「三菱こそフリーメーソンの牙城だ!」No.5 亡国日本の悲しみ

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投稿者 ロバート・オッペンハイマー 日時 2001 年 6 月 06 日 17:05:51:

回答先: 「三菱こそフリーメーソンの牙城だ!」No.4 株式市場の崩壊と、金融引き締め政策(デフレ政策)は国際的銀行家によって予め予定されていた 投稿者 ロバート・オッペンハイマー 日時 2001 年 6 月 06 日 17:02:42:

亡国日本の悲しみ

 1945年8月6日、西太平洋テニアン島の基地を発して広島上空に到達したB29「
エノラ・ゲイ」が原爆「リトルボ−イ」を投下、一瞬の内に、広島全市の6割が破壊しつ
くされ、爆心地から半径500・以内の人々はほとんどが即死した。
 1950年の広島市役所発表によると、死者は推定で24万7000人。残された原爆
症患者をはじめ被害者の数はこれを大きく上回る。
 8月9日、広島に続いて、長崎にも原爆「ファットマン」が投下された。長崎では、7
万3884人が死亡し、7万4909人が重軽傷を負った。
 8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日正午からのラジオ放送で、天皇自
らが録音した終戦詔書の「玉音放送」が流れ、国民は戦争が終わったことを知る。
 太平洋戦争によって日本は旧植民地、属領等の領土45%を喪失し、残された国富も空
襲等による直接・間接の損害を受けた。敗戦時における日本経済の被害額=損失額を経済
安定本部「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によって概観すると、戦死、戦病死
者は陸軍114万人。海軍41万人、空襲等による死者30万人、負傷行方不明者を加え
ると合計253万人。在外邦人等を加えて300万人近いと推測されている。
 物的被害のうち領土は旧植民地、属領等を49%喪失し、一般物的資産は空襲による建
物、生産設備、公共施設、船舶等の破壊焼失による直接被害=損失は487億円(終戦当
時価格)、間接的被害=損失が156億円で、直接間接の戦争被害=損失は643億円に
なる。純軍事的資産の損失は艦艇、航空機等404億円。一般兵器296億円、合計70
0億円を喪失しているので、これを加えると物的資産の損失額は1340億円となる。
 海外引揚者と復員によって敗戦後2年間に600万人をこえる人口増、その上に軍需会
社からの大量解雇が加わって、潜在失業を含めて1300万人をこえる失業者などの諸条
件が重なりあい、ほとんどすべての人は竹の子生活を余儀なくされていた。

 占領行政下の日本経済は二つに区分して考えることができる。一つは「傾斜生産方式と
ドッジ・ライン」の時期であり、もう一つは「朝鮮戦争特需と独禁政策緩和」の時期であ
る。
 昭和20(1945)年8月の敗戦から25年はじめのドッジ・ライン実施までの時期
は、戦後の混乱によるインフレ−ションと傾斜生産方式による経済運営が行われた。傾斜
生産方式とは、アメリカの援助によって重油を輸入し、まず鉄鋼を増産し、炭鉱へ鋼材を
重点的に配給し、それによって石炭の増産をはかり、さらに鉄鋼の生産にその石炭を特別
に増配するという経路を通して、石炭と鉄鋼の生産を相互循環的に増大させ、それを起動
力にしてインフレによる日本経済の縮小再生産をくいとめ、逆に拡大への道を一歩踏み出
そうと意図したものであった。資金面でも、鉄鋼・石炭を中心とする基礎産業の設備復旧
と補修のために、これら基礎産業へ優先的に、復興金融公庫を通じて傾斜融資された。
 このころ占領軍の対日政策の転換があり、日本を東洋の工場にし、経済面で反共の防壁
にするため、日本を資本主義的に復興させるという政策が進められた。アメリカのデトロ
イト銀行総裁ドッジは、昭和24(1949)年2月、ロイヤル陸軍長官とともに来日し
た。ドッジは戦後の日本経済に徹底的な外科手術を施し、国内市場を縮小させて企業の自
主的な合理化を促進し、輸出の拡大をはかろうとした。このドッジの勧告はドッジ・ライ
ンと呼ばれている。具体的には、1949年度について超均衡予算を編成し、単一為替レ
−ト制度を制定することの二つを内容としていた。このドッジ・ラインによって、昭和2
2年当時、1ドル当たり180円のものから600円にいたるまで、極めて広範囲に分散
していた個々の輸出入品の円・ドル比率は、24年4月25日から1ドル=360円とい
う単一為替レ−ト制度に切り換えられ、以後輸出入価格は、国際価格と正常な連携を保つ
こととなった。
 これは、円の国際価値を安定し、アメリカの資本導入と技術導入のための徹底的な地な
らしをはかることになった。その結果、インフレ−ションは収束したが、猛烈なデフレ−
ションで滞貨は増え、購買力は不足し、そのうえ戦後第一回目の世界的な景気後退期と重
なりあったために、不況は深刻を極めた。24年2月から25年3月までの14ヵ月間に
企業整理件数1万1000件、解雇者は51万人をこえた。そこへ25年6月、朝鮮戦争
が勃発するのである。
 
