『迷宮』第3号 1980年7月15日(1980年夏号)(絶版)


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投稿者 倉田佳典 日時 1998 年 9 月 23 日 14:46:55:

『迷宮』第3号 1980年7月15日(1980年夏号)(絶版)
(『迷宮』は第3号までで、第4号は結局発行されませんでした。)

発行 迷宮編集室
発売 白馬書房

座談会 現代革命と霊性の復権

太田竜 国家が、民衆の宇宙と共振するリズムを切断しているのだ。
阿基米得 桜沢如一のPU原理を霊的国家論として読みかえさなければならない。

革命家 太田竜  直観理学研究家 阿基米得  司会 本誌編集長 武田洋一


食の間題をどう捉えるか

武田 最近の太田さんの一連の動き、たとえぱ玄米自然食の実践、古神道や東洋思想の再評価、PS学会の坂元邁のマィナス科学の支持などには、僕らにとって興味を引かれると同時に、現代革命におけるひとつの予兆のようなものが感じられる。
阿基 特に、ラジカルな部分で闘ってきた、マスコミ的に表現すれぱ過激派の精神的背景だった太田さんが、今度は玄米食を実際に行っている、というのは一種の新鮮なショックでもある。
太田 実をいうと、僕は三○年ほど前荒木先生という禅宗の坊さんに誠で目を治してもらってから玄米菜食をすすめられ、東洋医学にも関心を持つようになった。そのころから玄米を食べている。それから昭和二四年に中華人民共和国が成立した。西洋医学一辺倒だった国民党側が敗北し、中共が政権を取ってからは東洋医学が復活された。それでますます東洋医学って何だろうと興味を持った。東洋医学っていうのは、西洋医学が機械的唯物論であるのに対し、段ちがいに弁証法的ではないかということもわかった。
阿基 それがいわゆるゲバリスタとなっていく段階で、なおざりにされていったというわけだ。
太田 いや、それが違うんだ。最初の数年は一人で勉強していて外とのつきあいというものがあまり無かったので自分で玄米を炊いて食べていた。 一九五一年からは本格的にトロツキスト活動に入ったが、最初の五年くらいは五ー十人くらいのサークルを作って細々とやっていたので、そのへんまでは玄米食を続けることができた。ところがその後全学連がまるごと反日共となったので急につきあいが広がってしまった。男の学生などは食の問題に興味を持たない最たるものだ。そういう人たちとしじゅうつきあっていたわけだから、とても玄米食など通せない。炊くのにだって一時間以上かかるわけだから。そして彼らにあわせているうちに崩れてしまった。それでも六○年代の前半までは必死に玄米食を続けようとはしていたんだ。その後、いろいろな闘争が相次いでモミクチャ、食の間題なんかどっかへ吹っ飛んでしまった。「辺境最深部」といっても、なかなか食の問題まで取りこんで理論づけることができなかった。
武田 それが再び取り戻せたのは?
太田 昨年の初め、友人が桜沢(*注1)の『自然医学』という本を見せてくれた。それが始まりだ。そして食の問題には約一年ほど前から本格的に取り組んでいるが、やはり桜沢が一番突出していると思う。しかし桜沢の湯合、国家論というものが突きつめられていない。桜沢の言う「食の乱れ」は、人類最初の国家権力の形成によって制度化された。そして乱れの方へとだんだん進んでいく。だから国家制度を廃止するという革命的行動ヌキに食の乱れが修正されるという考えは持ってはいけない。
阿基 ただ自然食論者の発想は個体主義的であって、自分自身における食の乱れの問題をまず出発点として考えていると思う。
太田 しかしそれは枝葉末節的なのであってそれを生み出す根源は国家権力である。現代の国家というものは、一神教の教団国家の世界だと考えられる。マルクス・レーニン主義もキリスト教の分派でしかない。ところがそのもとをずっとたどっていくと祭紀権の中央集権化だ。現在の国家においても、それが国家制度の根底、核心である。だから祭祀権力そのものを廃止する方向を取らないと、国家の根はなくならない。同じように、食の乱れも根源に迫っていくと、祭祀権力が中央集権化して行く方向性の一つの枝として出てくる。性の乱れも同じである。
阿基 ところが、そのような国家二元論と、自然食論者の間には大きな断絶がある。彼らの最大の興味の対象は、自己か宇宙である。そのギャップを今後、どういうふうに埋めていくかが大きな課題となる。
太田 僕もそういうふうに認識している。
武田 そうかな。自己や宇宙というよりは、単に自分の体が健康になれぱょいという人ぱかりのように見えるけれど。そういう人たちがイデオロギーをぬきに玄米食ったからといって、日本人全部がそうなったとしても国家権力が崩れると思うが。
太田 そうではないだろう。米そのものが、政治商品、権力商品として天皇制によって作られたものである。玄米菜食をするということは、現代のような西欧的科学技術文明のグロテスクな食から脱出してゆく一つの経過地点と見てほしい。
武田 政治的意志表明の一つというわけだ。
阿基 そうとぱかりは言い切れないかも知れない。教条主義的に玄米正食を行っている人の顔を見るとみな、色が黒く目がギラギラして表情がかたくなな感じに変化している。精神も変化している。しかもその方向は、革命でなく反革命の方に向かっているように感じられる。食物が精神に与える影響はバカにで
きない。ただこの領域はまだモヤモヤしているのでよく見極める必要がある。

異端科学とは何か?

