<万事窮す>とは言うものの、その半分は言い訳でしかない。

 ★阿修羅♪

川上哲治  元巨人軍監督 打撃の神様 日時 2001 年 8 月 30 日 12:30:05:

<万事窮す>とは言うものの、その半分は言い訳でしかない。
人間、本当に窮するところまでいけば必ず通じる、
壁は破れるというのがこの言葉の本当の意味である
一芸に秀で、一芸を究めた人というものは皆、
例外なくこうした体験を繰り返し、きているものだ
              
             <川上哲治  元巨人軍監督 打撃の神様>


川上哲治氏から「21世紀への伝言」

一心不乱になってこそ「勘」体得

仙台市のある弓道の大家は射場を暗くして的代わりに1本の線香を立てて
射撃した。暗やみに見えるか見えぬかのかすかな線香の明かりだが、この
人が矢を放つと線香の火がぴしっと消えた。同席したドイツの著名な哲学者
が「まぐれだろう」と疑って「もう1度」と言うと、やじりはまたもぴしっと線香の
火を消した。3度、4度、何回やっても同じである。「どうしてこんなことができ
るのか」と言うドイツ人の問いに、大家はこう答えた。「線香の火を凝視しま
すと、的のかすかな火と自分の魂とが一体となって、天上天下に的の火と
わたししか存在しないようなそんな感覚がします。的の方がびゃあっと、や
じりの前に近づいてくる。このときに矢をつがえていた手を離すのですが、こ
れを『射る』とは言わず『手が落ちる』と言います」。わたしもボールが止まっ
て見えた。王も「カーブの縫い目が見える」と言ってきたことがある。野球でい
えばうなりを上げてくる球を、自分の打ちやすいポイントで止めなければヒット
は打てない。理屈に合わない話だから「ウソだろう」「錯覚だよ」と言う人もい
るのだが、何千、何万と打ち込んでいく過程での、これも集中力のなせる業
だ。科学者の発明発見も、その発端はひらめきだというが、非常な修練や体
験によってプロの人間は、考えたり分析しなくても、ひらめきで分かるという
部分がある。物事に徹してしまったところに生まれてくるのが「勘」というものだ。

人間の知覚能力は(1)知識=左脳(2)知恵=右脳(3)直感=左右の
脳波の同調、という分析があるようだが、昔から仏教や荘子の所説、能や
剣の技法、東洋的見地からの意識や心理学から、総合的な掌握の研究が
なされてきている。しかし常にその方向に向かって努力を続けていると、必ず
何かをつかむことができる。その何かとは、すなわち「勘」なのだろうと思う。
禅に「不立文字(ふりゅうもんじ)」の教えがある。面壁9年の達磨大師の教え
だが、禅の教え、悟りというものは文字や言葉、あるいは理論、理屈では教
えることができないという戒めだ。真理や極意というものは皆、そうである。
文字や学問を軽んじているのではなく、文字や学問、知識、常識にとらわれ
ずに、一心不乱になって自ら会得すべしという意味だろう。禅自体が勘の体
得、ひらめきの体得であり、禅問答はまさしく勘の触れ合いといってよいかも
しれないが「勘」という言葉にはそれだけ深い意味が込められていると思う。

日刊スポーツ 川上哲治氏から「21世紀への伝言」
<第74回>1月16日付紙面より
HPバックナンバー
http://www.nikkansports.com/news/baseball/kawakami/010116.html

(コメント)
自分の生命の危機を感じるほどの意識の集中状態になったとき、わずか
0.1秒ほどの時間が、物凄く長い時間に思えることがあるようです。恥かし
ながら、私自身、車にはねられた経験があるのですが、そのときの瞬間
を今でもスローモーションのように鮮鋭な映像で覚えております。ボールの
縫い目が見えたり、止まって見えた、川上哲治氏や王貞治氏は、この人
間の究極の集中状態を自らの意志によって、自由に作り出すことができ
たのでしょう。

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