 「終戦直後の昭和21年、アメリカの国務・陸軍・海軍三省連絡委員会に提出された視
察団報告書には、『輸出振興と原料輸入の狂奔が日本帝国主義の原動力となり、この結果
、富と経済的権力が一部の財閥の手に集中されたのであって日本の侵略戦争に対する相当
の責任もここにある』と明記されており、とりわけ独占資本には『非軍事化』の観点から
きびしい判決がくだされていた。ところが、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の演
説になると、つぎのように顕著な変化がみられる。『日本の広範な非軍事化と、日本を自
立しうる国家たらしめるという二つの目的のあいだには、避けがたい対立面があらわれて
きた。・・産業の集中排除を極端に行なえば、戦争遂行能力は破壊されるが、同時に工業
の能率を下げ、したがって工業生産全体の低下と輸出余力の低下をまねいて、結局日本の
経済的自立をおくらせるおそれがある』。これは明らかに日本経済の『非軍事化』要求を
犠牲に供しても、独占資本の経済的自立化の道を選択したほうがよいという声明にほかな
らない。
 かくて『経済民主化』過程のうち、資本のみがいちはやく免罪され、昭和23年はじめ
ごろより、それまでのきびしい財閥解体・過度経済力集中排除過程が緩和の方向をたどり
、昭和26年7月にはついに政府は『財閥解体完了』声明を出し、持株会社整理委員会の
解散を命ずるにいたる。もはや独占力の強化は悪ではなくなり、日本経済は晴れてビッグ
・ビジネス時代を迎える」(宮崎義一著『日本経済の構造と行動』筑摩書房)
 ここで、政府が「財閥解体完了」声明を出し、持株会社整理委員会の解散を命じた昭和
26年という年に注目して欲しい。再び表 をご覧頂きたい。政府債務総額は昭和20年
度末から26年度末の間に3.24倍に増加しているが、この間に進行したインフレ−シ
ョンの結果、累積債務は目減りしたから、26年度末残高の実質値は、20年度残高の1
1%の大きさに減少している。内国債だけについてみると6.3%に過ぎない。また、国
民経済にとっての国債の実質 的な大きさを示すものとして、国債残高(内国債と外国債)
を国民所得と比較してみると、昭和19年度の189%から、21年度に48%となり、
以後、この期間に漸減して、26年度末には8.2%となっている。すなわち、政府は戦
後インフレ−ションによって、国民から資産を収奪し、終戦直後に債務処理問題として懸
念された国債の負担問題は、少なくとも国庫の観点からみるかぎり、雲散霧消したのであ
る。
 この戦後インフレ−ションは零細な個人保有層に大きな打撃を与えた。また、国債の大
量保有がインフレ下の金融機関の浮沈の一因をなしたのである。こうして政府債務が国民
の犠牲のもとで無事に処理された後、いよいよ我が財閥が復活したのだ。
 ビッグ・ビジネスは、昭和28−29年の不況を契機にどっと現れる。独占禁止法の改
訂および運用上の緩和によって、不況カルテル、輸出カルテルなどの結成もあり、昭和2
7年には、旧財閥名称が再び使用できるようになった。昭和27年12月、大阪銀行が住
友銀行に改称したのを皮切りに、28年7月、千代田銀行が三菱銀行に改称、29年1月
、帝国銀行が三井銀行に改称した。また、29年5月には旧三菱商事系四社の合併が認め
られ、30年8月には旧三井物産三社が合同に踏み切り、さらに同年9月、丸紅と高島屋
飯田の合併が続く。
 この戦後インフレ−ション政策当時の日銀総裁だったのが、第18代日銀総裁(昭和2
1年6月1日〜昭和29年12月10日)一萬田尚登である。取り合えず、写真 をご覧
頂きたい。机に向かって何やら書類に署名しているのは、サンフランシスコ講和条約の文
書に調印する吉田首相である。吉田茂は牧野伸顕の女婿である。時は昭和26(1951
年)9月8日、この後、吉田は日米安全保障条約にも調印した。吉田の後ろに写っている
のが、一萬田尚登、徳川宗敬、星島二郎、苫米地義三、池田勇人である。
 星島二郎氏は、第一次吉田内閣の商工国務大臣である。また、フリーメーソンでもあっ
た。徳川宗敬は参議院議員であるが、系図9に登場している。長女の美代子が甘露寺家に
嫁いでいるのだ。すなわち、徳川宗敬も岩崎(三菱)一族だったことになる。苫米地義三
は民主党最高委員にして衆議院議員である。苫米地と言うとどうしても、自称デプログラ
マ−(脱洗脳家)の苫米地英人氏を思い出す。しかしこれは苫米地違いであった。だが、
こちらの苫米地氏の父親もただ者ではない。興銀出身の和光証券会長・苫米地和夫である
。苫米地英人氏は元オウム真理教女性幹部のM女史を脱洗脳したことで有名である。彼の
脱洗脳の手法は、何やらアメリカの心理療法家ミルトン・H・エリクソンの影響を受けて
いるらしいが、空から金粉を降らせる幻影を見せたりするのは、どう考えても正統的な心
理療法であるとは思えない。これは明らかに催眠術の一種であろう。英人氏は電車で隣に
座っている人を眠らせたり、初対面の人と握手して相手を眠らせる練習をしていたそうで
ある。結果は、成功である。しかし、たくさん失敗した上での成功であったという。この
話を聞いて筆者が思い出したのが、666の獣アレイスタ−・クロウリ−である。クロウ
リ−は意志の力で他人の行動をコントロ−ル出来たという。英人氏はアメリカのイエ−ル
大学とカ−ネギ−メロン大学に留学しているが、その前は三菱地所に勤務していた。どう
やら三菱にはオカルト人脈が根付いているようである。それにしても、苫米地英人氏の著
書『洗脳原論』のハ−ドカバ−の装丁の中の左目(フリーメーソンのシンボル)と男根(
マッシュル−ム状)は何を意味しているのだろうか。まさか、使い古されたサブリミナル
・メッセ−ジではあるまい。この装丁は、英人氏が代表取締役社長を務めるコグニティブ
・リサ−チ・ラボラトリィズ株式会社が作ったものらしいが。
 話を元に戻す。池田勇人については説明の必要はないだろう。後の首相で国民所得倍増
計画のあの池田勇人である。池田勇人は近藤家を通じて甘露寺家と姻戚関係にある。岩崎
久弥の二女澄子は甘露寺家に嫁いでいる。池田勇人はまた、ブリジストンの石橋家を通じ
て藤山愛一郎と親族である。問題の一萬田尚登であるが、昭和29年12月第一次鳩山内
閣の大蔵大臣に就任し第二次第三次鳩山内閣に留任、昭和32年7月岸内閣の大蔵大臣に
認証されている。ちなみに元首相、鳩山一郎はフリーメーソンである。鳩山一郎のスポン
サ−が石橋一族の石橋正二郎であった。正二郎の長女安子が、鳩山一郎の長男威一郎に嫁
いでいる。
 一萬田尚登の二女朝子は井上五郎長男の琢郎(東京電力勤務)に、三女栄子は井上五郎
三男安城(三菱商事勤務)に嫁いでいる。井上五郎は中部電力相談役、動力炉核燃料開発
事業団理事長を務めている。前にも触れたが、日本の電力会社には戦前に外資が導入され
ている。電力会社はどうも胡散臭いのだ。

 ビッグ・ビジネス時代が開幕した昭和30(1955)年という年は、戦後激動期の体
制が再編成された年であった。第二次鳩山内閣が成立し、保守合同が行われて、自由党と
日本民主党が合同して自由民主党が結成された。これは政界と財界をつなぐ資金ル−トを
、一本の太いパイプに強化して、政界への影響力を不動のものにしておきたかったビッグ
・ビジネスの年来の主張であった。
 また、単独講和か全面講和かで左右に分裂していた社会党が4年ぶりに統一され、いわ
ゆる「55年体制」が作り上げられた。労働戦線でも、民間6単産が賃上げ中心の春闘方
式を始めている。この年には、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が貨物船と衝突して沈没、修学
旅行の小中学生ら168人が死亡するという悲劇が起こっている。森永砒素ミルク中毒事
件が発生し、砂川闘争では労組・学生と警官隊が衝突した。街頭テレビに人が群がり、天
才画家山下清は諸国を放浪していた。そんな時代だった。
 翌31年には、経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表、「もはや戦
後ではない」が流行語になった。昭和31(1956)年の神武景気から、「高度成長期
」が幕を開く。高度成長を主導したものは、重化学工業を中心とする民間設備投資であっ
た。日本経済は昭和31年以降、年率平均10%程度の成長を遂げ、昭和37年には、実
質国民総生産は約倍増、製造工業生産に至っては三倍弱となった。この間の欧米先進国の
実質国民総生産の増加は、アメリカ14.9%、イギリス15.7%、フランス25.2
%に過ぎず、戦後日本と並んで世界経済の三大奇跡とまでいわれた西ドイツ、イタリアで
さえ、仲良く41.6%ずつだった。日本の経済成長がいかに凄まじかった か分かるだろ
う。

