歪曲される杉原千畝像(『アエラ』2000年11月13日号)

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投稿者 MY 日時 2000 年 11 月 13 日 22:02:52:

『アエラ』2000年11月13日号
歪曲される杉原千畝像
個人の人道行為を国家の手柄にすリ客え
編集部 長谷川照

戦時中、国家の命令に背いてユダヤ人らを救った外交官、杉原千畝氏。あの人道行為を日本政府の手柄にすり替える動きがある。

六十年ほどしか経っていないのに、世界史のあの瞬間は、もう想像すら超える。
激しく罵倒し合っていたナチス・ドイツとソ連の二大思想国家が一九三九年八月二十三日に突如、独ソ不可侵条約を締結し、ナチス・ドイツが西から、ソ連が東からそれぞれポーランドを侵略して分割し、自国に併合してしまった。
四〇年六月十五日にはソ連軍が、リトアニアなどのバルト三国に侵入し、八月三日にソ連は三国をともに併合する。さらに一年後には独ソ開戦となり、バルト三国はナチス・ドイツに侵入される。
そんななか、日本外務省は、独ソが結託する少し前の三九年七月、情報収集の適地リトアニアの首都カウナスに領事館を設置することを急に決め、在フィンランド公使館勤務の杉原千畝二等通訳官を副領事に任命する(領事は空席で杉原氏は領事代理の肩書で活動した)。
カウナスに着任して一年足らずの四〇年七月十八日朝、杉原領事代理、そして妻幸子さん(現在八十六歳)は、領事館前に人々が群がっている光景を館内から目撃する。当時を回顧する『六千人の命のビザ・新版』(大正出版)を七年前に出した幸子さんは神奈川県鎌倉市内の自宅で語る。
「食事が終わり、下の領事室に行った主人が何分かして戻ってきたんです。『カーテンを開けて見てご覧』という。鉄柵の外に百、二百人くらいもいる。鉄柵を越えて中へ入ろうとする若い人をほかの人が引っ張り下ろしていた。その日から、領事館の前の公園で寝泊まりが始まった。夜が明けるとまた並ぶ。子供もいました」
杉原領事代理は四〇年七月二十八日付の外務省への電報で「電撃的『テロ』」と情勢を記した。
「危険ヲ感ジ農村二潜込ミタル者鮮カラス……猶太人は本邦経由渡米スヘク査証関係ニテ当館に押掛クル者連日百名内外二及ヒ居レリ」
杉原領事代理の本省への電文、八十六歳で八六年に死去する何年か前までに本人が書いた手記、メモ類によると、独ソに侵略されたポーランドからリトアニアヘと、ユダヤ系難民などが晴雨を間わず徒歩や荷馬車などで大移動をし、カウナスなどに辛うじて辿り着いた。難民の一部は日本領事館前に押し寄せた。
残されているのは日本を経由して米大陸などへ逃れる道くらいだった。日本を通過させる査証(ビザ)を日本側が発給するならソ連側もソ違通過ビザを出すことは確認されていた。ソ連を横断し、さらに未知の日本を通る不安極まりない選択肢だったが、難民はすがり付く。
しかし、当時の日本の外国人入国令によると、行き売国に入国するビザ手続きがその国との間で完了しているほか、旅費、日本での滞在費を満たせる携帯金を持っていることが確認されなければ、日本通過ビザは発給できなかった。
非常事態への緊急措置として、外国人入国令の要件を欠く者へも日本通過ビザを出すことを認めるよう杉原領事代理は請訓するが、外務省からの訓令は外国人入国令の順守を命じた。外務省外交史料館に保存されている関係文書(四〇年七月二十三日付、八月十四日付、八月十六日付など)からそれは裏付けられる。

