった。そして、「戦後日本には 26 人の首相がいたが、実際的な支配者は 5 人しかいない」(p。31)という。その 5 人が信用創造と窓口指導をコントロールしてきた、即ち、日本を支配してきたのだ。 信用創造とは、端的に言えば、通貨を作り出すことだ。つまり、「通貨とは信用である」(p。87)。そのメカニズムはどういうものかと言うと、次のようなものだ。

「誰かが銀行からお金を借りようとすると、銀行は口座を開いて、新しい預金を創造する。これは 『帳簿』上の通貨、あるいは『銀行マネー』だ。これは金(きん)や紙幣と同じ働きをする。こうして、今でも民間銀行は通貨供給の大半を創造している。」「古典派エコノミストは、この銀行の通貨流通量を測定するには、銀行預金のすべてを勘定すればいいと考えた。」「だが、銀行が新しい純ベースの預金証書を発行するのは新規の融資をしたときだけだ。」「現在、銀行が発行する預かり証総額に相当するのは、銀行預金の総額ではなく貸出額である。通貨(マネー)は銀行貸出なのだ」(p。87)。

 そして、「通貨を創造する力があるから銀行は特別な存在であり、すでに存在する購買力を再配分するだけの株式市場や債券市場とはまったく異なる。同時に、そのために銀行のほうが危うい存在でもある。結局のところ、銀行はインチキの上に成り立っている。預かった通貨はちゃんと保管していますよ、という銀行の約束は守られていない。だから、銀行は必要なときに現金を印刷してくれる中央銀行を欲しがったのだ」(p。89)。その中央銀行であるわが国の日本銀行が、この銀行貸出の量や、産業別の配分を銀行に割り当てを行なう。それが窓口指導である。

「窓口指導」で銀行の融資計画を調整

 戦後、日本経済がようやく成長軌道に載り始めた「1950 年代はじめには、経済は 2 桁成長しており、融資の申し込みは莫大になっていた。〔日本銀行の〕営業局による銀行信用の配分システムが最終的なかたちをとったのは、この時期だった。総裁はまず融資総額の伸び率を決め、それから腹心の部下である佐々木直営業局長と 2 人で増加分を各銀行に融資割り当てとして配分する。

銀行は大口から小口の借り手にいたるまで細かい融資計画を毎月日銀に提出するよう求められていた。」「次に日銀は、信用配分計画に合うように融資計画を『調整』する。日銀に赴いた幹部は、文字どおり日銀のカウンター(窓口)で融資割り当て額を告げられたので、この手続きは『窓口指導』という名で知られるようになった」(p。111)。そして、「このシステムはうまく機能し、非生産的な信用創造が回避されて、新たに創造された通貨は生産活動に注ぎ込まれた。」「時代と共に変化する優先部門の決定には通産省が力を貸した。

最初は繊維産業、次に造船業と鉄鋼業、その後は自動車産業とエレクトロニクス産業が優先的に購買力の配分を受けた。窓口指導はコントロール・センターで、経済に通貨という弾薬を供給した。その結果、日本は 1960 年代、10 パーセント以上の実質経済成長率を達成」することになった(p。111〜112)。当時の総裁であった一万田尚登と、当時営業局長で後に副総裁、総裁となる佐々木直が「実際の日本の支配者 5人」のうちの 2 人であることは言うまでもないだろう。

日本改造十年計画「前川リポート」

 次に登場するのが 5 人のうちのもう 2 人、前川春雄と三重野康である。後に総裁となるが当時は副総裁だった前川とその腹心の三重野は「70 年代末に景気を浮揚させようとしたとき、5 パーセント程度の成長率でもうインフレ懸念が生じることに気づいて不安を覚えた。以前にくらべて早すぎるインフレだった。日本の潜在成長率が低下したのだ。生産要素のインプットが減少したのだから、生産性が上昇しない限り、潜在成長率が長期的に低下し続けることはあきらかだった」(p。269)。

生産性を上昇させて潜在成長率を上げるためにはどうしたらよいか。前川と三重野は、野口悠紀雄が 1940 年体制と呼ぶ経済体制、即ち自由競争が行なわれずに行政指導で経済成長を達成し、株式の持ち合いを行うことによって外資による企業買収を防いできたという、『日本株式会社』を成り立たせていた仕組みを根本的に変える必要を感じた。そこには、日本との度重なる貿易摩擦を繰り返してきたアメリカの意向もあったのだろう、彼らはこれまでの体制を捨てて規制緩和、自由化を行ない公式、非公式のカルテルを破棄して、日本経済を世界に開放すれば、生産性があがると考えた」(p。269)。

 そして、この考え方は総裁を引退した後の前川が中心になって作成した、あの有名な前川レポートにおいてまとめられる。ただ、前川レポート発表当時のことを覚えている方は、このレポートは話題を呼びながらも、実現性についてはとても可能性がないと思われていたことを記憶しておられるだろう。「 現実主義者に言わせれば、前川レポートが出発点にもならないことは自明だった。夢物語にすぎない」 (p。252)というわけだった。しかし、その夢物語を現実のものとする事ができるのが、日本の支配者の支配者たる所以である。つまり、「 日銀のインサイダーたちは驚くほど鮮明に、計画実現のタイムスケジュールを描いていた。

