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日本株式会社の昭和史 by小林英夫岡崎哲二米倉誠一郎「天下り先が非常に増え省内での競争が変質化した。業界団体が最初は行政指導の窓口として働いていたのが変質化して新規参入者を排除するための機関 」
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/739.html
投稿者 hou 日時 2003 年 3 月 01 日 11:57:02:


★70年代のアメリカは今の日本と同じように、今までのシステムがぱったり動かなくなってしまった。多国籍企業、本社を中心とした事業部制、コングロマリット、テーラー・システム、大量生産・大量販売等。これらのいきずまりをコンセンサスで快勝する考え、すなわち、1つや2つの産業や政策に絞ることは不可能として、徹底的に規制緩和をやったことだ。適者生存の環境下で、徹底的に民間が考えて、好きな様にやれる土壌を作る。その結果、マルチメデイアやソフトウエアとかの新しい産業、産業構造ができてきた。

★日本の官僚の腐敗が昨今目立ってきているが、戦後の歴史をみると非常に官僚の汚職は少なかった。昭和電工疑獄などあったが、こうした例が本当に少なかったのも事実。発展途上国の歴史を見るに官僚の汚職の凄まじさは、下は空港のイミグレから大臣までという具合に官僚機構全体に蔓延していて、これが経済成長スピードを低める原因んになっていることが指摘される。何故日本の官僚が腐敗が少なかったのだろうか。1つは縁故などの採用が無く是非はともかく一定の競争を勝ち抜いた者が採用されること。1つは戦時中に官僚の人数が増え、戦後もわりと多くの人数が採用されたこと。この2つで採用後も省内で競争のメカニズムが働きやすかったために、汚職をやってきた者が排除されやすかったことがあろう。又、管轄民間企業が複数あるために一社にだけメリットを与えると必ず他の会社が知って不満を持ったこと。ところが日本経済が成功し豊かになってくると余剰人員を抱える余裕が出来、天下り先が非常に増え省内での競争が変質化した。又、業界団体が最初は行政指導の窓口として働いていたのが変質化して新規参入者を排除するための機関として働きやすくなり結果として業界がその目的のためにまとまりやすくなった事が最近の官僚腐敗の増加に繋がった。 http://plaza10.mbn.or.jp/~sasakih/book/b970701.htm

★世界恐慌までの日本を含む世界経済を主導したのは、自由主義経済だった。市場経済を背景に企業は自由貿易を推進し、国家は経済活動に関与しないことが多かった。しかし世界恐慌は自由主義経済そのもに大きな欠陥があることを教えた。各国は資本主義の聞きに直面し、新たな経済体制を一斉に模索しはじめた。その大きなポイントが国家と経済の関係だった。アメリカ政府は基本的に経済活動には関与しなかった。しかし民主党のルーズベルト大統領は大恐慌の対策で例外的にニューデイール政策を打出し、積極的に経済活動に関与していった。この例外的な政策を推進めた国務省や商務省の若手官僚のなかにはチャールズ・ケーデイス等戦後GHQの占領政策にかかわった者も多い。

第一次世界大戦の賠償に苦しむ中世界恐慌に見舞われたドイツは、社会不安が高まる中ナチスが台頭。ヒットラーによって「国家独占資本主義」という新しい経済システムを推進め、国家が企業を直接統制して、自動車、造船、鉄鋼など重化学工業化を推進め目覚しい成果を挙げた。金融面でも限られた資金を有効活用するため中央銀行の機能が強化された。

世界恐慌の始まる前年の28年、ソ連では世界初の計画経済である第一次5ヶ年計画が始まった。この中でソ連では農業国から工業国への急速な産業構造の変換を図り、資源や人や資金の配分が国家の統制下におかれた。スターリンは農業を集団化し、機械化を進めることで生産性を向上させ、余剰の労働力を工業に振り向け、燃料、鉄、機械といった重化学工業を中心に、生産力を飛躍的に伸ばそうとした。この手法は工業生産の面で目覚しい成果を挙げ、生産高は毎年12−18%伸び、工業労働者は10年で3倍に伸びた。

世界恐慌は日本にも強く影響を及ぼした。日本では世界恐慌の前の27年(昭和2年)に金融恐慌を起こしており、さらに世界恐慌に追討ちをかけられたため、多くの工場が閉鎖され、49万の労働者が職を失った。又、農村部では現金収入の柱である繭価格の暴落で苦境に陥り、農家の所得は2年で半分になった。こうした状況のため社会には厭世的気分が蔓延しマルキシズムが広まり、力を持っていった。右翼にも左翼にも官界にも共通した打開策として考えられていたのは現在の資本主義が限界にきており、新しい国家と経済のシステムが必要であることだった。