杉原氏の死から14年・外相は謝罪したものの……
しかし、死から脱出しようと多数のユダヤ系難民らが眼前の路頭にいる。遂に杉原領事代理は七月下旬から、ソ連の要求で領事館を閉鎖して次の任地に出発する八月下旬にかけて計二千百三十九通の日本通過ビザを難民らに発給した。この数字は後に杉原氏から本省に報告された。
そのほとんどが訓令違反のビザ発給だったことが、「杉原ビザ」を携えて日本に到着した難民らの実情によって明らかになる。家族兼用の旅券の所持者も交じっていたので、「杉原ビザ」での脱出は約六千人にのぼる、と推定されている。
敗戦で杉原氏は、ソ連軍が占領したルーマニアで抑留される。二年経った四七年に帰国したところ、岡崎勝男外務事務次官から直接、解雇の通告を受ける。
「お分かりでしょうね」
家に戻った夫は妻に、次官からこう告げられた、と知らせる。あの時の夫の暗い顔が、五十三年後の今も妻の瞼から消えない。岡崎次官からは、ねぎらいの言葉一つなかったようだ。
しかし、訓令違反ビザによって救出されたユダヤ人らは杉原氏の行為を忘れなかった。六九年と八五年にイスラエルから勲章を受けたり、受賞をしたりした。
日本では、本人が死去して十四年経ったこの二〇〇〇年十月にやっと、生誕百年の機会を捕らえる形で、河野洋平外相が、幸子さんに直接、それまでの無礼を「外務大臣として」謝罪した。
ところが、そんな一方で、杉原領事代理による訓令違反ビザ発給の事実を否定する言論が近年、日本で目立つ。
九年前に大手商社を辞め、いま「日本イスラエル商工会議所」会頭などの肩書を持つ藤原宣夫氏が自ら世話人になって数年前、杉原千畝を顕彰するという募金活動をした。発起人には小和田恒元外務事務次官ら十四人が名前を連ねた。
米ロサンゼルス市内の「サイモン・ウィーゼンタール・センター・ホロコースト博物館」杉原氏の陶板肖像画を寄贈することなどが顕彰活動の中身だった。しかし、今年七月一日付で出された藤原氏名のその関係の報告文には、
「九八年五月十一日に……陶板肖像画を献納した。その際、訓令に反してというのは事実ではないので、その部分は削除させて頂いた」
と書かれた。
藤原氏は、「誇りある国づくり」をうたって九七年に設立された任意団体「日本会議」(稲葉興作会長)の機関誌「日本の息吹」の九九年九月号のインタビューでもこの銘文削除について述べる。
「六年前、知り合った歴史学者のレビン氏(米ボストン大学のヒレル・レヴィン教授)から、杉原さん個人がビザを出したというだけで、日本が六千人とも一万人とも言われるユダヤ人難民を受け入れるだろうか、そんなことはありえない。もっと日本政府の方針があったはずだ、調べてみたいから資料探しに協力してくれ、といわれたのです」そして、その資料を「発見」した、と藤原氏は続ける。
「つまり、この日本政府の訓令に従って、杉原さんはビザを出したんです」
「……ユダヤ人たちは皆、『そうだったのか!』と、真実を知って驚 いていました。杉原さん個人に対する感謝から日本国に対する信頼へと意識革命が起こりつつあるのです」
蔭原氏が引用した先のレヴィン教授は、杉原千畝を扱った『千畝』(邦訳は九八年に清水書院から出版)という本を書き、そのなかで杉原夫妻をこうそしる。
「……あなたも、あなたの奥様もなぜ政府に背いて行動したと主張しているのでしょう。親愛なる杉原さん、あなたは英雄になりたくて虚偽の主張をしているのでしょうか」
藤原氏と同様のことを口にする著名人らが「日本会議」の周辺には目に付く。レヴィン教授も「日本会議」から講演に招かれた。