 この高度経済成長も、昭和40(1965)年頃から翳りが見え始める。この年の不況
は深刻で、山一証券など証券会社に対する不安が高まり、債権の運用預かりなどに対して
大量の解約が殺到した。このため山一証券の資金繰りは極度に悪化し、倒産の危機に見舞
われそうになった。日本銀行は同年5月、山一証券に対して特別融資を適用することを決
定した。特別融資というのは、日銀が信用恐慌を防ぐため、日本銀行法第25条により、
無担保・無制限の資金を貸し出すことで、この適用は昭和6(1931)年の金融恐慌以
来のことであった。
 かくして昭和40年の不況は、ドッジ・ライン以来の均衡財政主義を崩壊させ、戦後初
の赤字国債(二千億円)が発行されたのである。そしてドッジ・ラインのもう一つの柱で
ある単一為替レ−ト制度(1ドル=360円)も、昭和46(1971)年のスミソニア
ン合意で崩れさった。為替レ−トが16.88%引き上げられて、1ドル=308円にな
ったのだ。
 固定相場制崩壊への序曲は、1967年の国際通貨危機に端を発する。1967年11
月18日、イギリスの通貨ポンドが14.3%切り下げられて、1ポンド=2ドル80セ
ントから2ドル40セントになった。イギリスは、第二次世界大戦後4.03ドルの価値
を持っていたポンドを、わずか18年の間に2回の切下げで2ドル40セントと当初の6
割までに低下させた。
 イギリスは、この平価切下げと同時に合計30億ドル(後に40億ドルに増額)に及ぶ
借款をIMFとその他の国々に要請した。債権国は、そのための条件として公定歩合を8
%という「超危機レ−ト」に引き上げ金融引き締めを行うとともに、9億2300万ポン
ドの増税を行い、国防費から医療費、義務教育費にまで及ぶ広範囲の政府支出の削減(7
億1600万ポンド)を断行し、国際収支の均衡を達成する旨約束させられた。翌196
8年1月16日、イギリス首相は緊縮政策を発表、スエズ以東のイギリス駐留軍の197
1年までの撤退を発表した。これはイギリスが世界戦略から離脱したことを意味する。
 1967年の通貨危機は、ドル不安に発展し、アメリカから金が一挙に流出した。翌1
968年1月1日、アメリカ大統領ジョンソンは特別教書で、合計30億ドルに及ぶドル
防衛政策を発表して国際収支改善を要請した。2月15日に公表された1967年の米国
際収支赤字は35億7000万円で戦後2番目の大きさだった。しかしジョンソンのドル
防衛政策が効力を発揮する前に、アメリカはゴ−ルド・ラッシュに見舞われる。1968
年3月6日から14日までの9日間にロンドンで7億ドル、パリ市場、チュ−リッヒ市場
を合わせると約10億ドルに達する大量の金がアメリカから流出した。3月14日、アメ
リカの公定歩合は5%という40年ぶりの高水準に引き上げられた。
 ジョンソンはホットラインを通して、ウィルソン英首相に3月15日から自由金市場を
閉鎖するよう要請した。ウィルソンはこれを受諾して、3月15日の銀行休日、ロンドン
株式取引所閉鎖、そして自由金市場の閉鎖を決定する。この措置は翌16日(土)まで続
いた。
 3月16日、フランスを除く金プ−ル7ヵ国会議がワシントンで開催され、その結果に
従って3月18日、アメリカは金プ−ルの停止、すなわち金に関する自由価格と政府間取
引に用いられる公定価格の二重価格制の採用に踏み切った。民間向けの、1オンス=35
ドルの相場での金とドルの交換の約束をジョンソンはこの時破棄したのである。しかし、
同時にアメリカ政府は公的金融機関すなわち通貨当局との取引においては従来通り1オン
ス=35ドルの金の売買を続けることを言明した。ジョンソンは3月31日のテレビ放送
で涙を浮かべて、北ベトナム爆撃停止と大統領選不出場を発表し、この通貨危機にアメリ
カ国民が耐え忍ぶことを訴えた。
 そして遂に、IMF(ブレトンウッズ体制)になお残されていた公的金融機関との間の
金・ドル交換も、1971年8月のニクソン・ショックによって断ち切られることになる

 1971年8月15日、アメリカ大統領ニクソンが、テレビを通じて全米に、ドル防衛
策の一環として金・ドル交換の一時停止をはじめとする新経済政策を発表し、世界に大き
なショックを与えた。
 ドル防衛策の内容は、国際的には・ドルと金の一時的な交換の停止・ドルと他国通貨と
の為替レ−トの変更で各国と協議に入る・10%の輸入課徴金制度の導入・海外援助の1
0%の削減、である。
 国内政策としては・賃金・物価を90日間凍結する・連邦支出の47億ドルを削減・1
973年度実施予定の個人所得税減税を1年間繰り上げ実施する、など6項目。
 ニクソンの新経済政策が発表されると、翌16日の東京外国為替市場は、ドル売り円買
いが続き、日銀は史上最高の4億5000万ドルを買い支えた。8月28日、政府は対ド
ルレ−トの変動相場制への移行を行い、それまでの1ドル=360円の固定相場時代にピ
リオドを打った。
 この日、政府は変動相場制移行を暫定的措置とし、円の切り上げ幅などは一切触れなか
ったが、ロンドンの為替市場では1ドル=300〜330円に急騰し、ニューヨーク市場
では一時、取り引きが止まった。同年12月18日、ワシントンのスミソニアン博物館で
2日間にわたって開かれていた10ヵ国蔵相会議で、日本の対ドルレ−トが1ドル=30
8円に決定した。この決定で8月28日から変動相場制に移行していた日本の外国為替市
場は、1ドル=360円から一挙に16.88%もの大幅切り上げが確定、20日から新
レ−トが実施される。
 このスミソニアン体制も1973年には崩壊する。1973年2月12日、アメリカ財
務長官シュルツがドルの10%切り下げ措置(金1オンス=38ドルから42.22ドル
)を発表する。14日、これを受けて日本政府が円の変動相場制移行を決定した。これは
事実上の円レ−ト再切り上げを意味する。
 新たな円の基準相場は、1ドル=277円22銭。1971年12月、ワシントンのス
ミソニアン会議で決められた1ドル=308円(16.88%の円切り上げ)の固定相場
制は、わずか1年2ヵ月で放棄された。この日の円相場は271円22銭だった。前年度
中に64億ドルもの貿易赤字を出したアメリカは、円切上げを必要としたのである。

 先に、ニクソン・ショック後の日本の外為市場は、ヨ−ロッパ各国の外為市場がすべて
閉鎖されている中で、一人6日から27日まで、引き続き開かれ、しかも1ドル=360< br>円レ−トでドルを買い支えたことを述べた。
 「これは明らかに日本政府の大きな政策ミスであり、なぜこのような愚行がまかりとお
ったかは、戦後日本経済史最大の“謎”である」(『日本経済の構造と行動』)
 このため、わずか10日間ほどの間に約46億ドルもの外貨が一挙に日本に流入し、円
との交換を要求したのである。何故か。円レ−トが切り上がれば、ドル貨を一度円貨にか
えて、再びドル貨に転換するだけで、ドル勘定において多額の差益を生むからである。
 この時の日銀総裁だったのが、第22代日銀総裁(昭和44年12月17日から昭和4
9年12月16日)佐々木直である。系図13を見て欲しい。佐々木直の長男は氏家家か
ら嫁を貰っているが、氏家家は石川家と姻戚関係にあり、石川家は鹿島建設の鹿島家と、
鹿島家はベンツの梁瀬家と姻戚関係にある。ヤナセ自動車の元社長、梁瀬長太郎はフリー
メーソンである。この系図にはまた、フリーメーソンの下条康麿の名も見える。するとこ
の日本への外資の大量流入は、やはりフリーメーソンの陰謀だったことになりはしないだ
ろうか。