間接金融の割合
1935(S10)34%
1935(S10)34%
1984(S59)96%

★現在のように企業の資金調達における銀行融資の占める割合が96%もある現状では銀行が経営に対し発言権をもつのが分かる。かつての日本では資本家が企業に対して影響力を行使することが可能であり、コーポレイトガバナンスは健全だった。

内部昇進役員の割合
1935(S10)36%
1942(S17)51%
1992(H4) 93%

現在のシステムでは企業経営層と資本家が別れていて資本の発言権は低いが昭和初期では内部昇進の役員は少なく、多くの役員は資本家だった。当然利益処分における配当性向や役員賞与も高かった。

離職率(1年の間に転職する割合)
1935(S10)アメリカ 4.3%
1935(S10)日本 4.3%
1992(H4) アメリカ 4.4%
1992(H4) 日本 1.5%

終身雇用の慣行がかつては無かったことがわかる。むしろ戦時中に作られた産業報国会が作られ、労使懇談の場が設けられ、福利厚生の充実が図られたことで離職率も低まっていった。また、この産業報国会か企業別組合の基となっていった。

つまり、資本家中心の企業という面では昭和初期の日本企業の形は今のアメリカ企業のそれに近かったといえる。これが世界恐慌をきっかけとして批判が高まり、次第に現在のように変わっていったといえる。

その当時に成功していたソ連、ナチスの「生産力の拡大を最優先した国家主導の経済システム」をモデルに当時、建国作業の満州国で実験しそのシステムを第二次世界大戦遂行のため多少形を変えて移植したのが現在の日本のシステムといえる。戦時体制下、限られた資源を統制によって有効に配分し、生産力の配分を図ることで、戦争遂行を図っていった。そのため、この政策の担い手として企画院を中心に革新官僚が登場してきた。

当時の日本では株主の影響力を排除することが、生産力の拡充という国家目標に反することから正しいとされた。企業活動の第一の目的は利潤よりも生産力拡充と位置づけたのであり、それが短期的な利潤を最大化するよりも長期的な企業成長を志向する今の日本企業の姿勢につながっていった。

★44年に大蔵省が出した通達「軍需会社に対する資金融通に関する件」によって、日本の主要会社の殆どと言ってよい軍需会社に大蔵省から特定の金融機関が定められ、資金が安定して供給されるようになった。同時に企業の直接金融依存度が劇的に下がっていった。これは、株式による産業資金の調達が中心であった、戦前型企業の形態を変え、戦後のメインバンク制へ変わっていく基となった。また、下請制については、大企業の中心に下請工場の企業系列化・企業集団化を図る政策が実施された。こうして戦時中、固定された企業と銀行、企業と下請企業、企業と従業員の関係は戦後の物不足もあってそのまま継続され、その累積された資産やメリットによって、市場経済に移行したあとになっても残っていくこととなった。

戦後GHQは公職追放のリストを作るのをかれら官僚にまかせたため、経済統制の仕組みとそれを遂行してきた官僚とがそっくり残ることになった。同時に財閥解体が進んだためこの流れは決定的になった。戦時中は「統制」という名で行われた官僚の経済への介入は「行政指導」という名目に変更されてそっくり残っていった。

しかし、戦中のシステムが直線的に繋がって戦後型システムになったわけではない。ドッジラインによって補助金を打切られ、1ドル360円の単一為替レートによって世界市場にリンクされるようになる状況の変化が起こったため企業もその行動様式の変更を迫られた。又、戦中に基本ができたメインバンク制は戦中の仕組みがそのまま残ったわけではない。戦後、戦時補償中止や、戦後の混乱で企業経理がずたずたになったため、その再建に銀行が主体的にかかわらざるを得なくなった。企業に人材を送り、内部情報にアクセスしながら、企業とともにリスクをとって企業再建を果たす過程でメインバンク制ができていったといえる。

★思えばイギリス工業がアメリカの大量生産システムによる攻勢を受けたとき何をしただろうか。イギリス人経営者がすべき事は明白であった。生産規模を拡大し、大胆な合理化を実施することだった。しかし、経営者は自分の成功体験があるがためにそれができなっかった。既得権益の絡んだ企業の統廃合は進まず、自分たちの首を切るような合理化はできなかった。状況はそこまで悪くない。今までのやり方でうまく行ってたんだ。等の改革を阻む声に邪魔されて変化への対処ができず、イギリス経済は落ち込んでいった。彼らの姿は既存の経営者が突然の変化に対処することがいかに難しいかを示している。

