“円盤”ブームを起こした男ケネス・アーノルドの証言(『UFOS & SPACE』82年6月号)

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投稿者 SP' 日時 2000 年 11 月 30 日 17:26:57:

グレゴリー・ロング(UFOジャーナリスト) 扇平秋雄訳

(写真)
▲アイゼンハワー(右)と握手を交わすケネス・アーノルド。


 1947年6月24日にケネス・アーノルドが行なったレーニア山付近を飛ぶ三日月型をした9個の物体の目撃報告の実際の動機は、陳腐なものだ。当時は冷戦の時代で、個人商業パイロットだったアーノルドは、おそらくソ連を起源とする誘導弾を見たのだろうと思い込んだのだった。彼は後に、SF作家で雑誌編集者のレイ・パーマーと共著で『ソーサーの来訪』(1952)と題する本を書いたが、そのなかで次のように述べている。
「愛国路線に沿うべきであるという理由だけからも、もし私が報告をしなかったならば、国に対しての、忠誠を破ったと見なされたであろう」
 だがそのあとすぐに、アーノルドは自分の愛国的義務にしたがったこの行為について後悔するようになった。目撃の当日、オレゴン州ペンドルトンに着陸した彼は、FBIの地方事務所がしまっていたので『イースト・オレゴニアン』紙の編集長ノーラン・スキッフを訪問した。その直後、彼の目撃談(“フライング・ソーサー”という新造語を登場させた)についての短かい報道文が電信で国中に伝えられ、天地がひっくりかえるような大騒ぎにまき込まれてしまったのである。
 記者たちが彼のところに殺到してきたし、軍情報部員が押しかけてきた。そして彼の目撃したものの説明がつかないままで時間が経過するにしたがって、話を信用しない人々によって、ますますうるさく責めたてられ、嘲笑されることとなっていったのであった。そしてほかの人たちも空中の奇妙な物体について報告をしはじめ、以後の歴史の全期間を通して、この種の空中における異変の報告がもたらされ続けた。かくて現代のUFO時代が開幕され、アーノルドは永久に、“すべての起源となった男”の烙印を押されることとなったのである。

ハイネック博士に対し悪感情を

 アイダホ州メリディアンのケネス・アーノルドの家に私が到着したのは、予期したより早い時間だった。アーノルドと40歳の妻君ドリスが昼食をすませるまで待つ間、彼の書斎に通された。そこには、新聞の切り抜きや雑誌論文のコピー、写真、1977年発刊『イースト・オレゴン』紙のアーノルド目撃30周年記念特集版などがあった。
 私がひろい読みをした記事はみな、同じ説得力と内的一貫性をともなったトーンで語っていた。問題の男が9個の奇怪な物体を見たのであり、目撃は、初めに報告されたとおりの経過をとって発生したのだと。時間の経過は、事件の真実性をそこなっていなかった。
 私が最後の切抜きに目を通し終わると、ドリスがソファに腰をおろしアーノルドもまもなくやって来た。彼は私に、まず、チャールズ・フォートの著作のコピーを手渡した。
 フォートは、以前は新聞記者であったが、1919年〜1932年の間に、4冊の本を出版した。この時期には、UFOを含む、多数の説明不能な現象が発生している。これらの目撃報告の集まり方を見てアーノルドは、合衆国空軍が彼の目撃した9個の物体は人工物か自然現象だったと言明しているが、実際は説明できないでいるのだ、ということを確信したという。彼は次のように語った。
「私は最初、自分の見たものは空軍の航空機だったのかもしれないと思っていました。しかし、このフォートの本を読んでびっくりしたのです。私が研究をしているものと、フォートが集めた目撃事例とがよく似ていたからです」
 話を進めてゆくなかで、アーノルドは、フォートの語る既存の科学的見地に適合しない異常なデータを無視し、嘲笑し、“ばかばかしいもの”として非合理的なものと見なす科学者たちに対して断固たる批判的態度を明らかにした。このような態度については、彼自身の報告が、新聞や懐疑論者たちによって同様に扱われたことがあるので、彼にはなじみ深いものだったのだ。
「私は、ノーラン・スキッフなどというトップ屋に話をするのを避けるほど賢明ではありませんでした。彼に語ると、そのあとすぐ記者たちが家に押しかけてきて、さんざん質問をしたのちに帰ってゆき、記事を書きはじめました。ところが私の談話は違った内容に変えられて公表されたのです」
 アーノルドはとくに、J・アレン・ハイネック博士のことをひどく怒っていた。博士は以前20年間以上にわたって空軍のUFOに関する顧問を務め、現在はUFO研究センターの所長をしている。
 アーノルドによると、ハイネックは次のようにいったという。
 ハイネックは、空軍から、“アーノルドによって作成された、目撃の誤った報告”を分析するために渡された。ハイネックはこれに基づいて、プロジェクト・ブルーブックの公式ファイルに収録される結論を出した。「問題の9個の物体の寸法と距離の間には矛盾がある。したがって、これらのUFOはある種の既存の航空機であったと思われる」という判定である。アーノルドがびっくりしたことは、ハイネックが、オリジナルの報告そのものを調べもせずに、このような結論を出してしまっていたことである。なぜそんなことをしたのか、と問いつめると、ハイネックは次のようにいってのけた。
「私は当時空軍に雇われていたので」
 アーノルドは述べた。
「私はハイネックが今でも空軍に雇われているとしても驚きませんよ」
 アーノルドの信じているところでは、少なくとも「科学界の奥深くにいる誰かが、UFOに対する逆宣伝をやっていることは間違いありません」ということになる。