 この外資の大量流入が、土地と株式のバブルを生んだのである。昭和46(1971)
年になって、日銀海外資産が3.68兆円も急増した。これは、ほぼ100億ドル以上の
外貨の急増に見合うものだ。ニクソン・ショック後の日本経済は、そのマネ−・サプライ
を外貨増大分だけ一挙に膨張させて、国内の資金をダブつかせた。しかもこの過剰な資金
は大部分日銀から直接企業の手に入ったものだ。何故なら、外貨を入手し、それを円レ−
トの切上げがある前に円貨と交換すべく迫ったのが商社およびメ−カ−であり、また、商
社および輸出メ−カ−は、円レ−トの引き上げを見込んで、積極的に輸出代金の先取り(
リ−ズ)の形式で、大量のドルを国内に持ち込んだからである。
 昭和46年度の日本経済は不況であった。実質成長率は5.8%で、昭和40(196
5)年以来の低さであった。過剰な手許現金を入手した企業と商社は、この不況下で設備
投資意欲はわかない。そこで、次に銀行からの借入金の返済を考えたが、取引銀行の圧力
が強くて、その抵抗を押してまで返済することは出来ず、取り合えず銀行預金にした。借
金の返済に向けられなかった企業や商社の預金の増加分は、ほとんど法人による土地買い
および株式買いの資金に向けられた。
 当時、政府は不況対策のため、金利を引き下げ財政を拡大したが、企業の設備投資は増
加せず、むしろ株価引き上げのきっかけを作ってしまった。
 この法人の株式買いは、不況下にもかかわらず、株式市場を活発化させた。昭和47年
2月末に東証ダウ3000円突破、途中ポンド・ショックで暴落したが、8月には400
0円台に上昇し、12月に5000円台の大台に乗せた。これは、ダウ式平均株価の高さ
そのものにおいて新記録であるばかりか、上昇幅、上昇率においても証券市場空前の画期
的な大記録といわれている。
 土地も値上がりした。昭和47(1972)年6月11日、通産大臣の田中角栄が『日
本列島改造論』を発表すると、この前後から地価が急騰しはじめた。昭和46年度の年間
地価上昇率は12.8%であったが、47年4月から9月までの半年間だけで8.4%の
上昇率を示した。同じ半年間の六大都市の地価上昇率も、10.3%を記録している。そ
れは、46年10月から47年3月までの半年間が6%であったことから明らかなように
、急騰は4月以降生じたものといえる。
 『日本列島改造論』に触発されて、土地買いに走ったのは、不動産業者、私鉄、建設会
社をはじめ繊維、銀行、保険、非鉄金属などあらゆる業種の企業に及んだが、とりわけす
さまじかったのは商社の土地買いであった。
 『日本列島改造論』は、昭和60(1985)年に日本のGNPの水準を304兆円(
1ドル=308円レ−トで換算すると約1兆ドル)に高めることを目標として、基幹資源
産業(コンビナ−ト)を北東地域(苫小牧東部、むつ小川原町、秋田湾など)と西南地域
(周防灘、山口、福岡、大分、志布志湾など)に、造船重機械流通加工型コンビナ−トを
臨海地域(橘湾、宿毛湾、金武湾など)に、そして内陸型工業を農村地帯に配置して、「
過密・過疎の同時解消」を企図したものである。
 この書物は、その中に指定された地域の土地は、今買い占めても将来値上がりすること
確実であるという安心感を企業に植え付けた。日本の会社は一丸となって、不動産業に手
を着けた。田中角栄は財界の支持を受けて総理となり、『日本列島改造論』は、日本列島
の土地の先物買いのバイブルとして、ベストセラ−になった。
 この土地、株式、商品等の投機利益が企業の利潤として蓄積されて、その後の日本企業
の海外投資の源泉となったのである。大蔵省発表の海外直接投資許可実績は、昭和43年
度が5.57億ドル、44年度が6.67億ドル、45年度が9.13億ドル、ニクソン
・ショックの年の46年度には減少して8.58億ドル、47年度にいたって突然、23
.38億ドルという高水準を示した。
 昭和47年に海外直接投資が急増するにいたったのは、円レ−トの大幅切上げによって
日本企業の輸出価格競争力が急速に低下したことが決定的要因であった。
 「価格が安いうえに品質が良いという評判で世界市場で売りまくってきた日本の家庭電
器メ−カ−も円レ−トの切上げを契機に本格的な海外直接投資に踏みきったようである。
たとえば東京芝浦電気は、従来、川崎・小向工場で生産していた白黒テレビを48年末ま
でに打ち切り、韓国テレビ(出資比率、日本側80%、韓国側20%)に全面的に移す方
針を決定した。これは、単に韓国の国内市場向けの小規模なものではなく、白黒テレビで
は世界最大の能力を持ち、そこから日本を含む世界の市場へ向けて輸出する基地となるべ
き工場である。
 また、国際事業本部を本社機構に設置した日立製作所は、シンガポ−ルに家庭電器の大
規模な輸出拠点となる『日立コンシュ−マ−・プロダクツ・シンガポ−ル』の設立を急ぎ
、テレビ、ラジオ、テ−プレコ−ダ−、部品等の量産を開始する計画を進めていた。
 円切上げ後のこのあわただしい動きは、ひとり家庭電器メ−カ−にとどまらない。自動
車メ−カ−も、繊維メ−カ−も、同じ情勢を反映して現地生産への動きが活発であった」
(『日本経済の構造と行動』)
 この日本企業の海外進出を側面支援したのが、公害事件であった。1960年代に始ま
る高度経済成長は、数多くの公害事件を引き起こした。公害は日本の法律が予定しなか っ
た事態であり、被害者の救済、加害者の処罰、事件発生の抑止など、いずれをとっても十
分な対応がなされなかった。そこで健康被害を受けた住民たちは、全国各地で続々と損害
賠償請求訴訟に踏み切り、1967年6月新潟水俣病訴訟、同年9月四日市公害訴訟、1
968年3月イタイイタイ病訴訟、1969年6月水俣病民事訴訟、といった大規模な民
事裁判が提訴された。これらの訴訟は、四大公害裁判と呼ばれた。なお、裁判の結果は、
いずれも原告勝訴に終わっている。
 日本企業は、世論の高まりを見せた公害防止の要求に応えてそのための研究開発投資を
実行する途を閉ざして、そのつけを東南アジア諸国を始めとする第三世界に負わせたので
ある。この醜い企業エゴが東南アジアの反発を招かないわけはない。1974年1月7日
、田中首相が東南アジア5ヵ国歴訪に出発したが、1月9日、田中はタイの首都バンコク
で、「経済侵略反対」「タナカ、カエレ」と叫ぶ学生らの激しい反日デモに迎えられた。

 日本商品がタイの総輸入の半分近くを占め、対日赤字が毎年2億ドル(約580億円)
にものぼる日本の対タイ経済政策に、学生たちは激しく反発。約5000人のデモ隊は首
相一行の宿舎前に押しかけ、田中の似顔絵や日本車の模型を次々に焼いた。田中は、この
後16日までシンガポ−ル、マレ−シア、インドネシアを歴訪するが、各地で反日デモに
見舞われる。インドネシアのジャカルタでは、1万人のデモ隊が暴動化し、日本大使館の
国旗が引きずり降ろされ、日本車など200台以上が焼かれる騒ぎとなる。
 日本企業の海外進出は、日本側にとってもマイナス面が大きい。それは産業の空洞化を
招くことになるからである。ところでこの日本企業のアジア侵略は、1974年から75
年にかけて日本国内で奇怪なテロ事件を引き起こした。東アジア反日武装戦線による連続
企業爆破事件である。昭和49(1974)年8月30日昼過ぎ、東京・丸の内ビル街の
三菱重工本社で、予告電話の直後、強力な時限爆弾が玄関前で爆発、社員、通行人など8
人が死亡、重軽傷者385人にのぼる大惨事になった。東アジア反日武装戦線はその後も
次々に企業爆破を続けていく。彼らによって攻撃された企業名は以下の通りである。
 三菱重工、三井物産、帝人中央研究所、大成建設、鹿島建設、間組、間組大宮工場、韓
国産業経済研究所、尼崎オリエンタルメタル、間組江戸川作業所、横河工事会社京成江戸
川作業所である。これらの企業はアジア侵略に怒り狂う左翼集団の鉄槌を浴びたのだ、と
いうのは月並みな解釈である。事実はそれとは正反対なのである。考えてみて欲しい。こ
の一連の企業爆破によって、企業側は実質的には何の損失も被ってはいないのだ。このテ
ロ行為によって、悪徳企業の営業活動が阻害されたわけではない。むしろ世間の同情を集
め、企業批判を沈静化させる役割を果たしてしまったと考えられる。得をしたのは企業な
のだ。犯罪学の法則として、当の犯罪から利益を得たものが犯人であるというものがある
。すなわちこれらの企業爆破は、攻撃された当の企業がかげで手を引いていたことになる
。彼らが犯罪者を雇ったのだ。攻撃された企業の一つ、鹿島建設はフリーメーソン企業で
ある。鹿島守之助(鹿島組会長)はフリーメーソンに十分な理解があり、『鹿島平和研究
所』を創設、“パン・アジア”運動や世界連邦運動で有名である。

