日本遺族会

 ★阿修羅♪

[ フォローアップ ] [ フォローアップを投稿 ] [ ★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ14 ]

投稿者 DC 日時 2001 年 8 月 17 日 21:49:27:

回答先: 靖国神社参拝 小泉首相の「失敗」を買う 投稿者 DC 日時 2001 年 8 月 17 日 21:37:05:

日本遺族会とその戦争観
 
日本遺族会は、その前身を日本遺族厚生連盟(以下は簡単にこれを連盟と記述す)といい、1947年11月17日に設立された。この団体の成立は、その政治的な背景や趣旨をみれば自ずから明らかだが、設立以来政府、国会及び与党と密接不可分の特殊な関係を結び、政治舞台で審議に参与し、半官半民の政治団体となっている。同時にこの団体の道理に合わない戦争観は、日本の各界の認識と戦争責任の反省に対して、他の団体では出来ない阻害と破壊作用をなしている。
 1947年11月17日、日本遺族厚生連盟は設立を宣言し、靖国神社の事務総長・元大本営参謀・海軍中佐の大谷藤之助の推薦の下に、元貴族院議員・長島銀蔵が理事長に就任(1948年4月以降は会長制)した。当時連盟本部は神奈川県庁の県厚生連盟の中に置かれ、靖国神社の中にも連絡所が設置された。これは、連盟が誕生した時から、靖国神社と密接不可分の特殊関係があったことを物語っている。連盟の成立後、23か条の規約を発表したが、その第3条には、「本連盟は戦争犠牲者および社会の公共の為に殉職した者の遺族をもって会員と成す」とあり、第4条には「本連盟は極力会員相互の扶助と、救済慰藉に道を開き・…・これをもって戦争を防止し、世界の恒久平和を確立し、全人類の福祉の為に貢献する」。ここで指摘すべきことは、この項にある「戦争を防止し、世界の恒久平和を確立する」という言葉だが、これは決して連盟の根本的な趣旨ではない。つまり当時の日本は連合国の最高司令部GHQの占領指導下にあったので、この種の団体の成立には必ずGHQ社会局の批准を経なければならなかった。しかも、GHQはこの連盟が成立するについて三つの条件を付けた。一には、当組織の中に戦没者の遺族だけでなく、社会の公共的事業で犠牲になった人の遺族をも入れること。二つには、遺族間の相互扶助を目的とすること。三つ目は、現職の政府職員・役人、追放処分をうけた者、元の職業軍人はこの連盟の幹部になってはならない、ということである。
 連盟が成立してから、連盟は、200万の戦争犠牲者の800万遺族の利益を代表すると声明し、先ず、遺族の福利救済事業に力を注ぎ、国家の立法機関に「遺族援護法」の制定を促す運動をおこなった。1952年4月30日、閣議を経て「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の実施が正式に公布された。この法律の規定により、戦傷病者および戦死者の遺族は毎年一定額の年金と弔意金を受けることになった。しかし、戦争中に家族を失った遺族はこの中に含まれなかった。例えば、空襲で死んだ市民、広島・長崎の原爆による死亡者、および沖縄戦で自殺を迫られて死んだ者、或いは戦火に倒れた一般住民の遺族は除外された。つまり軍人ではない被害者の遺族は「援護法」を受ける資格がないのだ。
 1953年3月11日、連盟は「財団法人日本遺族会」(略称)と名を改めた。この時から、遺族会は「遺族の救済と相互扶助」の初心から背離し、その37条の規約の中には、連盟規約の最初に提出された「戦争を防止し、世界の恒久平和を確立し、全人類の福祉に貢献する」の一語は削除され、反対に強調されたのは「英霊を称え、霊を慰める事業」を「最優先目標」とすることにであった。