武田 その辺のひっかかりは玄米ぱかりでなく、原住民にも、エコロジーの問題にもあるようだ。次に、PS学会の坂元邁の話に移るが、僕らとしては、あの人をほとんど評価していない。逆に、太田さんが何故つきあっているのだろうという疑問もあるのだが。
太田 坂元の「マイナスの科学」についての僕の評価からいえぱ二つの問題点がある。ひとつは現在の西ヨーロッパの自然科学に対する批判やそれに対する積極的なテーゼ、
回答を出す姿勢、それはいいと思う。しかしそれを「プラスの科学」と「マイナスの科学」という同次一元の科学の問題として提起するのではやはり不十分である。
阿基 つまり、プラスへ マイナスといってもしょせん同じ科学でしかない、というふうには考えているわけだ。
太田 もうひとつは、これから世界維新、地球維新をやろう、しかもそれは明治維新の相似象だと言っている。暴力革命はいけなくて平和革命だと言っている。ところが明治維新というのは、あれは大暴力革命なんだ。
武田 明治維新の相似象ならぱ、武力革命でいかなければならないことになる(笑)。
太田 だから地球維新が明治維新の相似象であるというとらえ方には非常に無理がある。論理としても見透しとしても恐らくそういうことは戊り立たない。それから小宮山嘉一だが、『自己維新』と題するパンフレットを見ると、まったく天皇陛下万歳という調子だった。それは全然だめだ。天皇族は大陸からの武力的侵略者なのだから、日本原庄民の立湯からするとまるで逆のものであり、最大の敵対物でしかない。天皇万歳というのでは、権力者にシッポを振っている、まるで奴隷根性まるだしではないか。
武 田 それは僕も同感なんだが、逆にいえぱ坂元にしても天皇制に対して否定的な解釈を持っているかというと決してそうではなく、べースには普通一般の日本人が持っているような天皇崇拝的なところがあるから「世界維新」というようなちょっと異質な言葉がストレートに出てくるのではないか。
阿基 相似象の宇野多美恵(注*2)はどうなるかな。
武田 カタカムナ文明はプレ天皇的なものというかたちでいったん押さえてはいるのだが、そのあとで天皇をも(「をも」傍点あり)受け入れた日本人の特質、カタカムナ精神というものを説いている。そこに天皇制というものを否定しきっていない側面があり、そういう点では小宮山にしても坂元にしても宇野にしてもそんなには変わらないのではないか。積極的に天皇バンザイと言う人に間題があるというのはわかるが、積極的にパンザイを言わないからといって逆に信用でぎるかというと、ちょっとひっかかる。評価軸は他にあると思う。
太田 相似象学については僕はまだ勉強を始めたぱかりであるが、小宮山嘉一という人は楢崎皐月の相似象学とはまるで無縁であるぱかりでなく、なにひとつその内容を理解しておらず、既成の教団宗教のレべルにそれをおとしめ、神秘主義化しているように思える。楢崎皐月の死後は、相似象学会がそれを積極的に発展させ深化させていると、僕は考えている。
阿基 現段階では、異端的な科学の研究者が何を考えていようと、西欧的自然科学に対する敵意を持ってさえいれぱ、かまわないと思う。現に科学が世界中を支配しているわけだから、そのタガをはずすような力を持てればよい。文学や宗教や芸術はその力を失った。ガン細胞のような科学を作りだせれぱーーそれは確かにまだ科学なのではあるけれどもーー大成功だろう。ガン細胞が大きくなっていけば、本体は死ぬが、またガン細胞自体も死ぬ。
ところで、異端的科学に対する考え方も色々ある。 マルクス主義的立湯の武谷三男だと異端科学を機械論と神秘主義に分類して、基本的には誤りであるとしながらも、正統科学の正当性を明確にするために異端科学は大いに分析の価値がありとしている。
どうもスターリニストで異端科学を支持する人は、ニュートンにおける錬金術のように、
負の部分が科学史のダイナミズムをつくりあげ、そして統一的自然観に回収されると考えているようである。
武田 すると、これに対する対抗策も必要で
はないか。
阿基 だからこそ、明確にそれを意識化してガン細胞的科学を作りだすという高度な操作性が要求されるわけだ。
武田 結局、今のPS学会のようなところはオポチュニズムまる出しで全然敵意などというものはないからね。
阿基 アカデミズムに認められたいとか吸収されたいという上昇指向が強い。アカデミズムを批判するとしてもコンプレックスの裏返しでしかない。それが極端化すると、自らノーベル賞候補を宣伝してあるく小牧久時のようになる。しかし、小牧がなんと『朝日ジャーナル』の裏表紙に売名広告を出したのだけは、とてもコミカルで素晴しい。 (笑)