 1971年のニクソン・ショックは、日本国内だけでなく世界的なインフレ−ションを
招いた。ニクソン・ショックは単に金・ドル交換停止に止まるものではなく、その後大量
のドルを散布することになったからである。先進六ヵ国政府保有の金・外貨準備高の動き
を示すと、アメリカとイタリアを除く四ヵ国(西ドイツ、日本、フランス、イギリス)政
府の金・外貨準備高が、ニクソン・ショック後急上昇している。これは大量のドル撒布が
行われたことを意味する。
 先進工業六ヵ国の金・外貨準備高は、ニクソン・ショック後わずか2年間で391億ド
ルも急増し、その内約360億ドル程度が主としてドルの流出による国際流動性の激増だ
った。これは、マルク買い、円買い等の激しい通貨投機による部分が少なくなかった。投
機筋はアメリカ系多国籍企業だった。アメリカ系多国籍企業の所有する短期資産額(19
71年)は1896億ドルに及び、当時先進工業六ヵ国政府が所有していた金・外貨準備
高(483.81億ドル)の3.9倍にも達していた。多国籍企業が自らの資産のごく一
部を一国通貨から他国通貨に変えただけで通貨危機を引き起こした。
 このドルの大量撒布により、ロンドン金自由市場においては、金価格がニクソン・ショ
ック以後急速に上昇した。1970年末、1オンス=37.375ドルであった金価格は
、2年7ヵ月後の1973年7月現在で115.60ドルに急騰した。実に3倍強であっ
た。
 金価格急騰の原因は、ドルの大量撒布がユ−ロ・ダラ−市場及びアジア・ダラ−市場に
資金供給量の増大をもたらし、金利低下の圧力となったからである。このような状況のも
とで、ドル建預金保有者の目が自由金市場へ向き、金投機を誘発したのである。
 10年以上の長期間にわたって低落ないし低迷を続けてきた国際原料品価格(第一次産
品価格)も、ニクソン・ショック後急テンポに上昇を続けた。これは国際通貨の変動に伴
う投機買い、ないしヘッジ買いの激化による。
 そして、ニクソン・ショックによる世界的インフレ−ションに追い打ちをかけたのが、
オイル・ショックであった。1973年10月6日、スエズ・シリア両戦線で、エジプト
軍とシリア軍がほぼ同時に、イスラエルに攻撃を開始、1967年6月の第三次中東戦争
以来の大規模な戦闘が勃発した。
 この日は、ユダヤ教徒にとって最も重要なヨム・キプ−ル(浄めの儀式の日)にあたり
、イスラエルは国をあげての休日だった。このため、イスラエル側は虚をつかれる形とな
った。しかし、翌7日、イスラエルは予備役を大量動員して巻き返しを図る。9日にはダ
マスカス、レバノンを爆撃、シリア戦線では制空権を握り、ゴラン高原の戦車戦でもシリ
ア軍を圧倒して、攻勢に転じる。
 エジプト・シリアを支持して8ヵ国が参戦するが、アメリカの武器供与もあって戦局は
イスラエル有利のまま進展。16日には、アラブ側が停戦を申し入れるが、イスラエルは
拒否する。これに対し、アラブ側は17日西側諸国に対する石油戦略を発表、石油危機の
引き金となった。
 10月17日、石油輸出国機構(OPEC)加盟のペルシア湾岸6ヵ国が、原油の公示
価格を1バレ ル(約159リットル)あたり3ドル65セント(半月前までは3ドル1セ
ント)に引き上げると発表した。また、同じくこの日クウェ−トで開かれたアラブ石油輸
出国機構(OAPEC)10ヵ国の閣僚会議では、10月の石油生産を5%削減すると発
表した。
 これにともない、サウジアラビアの国営石油会社ペトロミンは、24日、日本に対して
原油価格を70%引き上げると通告。同日、国際石油資本(メジャ−)のガルフ、フラン
ス石油も、23日のエクソン、シェルに続いて積み出し価格の30%値上げを通告。25
日にはメジャ−5社とペトロミン、ユニオンオイルなどが10%の供給削減を一斉に通知
、第一次石油危機に突入する。
 石油ショックにより、1974年、75年と世界的に不況になった。インフレ−ション
のさなかに不況が同時発生することを、「スタグフレ−ション」という。普通、インフレ
−ションと不況とは、トレ−ド・オフの関係にあるといわれる。物価上昇率の高い年には
経済の繁栄があり、失業率は低く、失業率の高い年には物価上昇率は低く、物価上昇率と
失業率との間には互いに相反する方向への動き、すなわち「トレ−ド・オフ」の関係があ
ることが明らかにされている。では、世界的規模において激しいインフレ−ションの中で
不況が同時発生しているこの現実は、どのように説明されるのであろうか。
 それは、実質個人消費支出の急速な減退による。あまりにも激しい消費者物価の上昇に
よって、個人は強制的に消費削減を余儀なくされたのである。低所得者ほど生活必需品の
大幅価格上昇の影響を強く受け、その購入のために貯蓄を引き出してもなお手一杯であっ
た。かくて激しいインフレ−ションは、年金生活者、母子家庭、福祉施設、低賃金所得者
等いわゆる「インフレ弱者」を容赦なく痛めつけ、無慈悲に彼らの実質消費を奪い取って
いった。インフレによって収奪され、不況のため失業率は高くなり労働者の立場は弱くな
る、社会的弱者にとっては正にダブル・パンチであった。
 第一次石油ショック直後(1973−74年)には、インフレ−ションと経常収支危機
に対応して先進工業諸国はいずれも財政と金融を引き締めたが、75年頃から不況の深刻
化に対応して金融を緩和し、公定歩合を引き下げ、西ドイツ、アメリカなどを中心に減税
、公共投資計画等の財政刺激政策を採用し、そのために大幅な赤字財政をも辞さなかった
。1975年以降、主要先進工業国の公定歩合がかなりの程度引き下げられ、財政赤字比
率が急上昇した。
 しかし、これらの財政刺激政策は有効ではなかった。インフレを加速し、経常収支の赤
字を拡大するばかりで、失業率の減少にはあまり効果を発揮しなかった。これらの財政刺
激政策の帰結は、通貨危機の発生であった。赤字国債発行による財政政策は、輸入超過、
国際収支の逆調を伴う。国内有効需要の増大が輸入を促進し、国内物価の上昇が輸出を抑
制するからである。
 1976年6月、英ポンド救済のため日・米など9ヵ国がイングランド銀行に52億ド
ルを緊急融資することで合意した。1978年11月、ドル防衛の要請(1ドル=180
円レ−トの堅持)。ドル防衛の要請に先立って当時のカ−タ−大統領は、78年10月2
4日付けでインフレ対策の強化と内需抑制策を発表している。
 この頃から次第に、トリレンマ(失業、経常収支赤字、インフレ−ションの同時発生と
いう三重苦)のもとでは、国家による財政刺激政策は重い負担の割りには効果が薄いとい
う認識が定着していく。やがて主要先進工業国の政権担当者自身の口から、国家財政の破
綻が公言されるようになる。
 レ−ガンは、1981年大統領就任直後(2月5日午後9時)のテレビ放送の中で、「
こんなことを私の口からいいたくないが、アメリカの経済状態は(1930年代の)大恐
慌以来、最悪である。われわれはこの真実に直面し、事態を認めねばならない」と危機感
を強調した。その上でレ−ガン大統領は、当時アメリカが直面していた経済的困難を4つ
指摘した。
 ・インフレ−ション。アメリカの物価上昇率は、1960年代の初めまで1−1.5%
程度であった。しかしこの2年間(79−80年)のそれは年平均13%に達している。