 遺族会は成立のその日から、日本政府の全面的支持と「無私」の援助を受けることになった。1953年8月、日本政府は「法第200号」を公布し、国有財産である東京都千代田区の九段会館を無償で遺族会に貸して経営使用させた。九段会館は1934年に、帝国在郷軍人会が、昭和天皇の即位の大礼を記念して建てたもので、内部には、会議室、結婚式場、ホテル、レストラン等があり、戦前は軍人の活動の場となっていたからここを軍人会館ともよんでいる。戦後、ここは国有となり、遺族会の出現によって、政府は全く先例がないにも関わらず国有財産を無償・無期限で遺族会の経営・使用にまかせ、同時に直接厚生省の「指導」を受けることになった。これでも分かるように日本政府側は遺族会に対して特別な好意を示し、特殊待遇を与えている。資料によれば、1993年、九段会館の営業額は57億円にも達し、1994年は55億円と、遺族会の活動に対して堅実な経済的基礎を提供している。
 1962年1月、遺族会の第三代目の会長安井誠一郎が病没すると、賀屋興宣があとを継ぎ、これより人のいう「賀屋−板垣体制」が出現した。賀屋は、戦時中は東条英機内閣の大蔵大臣で「北支那開発会社」の総裁等の要職につき、戦後は東京裁判でA級戦犯になり終身禁固刑の判決を受けた。1955年に釈放され、すぐに自民党に入り、1958年に自民党の推薦を受けて衆議院議員となり、自民党の政調会長となった。板垣は「九・一八」事変を発動し、中国東北侵略の巨魁の一人で、後に東京裁判で絞首刑となった板垣征四郎の息子で、戦時中は陸軍少尉として戦争に参加し、1957年に遺族会へ加入して、当組織の企画部長となり、1972年から事務局長をつとめた。1980年の選挙で参議院議員となった。賀屋、板垣の外に、遺族会の顧問には自民党副総裁であった大野伴睦が就任した。賀屋−板垣の体制は既に15年の長きに亘り、(賀屋は1977年4月に死去)依然として、政府側と密接に連携し、いわゆる「戦後の総決算」という活躍時期を迎えた。
 もし、連盟が成立した当初のように、活動の中心を遺族の経済的利益を計ることに置いたというのなら、政府の「援護法」が出たことで、遺族たちは毎年一定額の年金と弔意金を得ることになって、初期の目的を達した。だが以後連盟は運動の中心を「英霊を慰め」ることに移し、政府に対して靖国神社の「公式参拝」を促し、侵略戦争を否定することに専心することになった。
 1952年6月10日、連盟は「連動方針大網」を打ち出し、「戦犯として処刑された者の遺族も遺族会の中に加入される」、「極力靖国神社に、でなければ各地の護国神社に処刑された者たちや学徒および国民義勇隊員の霊を祭る」、「戦没者に対して国民感謝の日を設ける」等を提出した。
 1953年1月、連盟は一部の遺族を組織して、靖国神社で断食闘争を行って政府に圧力を加え、政府に対して靖国神社に「戦没者の英霊」を祭るように要求した。結果は、断食闘争の目的こそ達しなかったが、政府は戦時中の「公務補助金」制度を復活させた。
 この年の8月に、「恩給改正法」が公布され、これによって元軍人の遺族の絶対多数が利益を得ただけでなく、処刑された戦犯および拘留中に死亡した戦犯の遺族にも「軍人恩給」が支給されることになり、何と、戦犯が拘留されていた期間をも「在職恩給」が支給され、拘留中の傷病者は「在職恩給」の外に「公務傷病恩給」が給付されることになった。
 1958年1月、遺族会顧問大野伴睦は遺族の「大型陳情団」を組織し、靖国神社に集まり、政府および与党に「陳情」し、靖国神社を「公式参拝」することを要求した。この結果、政府は表向きには遺族たちの要求をいれなかったが、経済的に遺族たちに「公務扶助金」の額を引き上げる形で答えた。