国家論を押える必要性

武田 楢崎には、こういうような指向がまるでなかった。むしろ科学の制度的場からはずれたところで勝負しようという意気込みがあったからこれは非常に高く評価したい。
阿基 さらに現代科学をカタカムナ感性で解体してしまった。現代科学の言葉を使いながら、実はカタカムナ感性を語っているという不敵な側面もある。
武田 やはり、プラスの科学・マイナスの科学というんじゃ、結局取り込まれてしまうか。
太田 ただ現段階では、いわゆるプラスの科学の牙城を掘り崩していくという点では意味がある。
阿基 牙城が動揺すれぱ、統一的な世界像というものがぽやけて、多面的な見方を要求されるようになる。そこから太田さんの言うところの「読み書きの革命」を始めれぱよいわけだ。ただ、アメリカのように統一的世界像そっちのけでプラグマティックに利用できるものなら、異端でも何でも採り入れてしまおうとする動きもあるから、このような恐ろしさも考えておかなけれぱならないだろう。
太田 そうすると、やはり国家論的に押さえておくことが必要になってくるだろう。人類の歴史における国家形成のプロセスの問題
だ。人類の始源の国家、それは祭紀権の中央集権化にあると僕は考えている。これに対して二つの考え方がある。ひとつはこれによってはじめて人類が動物から切れた人間らしい文明的生活に入るようになったという、権力者からマルクス主義者、文明的アナーキストまでのダメな考え方だ。もうひとつは、国家の形成の直前の時期、約一万年くらい前、この時期に人類の文明文化はひとつの頂点に達していた。そして国家が形成されて以後、人類はむしろ退化していったとする正しい歴史観だ。僕は今までマルクス・レーニン主義の立場を取って、これを最も純粋に理想的に論理的に追求して世界革命を起こそうと考えてきた。ところがアメリカの問題が入ってくる。
アメリカの歴史をみると、つい五百年前までは原住民の世界であった。そういう人たちを革命の主体から除外するというマルクス主義の革命論はとうてい革命の名前には値しない。そういう問題意識を持つようになった。そしてマルクス主義はどうしても世界革命の理論としては成り立たない、白人の資本主義帝国主義のワクの中でしかツジツマのあわない、根本的には今の資本主義体制を改良することにしかならないことに気がついた。
阿基 低開発国といわれる国々も、マルクス主義で精神的に武装することによって、どんどん西欧化、工業化の道を歩んでいる。
太田 日本でも伝統的に左翼はアイヌ問題についてはひとつもふれていない。問題は人類の始源の国家についての位置づけ・評価・立場、これが問題となる。ここでつまずくと全々ダメ、革命の立湯ではなくなってしまう。そこで佐伯陽介の世界史の理論の話になるけれども、佐伯によると人類の最初の国家は階級国家ではなくて共同体国家であるとし、その共同体国家を美化している。しかしながらそれを日本にあてはめると、天皇制の枠の中での日本民族共同体支持の側になってしまう。天皇制をずっとさかのぼっていくと最初は祭政一致のシャーマンであったのだ。それは別にいいじゃないか、天皇制古代国家は武力征服王朝ではないんだとスルリとすりかえられてしまう。
武田 各地方の共同体国家の祭祀権を中央集権化したものとして、天皇制が位置づけられると思う。一方、「感性としての原住民」といったような人たちが現在の日本にもいるーー古神道をやっている人とか楢崎とかーーそういう人たちはもちろん、そういった国家論的押えができないので天皇制と癒着する回路が常に存在する。しかしまた、天皇に対してある種肯定的な見方をしていても、その人たちが言っている内容がナンセンスかといえぱ、そうではないということも事実だ。口先で天皇制を支持するか反対するかということよりも、感性としての原住民性というものをいかに強く保持しているかということの方が、重要だろう。
阿基 ただし坂元のように、科学 もオカルト・サイエンスもよく知らない人間が原庄民的感性もなしにオプティミスティックな政治主義をふりまくのはどうかと思う。
太田 今ちょうどその面の見直しを始めている。しかし僕は今まで新しい物事に関しては偏見や先入見を持たないという方針を取っているので、教条的にドグマで切って捨てるというようなことはやらない。日本人の中には原住民的な要素が残っている人はいろいろいる。しかしそれが明確に認識されていない。ゴチャゴチャに色々な要素が入り混じっている状況を固定したドグマで切りきざむわけにはいかないだろう。
武田 それが僕らとしても大きな問題になってくると思っている。昔、世話になったので批判したくないが、たとえぱ「商工毎日新聞」の林信二郎氏のように天皇こそが原庄民性の保持者であるというような論理が容易に行われてしまうというのがこの世界だ。