 ・失業。アメリカの失業者数は、1980年当時、780万人から800万人に及び、
一列に並べると東海岸からカリフォルニアに達する長さである。
 ・生産性低下。アメリカの労働生産性は、1948−68年の20年間、年率3.2%
で上昇を続けたが、68−73年の5年間の上昇率は、年率1.9%に鈍化し、73−7
8年の5年間の上昇率は、年率0.7%まで低下し、それ以降の伸び率はマイナスに転じ
、1980年現在のそれはマイナス0.6%を示すに至っている。単に労働生産性の量的
側面のみならず、労働意欲の低下、労働の質の低下も無視することはできない。
 ・財政欠陥。アメリカの財政赤字は1980年、800億ドルに達し、それは1957
年の年間歳出額全体よりも巨額である。
 1981年2月28日発表の「アメリカの再出発−経済回復のためのプログラム」の中
で、レ−ガンはいわゆる「レ−ガノミックス」を展開した。レ−ガンは何よりもアメリカ
経済低迷の最大原因を政府部門の肥大化にあるとした。そして1984年までに財政の均
衡を達成するために、次の4つの政策を提言した。・連邦支出伸び率の抑制、・大幅減税
、・連邦政府諸規制の緩和、・適切な金融政策(マネ−・サプライの増加率を実質成長率
以下に抑制する金融政策、マネタリズムの厳守)。
 
 このような酷い不況は、アメリカのみならず、西ドイツ、イギリス、フランス、イタリ
アそして日本も例外ではなかった。1973−82年の約10年間に、主要先進国におい
ては、二回の景気下降局面と、一度の景気回復局面が発見できる。第一次石油ショック後
の下降局面と第二次石油ショック後の下降局面の間に景気回復局面が見られ、1978−
79年頃ピ−クを描き出しているが、好況感が浸透するのに必要なだけ十分な期間継続し
ないまま、突如イラン革命後の第二次石油ショックによって切断され、束の間の回復に止
まったのだ。
 では不況対策の「レ−ガノミックス」の帰結はどうだったのだろうか。強力なインフレ
対策と財政赤字を主因とする資金不足(クラウディング・アウト)は高金利をもたらし、
外国資金のアメリカへの流入を誘引したが、それは外貨によるドル需要をもたらし、ドル
高を必然化した。ドル高はアメリカの国際競争力を著しく低下させることを意味し、19
82年から経常収 支の大幅赤字をもたらした。それがまた外国資金の流入、したがって対
外債務の増大となり、1983年より対外純資産を激減させ、1985年、ついに対外純
債務国に移行せざるを得なくなったのである。アメリカの財政赤字は外国、すなわち日本
からの資金流入によって賄われた。
 アメリカの対外資産・負債残高は、1915年にはじめて資産が負債を超過してから、
一貫して純資産残高を続け、1982年には、1470億ドルの最高額を記録している。
しかし、それ以降、経常収支の大幅赤字基調のため、急速に減少し、資産超過額は、19
84年末ついにわずか282億ドルに過ぎなくなり、1985年の1177億ドルと史上
最高を記録する経常収支の赤字によって、71年間持続した資産超過の状態は崩され、一
挙に約1000億ドルもの純債務国に転落したのだ。
 一方、日本の1984年の対外純資産残高は743億ドルであり、282億ドルのアメ
リカを抜いている。日本がイギリスを抜き、世界最大の純債権国になったのは1987年
末のことである。日本が世界一の金持ち国になった!「ジャパン・アズ・ナンバ−・ワン
」だ。
 第二次石油ショック後、産業構造の転換が進んだ日本は輸入資源の量が伸びなくなって
、輸出だけが伸びるという形になった。そのため1983年からは猛烈に貿易黒字が増え
だし、1985年秋からの円高問題につながった。1983年以降の日本の輸出額の増大
は、主としてアメリカ向けであったからである。
 1985年1月21日(月)、レ−ガンは二期目の大統領就任の式典を挙行した後、重
要な人事を敢行した。ドナルド・リ−ガンを財務長官から大統領首席補佐官のポストに移
し、財務長官の後釜には、その時まで大統領首席補佐官であったジェ−ムズ・ベ−カ−が
就任した。ドナルド・リ−ガン前財務長官は、一貫してドル高、高金利をアメリカ経済の
強さを示すバロメ−タ−と理解していた。彼はメリル・リンチ社の会長ポストに就いてい
た1971年から85年までの15年間に、メリル・リンチ社の収益を350%近く高め
るのに貢献したといわれている。財務長官としての彼の判断では、株高が企業の好成績を
示すように、ドル高は世界経済におけるドルへの信認の強さを示し、また高金利は、アメ
リカにおける予想投資収益率の高さの反映であって、いずれも、強いアメリカ経済のシン
ボルにほかならなかった。
 ところが新財務長官に就任したジェ−ムズ・ベ−カ−(ベ−カ−・ロヴェット・オフィ
ス創立者の孫)は、円高・ドル安誘導を考えていた。1985年9月22日(日)、ニュ
ーヨークのプラザホテル2階「ホワイト・アンド・ゴ−ルドの間」において、米、英、仏
、西ドイツそして日本の5ヵ国の蔵相と中央銀行総裁合計10名が緊急に集まり、G5が
開催された。これがその後2年余り続いた円高・ドル安誘導のための協調介入の開幕とな
った。
 G5の合意(プラザ合意)に基づき、欧米諸国は減税を中心とする税制改革、金融の弾
力的運用などによって内需の拡大努力を実施することになった。一方日本は、住宅問題に
焦点を合わせ、宅地開発の規制の緩和、地方自治体による公共投資、金利引き下げなどの
手段で、内需拡大を実施する意向を示した。
 先進主要国が為替市場への積極的な協調介入に踏み切るのは、1978年11月のアメ
リカドル防衛以来7年ぶりのことだった。G5の合意を受け、翌23日の各国の外国為替
市場はどこもドル売り一色となり、1日で4−5%と世界金融史上空前のドル急落を記録
した。
 東京外国為替市場の円相場は、1985年9月20日には1ドル=242円00銭であ
り、1987年10月19日ブラック・マンデ−には、1ドル=141円35銭であった
。2年1ヵ月間で1ドル当たり100円65銭の円高・ドル安となり、変化率は71.2
%にも達した。恐るべきスピ−ドで円高が進んだことになる。そして1987年12月に
は1ドル=130円に突入し、遂に1988年1月4日には1ドル=121円65銭まで
切り上がった。
 G5の直後、主要先進国の中央銀行はドル売り・円買いの協調介入に率先して踏み出し
た。ニューヨーク連銀の発表によると、G5以後10月末までのドル売り介入額は合計3
1億9900万ドルであった。この期間、日銀のドル売り・円買い介入の規模は30億ド
ル以上。G5のうち、その他(西ドイツ、イギリス、フランス)の介入額合計30億ドル
、G10加盟国(そのうちG5加盟国を除く)の介入額はほぼ20億ドル以上。したがっ
て、この時期合計112億ドル以上の規模のドル売り協調介入が実施されたことになる。

