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プーチン大統領の現実外交ー「ル・モンド・ディプロマティーク」 12月号ー
投稿者 DOMOTO 日時 2002 年 12 月 31 日 22:10:12:

http://www.netlaputa.ne.jp/~kagumi/articles02/0212.html

ニーナ・バシュカトフ(Nina Bachkatov)
ウェブサイト www.russiaFSU.net 編集人
訳・北浦春香


 2001年9月11日のテロ直後、プーチン大統領は国際的な対テロ共闘の一翼を担うことを決断し、地球を舞台としたチェスゲームの最初の一手を指した。それから1年後のいま、特に2002年10月23日にモスクワで起きた人質事件の後は、これまでの成果を守ることが彼の課題となっている。

 プーチン大統領は「冷戦」思考を放棄することにより、ロシアを国際政治の主体として、また別の解を与えうる国として、外交ゲームに復活させることに成功した。フランスとの協調の下、イラクの武装解除に関する国連決議文を修正させたことが、まさにその一例である。

 この協調が欧州連合(EU)を介さずに進められたのは、偶発的な出来事ではない。「われらはみなアメリカ人」(1)という表現に象徴されるように、EU諸国は米国との関係を保つことに腐心している。さらに、EUの内部には煩雑な官僚主義という障壁が立ちはだかっており、これらの要因がEUとロシアとの関係を低迷させている。2002年11月11日にブリュッセルで開かれた両者の10度目の首脳会合を見ても、EUの加盟候補国ではなく、加盟条件を満たすために苦労したり、地政学的バランスに配慮した妙技と見なされている官僚主義に従う必要もない、このヨーロッパの大国に対し、EUが距離の取り方をうまく確立できずにいることがよくわかる。

 とはいえ、11月の首脳会談ではテロ対策という共通の関心が見出され、諜報上の協力をはじめとする協力態勢を取るということで両者は意見の一致をみた。この議論は間接的にはチェチェン問題にも関わっていた。この点を否定する向きもあるが、チェチェン問題がEUとロシアとの会合の議題から外されたことはない。さもなければ、会合が行われる度に、連邦軍の暴力行為への抗議や政治的解決の要求に対する苛立ちをロシアが見せるはずもない。

 しかし、プーチン大統領はチェチェンをめぐる議論から一定の成果も上げてきた。そこには外交と内政との交錯がみられる。チェチェン問題が国内問題であるというロシア政府の見解に異義を唱える者はもはやなく、その対策は国際的なテロ対策の一貫としてなされるべきであるとの主張も万人の認めるところとなった。2002年11月13日に、ウサマ・ビン・ラディンの声とされる最新のカセットテープが発表されたが、そこではモスクワの人質事件が、米国とその同盟国に対するアルカイダの勝利の一例として数えられていた。ロシア政府にとってはきわめて有り難い発言である。それ以前にも、チェチェンのインターネットサイトでは、タリバンや政治的・宗教的な過激派グループとの関係が声高に宣伝されていた。さらにテロ対策協力という流れに乗って、ロシア政府の同意の下にグルジア入りした米国特殊部隊が集めたと称する情報(2)、あるいはドイツのハンブルクで開かれている裁判の被告によるチェチェンとアルカイダとの関係に関する証言といった新たな材料も得られている。

 プーチン大統領は、理性なきテロルにさらされた黙示録的な世界の像を描き、テロとの闘いに「文明世界」の支援を求めるブッシュ大統領の姿勢をなぞっている。プーチン大統領にとって、チェチェン戦争はこの国際的な闘いへのロシアの参加を意味している。つまり、テロリズムの脅威の下では米国と同様、予防的措置として自国領土外に軍事介入する権利があるというのである。ロシア政府は、米国がカブールで用いたモデルを踏襲し、チェチェンの「アフガン化」政策に乗りだした。ロシアは第二のハミド・カルザイを探しており、その就任を人民議会に承認させ、次いで新憲法に対する住民投票と選挙を実施するというシナリオを思い描いている。

 2002年10月の人質事件は、ロシアにとっての9月11日として位置付けられ、国民感情とともに公人の発言を強硬化させた。プーチン大統領は「我々の側につかない者は我々に敵対する者である」というブッシュ大統領の発言を借用し、セルゲイ・イワノフ国防相も「我々は二国間関係において相手国のテロ問題への取り組みをより一層重視していくことになるだろう」と述べている(3)。

自主的な譲歩
 しかしプーチン大統領は、「ブッシュ的」な姿勢を取りつつも、経済的、政治的、軍事的に力の弱いロシアには、米国にはない限界があることを承知している。彼は11月のEUとの会合で、たとえテロ対策という流れがあるとしても、チェチェン戦争に関しては払うべき代価があることを思い知らされたのだ。「対テロ協力」が紛糾することを恐れたプーチン大統領は、カリーニングラード問題(4)について譲歩しなければならなかった。この問題に関しては、「ロシア市民が自国領土内を自由に通行する権利が外部勢力の意向に左右されるようなことがあってはならない」と、大統領府と政界全体が口をそろえて繰り返し主張してきたにもかかわらず、ロシア政府はリトアニアが一種のビザである通行証を発行するという原則を受け入れざるをえなかった。
 国際社会がロシア政府にゴーサインを出したことで、チェチェンや北部カフカスに関して政府の政策に反対する勢力はさらに弱体化することになった。しかし国内的な影響を考えた場合、ムスリムを敵視するような「国際テロ」対策は、ロシア連邦の求心力を失わせる危険を伴う。ロシアの高名なオリエンタリストたちは10月23日の人質事件後の状況に関し、イスラム活動団体に対する「十字軍」への参加が短絡的なムスリム敵視を避けがたく呼び起こし、ロシアという多文化社会に亀裂を生じさせるのではないかと憂慮している(5)。彼らが特に恐れているのは、軍事力の行使がチェチェン人の急進化を招いたように、現在の言葉による暴力がロシアの若いムスリムを急進化させることである。つまり、ロシアの指導者層は手放しの成功を手に入れたわけではない。