女性原理をめぐって

太田 その場合ひとつの有効な視点として、男性支配に対して否定的立場をとるかということがひとつの決め手になる。祭祀権の中央集権化というのは、女性を制度的に祭の場から排除する、そういうプロセスだと思う。男性支配的な感覚を厳として持っていて、その点についての自己批判とか疑問とか反省が無い人はダメだ。こういう人間によって天皇制護持へのスリカエが行なわれる可能性がある。女性が大きな役割を持っているのだという姿勢で物事を追求している人には、どこかやわらかい感受性がある。そのような視角は有効だろう。
武田 ただそれでいくと、原住民的な感性を持っている人たちで女性原理を支持している人をセレクトしていくとほとんど残らないのではないか。
太田 いや、そんなことはない。金井南龍を見ても「母のみたま」という概念がある。
武田 ついでに「金井神学」の評価軸のようなものをお聞かせ願いたい。
太田 『さすら』は在庫のあるものはすべてザッと通読してみた。 『神さまの話』も。共鳴するところはあるが、行者タイプの人とは縁が遠いので何とも言い難い。興味を持ったところとしては、天皇族が日本の原住民を奴隷にしたり、殺したりしたけれども、その霊は残っていてしかも封じ込められているということだ。また天皇族が原住民の神々の都合の良いところだけ適当に利用している。天照大神がその最たるものだという。しかし天照大神はイザナギ、イザナミの娘であり、その夫はスサノオである。ところがスザノオは天照大神と一緒には祀らない。イザナギ、イザナミについては、本には残っているが、神として祀っているのはイザナギの方だけで、イザナミは黄泉の国のもの、汚れたものとして扱われている。そういうことを言っていた。それで、天理教、大本教の教祖、二人とも女性であるけれども、お筆先で天皇族が外からやってきて日本を征服した、だからもともとの神が怒っており、それをひっくり返せといっているのだというようなことをズバズバ言っている。ところがこれに対して弾圧が来たもので、ごまかして妥協してしまった。出口王仁三郎なんかは大本の教義をすり換えてしまった。『神さまの話』では大本教の話が多いが、それが基本的なトーンになっているように思う。
阿基 古神道一般に関してはどうか。
太田 僕は十年節から、天皇制そのものを批判するような古神道の流れがあるのではないかということを漠然と考えていた。また期待していた。金井神学は僕の期待に応える根源的なもの、反天皇的女性原理の友うなものを持っている。
武田 しかし僕自身、男性支配女性支配ということをあまり深刻に考えたことがないし、この迷宮編集室自体もわりと男性原理的な雰囲気があるから、そういうところからいくと反革命の側にいくのかもしれない。(笑)
阿基.そこらへんはなかなか複雑で、たいていの場合、女性原理は女性原理を装った男性原理であり、男性原理は男性原理を装った女性原理であることが多い。オカルト・サイエンスの立揚にたつと、伝統的に人格破壊、性格改造というものを追求してきているから、その人間の現在の性格あるいは体質が男性原理であろうと女性原理であろうと、別に大した問題ではない。しかしながら、そういうことをヌキにして考えるならば、女性原理の復権という太田さんの基本的姿勢には賛成できる。坂元と小宮山が比較の問題であるけれども違うということもわかる。
太田 坂元には女性的なものが大きな意味を持っているという、そういうところはある。武田 そうかな……。確かに逆に小宮山の書いたものから女性原理的なものは感じられない。しかしそれだけでシロ・クロを分けるのはあまり納得がいかない。
太田 明治維新以後、社会の表に出てくるのは西欧科学技術文明を前提とした左右の流れである。政治でも経済でもアカデミズムでもすべて。 「日本主義」だなどといっても、それをちょっと掘り下げるとプロシャ的絶対主義で再編成された日本主義である。しかし、社会の表に出てこない黙っている日本人の中には、真正面から権力にたてつかなくても、原住民的気性が残っている人がいろいろいる。
阿基 現象面では出てこないけれども、潜象面では大きな力を保ち続けてきた。
武田 サイレント・マジョリティ!(笑)
太田 そういう人たちははっきりと認識してやっているわけではないから、体制側のイデオロギーに毒されていることはある。
武田 とすると即自性と目的意識性のようなことが、今後こういう問題に関して提起する必要はあるだろう。そのへんは西欧思想やマルクス主義から学んでもよいのではないか。
太田 女性原理復権ということについて、もう少しくわしく言うならぱ、祭紀権力の中央集権化というのは、陰と陽、女性と男性という二つの本来的見方を、一つの中心という見方にひっくりかえしてしまうことを意味する。男だけにしてしまう。ところが霊的あるいはスピリチュアルなものを見る力は圧倒的に女性の方にある。西欧中世の魔女裁判は、文字どおり魔女を弾圧したのであって〃魔男〃ではない。(笑)
阿基 女性が霊的であるとは一般的にはよく言われているけれども、それが正しいという根拠はない。僕の感じでは本当に豊的なのは男性であって、女性はむしろ幻想的妄想的であることが多い。
太田 しかし魔女裁判では、男でも〃魔女〃として扱われたということがある。
阿基 すると現代革命においては霊性の復権ということが最大のテーマになるという結論になる。

啓明と闇

武田 本誌前号のナチズム特集では、ナチズムがかなり異端的な感性の原住民性を保持しているような民族的伝統を受けつぎながら国家を形成していったということに焦点を当てた。これも男性原理の問題が絡んでいると考えられるか。
太田 あると思う。祭祀権カ国家を考える場合、末端の方では祭を通じて人々が宇宙と共鳴しているということが煎提として無ければ祭紀権力国家はありえない。元がなくて上だけができるということはありえないのだから、そこで末端の方だけを見るならぱ人々が宇宙を確認し宇宙とともに生き続けている要素だけを見るならば、まさにこれこそ本来の文明なのだという詭弁も成り 立つ。
武田 けれども、まず、ローマ法王を中心とした祭紀権力のもとにヨーロッパが吸収されていたという大状況があって、ナチズムはそれに対して民族的なレべルで集約させていこうとした。ローマとナチズムはそのような括抗関係にあったことも考えておかなけれぱならない。
太田 ゲルマンから見ればローマは巨大な悪魔として人々の心の奥に深い傷を残してい
る。そのエネルギーをナチズムは利用したにすぎない。
阿基 しかし、まだドイツの場合はナチズムを持てただけ優れているのであって、これが日本の場合は日本のローマにあたる天皇問題をす通りして軽薄な精神主義一辺倒でつっ走ってしまったという感じがする。
武田 僕らがこうやって『迷宮』を発行して一種の文化運動を行なっていることが、新しい日本のナチズムを準備している、どいうような危険性を太田さんは感じているのではないか? 僕らはわりと深刻にそのように感じるところもある。
太田 ……。
阿基 戦前の皇道派よりも国家の本質を見すえた新型の日本のナチズム、戦前よりは質のよい反天皇的皇道派が形成される余地は十分にある。戦前の皇道派は天皇制を維持させるために、末端の祭、新宗教といってもよい、それを弾圧してしまった。が、今度はそんな馬鹿なことはしないだろう。
武田 その意味で、大本教は日本のナチズムの可能性をかつては秘めていたと考える。とは言っても大本教のすべてが悪かというと、そうではなくて、大本教の霊性の中に非常に啓明的な要素とナチ的な要素とが同居していたといえる。
阿基 それがヨーロッパでは、ルドルフ・シタイナーの人智学とナチズムの二つに分離するという不幸な局面をむかえたわけだが、本来この二つは同じものの二つの側面だと考えなけれぱならない。シュタイナーとヒトラーは双子というわけだ。ナチズムが悪魔的であるのに対して人智学が啓明的に見えるのは、ナチズムの暴走に対してバランスを取るためにシュタイナーがそうしたにすぎない。人智学研究者はそのあたりがよくわかっていないようだけれど。
武田 それで、この種の問題には非常に危険な問題と人類の霊的更新につながるような二つの側面がある。そのへんのところは絶対に見のがしてはならないはずだ。
太田 そう、だから常に時代の核心に触れるような問題、テーマ、状況、場の設定、理論には極めて危険な要素が潜んでいる。
阿基 坂元の場合、ヒューマンで熱情に燃えている人間ではあるのかもしれないけれど、そのへんに全く無自覚でオポチュニズムで行っているので困ってしまう。太田さんにしっかりたずなを握っておいてもらいたいという感じが前からある。(笑) 霊性の問題あるいはオカルト・サイエンスを学ぷのであれば、われわれには大本教とか楢崎の相似象学のような伝統的遺産があるし、またヨーロッパの人智学のようなものも色々とあるはずだ。太田さんがPS学会系の人たちと交流を持っていたり評価したりする意味は、今後だんだんとなくなってくるような気がする。