 ところが、円相場が1ドル=180円を突破し、さらに175円を越えて円高が進んだ
1986年3月18日、日銀は、今までの市場介入(ドル売り・円買い介入)を突然逆転
させて、ニューヨーク市場でドル買い・円売り介入(逆介入)に踏み切った。東京市場で
はじめて逆介入(ドル買い・円売り介入)を実施したのは4月1日のことであった。そし
て、このような日銀によるドル買い・円売り介入は、1988年1月頃まで断続的に実施
された。
 ドル買い・円売り介入は、国内のマネ−サプライの増加となった。これが低い金利と相
まって、株式投機や土地投機を誘発した。日銀が1987年3月31日発表した「198
6年資金需給実績」(速報)によると、財政資金のなかで、外国為替資金特別会計の支払
い超過分が4兆3510億円に達したが、日銀の外為市場におけるドル買い介入資金がほ
とんどだった。この4兆3510億円の円資金の流出は、マネ−サプライを約1.4%分
上昇させた勘定になる。このような激しいマネ−サプライは、もっぱら土地投機・株式投
機(その一部は海外証券投資となりアメリカ市場向け株式・債券購入)に向けられた。
 1987年1月21日国税庁から発表された最高路線価は、47都道府県庁所在地の平
均で対前年19.6%の上昇を示した。それは前年(1986年)の引き上げ率(9.1
%)の2倍に達し、『日本列島改造論』ブ−ムによって地価が高騰した1972−73年
以来の高い伸びを示した。“狂乱地価”と呼ばれた地価上昇率、1971年(28%)、
72年(24%)、73年(20%)に迫る暴騰となった。当時の地価上昇は全国的であ
ったが、1986年以降のそれは、大都市の繁華街で高騰し(例えば東京・銀座では年間
79.2%の上昇)、他方、中小都市においては比較的安定していて、極端な二極分化現
象が現れた。これは、大企業の投機熱や、地上げ屋の横行によるものであろう。最高路 線
価の対前年上昇率はその後も顕著で、1988年23.7%、89年28.0%、そして
90年28.7%と“狂乱地価”を超えている。
 株も暴騰した。1989年12月29日の大納会で、東証一部平均株価終値が史上最高
の3万8915円87銭を記録した。そしてバブルが弾けた。プラザ合意以降の日銀によ
る大量ドル買い介入と、公定歩合の度重なる引下げなど積極的な金融緩和措置は、バブル
形成にあたって資金面の条件を用意した。これはニクソン・ショック直後の政策ミスと軌
を一にする重大な失敗である。当時の日銀総裁は第25代日銀総裁(昭和59年12月1
7日から平成元年12月16日)澄田智である。澄田は、金融制度調査会会長の就任にあ
たって記者会見を行い、「日銀総裁時代の金融緩和が金融不祥事の一因になった点につい
て、『円高不況、黒字の急拡大などから金融緩和はやむをえないことだったが、金融機関
に節度ある融資を強く要請しなかったことについて反省している』と率直に語っている。
公定歩合は1985年末当時の5.0%から、87年2月の2.5%へ向かって、段階的
に引き下げられている。
 この澄田一族はなかなか面白い経歴を持っている。日銀総裁・澄田智はベルギ−、フラ
ンスなどの大使館で一等書記官を務め、大蔵省でNo.1の事務次官まで昇進したあと、
輸出入銀行の総裁になり、84年12月から日銀の総裁に就任している。澄田智の父親は
、らい四郎といい、群馬県の陸軍中将だった。日本が中国大陸を侵略した時、北支那方面
軍の第一軍で司令官を務め、満州の利権を終戦時まで支配した重罪戦争犯罪人であった。

 らい四郎が、中国現地で最も頻繁に交流したのが、河本大作であった。河本は満鉄が設
立された時からその理事に就任し、大陸にある石炭、金属などの鉱山利権を動かした男で
ある。張作霖爆殺事件の首謀者でもある。
 澄田らい四郎は、インドシナに赴任する前には、フランスの駐在武官を務めていた。そ
こで生まれた澄田機関が、今日の日銀総裁・澄田智(父親と同じくフランス大使館での初
期キャリアを持つ)に引き継がれ、霞が関の天下り人事を支配してきた。澄田らい四郎は
、インドシナ半島にいた時代から、現地の日本人将校に「あれは日本の将校ではなく、フ
ランスの将校だ」とささやかれたばかりでなく、実際にもフランスを中心に活動する不思
議な存在であったという。らい四郎の息子、澄田智は1990年に日銀総裁からラザ−ル
・フレ−ルの顧問になった。
 興味深いのは、澄田智の出身地(群馬県吾妻郡)が故小渕恵三元首相の出身地と同じで
あることだ。群馬県吾妻郡には闇のオカルト人脈が根付いているのであろうか。

 バブル崩壊に話を戻す。日本の株式市場は、1989年12月29日、東証一部平均株
価終値が史上最高の3万8915円87銭を記録して以来、1年間に大きくみて2回、大
幅の株式低落を経験している。第一回の谷は、1990年4月2日の2万8002円7銭
で、89年末のピ−クから28.05%の低落であり、第二回の谷は、1990年10月
1日の2万221円86銭で、7月17日のピ−ク(3万3172円28銭)より39.
1%の低下である。この日、株価は2万円の大台を割り込み、1万9990円51銭と対
前年末49%もの大暴落を記録し、これによって東京株式市場時価総額は実に270兆円
以上も消滅した計算になる。
 この株価暴落の引き金は、日本の証券業者による「大量売り」であるより、裁定取引に
習熟していた外資系証券業者による大量の「現物売り」による裁定取引の解消であった。
「1990年9月中間決算」によると、日本の証券会社は、四大証券をはじめ激しい減益
を示しているのに、ひとりソロモン・ブラザ−ズ・アジアは、対前期比39%増にあたる
50億1000万円の経常利益を上げているのだ。株価暴落は、外資系証券業者によって
仕組まれた謀略だったのである。そして外資系証券業者によるバブル崩壊を側面支援した
のが、日銀・大蔵当局であった。
 「この平成バブル景気が公定歩合2.5%によって作られたことは明らかであるが、日
銀・大蔵当局は次にバブル崩壊を企む。
 世の中が好景気に踊っている頃、早くもその仕掛けは発動されている。1989年5月
31日、日銀は公定歩合をいきなり0.75%引き上げ『急速冷凍』に入る。その後も公
定歩合は段階的に引き上げられ、同年10月11日には3.75%に、12月25日には
4.25%、そして明けて90年3月20日に5.25%、8月30日にはついに6%へ
と引き上げられ、バブル崩壊の仕掛けは完成した。
 これに海外からの支援が加わる。88年6月にはBIS規制合意、90年8月は湾岸戦
争勃発と日本経済崩壊のシナリオは見事なまでに内外の『関係者』たちによって『国際協
調』され実行された」(ヤコブ・モルガン著『続最後の強敵日本を撃て』第一企画出版)

 このように公定歩合が引き上げられたのは、石油ショック後1980年3月以来実に9
年2ヵ月ぶりのことであった。10月11日の引き上げ後わずか2ヵ月半の12月25日
に0.5%切り上げたのは、三重野日銀総裁に代わって間もなくのことであった。
 BIS(国際決済銀行)規制というのは、1988年7月11日、日本を含む加盟12
ヵ国の中央銀行総裁会議において、国際業務を行う銀行を対象に、それぞれの自己資本比
率を「1991年3月末以降は、7.25%、93年3月までに8%以上とする」と決定
した国際統一基準のことである。BISの自己資本比率8%規制というのは、たとえば、
ある銀行が新しく100億円の貸出増を計画しようとすれば、8億円の自己資本の増加を
準備する必要がある、ということを意味している。バブル崩壊後、自己資本の増大強化が
困難になったので、BIS規制の要請に応えて自己資本比率を維持するためには、都市銀
行は民間向け貸付金の圧縮を余儀なくされるに至った。公定歩合を引き下げても、マネ−
サプライが伸びないのはこのためなのだ。公定歩合の引下げは銀行にとって調達コストの
低下をもたらすが、銀行が不良債権を抱えている場合には、それを償却するため貸出金利
を低下させず、銀行は貸出金利と調達金利のギャップを拡大させ、業務純益の拡大を図る
傾向がある。その結果、マネ−サプライは低下する。
 一方の企業はエクイティ・ファイナンスのつけで設備投資を抑制せざるを得ず、個人消
費はこれまた減退した。これでは、いくら金融を緩和しても景気が回復するわけがない。
そして日本企業の経営危機につけこんで行われたのが、外資による日本企業乗っ取り であ
った。バブルの発生もその崩壊もすべて、国際金融財閥によって予め仕組まれた謀略だっ
たのである。この謀略に国内で手を貸したのが、日銀・大蔵当局であったのだ。

