山内昌之「イスラム原理主義」講義3

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投稿者 YM 日時 2001 年 9 月 23 日 13:55:12:

回答先: 山内昌之「イスラム原理主義」講義2 投稿者 YM 日時 2001 年 9 月 23 日 13:54:35:

Vリベラルな民主主義とイスラーム

リベラルた民主主義と呼ばれる社会は、多少の留保はついても、たしかに欧米や
日本に見いだされる。しかし、国によって違いがあるにせよ、銃砲による暴力、
麻薬中毒の蔓延と一部麻薬の合法化、性風俗の自由化、離婚の増加による家族制
度の崩壊といった道徳的なアナーキーが、こうしたリベラルな民主主義、新古典
派的な資本主義の国々で進んでいるのも事実である。日本や欧米のような〈不道
徳〉もしくは〈非道徳〉は、イスラーム世界にはまず見当たらない。ヨーロッパ
のイスラーム共同体では、「堕落した西欧の退廃した風俗が健全なムスリム男女
を汚染しているしという批判が消えないのも当然だろう。そこでは、慢性的な失
業によって生み出される非行や、麻薬中毒やポルノグラフィーヘの傾斜などの社
会悪を抑えることがイスラーム主義に期待されるのである。
やや極端な表現になるが、アメリカについても、それ自体が多民族や多エスニッ
ク集団から成る国家は、ブラック・ムスリム運動に象徴されるように、その内部
に黒人とイスラームという第三世界、それも「犯罪と麻薬の犠牲となった第三世
界」を抱えていると言えるかもしれない。少なくとも、もし開発と低開発が物質
や技術のレベルだけではなく、魂や文化や精神性のレベルでの高低も意味すると
すれば、他ならぬ欧米や日本もまた開発の歪みに悩んでいるのだ。この点で、ロ
ナルド・タカキの『異なった鏡』のように、アングロサクソンに由来するアメリ
カ文化の単線的な影響の系譜を否定する研究がますます貴重なものとなろう。そ
れは、東西の民族と文化が混濡した事実を強調しながら、アメリカの新しい国民
的な政治や道徳の再建を志した仕事だからである。また、EC前委員長のジャッ
ク・ドロールが、マーストリヒト条約による法や経済の調整だけでは統一ヨー
ロッパはつくれない、と述べたことも注意を引く。そこに強力な心棒、つまり
「魂というプラス・アルファ」が入って、ヨーロッパの完全統合が初めて成就さ
れるというのである。この発言には十分な根拠があるといえよう。かつて社会主
義のユートピアを夢見たロシアや中国でさえイデオロギーを捨てるか相対化しな
がら、自由競争や市場の論理を語りコンピューター・ソフトの革新に熱気をたぎ
らせる現在、イスラーム世界の人びとが二十一世紀を生き延びるためにその自信
と存在感のルーツを求めるのは対照的ともいえよう。
現代の歪みに直面して、イスラーム世界に生きる人びとが、自らの栄耀栄華の歴
史、ムスリム固有のアイデンティティ、光彩陸離たる道徳的かつ精神的な遺産、
総じて自分たちの文化に自信と誇りをもちたいというのは当然である。イスラー
ムが過去の栄光を再発見して、その器に魂を入れようとするのも理解できなくも
ない。実際に、イスラーム主義者たちは往々にして、自分たちこそ道徳的に一貫
した社会をつくることができ、理想的な目標を人びとに向かって提示できると主
張してきた。
欧米でも若者たちは、不完全雇用をめぐって暴力化しているが、失業問題もイス
ラーム世界の青年たちがイスラーム主義に吸引される要因になっている。道徳的
な重心が失われた社会が求心力を回復しようとすれば、まず豊かさや雇用の問題
を解決しなくてはならない。心理学のフロイトはかつて、仕事こそ人びとを現実
に結び付ける主な要因だと述べたことがある。社会に仕事や雇用機会がなけれ