目撃報告は嘲笑や批判の“的”に

 アーノルドが問題の報告を行なったあと悩まされたのは、懐疑主義者の攻撃だけではなかった。
「無名の普通の人々が私を嘲笑しはじめました。私はオーソン・ウェルズと同類のペテン師だと考えられたのです。……私は国を愛していました。私はこの問題についてまったくナイーブに反応しただけだったのです。それなのに私は、“UFOのインチキ報告”を最初に行なったウソツキとして、一種のスケープ・ゴートにされてしまったのです」
 アーノルドは、タバコをとり出して火をつけながらそういった。
「政府がほかの何よりも恐れているものは、ジャンヌダルクのような、宗教的聖者の出現、すなわち政府の権威喪失による自壊をひき起こすような“現象”です」
 アーノルドがこの真相を悟ったのは、問題の目撃のすぐあと、軍情報部第2課のフランク・M・ブラウン中尉と、ウィリアム・ダビッドソン大尉の訪問を受けたときのことであった。この2人の士官は、アーノルドと問題の目撃について討論したあと、彼のところに来ていた手紙を調べ、そのなかから宗教団体からよせられたものを選び出した。ダビッドソン大尉はアーノルドに、政府は宗教的熱狂の影響を恐れており、アーノルドの目撃をめぐって、この種の狂信現象が起こることが望ましくないのだ、と語った。
 アーノルドはまたまもなく、空軍が初めは、彼に対してあいそよく友好的な態度をとり、問題の目撃について熱心に聞き出そうとしていたにもかかわらず、すぐに 態度を一変するのを経験した。たぶんその理由は、彼の経験が政府にとって有害な作用を及ぼすことを恐れたためだ、ということを知ったのだった。
「ナイフ・アンド・フォーク・クラブ」ははじめ、その講演集会で話をするよう1回100ドルで依頼してきた。アーノルドは自費で『私の見たフライング・ソーサー』と題する小冊子を印刷した。彼はそれを、聴衆にプログラムがわりにくばるつもりだった。この計画を知った空軍情報部員は、彼の経験を公表しないように要求した。理由は問題の目撃に関して空軍はなお調査を続けているからだというのだ。
 そのあとで、「ナイフ・アンド・フォーク・クラブ」から手紙が送られてきて、講演依頼の謎の撤回が通告されたのだった。この心変わりの背後に空軍があったことを、アーノルドが証明しえたわけではなかったが、情況証拠は無視するにはあまりにもはっきりしていた。
 1950年には、税務局がアーノルドに対し、旅費の支出など彼のUFO活動の調査に役立てるためのものと思われる細かい支出データの提出を要求してきた。税務局はそのようなことはないといっているが、アーノルドはスパイされていると感じたという。
 嘲笑や逆宣伝、妨害など、アーノルドの30年来の友人パーマーが死の2ヵ月前1977年シカゴで行なった講演のなかで“妨害球要因”と名付けたあらゆるものが行なわれた。