 賀屋−板垣体制下の遺族会は、只、連盟および遺族会の「英霊をたたえ」、「国家護持」、「公式参拝」(靖国神社)等運動の趣旨を継承しただけでなく、これらの趣旨を更に充実させ、頻繁に社会世論を発動して、政府や国会に圧力を加えた。
 1962年8月、遺族会は「靖国神社の国家護持に関する要綱」を出し、政府に対して、戦争中天皇ファシズムを宣伝するための教育の道具であった靖国神杜の国営化を実施することを要求した。翌年の10月、更に「靖国神社法要綱案」を出し、同時に、政府および各地方議会の自民党議員を発動して靖国神社の「国家護持」の騒動を起こし、更に全国規模で署名請願運動を操り広げ、全国で295万人の署名を集めて、国会に対して「請願書」を出した。今回の騒動の影響で、1966年7月、海上自衛隊の106名の指揮官兵士が、地方政権の首脳と一緒になって軍装に身を包み、軍隊式の統一行動で、集団で靖国神社に参拝し、軍(自衛隊)、政(地方政権担当首脳)一致の靖国神社の「公式参拝」の既成事実をつくった。
 その他、与党である自民党は、ずっと靖国神社の国営化促進運動に積極的であり、早くも1955年12月、自民党議員は政府に対して「120万の英霊を国費で祭ろう」という議案を提出した。翌年の3月、自民党は更に「靖国神社草案要綱」を提出、その中心主張は靖国神社の国営化である。このようにして、日本遺族会と自民党の二大勢力は、一つは「民間団体」という顔をもち、もう一つには与党の身分で国政に参与し、相互に相呼応して、じょじょに日本政府を右傾化させている。
 1963年8月15日、日本政府は第一回の「全国戦没者追悼式」を行い、昭和天皇と皇后が出席した。時の総理池田勇人は、「これらの戦没者の功績と亡くなった同砲の梅しさは永遠に歴史に名を止めるべきだ」、「戦後、わが国の経済と文化は著しい発展をしたが、その礎は過去の大戦にあり、祖国の栄光を信じて異郷に命を落とした英霊たちの願いを我々は一日も忘れるべきではない」と挨拶を述べた。
 1964年4月29日、昭和天皇の誕生日のこの日、日本は又公然と戦時の「戦没者叙勲」制度を復活させた。この日に池田勇人は講話のなかで、「戦没者の叙勲は、国家が今次大戦中に祖国の為に尊い命を投げ出した英霊に対して、感謝を表明すると共にその生前の功績を称えるものだ」と述べた。
 1970年10月、日本政府は又、戦時の『賜杯』制度を復活させた。これは国家に対する「功労賞」の一つで、戦没者に銀杯或いは木杯を与えた。報道によれば、目下のところ日本政府は約205万人の戦没者に勲章や「賜杯」、証書の類を配り、その数はおおよそ戦没者全体の70%以上(日本側の発表では、戦没者は300万で、その中には原爆の被害者、空襲、集団自殺等の殉難者が含まれるがこれらの人々は叙勲の対象にはならない)に当たるという。
 日本政府の戦争観点および一連の行動は、遺族会にたいする一種の刺激剤の注入にほかならない。70年代に入って、遺族会の動きは更に活発になり、全力を挙げて日本政府、首相、閣僚に靖国神社の「公式参拝」を促すようになった。彼等は、声高に、これは靖国神社国営化の第一歩であるという。1976年、当会は靖国神社本庁、全国戦友会連合会、日本郷友連盟、軍恩給連盟等の団体が合同して「英霊にこたえる会」を結成した。その趣旨は日本政府、閣僚を動かして靖国神社の「公式参拝」をいち早く実現しようとするものなのだ。彼等は、これが実現してこそ戦死した「英霊」は「浮かばれる」と考え、これによって戦死者の英霊を慰めることができるというのだ。