ば、人権や民主化といっても内実を伴わないことはいうまでもない。人びとは自
分の利益のためだけに働くのではない。その動機は、しばしば集団的な営みと関
連している。勤労が道徳的な性格をおびることも珍しくない。この点でいえば、
日本とイスラーム世界の双方に違いはない。自分たちの子どもや家族の生活を幸
福にし、未来をより良いものとしたい、という気持ちにイスラームとそれ以外の
文明圏に違いがあるというのだろうか。
失望感は知や文化の領域にも漂っている。ある年に人口六〇〇〇万人のエジプト
で出された本はわずかに三七五冊にすぎなかったという。他方、イスラエルでは
年間四〇〇〇冊が発行されている。日本では年間一社だけでも五〇〇冊を越える
ケースも珍しくない。ちなみに、日本では一九九四年に五万三八九〇点の本が出
された。エジプトでも現実はこうである。他のイスラーム世界の知的状況は想像
にかたくない。そのうえ、かつてのイスラーム世界では、大学は社会内部の幸福
とユートピアだという幻想にひたることができた。しかし、石油のとれない貧し
いイスラームの国々では、いずこも同じ大学の大衆化にともないマスプロ授業が
普通となり、教育と研究の水準も低下している。
給与の少ない教授たちは良い条件を求めて転職するか海外の産油国に移住してし
まった。低賃金で残っている教授たちは、高額の謝金で日本人や欧米人相手のア
ラビア語家庭教師となるか、自国の学生相手に試験準備の私塾を開いたりもす
る。また、欧米の植民地主義やオリエンタリズムを批判する知識人たちのなかに
は、高額のドルや円を求めてワシントンや東京での講義やシンポジウムに出かけ
る人びとも多い。西側の資本家や政府から謝金をもらいながらイスラーム主義を
擁護するという姿勢は、かつての日本の〈進歩的知識人〉にも似ている。しか
し、欧米や日本を批判することでイスラームの独自性を擁護していると信じる人
びとは、日本人の同調者も含めて、この倒錯に気がつかない。そこにあるのは
ユートピアの崩壊を自覚できない知的不誠実である。
イスラーム主義者は、大学の機能不全に乗じてモスクで補習を組織したり、安い
値段でプリントを配布する。男女別のスクールバスの運行などに才覚を発揮しな
がら、国家も及ばぬサービスを提供する。実験設備にも恵まれずコンピュータ処
理など満足な教育サービスも与えられない大学は、供給過剰の理工系学生がイス
ラーム主義の活動家になる背景となっている。最先端教育を受けるはずの世俗的
なエリート予備軍は、国内で就職先に恵まれないばかりでなく、限られた知識や
外国語能力では海外に雄飛することもできない。医師や技師、農業や電気の専門
技術者になろうと夢を燃やした学生たちは、宗教者や人文系の訓話学者の瑣末主
義にわずらわされずに『コーラン』に取り組んで不満を解消したのである。かれ
らこそ、イスラーム主義の新しい担い手なのである。
それにしても、未来における人類の進路を予知できるヴィジョソが現時点ではま
だ現れていない。これは、かつて世界の道徳や価値観を支配していたキリスト教
の影響力が第一次世界大戦後に消失し、二十世紀半ばになると世界思潮が啓蒙的
なリベラリズムと黙示的な共産主義に分裂した時代を想わせる。すなわち、世紀
末になっても未来のヴィジョソを動員するに足る力が何かということは、未知数
のままなのである。イスラーム世界の中心だった中東のアラブ地域でも、アラブ
社会主義やアラブ・ナショナリズムに人びとが夢を託した時代は終わりを告げ
た。他方、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で語ったように、開発や投
資の歪みを是正しないリベラルな民主主義がポスト冷戦のイスラーム世界で受け
入れられなかったのも当然であろう。