1952年、8回目のUFO目撃

 1952年か1953年の秋の初め、アーノルドはサンフランシスコに向かって飛んでいた。天候は1日中悪く、彼はやむなくカリフォルニア州のフォールリバー・ミルズに着陸したが、とたんに雪が降りはじめた。彼が自分の飛行機にカバーをかけ終わると、空港の人々が2〜3人やって来て、1機の飛行機が、町から10キロほど離れた牧場に墜落したと告げた。パイロットとしての彼の経験を活かして救難作業に協力してほしいというのだ。アーノルドは、救援活動に加わることに決めて、ほかの20名の人々と一緒に牧場に向かった。そして墜落後20分〜30分の時点で現場に到着した。
 1人の農夫とその妻や子供たちは、飛行機の爆音がしていたのを聞いたが、それが牧草地の上空にさしかかると急にやんだというのだ。家の外を見ると、バスケット・ボールぐらいの光球が空中を旋回していた。このあと救援隊が到着するちょっと前に今1つの光球が現われ、最初の光球と同じように激しくなる雪嵐のなかに消え去った。
 嵐はたいへん激しくなったので、救助隊は朝になるまで捜索を始めることができなかった。翌朝になって、探してみると、旧式の陸軍練習機と2人の大学生の死体が発見された。1人は頭を砕かれて即死していた。もう1人は大ケガをして樹の下まではってゆき、そこで死んだ。現場にやって来た医師の所見では墜落後約20分の時点まで生きていたという。これは農夫一家が第2の光球を見た時点とほぼ一致していた。
 アーノルドは、自分自身はそんな光球を見た経験はないとつけくわえた。しかし救助隊の人たちは、人が死にかけているときや死んだときに同じような現象が起こるのをたびたび見たことがあったそうである。そしてこの種の現象が、アイダホ州でも起こっている。7歳の少年が、曾祖母の死体の安置してある部屋のなかに光球があるのを見つけ、ほかの人たちもそれを見ているのだ。
 精霊なのか、機械なのか、あるいはほかの何かだったのだろうか。
 アーノルドは、カリフォルニア州ササンビルの近くで、1952年に8回目のUFOを目撃している。このときアーノルドが見たのは明らかに2機の飛行機械であった。そのうちの1機は透明だった。
「2つとも何か生き物みたいに見えました。そして連中は私のことを意識しているみたいに感じました。もっとも近づいてこようとしたわけではありませんでしたがね」
 そこで私は、問題のUFOは、機械みたいな形をとることのできるある種の生物だったのかと彼にたずねてみた。
 彼は肩をすぼめた。せいぜい機械の形をしていることがわかっただけだ、というのである。しかし彼がいうには、我々は機械に乗った連中に訪問されているのかもしれないということだった。
「知的生物がほかの銀河からやって来るのは不可能だといわれていますが、私としては地球人中心に考えたくありません。私はあらゆることが可能だということを否定はしませんよ」
 アーノルドは、北西部やアイダホ州のほかの人たちの経験の話を続けて語った。そのうちの1つは、ワシントン州のアダムズ山上空を飛び木立に衝突し、あとにゼラチン状の物質と硫黄の匂いを残したという、とくに物議をかもした2個の円盤の事例であった。たまたま同山付近にいた郡の道路建設作業隊の主任が問題の物質を広口ビンのなかに採取したが、あとで見ると蒸発して消えていたという。

UFOの解明は政府によって

 午後遅くなってから、アーノルドは、1940年代末に空中で奇妙な現象を目撃した人たちのインタビュー録音テープを持ち出してきた。これらのインタビューのうちの3件は、飛行士に対するものだった。
 ほかの1件では、1人の婦人がオレンジを食べてから台所に行き手を洗っていると、かもめのようなものが飛んでいるのが窓から見えた。しかしよく見ると、カーキ色の服を着てヘルメットをかぶった3人の男たちが、まるで飛行機のような速さと高度で飛んでいるのだということがわかった、というのである。
 次の事例では、1人の電子工学と、レーダーの専門家が、アーノルドにカリフォルニア州アルカータの海岸にある着陸支援実験所で捕捉された謎の目標群について説明していた。この目標群は3年間にわたって太平洋上に出現し、夏にはひんぱんに現われた。つねに1キロの高度を時速50キロぐらいで、180度の方位変化を見せて、飛びすぎてゆくというのだ。この目標の源となるような物体は、肉眼では視認できなかった。飛行機が派遣されたが、やはり肉眼では捕捉できなかった。ある場合、目標は2つに分かれた。そして180度の方位変化を経たのち、最後にはまた1つに結合した。いくつかの目標群は完全に静止して見せた。そのレーダー専門家は一所懸命考えぬき、あらゆる可能性を消去してゆくというめんどうな研究を試みたが、結局、満足のいく説明はできなかった。
 アーノルドが語ったところによれば、このレーダー・ステーションは、この海域に“謎の潜水艦”が出現したこと、そして海面から空中に飛び出してゆく物体があったことなどを報告した。
 この報告には軍が関心を示したが、そのあとでこのステーションは閉鎖されてしまったという。
 私はテープを巻き戻しはじめたアーノルドに、学生のように質問してみた。
「宗教的説明をどう思われますか」
 アーノルドはどうやら、信仰の人ではないようだった。パーマーの“危険な理論”についても、彼は受け入れ難いといった。
 アーノルドはかつて、ドワイト・アイゼンハワーに電報を打ち、アメリカは“ほかの世界”からの訪問を受けていることを警告した。今ではアーノルドのUFO起源と目的について の見解は、“もっと複雑なもの”らしい、ということであった。
「たとえ今から30年後のことであろうとも、もしUFOの解明がなされるとすれば、それは政府によって行なわれるでしょうね」
 アーノルドが信じているところによれば、この世界はUFOの実在をたぶん決して承認しはしない。なぜならば、「我々は経済的、利己的利益の追求に夢中になりすぎている」からだ。
 アーノルドがUFO論争にあえて首を突っ込んだ理由の1つは、同僚の職業的パイロットたちに対する責任感であった。UFO問題発生当時の早い時期からアーノルドは、大勢のパイロットたちが説明不能の物体を目撃したことについて証言したいと思いつつも、仕事を失ってしまう危険におびやかされて、そうすることができなかったという事実をよく知っていた。あえて報告を行なったパイロットたちは、アーノルドが憤慨したように“俗物科学者ども”の先入観による批判の矢面に立たざるを得なかったのだ。
 言葉を換えていえば、1938年からごく最近まで空を飛び続けてきたアーノルドに対するこの種の批判は、すべてのパイロットに対する批判を意味していたのだ。それだけでなくアーノルドは、空の旅の安全と乗客の生命をあずかる立場にあるパイロットたちの誠実さに疑いをかける人々を強く憎んでいた。以上のような理由から、彼はこの問題についてあえて発言を続けてきたのであった。しかしながら、彼が公然とUFO問題にかかわったことによってもたらされたものは、欲求不満と傷ついた心だけだった。
「もしあなたが同じめにあったら、完全にまいってしまったでしょうね」と彼は述懐している。