 最後に石油ショック以後の日本経済の問題点を三つ指摘して、終わりとしたい。第一は
為替問題である。石油ショック後、世界経済を動かす力は、財とサ−ビスの貿易ではなく
、資本の移動に変わった。為替レ−トを動かす力が、モノの貿易から貨幣の流れに変わっ
たのである。
 ニューヨーク連銀(連邦準備銀行)からの呼びかけで、1986年3月現在、はじめて
日・米・英の中央銀行が同時に調査した外国為替市場の一日当たりの取引高は、東京48
0億ドル、ニューヨーク585億ドル、ロンドン900億ドル、三市場合計で1965億
ドルであって、年間49兆ドル強、モノとサ−ビスの世界貿易金額の16倍以上にものぼ
っている。ロンドンのユ−ロダラ−(アメリカ国外に保有されているアメリカ・ドル)市
場の取扱い金額は、営業日一日当たり3000億ドルを超え、年間では75兆ドルに達し
ている。優に世界貿易額の25倍に及ぶ巨額である。このことは、ジョ−ジ・ソロスのよ
うな通貨トレ−ダ−が、どんな国の通貨でも意のままに上下させることが出来ることを意
味している。
 例えば、1997年夏に始まったアジア通貨暴落は、通貨マフィアのアジア経済破壊の
ために引き起こされた人災であった。彼らはマレ−シアの通貨リンギットを60%下落さ
せ、同時にインドネシアのルピアを一時的に600%も下落させた。そしてIMFは資金
提供の条件として、これらの国々に金融引き締め政策を行うよう迫ったのである。この世
界支配層の脅迫にアジアで、いな世界で唯一逆らったのが、マレ−シアのマハティ−ル首
相であった。マハティ−ルは、厳しい通貨管理、マレ−シア株式取引の国内化、固定為替
レ−トを宣言することによって、グロ−バリゼ−ションの“ゲ−ムのル−ル”をひっくり
返したのだ。その代償としてマハティ−ルが支払ったのが、マレ−シアの養豚産業の潰滅
的打撃だった。1998年秋から、マレ−シア国内で新型ウイルスが伝染し、百人を超え
る死者を出したのだ。このウイルスは豚から感染したといわれる。マレ−シアは豚を急遽
大量屠殺処分しなければならなくなった。これはマレ−シアに対する、秘密の細菌兵器攻
撃である。それにしてもマハティ−ルは偉大だった。何故なら世界を相手に闘っているか
らだ。
 日本経済の第二の問題点は、産業の空洞化である。1985年プラザ合意以降の円高に
よって、日本企業の海外進出は拍車をかけられた。鉄鋼、自動車、半導体、民生用電子機
器などの輸出依存型基幹産業が不振に見舞われ、その対策の一環として海外での現地生産
が強化された。日本の製品輸入比率(輸入に占める製品輸入の割合)も年々増加している
。イギリスやアメリカの轍を踏んで、将来は日本もまた金を動かすだけの輸入超過国に変
貌してしまうことだろう。
 第三の問題点は、財政赤字である。石油ショック以降、特に昭和50(1975)年以
降の不況期には、赤字財政政策が積極的に打ち出され、巨額の赤字国債が年々継続的に発
行されるようになった。50年度には5.3兆円、そしてそれ以降年々平均2兆円程度を
上積みして、昭和55(1980)年度には遂に史上最高の発行高14.2兆円を示すに
至った。また、国債依存度も、昭和49年度までは11.3%程度に止まっていたが、昭
和50年になると一挙に25.3%に上昇し、52年度には過去最高の34.7%にも達
した。
 バブル景気の最中には赤字国債の発行は中断したが、バブル崩壊後は、景気対策のため
の歳出増加と不況による税収不足から再び赤字国債が発行されるようになった。公債残高
の累積も増加し、1998年末には270兆円以上となった。日本の人口を1億人として
計算すると、これは国民一人当たり270万円の負担になる。人ごとではない。借金なの
である。誰が代わりに払ってくれるものでもない。日本国民全員が負担しなければならな
いのだ。だが、あなたは家族の分も含めて(1家族=4人とする)、1000万以上のお
金を国の借金返済のために払いますか?誰もそんな奇特なことはしないだろう。では政府
は支払い猶予(モラトリアム)を宣言することになるのだろうか。その答えもNOである
。そんなことをすれば、日本銀行券は紙屑になってしまう。何故なら、お金の価値という
ものは幻想によって支えられているからである。幻想を信用と言い換えてもよい。一度信
用が失われてしまえば、お金の価値は無になる。不換紙幣を銀行に持っていっても、金と
は交換してくれない。日銀券が紙屑になってしまえば、国家は破綻するであろう。そんな
愚かな政策を政府が採用することは決してありえない。日本はアジアや南米の開発途上国
ではないのである。
 それでは残された最後の選択肢は何なのであろうか。それはインフレである。ハイパ−
・インフレによって国民から資産を収奪し、政府債務を帳消しにする方法しか残されてい
ないのである。そして歴史を振り返るならば、この超インフレの向かう先は常に戦争であ
った。では日本が戦争を回避する道はないのか。あることはある。例えば、政府が軍需産
業ではない製造業を育成することである。国策自動車メ−カ−を設立するというのはどう
だろう。工場を作り失業者を雇い安価な自動車を供給するのである。値段は1台50万円
以下である。性能、デザインは市販の自動車に及ばないので、他の自動車メ−カ−と競合
することにはならない。他産業への波及効果も大きいだろう。
 あるいは、安価な公団住宅を多量に建設するのはどうだろう。政府資金を投入し、住宅
建設はゼネコンに安く請け負わせ、作業員として失業者を雇用する。販売価格は500万
円以下にする。あるいは、農地開発はどうであろうか。政府が不要の農地を買い上げ、米
ではなく小麦や大豆等、輸入作物を自前で生産するようにするのである。もっともこれは
アメリカの反発を招くことになるであろう。あるいは石油公団を設立し、油田の開発から
精製そして配給まで自力で行うようにしたらどうだろう。もっともこんなことをした通産
大臣は、メジャ−にたちどころに抹殺されてしまうに違いない。あるいは、先端技術開発
のために研究開発資金を投入してはどうだろうか。ロケットやジェット機、情報産業を育
成するのである。これまたアメリカが許すわけはない。
 以上、徒然なるままにインフレ対策を列挙してみたが、日本政府がこのような政策を採
用しないことは明らかである。 何故なら、以上のような貧民救済策では財閥が儲からない
からである。財閥にとって戦争はうまみのある商売である。戦争になっても特権階級は国
家権力によって生存の道が保証されているから困ることはない。苦しむのは庶民だけなの
である。その庶民も、敢えてお上に逆らって戦争に反対することはないだろう。これまた
我が身可愛さで、己の生活や立場を危険に晒してまで戦争に反対する者はいないだろうか
らだ。
 従って、日本は一度ならず再三踏んだ過ちをまた繰り返すことになるのだろう。それが
5年先になるのか10年先になるのか20年先になるのか、筆者には分からない。しかし
一つ確かなのは、今現在の不況はやがて収束し、日本はインフレ下の加熱経済に向かうで
あろうということだ。景気が回復するのは、金融再編成が完了し、金融寡頭支配が確立し
てからになろう。金融力の集中なしには、国家的事業をファイナンスすることが出来ない
からである。その行き着く先は新たなバブルの発生なのか、それとも戦争なのか。PKO
活動やガイドライン法、盗聴法、国旗・国歌法、オウム二法の成立等を考えると、政府は
すでに戦争準備に取り掛かっているとしか思えない。残念ながら結論としては、新たな戦
争の発生は避けられそうもないのである。




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