VIイスラームは脅威か

問題は、往々にしてイスラーム主義者の間に見られる自己中心主義や思い上がり
がテロルや犯罪と結びつく理由であろう。イスラーム・テロリズムを見ている
と、日本では「不可解なイスラーム」、欧米でも「イスラームの脅威」がささや
かれる根拠がないとは断定できない。
その第一は、アラブ・ナショナリズムなどを標榜する独裁者に対抗するイスラー
ム主義の方法がまさに〈国家主義〉や〈権威主義〉の手法を学んでいるからだ。
つまり、イスラーム的な市民社会を構築しようとする目標に際しても、イスラー
ム主義者はしばしば公権力を奪って統治権を自らの手に収めようとする。これは
武装闘争なしには達成されない。そのプロセスでテロルを自己目的化すると、イ
スラーム・テロリズムに転化しかねない。こうした動きと、〈国家主義〉に対抗
して市民社会を正常に発展させようとするイスラーム主義者との間には違いがあ
る。しかし、欧米に限らずイスラーム世界内部の既存の為政者からするなら、双
方ともに国際秩序と国内体制への挑戦であり、区別するいわれはない。むしろ、
両者を「イスラーム原理主義」として括って、その〈狂信〉や〈過激性〉をあげ
つらっている方が楽なのである。
第二は、国際政治と国際経済の要因である。イスラーム世界の中心、中東地域は
日本や欧米にたいしてリーズナブルな価格で石油を安定供給してきた地域であ
り、日本や欧米の産業構造や安全保障にとっても大きな意味をもってきた。ま
た、東南アジアと日本との貿易通商関係の緊密さについても賛言を要しない。こ
うした地域におけるイスラーム主義の発展ひいては跳梁が、日本や欧米の市民感
覚に照らしてイスラームが「不可解」であるとか、または「脅威」に映ったとし
ても、それはイメージの限りでは間違ったものではない。また、ポスト冷戦期に
新しい国際問題として浮上してきたのは、欧米や日本へのムスリム系の移民や難
民の増加である。とくに地中海を挟んで中東と接するヨーロッパでは、EUのメ
トロポール(本国)とペリフェリー(周縁)との境界が曖昧になってきている。
ヨーロッパは、東欧やイスラーム圏からの移民や難民の大量移住によって、ます
ます多エスニック化して多文化が混在する状況になっている。ヨーロッパの中心
から見れば、かつて地中海やインド洋の向こうにあった周縁地域がずっと近くに
迫り、未知の世界の面積が減じていると言ってもよい。とくに、八〇年代以降の
世界的な景気後退とイラン革命のゆきすぎは、中東のイスラーム主義者だけでな
く、ヨーロッパ内部のムスリム共同体に人びとの目を向けさせた。
それまで静かに暮らしてきたヨーロッパ内部のムスリム共同体でも大きな変化が
生じている。たとえば、フランスのように世俗教育やライシテつまり政教分離の
原理を忠実に受け入れてきた国でも、アルジェリアはじめ中東のイスラーム主義
の影響が強くなっている。それは、イスラーム復興現象のヨーロッパ版である。
一九八九年のフランスで起きたスカーフ事件は、フランスで勉強するイスラーム
の少女たちが〈肯定的な差別〉をむしろ望んだ点で国際世論に衝撃を与えた。彼
女たちは、イスラーム性の象徴として学校におけるヴェールの着用、体育や音楽
の授業免除、男性教師の忌避などを主張して、フランス社会という「ジャーヒ
リーヤ」からの隔離や断絶を望んだのである。イギリスでも一九八七年六月の選
挙に際して、「連合王国における約二〇〇万のムスリムの基本的権利」を認める
候補者に投票するように、との動きが活発になった。それは、イスラーム共同体
の隔離を促すだけではなく、ムスリム市民のイスラーム復興を現象から運動に発
展させる試みにもなった。
これからはアメリカでも似た現象が起きるかもしれない。一九九五年末にワシン
トンの黒人一〇〇万人大集会を成功させたファラカソとその「ネーション・オ
ヴ・イスラーム」の動向も今後ますます注目される。日本では極端な動きは見ら
れないが、早晩この流れから自由ではいられなくなるだろう。
イスラーム主義が欧米などにも広がる背景には、中東や東南アジアの情報が瞬時