 これに呼応するように、1980年、自民党は衆参議員選挙の際、「靖国神社の公式参拝」を実現することを公約に掲げて、遺族会等の右翼団体の支持を得、自民党一党政権の政治的局面を作り出した。翌年の4月、自民党の国会議員311名によって「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」を組織し、国会議員が集団で参拝することを主張した。この後、鈴木、三木内閣の首脳および一部の閣僚が「私人」の名義で靖国神社を参拝し、「公式参拝」、「国家護持」の第一歩を踏み出した。
 1985年8月15日になって、遺族会や自民党内部による推進の下に、内閣総理大臣中曽根を頭にした政府要人が、アジア、太平洋地域諸国の強い反対と国内の抗議をよそに、公然と「内閣総理大臣」の肩書で「公式参拝」した。以後日本政府与党の面々は次々に登場して、一連の侵略戦争否定の奇談怪談を繰り広げ、いわゆる「戦後の総決算」の幕開けとなった。
 1993年8月、新任の細川首相は、「私は、(日本が発動したあの戦争は)侵略戦争であり、誤りだったと思う」とのべた。戦後、日本の首相が初めて公開の席上で今次戦争の侵略性を認めたことになる。しかし、この発言は即刻遺族会など右翼団体の強い反対にあい、遺族会は抗議して曰く、「これは英霊にたいする冒涜だ」と。同年十月一日、遺族会は再び声明を発表していう「大東亜戦争は国家保護と国民の生命財産を護るための自衛戦争だ」。翌年三月、前述の「英霊にこたえる会」中央本部は各所に「日本は侵略国ではない!」というビラを撤いた。
 遺族会(連盟)が成立したばかりの時は、国連駐留軍の抑制があり、大きな声では侵略戦争否定の旗印を掲げることはできなかった。だが、1952年サンフランシスコ条約が結ばれてから、GHQは大政を日本政府に返還した。遺族会は活動の中心を「英霊をたたえる」、靖国神社の「国家護持」に置き、その前提としては先ず侵略戦争の否定であり、東京国際裁判の否定で、公然と戦争犯罪の為にその決定を覆し、侵略戦争中の死者の徳をたたえている。これは遺族会が靖国神社の中に掲げた宣伝の額縁や標語をみれば一目瞭然で例えば、
「あれらの私たちの為に命を投げ出した英霊をたたえ慰めるのは、国家国民の義務だ」
「平和と繁栄の礎となった英霊たちに感謝と敬意を捧げよう」
「大東亜戦争は日本の自衛の戦争だ」
「英霊は命をもって祖国日本と同胞への気持ちをあらわした。これこそ献身であり平和への願いだ」
「英霊とは、日本の明日の為に身を捧げた人たちだ」
「わが国には、昭和の殉難者がいるのみで、A級戦犯はいない」
 上述の侵略戦争を否定する観点を総括すれば、以下の何点かに帰納することができる。
1、自衛戦争観=日本が発動した戦争は純粋に自衛のために、仕方なく行った。
2、殉国史観=戦死者は国家、民族の為に英雄的に献身したので、今日の政府および次代の人々から尊敬されるべきだ。
3、平和と繁栄の礎観=戦死者の献身があってこそ、今日の平和と繁栄がある。
 上述の観点の外に、遺族会の観点には「英米同罪観」と「解放戦争観」が含まれる。
 前者は英米の古い帝国主義国家は当時も、又かつてもアジアで植民地をつくった。もし日本の侵略に罪があるというのなら、英米と日本は同罪だ。後者は、今回の戦争によって中国・朝鮮・韓国等その他アジア諸国が次々に西ヨーロッパの植民地統治から解放されて、独立を勝ち取った。言外にアジアの各民族が解放されたのは、日本のおかげであるという。
 日本遺族会は政治的に、与党および一部の政府要員のよりどころとなっており、しかも、かなりな数の遺族会幹部が衆・参議員になって、政治の舞台に発言権を持ち、経済的には日本政府から無償で借りた九段会館の、年間収入は数十憶円にもなるというから、十分な経済保証の裏付けを持ち、組織的には104万戸の遺族家庭をかかえ、各家庭に5人の家族がいると計算すれば、総数約500万人の大組織となる。だから、それは半官半民の絶大な勢力を持ち、注目に値する政治団体だといえる。