エコ・ファシズムの危険性

武田 それから重要な問題でエコロジーに対してどう対処するかということがある。津村喬などの動きに対してはどう評価するか。阿基 確か五年ほど前だったと思うけれど、文化革命塾なるものを作り、『日本文化革命への視座』というパンフレットを発行したりして、かなり先駆的なところはあったが、現在では風化してしまったようだ。
太田 エコロジーという言葉が最近よく言われるけれども、エコ・ファシズムというべきかもしれない。
武田 エコ・ファッションというべきか。(笑)
太田 アメリカのエコロジーの学者などは地球上のあらゆるものを計塁化して、それをコントロールすることを考えている。地球を一つの国家として組織して、その地球共同体がすべての生命をコントロールする。そのための学問としてエコロジーがあると思う。
武田 ただ日本のエコロジストたちは、そのようなことは考えていないようである。しかし、そのような権力側のエコロジーとの分水嶺ははっきりしていないと思うが。
阿基 エコ・ファシズムの場合のエコロジーは、システム工学をべースにしている。対象が宇宙船地球号なのだから情報量は莫大なものである。とてもコンピューターなしでは処理しきれない。ところがこのような単純な事実に対して、エコロジストたちは不感症である。人類が全滅するかどうかの瀬戸際なのにそのようなことにかまっていられるかというわけだ。 一方、文明の発達を阻止し自然の生活を取りもどそうという立場のエコロジストたちも、 コンピューターには反対するがシステム工学にまでは言い及んでいない。しかしコンピューターなどはシステム工学の影でしかない。戦車とか戦闘機とかコンピューターなどは現象面でもはっきりわかるから恐ろしく感じるけれども、本当に恐ろしいのは目に見えないシステム工学であることに気がつかなけれぱならない。
武田 津村がメイン・ライターになっている『即年代』にしても「昔はよかった」という方向に回収されていく危険性がかなり感じられる。そのへんも太田さんの方でビンッと押さえていただきたい。
太田 エコ・ファシズムにからめ取られていないエコロジーを指向する人々が、フランスとか西ドイツでひとつの政治勢力にまでなってきている。その人たちは食の問題、性の問題について真剣に考えている。