「訓令違反」の証拠多く事実に目をつむるのはなぜ
しかし、事実は、残された訓令そのものが明白に語る。
外務省亜米利加局第三課員が起草し、第三課長、亜水利加局長、欧亜局第二課長が決裁した四〇年七月二十三日午後五時半発の来栖三郎駐強大使宛の電報は、「猶太避難民二対スル通過査証取扱方注意ノ件」と題され、
「……之等ノ者二対シテハ行先国ノ入国許可手続キ完了セシモノニ井サレハ通過査証ヲ与ヘサル様取扱方脚注意アリタシ為念普通情報通転電転報(瑞典ヲ除ク)アリタシ……」
と訓令した。「転電転報」を命じているので、管下の杉原領事代理にも通知されたはずだ。
杉原領事代理にも直接、八月十四日、十六日付で訓令が出された。
「……比ノ種ノ者二対シ本邦通過査証ヲ与へ得ルハ行先国ノ入国許可手続完了ノ者ニ限ルニ付若シ同人等カ右手続未了ナルニ於テハ上陸モ許可セラレサル次第テルニ付右側含置アリ度シ」
「最近貴館査証ノ本邦経由米加行『リスアニア』人中携帯金僅少ノ為又ハ行先国ノ入国手続未済ノ為本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ処置方ニ困リ居ル事例アルニ付此際避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ対シテハ行先国ノ入国手続ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滞在費等ノ相当ノ携帯金ヲ有スルニアラサレハ通過査証ヲ与ヘサル様御取計アリタシ」
この関係の訓令は、ほかの在外公館宛も含めると幾つもあるが、すべて内容は一致している。
実際に、訓令違反の「杉原ビザ」を携えて日本に到着し始めた難民への対応に日本の関係当局は苦しむ。日本の外国人入国令の要件を満たさせようと日本在留ユダヤ人の組織などが懸命の策を練るが、当時の報道によると、かなり混乱した。
訓令違反ビザに対しては内務省も外務省に警保局長名で警告する。
現在、杉原千畝問題を担当する外務省欧亜局西欧第二課は九四年に見解をまとめ、そのなかで、
「……杉原副領事は同指示(訓令)に従わず、行先国の入国許可未了の者、所持金の不十分な者に対しても査証発給を継続したため、本省より同訓令を厳守するよう注意を受けている」
と明記した。
『日本外交文書』の編纂をしている外務省外交史料館勤務の研究者A氏も、杉原領事代理の日本通過ビザ発給は、
「明らかな訓令違反です」
と述べる。
「あの人道行為は杉原個人に帰せられるのに、あたかも日本政府のそれだったかのようにすり替えたい人たちがいるのではないですか」
日本語を解し、外交史料館の各種資料も読み込んで杉原千畝関係の米大学院博士論文を書いた米国人の坂本パメラ氏も、
「彼のような外交官は日本にいなかった。世界にも少ない」
と語る。
杉原領事代理の訓令違反を否定する根拠として藤原氏が挙げるのは、四〇年一月十日付の訓令だ。米映画会社のメトロゴールドウィンメーヤーの東京支社支配人が、リトアニアに逃れたユダヤ系ポーランド人の義弟を約一カ月の予定で日本に呼び寄せたいと要請しているので日本への入国査証を出すようにと本省から杉原領事代理に指示した電文だが、外務省幹部への支社支配人の要請文を見れば、義弟の日本滞在は、外国人入国令の要件を満たしている。
確かに、同盟関係へ向かいつつあったのに、ナチスのユダヤ人政策に日本政府がくみさなかった事実は見逃せない。相手がユダヤ系か否かを間わず、外国人入国会にのみ従って外務省は関係ビザを発給させていた。このユダヤ系ポーランド人の例も、そうした通常業務の一つだ。
しかし、杉原領事代理は、その原則をも踏み越えていた。藤原氏は、「杉原千畝の訓令違反を証明する資料がありますか」と繰り返すが、証拠は外務省外交史料館に保存されている。

小和田事務次官は語る「反対した記憶はない」
顕彰の募金活動をする一方で「杉原ビザ」を否定する藤原氏らの動きやレヴィン教授の著書『千畝』については、「杉原千畝」を研究している大正出版社長渡辺勝正氏が、杉原問題の二冊目の著書『真相・杉原ビザ』(大正出版)を今年七月に出し、糾弾した。
「杉原問題とはこういうことだったのか、と事実に反する話に仕立てられて終わってしまったら大変、と思い、あの本を出したんです」
あのとき難民代表を務めた後のイスラエル宗教大臣ジラフ・ハルファブティク氏まで渡辺氏は訪ねている。
同書では、藤原、レヴィン両氏の言説を一つ一つ事実と照らした。レヴィン教授の『千畝』については、翻訳者の一人の会社員篠輝久氏自身が、「原著はもっと、むちゃくちゃだった」と認める。
だが、渡辺氏によると、翻訳本にも、事実関係の誤りが初歩的なものを含めてすくなくとも数百カ所ある、という。篠氏によると、いま出ている最新版までの直しだけでも、「びっくりするほど」だったというが、それでも直しは不十分と承知しているようだ。在米のレヴィン教授は電話で、
「出典は明記した。でっち上げはしていない」
と答えたが、外交史料館の研究者A氏は、
「事実誤認の激しさに呆然とした。あまりにもひどく、とてももう…」
とあきれている。
日本語を知らないせいなのか、訓令類もほとんど素通りなのにA氏は驚く。
杉原千畝問題が大きく取り上げられ出したのは、崩壊中のソ連からリトアニアが再独立し、日本も同国と国交を回復した九一年の前後からだ。鈴木宗男外務政務次官が杉原氏の遺族を招いて慰労した九一年に、それに反対した模様、と後に一部で報じられた当時の外務事務次官小和田氏は、
「そういう報道は心外です。私としては、反対したという記憶はありませんし、私自身の考え方からしても反対するはずがない」
と否定する。自身が杉原千畝の立場にいたらどうするか問うたら、
「組織の人間として訓令に従つか従わないかは、最終的にその人が良心に照らして決めなければならない問題」
と答えた。




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