に欧米と日本に伝わるという新しい〈情報同時伝達の時代〉の出現がある。これ
は、かつてルーマニアを崩壊させてソ連を消滅させたのと同じ力、「透過革命」
の時代だといってもよい。この現象は、あるいはベネディクト・アンダーソンの
いう「遠隔地ナショナリズム」の本質とどこかで通底しているのかもしれない。
イスラーム主義の武装闘争派にしても、以前であれば、一九七九年のテヘランの
米国大使館占拠事件のようにイスラーム世界内部に浮かぶ〈欧米の情報収集の
島〉を抑えたり、ベイルートなどで特派員や外交官といったイスラーム世界の
〈島々の残置諜者〉を誘拐することだけに満足していた。ところが最近になる
と、一九八六年のパリの爆破事件、一九九三年二月のニューヨークの世界貿易セ
ンタービルの爆破といった具合に、欧米世界の中心部でも大胆な〈特攻作戦〉が
おこなわれるようになった。もっと小規模な〈後方撹乱〉の戦術も多用されてい
ることはいうまでもない。
テロルの効果は、イスラーム主義の武装闘争派なかでもイスラーム・テロリズム
の徒にとっては喜ばしいかもしれない。しかし、イスラームそのものにとっては
まことに不幸なことである。かれらの行動によって、欧米や日本の世論では、イ
スラームと善良な一般信徒があたかもイスラーム・テロリズムの徒と同一視され
るからだ。しかも、中東の一部に発生した極端なイスラーム・テロリズムの流れ
が欧米のイスラーム主義者に注入されるだけでなく、そこに住む一般のムスリム
市民にも影響を及ぼすようになる。さらに困るのは、極端なイスラーム主義者に
よる〈外部注入〉が欧米社会のムスリムの居住環境や生活感覚の独自性を無視し
ておこなわれることである。こうして、イスラーム脅威論がイメージだけではな
く実体としても力を得ることになる。それを欧米世論の偏見や差別だけに帰着さ
せるわけにはいかないだろう。
こうしたイメージは、イスラームにとって不利なものである。キリスト教の一部
に狂信的なファンダメンタリストがいるからといって、誰もキリスト教そのもの
を狂信的な宗教だとは考えない。しかし、イスラームについては一部のイメージ
が拡大されて、全体像にさせられてしまう。もともとイスラームは、イジュティ
ハード(創造的適用)やイジュマー(合意)に象徴されるように、宗教として非
常に柔軟な性格をもっており、歴史的にもいろいろな政治体制や経済システムに
弾力的に適応してきた。ソ連や中国のような共産主義の国家から、アメリカに代
表されるリベラルな民主主義国家にいたる幅広い範囲で、多彩な政治体制に適応
してきたのである。もともと、他の宗教にたいする寛容性と多民族共存のフレキ
シビリティこそ、イスラームの教えの要であった。しかし、この二つの否定こ
そ、イスラーム主義の特徴なのである。この点はイスラーム主義のネガティヴな
特徴として指摘しておくべきだろう。
イスラームとイスラーム主義との違いは十二分に峻別されなければならない。し
かし、少なくとも、イスラーム主義が根本的に民主主義や自由になじむとは考え
られないのである。アイザィア・バーリンのいう「消極的自由」が、イランや
スーダンのような一部のイスラーム主義諸国で許されないとすれば何故なのか。
また、内戦や統制が続くアルジェリアやイランで、市民の消極的自由が許される
はずもないとすれば、何故なのか。このあたりの日本や欧米の市民世論に見られ
る健全な懐疑心を念頭において、イスラーム世界の知識人、とくにモダニズムを
立場とする人びとは疑問を解きほぐす責務があるだろう。たしかに、〈革命〉と
いうものには、穏健派や良識人といった中間的な存在を許さない厳しさがある。
現代イスラームの場合でも、政治や経済に大きな変動が起きると、争いの焦点
は、反対派との妥協を嫌う公権力の反動と、〈革命家〉じみたイスラーム主義者
の極端な分子との対立になってしまうからだ。
(後略)


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