武装闘争と思想闘争

武田 太田さんは現在は現代革命論研究会という場で活動しているけれども、これはあくまでひとつの研究会であって党ではないのでスローガンは出していない。しかしこのような準備過程を経て再び活発な政治的活動に入ることを考えていると思う。
阿基 そこで「暴力革命」ということになるけれども、太田さんが前に考えていた暴力の概念、つまり西欧的近代的概念と、現在考えている概念は少し違ってきていると思うが……。
太田 僕が武装闘争、革命戦争という場合、「ポンヤウンぺ・ユーカラ」の魂の復活というふうに考えている。アイヌのユーカラにはカムイ・ユーカラとポンヤウンぺ・ユーカラと二つある。カムイ・ユーカラの方は、本州の方から封建的武士階級が侵略してくる以前に形成されたユーカラで、人間と自然の関係が躯われている。ポンヤウンペはアイヌの有名な英雄で、侵略され追いつめられていくのに対し、一人で戦って戦いぬいた。いくら殺されてもまた生き返って戦って故郷へ帰つてくる。このような話が無数にある。日本の武力とアイヌの武力とはまるで比較にならないもので、この戦いはあくまで自衛の戦いである。そういう意味の武装闘争が、撰の考える意味での革命戦争だ。ところが革命職争という言葉を使っていても、いつの間にか体制側の論理による戦争に転化してしまうことが多い。アメリカとソ連がどのように見ても区別がつかないのがその最大の例だ。
阿基 そこで戦争の質を捨象した「ゲームの理論」や、最近流行の「地政学」が出てくる。
太田 だから戦いの根底にあるのは思想闘争である。極限まで追いつめられても絶対に屈服しない、奴隷にはならないというこ とだ。以前僕は戦いの八つの形態を提起したことがあった。それは、思想闘争、直接行動、占拠、武装自衛、武装蜂起、国内職、国際的革命職争、そして最終的には世界革命職争という八つの段階を持つ。この形態は現在でも大体まちがってはいないと思っている。ところが第一段階の魂や心を売り渡さないという思想闘争ができないで先の形態をいくら追求してもすぐダメになってしまう。そこが問題だ。思想的に敵の搾取階級のものをほんの一部でも受け入れてしまうと。直接行動でも武装蜂起でもたちまち敵に取り込まれてしまう。
武田 東アジア反日武装戦線の場合は、自衛のための職いというワクを越えている感じがするが、どう把えているか。
太田 彼らは僕が一九七○年ころに考えていたことーマルクス・レーニン主義やトロツキズムの総路線を脱皮する過渡的な地点で、日本帝国主義の特権をそのまま肯定した従来の反体制運動はすべてインチキであって、反日的闘争つまり日本人としての特権を自ら否定していくような闘争に踏み切らないと一国主義的な単なる改革改良闘争的な次元に止まってしまい、真の革命闘争は成り立たないということーそれを、一つの軸にして戦いを組織しようとした。だから七○年ころの僕と相通ずるところはある。ただ僕はその次に、反日ということからさらに一歩進んで、日本に国家が形成される以前の原住民の戦いを継承する、あるいは比較的新しい時代になって国家制度に組みこまれたアイヌの戦い、アイヌの独立というところから出発するということを決意した。そうすれぱ大きな目で見れぱ世界の原住民の戦いと、完全に同じ場で戦っていることになる.そしてそれが世界革命への大ワクを形成するものになるのだと考えるようになったので、その辺が彼らとは違っていると思う。そして日本赤軍によるあの奪還闘争があったが、日本赤軍はその後、アイヌや琉球の戦い、日本の階級闘争との三つの戦線での戦いということを言っていたのをやめて、いわゆる正統的マルクス・レーニン主義革命論に後退してしまった。これについては「日本赤軍が東アジア反日武装戦線を後向きに解体してしまった」と批判したことがある。ところが最近になって、まだ東京拘置所に残っている人たちが日本赤軍批判を始めている。日本赤軍には反日的視点がない。我々はマルクス。レーニン主義を否定し、アイヌの戦い、世界の原住民の闘いを支持し、原始共同体という観点に根ざした戦いをすすめていくと言っている。だから彼らは彼らなりに、まじめに考えて自分たちの生き方を発展させていこうという気持があると感じている。

「読み書き」の革命

阿基 最近太田さんの提唱している「牧畜の廃止」「遠洋漁業の魔止」「肉食の廃止」「食べ物の平等分配」ということは、どのような
形で実行に移されるのか。
太田 世界社会主義共和国。あるいは人類の共和国という組織を通じて行われる。しかしそれは、臨時革命政権といった権力組織とも大衆運動といったものとも次元の違ったものである。その戦いの中には、最も発達したかたちとしては世界革命戦争というものがあるわけだが、まずその根底となる思想がまだ全くと言っていいほど確立されていない。
阿基 だから、現状では思想の確立ということが最重視されるだろう。ただ思想の確立というものを強調するだけでは無意味であるわけだから、そのためにはどのような方法を取るかということが重要な課題だ。思想の転換および確立の技術として食や性という媒体が再びクローズ・アップされよう。
太田 いや、「読み書きの仕方を変える」ことの方が先決だ。それには端的に言えぱ、霊性の復権という言葉で表現されるようなテーマが含まれる。西欧合理主義的な分析的な精密実験科学的な読み書きの仕方を脱皮するということである。
阿基 それを脱皮しない限り、ほかのことをやってもすべて無駄だということはわかる。
ただそれは前提だということを押さえておく必要がある。
太田 しかし、何かスローガンを出すとか問題提起をするとか方針を出すとかいうときは読み書きとして出てくるのだから、読み書きの基礎が合理的な分析科学の上にあるならぱ元のもくあみである。
阿基 そういう湯合には確かにそうだ。
武田 ただ今度は霊性を持っている人の方に焦点を当てると、そのような人たちはある種の回路でもって屈折してしまっているようなところがある。だからこれを女性原理の復権というふうに持っていくのはちょっと問題があるのではないか?
太田 女性中心ということではなくて、男性中心ということを否定しなけれぱならないということだ。男性ということは中心を一つにしてしまうことを意味する。中央集権とはそういうことである。
阿基 男性原理を「陽」とするならぱ、すなわち収束であり、集権である。
武田 ということは、中心を陰陽の二つにするか、阿基さんの主張しているように陰陽虚実の四つにするか、つまり複合的把え方をしなけれぱいけないという、そういう事に結論づけられよう。
阿基 ただ、それを三元論なり四元論というふうに西洋的概念でくくってしまってはならない。
武田 多面的な物の見方をしなけれぱならないということにも通じてくるようだ。
阿基 そのとおり。桜沢のPU原理にしても決して陰陽二元論ではなく、陰と陽についての多面的見方があることが強調されている。
武田 そのような多面的見方をした場合に、逆にエコロジーにせよサイ科学にせよ、いろいろと問題点がいっぱい出てくると思う。
阿基 だからPU原理や潜態論の立場から、そのようなものや科学や原庄民的な霊性までを含めて、逆に様々な問題点を浮き彫りにしていくことがこれから必要になってくるだろう。
武田 つねにプラスの側面とマイナスの側面とがあるから、それをはっきりさせていかなければならない。
阿基 しかも、その両方が体でわかっていなけれぱ、敵もわからなけれぱ味方もわからないという極めて錯綜した状況にある。極端な言い方をしてしまえば、そのような段階まで至ることができれぱ、敵に転化してしまっても構わないというのが今の心境だ。