しかし、戦後の日本には大きな神風が吹いた。GHQのパージだ。今の日本に換算すれば上位500社の大企業のトップが上から5番位までその座を追われたのだ。更に、企業を所有していた財閥一族や持株会社が解体したため、現場経験者で内部昇進した新経営者は10才位若返り、大きな裁量権を手に入れることができた。こうして図らずも若くしてトップにのぼりつめた若き経営者は、戦後の激動期に対処するため思い切った手をうっていくことになる。

川崎製鉄の初代社長西山弥太郎はその良い例だ。川崎製鉄は川崎造船所(現川崎重工業)の製鉄部門として1950年に分離独立した。西山は当時取締役製鉄所長にすぎなかったがパージで上席9名がいなくなったため社長に就任している。戦前日本の鉄鋼業では原料である銑鉄は、溶鉱炉を持つ日本製鉄が独占的に生産しており、川崎もすべて銑鉄やスクラップを購入していた。戦後に誕生した後発の川崎製鉄が発展するには、溶鉱炉を持つ鉄鋼一貫工場の建設が大きな課題であった。そこで西山は資金の大部分を借入に頼って、千葉の埋め立て地に世界最先端の銑鉄一貫工場を強行建設していった。当時は溶鉱炉が十以上遊んでいる状況で、古い設備の活用が大事であるという意見が多く、日本銀行総裁の一万田は「川崎製鉄が銑鉄一貫工場を強行建設するなら、ペンペン草を生やしてやる」と言ったほどだった。しかし、これによって後続するメーカーがでて、日本製鉄が86%のシェアを持つ寡占状態から、競争的な産業構造ができ、その後の日本の高度成長のバックボーンとなっていった。

以上の経緯からでてきた日本型企業システムは
@弱い株主発言権とその結果としての強い金融機関との結びつき(強い間接金融)
A株主から独立した社長を筆頭とする内部昇進の経営者と労使一体の従業員主権
B官僚機構による産業政策・行政指導・業界中心主義
C長期的成長志向
右肩上がりの成長が続き、株主からの影響が排除されたため。
結果として終身雇用と長期取引志向がでてきた

★1935年に非財閥企業の全取締役の2割以上が、上位10位以内の大株主がなっており、大株主は経営に参加して経営陣をコントロール・モニタリングしていた。第一生命の戦前の社長石坂泰三はこう残している。「重役会に臨むのは、学生が試験でも受けるような感じがしたもので、勉強し、調べた。社外重役が『これはどうかね』『これは良いだろう』等と言われるのをこちらで翻訳して、これは良い、あれはいかんと見当をつけていった。社外重役は非常に信頼のある先輩で、簡単にしか言わないので、大まかに方針が出来、これを経営陣が肉付けして第一生命の方針ができてゆく。だから重役会の意向に反して社長が何かやるということはなかった。」

こうした役員としての参加に加えて、敵対TOBもコーポレイトガバナンスのメカニズムとして働いた。東急、日産が良い例だ。20年代の三井もそうだった。パフォーマンスの悪い経営陣を交代させるメカニズムとして機能した。TOBの主役として財閥の持株会社は有効に機能したし、故に30年代に株式公開したときに高く評価された。

又、経営者に対するインセンテイブ制度も株主利益とリンクしていた。役員賞与は高率で、21−36年に利益の4%が役員賞与として支払われた。この比率は61−70年では1%未満に落ちている。

★東洋製罐の支配人高崎達之は1917年に米国から帰国したときにこう述べている。「私がまず気に食わなかったのは、@従業員の知らぬ間に株式がAからBへと大量に移動し、移動するごとに経営首脳が変わり、方針が一向に定まらない。A経営者は会社の基礎を良くすることよりも株主歓心に重点が移り、株価に敏感に反応し、株主の権力が絶大で、従業員の意向は無視されている。」こうした現状に高橋亀吉は「株主会社亡国論」で批判を加えている。

その後高崎達之は1947年に満州から帰国したときにこう述べている。「株主の権益は全然無視され、事業経営は従業員によって牛耳られて17年とは全く反対の状況になった。株主配当のごときは2の次で、従業員の待遇が1番で誰一人会社の基礎強化、資本の蓄積など考えない有り様だ。」即ち、この30年に日本企業の性格が極端な株主主権から従業員主権に180度転換した。その後54年に「この形態は資本の必要に応じおいおい改善されててきいる」と変わった。

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