公表された前川レポートは、日銀内部では当時もいまも『十年計画』という名前で呼ばれている。それは日本改造十年計画である」 (p。253)というわけだ。 その計画を実現するためには、日本全体を危機に陥れる必要がある。なぜなら、「 どんなシステムにも既得権益があり、国家全体を揺るがしエスタブリッシュメントの権力を侵食するほどの危機が起こった場合にだけ、変革が可能なのだ。そのときこそ、セントラル・バンカーの出番である」 (p。252)というわけだから。

ただ、「 銀行の貸し出し割り当てを縮小し、景気を後退させて、経済危機を生み出したとしたら、その原因はたちまち世間に知れてしまうだろう。」 「 もっと大規模で長期的な危機を生み出すのに効果的なよい方法がある。逆を行くことだ。窓口指導の貸し出し割り当てを大幅に引き上げ、バブルをふくらませる。そうすれば誰も危機の創出に反対しない」 (p。253)。バブル経済をあおるだけあおり、その頂点に達したときにバブルを一気に破裂させる。そしてそれに続く、バブル後の大不況こそが彼らが作り出した危機になる。

バブル→バブル崩壊→平成危機を演出した 5 人

 ここでようやく、この文章の冒頭でふれた、バブル経済全盛時代の銀行のあの異常な行動も説明がつくようになる。日銀が「 窓口指導」 において異常に高い貸し出し枠を設定することによって、各銀行がその枠を消化するために、必死に貸し出しを増やしていたということである。ただし、当時の日銀総裁であった澄田智はこの方針を知らなかったという。澄田は大蔵省出身の日銀総裁であり、信用統制の実権は、日銀生え抜きの副総裁三重野康が握っていたのである。

「 澄田が日銀総裁だった 1984 年から 89 年まで、信用統制という重要な決定は副総裁がおこなっていた。その 1980 年代に高い貸し出し枠を設定してバブルを生み出した責任者こそ、三重野康だった」 のだ(p。237)。 なんとその三重野が、バブルの熱狂を戒め、急激な資産インフレによる持てるものと持たざるものとの貧富の格差の急速な拡大を収めるための努力を続ける「 平成の鬼平」 としてマスコミに注目されることになる。「 1989 年に総裁に就任した三重野はマスコミの喝采を浴びた。

彼は責任のない傍観者のような顔でバブル時代の政策を批判し、自分は異なる政策を実施すると示唆した」 (p。236)。これから、出口の見えない長い不況が続き、日本は本格的な危機に陥ることとなる。 日本の支配者 5 人のうちこれまで、一万田尚登、佐々木直、前川春雄、三重野康、と 4 人が登場した。5 人目の支配者は、福井俊彦である。ヴェルナーがかつてインタヴューした日銀担当の銀行員の証言で次のように述べられている。「 窓口指導は営業局長が決めていた。営業局長は日銀で最も強い力をもち、いつかは総裁になる人物だった。

バブル時代の営業局長は福井で、20 年前の局長は三重野だった」 (p。235)。当時の副総裁三重野と営業局長福井というコンビがバブル経済をあおりにあおった張本人であったわけだ。そして、三重野が総裁を務めた 1989 年から 1994 年の後、大蔵省出身の松下康雄総裁の時期に副総裁として実権を掌握していたのが、福井俊彦である。三重野総裁、福井副総裁が、90 年代の出口のない長期不況の間、信用創造を絞りつづけてきたのだった。大蔵省がどれほど財政出動をして景気刺激策を試みようとも、日銀が信用創造を絞りつづけている限り、通貨の量が不足しているため、本格的な景気回復には至らず、財政赤字が拡大し、国債残高が膨大なものとなっていくだけだった。

夢物語が現実に

 日銀にとっての最大のライバルであった大蔵省の権威は地に落ちた。大蔵省は解体され、伝統ある省名も財務省と変えられることとなった。そして、1998 年日銀は念願の日銀法改正をかちとり、大蔵省及び他のすべての国家機関からの独立を実現した。そして、いつまでも終わりが見えてこない不況の原因は、日本の経済システムに求められ、規制緩和、資本自由化、といった構造改革がいたるところで叫ばれるようになった。金融ビッグバンをはじめとして、構造改革は様々な領域で進展してくることになった。そして、いまその構造改革がまさに現在の小泉政権最大の課題となっている。前川レポートという夢物語がまさに現実の改革として成就されつつあるのである。

◆日銀の速水総裁の後任に福井俊彦氏の名前があがっている。しかしながら福井氏はバブル経済を作り出した張本人である。このように官僚というものは、いかなる失政をしても責任を問われることはない。一時的に処罰されても、すぐに官僚仲間によって救済される。このようなエリート官僚支配は許してはならない。電子メールで仲間に配ってほしい。そして福井総裁の実現を断固阻止すべきだ。
後任としては、私は前経済企画庁長官の堺屋太一氏を推薦したい。

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