秘密結社と教団

太田 そこはやはり国家の問題に引きもどしたい。一神教教団国家とは中央集権の行きついた最終の局面である。これに対して教団そのものを解体するという論理が必要である。
武田 では党はどうなのか?
太田 党というのも教団の変種である。ヨーロッパ的な意味で言えば。しかし東洋的な意味での党は違う。中国の党は民間道教の秘密結社を意味する。党あるいは秘密結社の系列は、文の系列と武の系列に分かれており、このうち基本的な役割を果たしているのは文の系列である。これは道士が秘密のうちに弟子をとり、思想を伝えていく。武の系列の方はルーズで一般民衆ゃ農民が出たり入ったりしており、その指導者は文の系列にある人々を守る役目を持っている。それで王朝が動揺して世の中が乱れはじめると、何百万という民衆が結集して蜂起することになる。
阿基 ふつう我々がオカルト的秘密結社という湯合、そのような結社のことをさしている。確 かに中国の秘密結社である三合会をみてもフリー・メーソンとよく似た秘儀を持っている。また現在のいわゆる四人組残党の支えとなっている人たちにも秘密結社的なにおいが極めて強い。
太田 紅衛兵も、最初はすごく真面目に実権派つまり中国共産党をこわそうとレていた。結局、殺されたり投獄あるいは追放されたわけだが、そういう人たちの中から新しい動きが出るだろう。中国の本当の土着の老荘思想や民衆の秘密結社により深く根ざした試練の中から出てくる。
阿基 いや、もう実際に秘密結社との結合が始まっている。四人組の失敗は、土着のもの、霊的なものを強引に制度化しようとしたところにある。
太田 そういう面はあるだろう。
武田 今の中国では民衆科学的な地哀予知などはどうなっているか?
阿基 完全に切り捨てられたといっても良いだろう。支配のためには民衆が地震予知をしてはならない。つまり、生産原点の人間を重要視するような体制ではまずいわけだ。支配する側にとっては、予知できるかどうかというよりも、大地震のときに敏速に反応できるような完壁な体制が必要であるわけだ。そのような能力があれぱ、地辰以外のあらゅる不測の事態に対しても安定を保てるようになる。
太田 つまり人間の感受性というものを放置しておけぱ、支配が成り立たなくなる。大衆の天然と共鳴するリズムを断ち切らなけれぱならない。その支配のための道具として科学がある。
阿基 なるほど。定性化、定量化という作業は、人間の感受性を完全に固定化させてしまう。近代科学による教団国家の成立だ。
太田 僕が秘密結社に対して「教団」という揚合、原型をユダヤ教においている。ユダヤ教の基本的特徴は、まず一つの記されたドグマつまり旧約聖書があって、それを専ら解釈する僧職集団があり、全国民的な一般義務教育制度を持っという三つの要素を持っていることだ。それでユダヤ民族は領土がなくても教団国家として生き延ぴてきた。それがキリスト教、イスラム教に継承されたのである。この三つの特徴でいけぱ、マルクス・レーニン主義はまぎれもない教団国家だ。
武田 だから、それに対抗する逆フリー・メーソンを作らなけれぱならないわけだ。
太田 読み書きの仕方の革命の中に教育制度の問題が含まれるわけだが、それは一般義務教育制度の廃止につながる。義務教育制度を継承しながら革命をやろうとすると、たちまちのうちに変質してしまう。
阿基 その逆に、フリー・メーソンなどは読み書きの革命を教育する機関という側面を持っている。ヴァイスハウプトのイリュミネ団の流れからバクーニンが出てきているが、彼の謀略的背後操作などは、そこから学んでいるのではないだろうか。
太田 カルロス・カスタネダの『ドンファンの教え』にしても、その教育の過程は外の世界から見れぱ完全なる秘密結社だろう。つまり、ドグマがあってそれを解釈するという教育制度ではない。
阿基 革命に霊性を復権させるとなると、これからは秘密結社という自覚が必要になってくる。
太田 いや、秘密結社というのでは…。
阿基 確かに秘密結社という言葉はどこかウサン臭いところがあるから、そういう言葉を使いたくはないけれども。(笑)
太田 国家が民衆の宇宙と共鳴するリズムを切断して管理支配しているわけだから、その制度を破壊するという方向性がないとだめだろう。
武田 ただ、そういう宇宙のリズムに共鳴するような人たちが多勢いながら、何もできなかったり、天皇制の側に転化してしまったのはどうしてだろうか?
阿基 それは彼らが個的に閉じていたからだ。伝統的左翼が合理主義の立場に立って彼らを排除したということもある。
武田 閉じざるをえなかった状況は、国家の問題に帰するというわけか。
阿基 それもあるけれども、それと同時に彼らが開けへ向けての行法を開発しえなかったということもあるだろう。あるいは新入者に対するイニシエーションを施す方法を知らなかった、または秘密結社を作れなかったと言ってもよい。中には自分でドグマを作り出し天皇制とはりあって抹消されたり、それを避けて同化していった者もいる。
武田 とすると、阿基さんの問題としては、国家の問題よりも行法の問題の方が先になるのだろうか?
阿基 そういうふうに考える。僕の揚合には関心の対象は世界革命ではなくて霊的革命であり、人間の復権ではなく人間存在からの脱皮にある。今のところ、これが革命の方位をめざしているのか、反革命の方位をめざしているのかは未知数だ。国家というものについても、今までそれを国家論として概念的に考えたことがあまりないから、とやかく言う資格は無いのだけれども、太田さんの国家論については、まだ不満なところもあるけれども、アプローチの仕方が分析的なものから霊的指導原理を追求する方向に変化していると思うので、非常に革命的であると思う。ただ、桜沢のPU原理を霊的国家論として読みかえる逆の作業もこれからは必要だろう。
武田 楢崎の相似象については?
阿基 楢崎皐月は霊的に極めてハイ・ボルテージな段階まで至った人間なのであるけれども、彼の達した高みを今度は行法として展開できなけれぱ、あとは血をぬかれて制度化してしまうだけである。相似象学を義務教育化したってしょうがない。 (笑)
武田 先ほどの小宮山と坂元の話に戻るが、そういう面およぴ太田さんの話からすると、小宮山が非常に質の良い部分ー楢崎とか潜態論の小田切などーから系統的に受け継ぎながら、それと可逆的に集権的なかたちで一本化していく、太田さん風に言うならぱローマ的に制度化していく危険性がある程度は感じられる。そこに宇野と小宮山の同じカタカムナといっても体質的な違いが確かに感じられる。
阿基 小宮山がエコ・ファシスト化し、坂元が反科学カーニバルのピエロ化する方向にあるとするならぱ、この二人を両極として奇妙な政治的状況をつくりだすということもありうるな。それはともかく、このあたりの問題点は何だろう?
太田 体験の伝達ということなのだろうけれど、カスタネダの本でもドンファンのやっていることは体験を弟子に伝えることにある。普遍化というのはありえないのであって、一人一人についてしか教育は成りたたない。それは当たっていると思う。
阿基 相似象の場合は、楢崎が体験伝達の方法を見つけだして宇野に伝擾したという噂もある。それからカタカムナ文字という秘密文字も制度化されにくい、体験伝達に最も適した文字だろう。