 内政と外交が交錯する分野はもう一つ、エネルギーである。2002年4月、イーゴリ・イワノフ外相は、ロシアの新雑誌『ワールド・エナジー・ポリシー』の中で、かの有名な「原油外交」を提唱した。それによれば、資源に恵まれたロシアは、エネルギー外交を展開することができる。「天然資源、工業基盤、知的潜在力、G8の参加国」という要素を併せもつことが、国際舞台の一線での活躍を可能にするというのである。

 新たに対テロ共闘に加わったロシアは原油減産を拒否し、石油輸出国機構(OPEC)からの独立性を明言し、こうした確信を深めていった。米国が湾岸諸国への依存度を減らすために、原油輸入先の選択肢を広げたいと望んでいることをロシアは察知していた。イラクをめぐる危機が深まれば、イスラエルとパレスチナとの和平の可能性は遠ざかり、ブッシュ政権はより一層他の供給国を求めるようになる。

 国内に様々な問題を抱え、米国からの投資もまだ鈍いとはいえ、ロシアは自国が最も安定した供給元であることを意識して、出番をうかがっている。米国への輸出のためにルクオイル社がムルマンスクに大型タンカー用ターミナルを建設することを提案するなど、一連の技術的措置という布石も打った。こうしたロシアの「原油外交」が初めて脚光を浴びたのは、2002年10月1日から2日にかけてヒューストンで開かれたエネルギーフォーラムにおいてであった。その大筋は既に2002年5月のブッシュ・プーチン会談で話し合われていた。

 原油をめぐる最近の米ロの提携は、両国関係の緊張を緩和するのに無視できない役割を果たしている。最も鮮明な例は、グルジアである。そこでの展開は要するに、軍事的にも政治的にも、ロシアが自力で果たすことのできない「仕事」を米国が肩代わりしたということだ。米国はグルジアとチェチェンとの国境で拘束したゲリラ十数名を引き取ることさえした。そのおかげで、ロシアは新たな人質事件の引き金となりかねない裁判を開かずにすんだ。

 こうした外交は、ロシアの政治エリート層の一部から批判を浴びている。彼らは9月11日以降の一連の決定に関し、自分たちが疎外され、またロシアが譲歩をしすぎているとの苛立ちを示す。槍玉に挙がっているのは、例えば中央アジアやグルジアへの米軍派遣の容認、キューバやヴェトナムにあったロシア軍基地の閉鎖、そして言うまでもなく、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の消滅である。負けるとわかっている論争に望むよりも、自主的な譲歩を得点とした方がよいという政府の見解は、こうしたエリート層を納得させるものではない。彼らはエリツィン政権時代と比べ、自分たちが外交政策への影響力を失っていることに耐えられないのだ。と同時に、プーチン大統領はほとんど誰にも相談しなかったからこそ、9月11日の事件にこれほど迅速に対応できたのだということも認めざるをえない。

 プーチン大統領は、この2年間で敷いた路線を進んで行くために、欧米諸国との新しい関係を大いに利用したいと考えている。イデオロギーを意に介さないその外交政策の最大の目的は、経済発展に寄与する条件を整えることにある。譲歩が最終的に国力の回復をもたらすというのであれば、ロシア政府は屈辱を忍んでみせるだろう。

 対テロ協調の一翼を担うことが国の発展に役立つことを証明し、さらに国民がそれによる経済成長の恩恵を受けることができる限り、プーチン大統領は国内の批判を抑え込み、2001年9月11日の政策転換による利益を今後も引き出していくことになるだろう。


(1) 2001年9月11日の事件直後のル・モンドの社説のタイトル。[訳註]
(2) 2002年5月27日、グルジアのトビリシにおいて「訓練と配備」作戦が公式に開始された。その数週間後、グルジア政府は2年間否定し続けてきたチェチェン・ゲリラの国内潜伏を認めた。
(3) イズヴェチヤ紙(モスクワ)2002年11月4日付。
(4) EUは2004年のリトアニアのEU加盟に際し、ロシアの飛び地カリーニングラードに向かうために同国を通過するロシア人に対するビザ免除措置を撤廃することを示唆していた。11月の首脳会合の結果、必要書類はビザではなく「通行証」と呼ばれることになった。[訳註]
(5) 例えばエフゲニー・プリマコフ「イスラムとの闘いはロシア解体を招く」(イズヴェチヤ紙2002年11月5日付)を参照。

(2002年12月号)

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