長年の研究により実在を確信

 アーノルドは、UFOとこれに関連した諸現象の個人的研究に、3万ドルの私費を費やした。その結果、UFOは実在するということを示す強力な手がかりがつかめたが、誰も耳を傾けようとはしなかった。
 アーノルドをいぶからせた事実は、彼の経験について人々がしてくれたことの大部分は、嘲笑し、批判し、けなしつけることだった点である。唯一の例外は、彼が私費で印刷し配布した『ソーサーの来訪』と題する小冊子に対する反応だった。それはかなりの収益をもたらしUFO研究に入ることを可能にしたのだった。
 彼はその後、自分の経験について書くことによって利益を得ようとは決してしなかった。彼の態度は「とりあげるか捨てるかどうぞご随意に」ということだったのだ。
 彼はUFOで金儲けをしようとはしなかったとしても、自分の経験についてまったく書かなかったといいきると、いささか正確さを欠く。『フェイト・マガジン』は1948年の冬季号に彼の書いた連載記事を載せている。春季号でアーノルドは、レーニア山での目撃についてとワシントン州タコマのモーリー島事件に彼がかかわったときの事情について述べている。
 夏季号では、アーノルドは彼自身の多くの事例についての研究を発表している。すなわち、南西部での青緑色に輝く異常なファイアボール、太平洋岸の北西部で起こった怪火事件、カナダでの水中に棲む紫色の球体などである。彼は、秋季号にはネバダ州の“ファントム・ライツ”について書いている。
 またさらに最近になって、アーノルドの遭遇したいくつかの事例について明らかにされている。それは、『フェイト・マガジン』の後援で1977年シカゴで開かれた、第1回UFO国際会議の席上で公表されたものである。
 私が帰り仕度をはじめると、アーノルドは1本のフィルムを見せてくれた。それは1966年7月9日午後2時、彼自身が撮影したアイダホ州のアイダホ滝上空を飛ぶ“輝く円筒”の影像であった。アーノルドはこれを、気象観測気球に似ているといった。しかし、問題の物体は、時速70〜140キロメートルで北北東から吹いてくる風にさからって飛んでいた。
 彼が収集したUFOの数々の証拠があるにもかかわらず、彼はそれを性急に世界に公表しようとはしていなかった。彼は今までの全生涯を“予感”にたよって生きてきたのであり、その“予感”がまだそのときではないと告げているからだ、というのである。
 数年前に『ナショナル・エンクワイアラー』紙が『ソーサーの来訪』に関心を示した。アーノルドはこの本のコピーをボッブ・プラットに送って、これを全文そのままのかたちで連載することを検討するよう要請した。プラットは、UFOは「惑星地球の歴史始まって以来の最大の発見です」という主旨の真剣な返事を書き送ってきた。しかし、今のところ版権価格については、まだ折合いがついていない。



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