状況を流動化させる

武田 シュタィナーのヴァルドルフ学校には公教育的な側面があると思うが、どうか。
阿基 だからこそ、彼はそのジレンマに苦しんで苦しみぬいた。晩年の写真を見てみるがよい、目の下にクマの張ったような疲れきった顔をしているから。(笑)ヴァルドルフどころか、人智学協会からさえも脱会しようとしている。シュタイナーは誠実な人間だったから、体験の伝達に失敗しても発狂せずに、そのかわり奇病で死んだ。だが、たいていの場合、体験の伝達に失敗した霊的人間は発狂している。 日本だと空海が鎮護国家の方に走ったのをはじめ天皇制という精神的な奇病にかかってしまっている。
武田 ところで太田さんの方は、シュタイナーやグルジェフについてはどう感じているか。
太田 これから、勉強しようと考えている。
阿基 イザラ書房で発行している新左翼系の雑誌『インパクト』などの広告に、シュタイナーの著作集がデカデカと出ている。(笑)
太田 あれは場違いだね。
武田 だけど本当を言うと、イザラではシュタイナーの著作集も出しているのだから『インパクト』の中でシュタイナー論を展開するような場があってもいいと思う。
阿基 かっての『情況』では、W・ライヒのオルゴン理論を紹介するようなところがあったから、まだあちらの方がボルテージが高いような気がする。
太田 そう。『情況』が廃刊になって何年かたち、最近 『インパクト』『クライシス』『80年代』などが出てきたんだが、いずれも
狭くなっている。
武田 津村なども幅広いように見えるけれども、あまりラジカルな部分には深入りしようとしない。
阿基 そういうところには近づかない、接触しない、入りこまないという原則を堅持して太極挙とか料理とか自然農法とかいう安全地帯に腰を落ちっけてしまっている。これはダメだ。
武田 ある意味で、太田さんは突出していてどんなところにでも入っていくところがあるから、状況を流動化させるカギを握っていると思う。迷宮編集室としても最も注目している人物の一人だ。さらに一層の御健闘を期待したい。

<註記>
この記事は、昨年一二月二四日およぴ本年一月三一日の二度にわたって迷宮編集室で行われた座談会を再構成したものであろ。本誌プロパーのジャンルにのみ関心を抱かれる読者の中には、太田竜氏の政治的経歴についてご存知ない向きもあることを考慮し、参考のため氏のこれまでの主要著作を左記に掲げておく。
『世界革命』(一九六七、三一書房)
『辺境最深部に向かって退却せよ!』(一九七一、三一書房)
『アイヌ革命論』(一九七三、新泉社)
『革命・情報・認識』(一九七四、現代書館)
『再び、辺境最深部に向かって退却せよ!』(一九七八、話の特集)
『アイヌモシリから出撃せよ!」(一九七七、三一書房)
『世界革命への道」(一九七八、新泉社)
さらに、この座談会の前提となっている太田氏の最近の思想活動については、月刊『流動』誌に一九七九年三月号から八○年四月号にかけて連載された「現代思想家論」シリーズを単行本化した『革命思想の扉を開く』(現代書館)、また柴谷篤弘との対談『自然観の革命』(現代書館)等を参照されることをお勧めする。


転載者*注

*注1
桜沢如一 (一八九三ー一九六六) 食思想家。独自の「PU原理(無双原理)」にもとづく玄米食による食生活の革命と、人類の意識改革・世界革命を提唱した。著書多数。
著書問合せ先 日本CI協会 東京都渋谷区大山11−5  正食協会 大阪市中央区大手通2−2−7

*注2
宇野多美恵 楢崎皐月の相似象学を継承、相似象学会を主宰。会誌『相似象』(不定期刊)
相似象学会 東京都渋谷区神泉17−2




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