 しかし。平和と進歩の力も決してあなどることはできない。日本遺族会だけが、戦没者遺族のたった一つの団体というわけではない、記録によれば、実際にこの組織に加入しているのは、日本戦没者遺族総数の56%前後で、なお、44%の遺族はこの組織には加入していない。では日本遺族会の他の組織の状況はどうだろうか?その一つに平和遺族会全国連絡会(略称平全連〉があり、遺族会の趣旨とは全く異なる遺族団体だ。1986年7月7日、平全連は蘆溝橋事件の49周年記念日に成立を宣言した。現在、当会には日本各地に15の平和遺族会を擁しており、その宣言文には「我々は、アジア、太平洋で肉親を失いました。・・・ですから戦争の罪悪を痛感し、私たちは複雑な心境です。身内を失ったあの戦争は、同時にアジア各国の平和に脅威を与え、民衆の生活を破壊し、2000万人以上の命を奪った侵略戦争でした。私たちは夫や息子や父親の死を『有意義な死』にしようと、自身を慰めています。私たちは戦没者の遺族として、誰よりも強く平和を要求しています。私たちは絶対に再びアジアの人民を敵視し、あの罪も無い民衆を虐殺することはできません。私たちは戦争による悲劇を十分に嘗め尽くした者ですから。日本の政府に対して、再び戦争による惨禍を避ける為に最大の努力をするように希望します。このようにすれば、私たちの肉親の悲しみと無意味の死、およびアジア各国人民の死も意義を失わずに報われることでしょう。これこそが私たちの追求する只一つの道です」
 平全連の外にも、キリスト教遺族会があり、それは1948年8月に成立し、遺族会とは戦争観をことにしている。当会はかつて声明を発し、「(日本)が発動した戦争は決して偉業ではない。戦没者を『英霊』として祭ることは、決して遺族の願いではない」と、述べた。
 1976年8月15日、当会は英霊会の世論の宣伝に対して『趣意書』を発表し、「1・英霊は決して平和の基礎ではない……戦没者の遺族は『英霊』を否定している。2・戦没者の追悼をするなら、個人の宗教や信条を大事にすべきだ。3・必ずアジアの戦没者遺族に謝罪せよ」
 と、いった。更にこの「趣意書」は「最も大事なことは、日本は目を海外に向けて、アジア各国の戦没者遺族の苦痛を自己の苦痛として考えることによってはじめて、日本の民族中心思想を打ちやぶり、本当の意味の連帯の輪をつくることができる」と指摘している。
 日本に、このような進歩と平和の力があるかぎり、右翼勢力は自分たちだけで勝手なことは出来ない。日本遺族会が提出した「靖国神社法条」は続けて6回も国会に提出されたが、毎回通過せずに廃案になったということは一つの例である。1985年8月15日、中曽根首相は「公式」に靖国神社を参拝した後、次の年も参拝のつもりであったが、国内外の反対と抗議の声が高まり、中止せざるを得なくなった。公開の席上で気炎を吐いた政府の要人たちも、やはり一人ひとり自ら辞職をしなけれぱならなくなったではないか!
 これらのことを考えれば、今日の世界において、時代に逆行し、歴史の古い付けをひっくり返すことは、そんなに簡単に彼等の思いのままにならないとうことが言えよう。
 (おう きりょう 黒龍江省社会科学院歴史所)


#国会議員でそろって靖国に参拝する会??(正式名称は違うと思うけど)も、もちろん、
#『もの言わぬ戦争犠牲者を、政治が勝手に泥まみれにしている。』連中です。
#なんだ、あれ、女子高生が連れションにいくみたいに、ぞろぞろと、バカども。



フォローアップ:



  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。